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30. マチルダ・グランハイムの最初で最後の恋

『お父様、お母様、お兄様。本当に申し訳ありません』


 あの人の青みがかった緑の瞳を淡くしたような色合いの便箋に、決して涙を零すまい。

 左手で何度も涙を拭いながら、マチルダ・グランハイムは週に一度家族に送る手紙を(したた)めた。





 マチルダは幼い頃から、刺繍を嗜むよりも勉学に励んで知識を得ることにやりがいを見い出すような子供だった。

 そして自分が"貴族令嬢らしからぬ令嬢"と陰で称されていることも知っている。実家が格式ある大貴族だから表立って言われることもないし、かなり言葉を選んではいるのだろう。それを原因に悪評を立てられることもなく、ただどこか遠巻きに、それこそ歯に衣着せずに言うのなら腫れ物に触るような扱いを受けていた。


 隣国への留学が許されたのは、十六歳を迎える春のことだ。

 文化のまるで違う国での暮らしは意外とマチルダに合っていたらしく、毎日がとても楽しかった。友好関係があるとは言え、さすがに年頃の娘一人を他国に送り出すことに難色を示していた母を安心させる為、手紙も毎日のように書いた。


『お父様、お母様、お兄様。いかがお過ごしですか。わたくしは毎日とても充実した生活を送っています』


 書きたいことは後から後から溢れて来て、用意していた便箋もすぐになくなった。

 知識を得ることはとても楽しい。意思を尊重して送り出してくれた両親や兄には感謝の気持ちしかなかった。


 人生で初めて誰かに眉を(ひそ)められることもなく、好きなだけ学びたいことを学んで吸収する。

 そんなある日のことだった。


「気になる本がある?」


 図書館の隅で自分の背よりもずっと高い本棚の最上段を見上げていると、突然後ろから声をかけられた。

 まさか急に話しかけられるなんて思ってもみなくて、驚きながら振り返る。そうして見た声の主の顔に、さらに驚きで目を瞠った。


 青みがかった緑色の目と視線が重なる。

 とても綺麗な色の中に映った、ぽかんとした表情の自分の姿が何だかひどく滑稽(こっけい)でマチルダは咄嗟に俯いた。


(どうしよう)


 何か答えなくては。

 でも気持ちばかりが焦ってしまって言葉が出て来ない。

 だって、目の前にいるのは。


「君、最近良くこの棚の付近で見るね。何をそんなに熱心に調べているの?」


 答えられずにいると、頭上から新しい質問が降って来る。その声にマチルダの反応を咎めるような色はない。優しい雨の一滴が鼻先を濡らした時のように、自然に誘われて顔を上げた。

 再び目が合った。やっぱり綺麗な色の目だ。先程と変わらず自分が映っていて、それが何だかとてもくすぐったい感情を呼び起こす。


 結局返す言葉は見つけられない。すると目の前の青年が表情を崩した。柔らかな笑みに胸が高鳴る。

 この気持ちは何なのだろう。

 温かいのに、ひどく落ち着かない。


「もしかしていきなり話しかけたから警戒されてるかな。僕は」

「ぞ、存じ上げております」


 マチルダは慌てて口を開いた。

 彼を知らない人間なんて、少なくともこの国にはいないだろう。言葉を交わすのはこれが初めてだけれど、マチルダとて留学に来たその日のうちに聞いていた。

 万が一言葉を交わす機会があったとして、気さくな方ではあっても失礼のないように、と。


 もうすでに十分失礼な態度を取ってしまったような気がする。マチルダは自国ではそれなりの大貴族の令嬢らしく腹を括った。深く息をつき、彼の発した最初の言葉を思い出して答える。


「フューリーの理論について学んでいるので、そちらに関する書籍を探しておりました」

「ああ、それならこの本とかどうだろう。もう読んだ?」


 そう言って彼は手を伸ばし、いともたやすく最上段の棚から一冊の本を手に取った。


「恐れ入ります。まだ学びはじめたばかりで、どこから手をつけたらいいのかも手探りの状態だったのです」

「そうなんだ。じゃあ先にこっちから読んだ方がいいかもしれないね」


 さらに別の本を取り、二冊まとめて差し出して来る。なかなかの厚みがある本を受け取り、けれどマチルダの意識はそこになかった。

 指先が、ほんの少しだけ触れた。そう意識しただけでたちまち熱を帯びはじめる。耳まで真っ赤に染まったみっともない姿を晒しているのではないか。心臓が急に騒がしくもなって、聞こえてしまっているような気もする。


「では失礼致します」

「またね」


 逃げるようにきびすを返す。


 本を取ってもらったのに、ろくなお礼も出来なかった。

 それに気づき、後悔したところで今さら戻るわけにもいかないだろう。


 またね、と彼は言った。

 そういえばマチルダがあの本棚の辺りによくいるのも知っているようだったし、明日も――近いうちにまた会えるかもしれない。

 自然と口元が笑みを(かたど)る。

 明日がこんなにも待ち遠しく感じるのは初めてだった。


『お父様、お母様、お兄様。いかかお過ごしでしょうか。実は今日、とても素敵な出会いがありました』


 家族への手紙も無邪気に認めた。

 恋を知った日だという自覚もないままに。




 翌日も同じ時間に、わずかな期待を胸に秘めて図書館へ行く。

 本はまだ全て読めてはいない。最初に読んだ方がいいと言われた本の中にも分からないところがあったからだ。

 マチルダより詳しそうな雰囲気だった。会えたら教えてもらえるだろうか。そんな不純な思いを抱いている自分に気がつき、振り払うよう首を振る。


「細い首をそんなに激しく振ったら、小さな頭が転げ落ちてしまいそうだね」


 またしても後ろからかけられた声にどきりとした。

 胸に抱えた本をお守りさながらに抱きしめて振り返る。


「ごきげんよう、アーネスト殿下。本日もご拝謁出来て光栄です」

「僕のことを知ってるって言ったのは本当だったんだ。こんにちは、マチルダ・グランハイム嬢」


 むしろ自分の名前を知られていることにマチルダが驚いた。

 昨日、お互いに名乗り合ってはいない。目をしばたたかせているとアーネストは笑った。


「昨日渡した本を読み進めたら疑問を抱く部分があるだろうなって思ったんだけど、当たりかな?」

「は、はい。第二章の中節の辺りがよく分からなくて……」

「ああ、やっぱり。そこ分かりにくい表記だよね」


 笑顔のままアーネストは手近な白木の丸テーブルにマチルダを促した。二脚の椅子が向かい合って置かれた小さなものだ。マチルダの手から本を移し、あろうことか直々に椅子まで引いてくれる。


 まるで侍従のような動作に戸惑っていると「他の席が良かったかな」と尋ねられた。

 好意を無碍(むげ)にするのも失礼で、お礼と共に腰を下ろす。当然のようにアーネストは正面に座った。途端にマチルダの心臓はうるさいくらいに騒ぎはじめる。静かな図書館中に響き渡っている気さえした。

 周囲からの視線も集まって来ている。アーネストがいるからだろう。どうしてマチルダと一緒にいるのか不思議に思っているに違いない。マチルダ本人も理由を教えて欲しいところだ。


 会うのはこれでまだ二度目。やましいことなんて何もない。けれどマチルダにやましい気持ちがあったのも事実で、だからこそどうにも落ち着かなかった。どうということのない会話の一字一句全てに聞き耳を立てられているようで、言葉を発することすら怖くなる。


「あくまでも僕の解釈だから、合っているかどうかは自信が持てないけれど」


 そう断りを入れてからアーネストは説明をはじめた。分かりやすくて聞き入ってしまう。その間、彼はマチルダへ視線を向けて言葉を紡ぎながら、手元のノートに何か文字を書いている。書き終ったのか音も立てずにページを破り、そっとマチルダへ差し出した。


 悪戯っぽく笑う目に見つめられて心臓が高鳴る。出来るだけ自然な仕草でノートの切れ端を受け取り、さりげなく視線を落とした。


『明日も君を待ってていてもいいかな』


 思わず声をあげそうになって必死に飲み込む。


「どう? 分かった?」


 アーネストの笑みが深くなった。

 悪戯が成功した子供のような表情だ。断られるとは微塵も思ってはいないのだろう。

 少し癪ではあるけれど断るつもりもなくて、マチルダは小さく頷き返す。初めてもらった手紙というには飾り気のない切れ端を大切にカバンにしまい、はにかんだ笑みを浮かべた。


 心が温かい。

 マチルダは今、恋をしている。



 そこから先はあっという間だった。

 調べ物を終わらせた後、初めて見る綺麗な絵柄のカードゲームにアーネストと共に興じることでさえ、とても特別な時間としてのめり込んだ。


 子供の頃から決められた婚約者がマチルダにはいる。

 婚約者のことはもちろん嫌いではない。良い家庭を築き、やがては子を成して家を存続させていくことも、不安はあるが上手くやって行けると思っていた。

 けれど、それは彼女にとって異性に対する愛情ではなかったのだ。


 いずれは決められた相手の元へ嫁ぐはずのマチルダは、人生で初めて心からの愛情を捧げられる相手を見つけてしまった。

 婚約者がいてもなお、自らを激しく揺さぶる感情はこれまで学んで来たたくさんの知識の中にどこにもなくて、逆らう術など持てるはずもなかった。


 毎日が楽しい。

 だけど同じくらい、苦しい。


『お父様、お母様、お兄様。わたくしはどうしたら良いのですか』


 あんなに書くのが楽しかった家族への手紙も、書くのが苦痛になった。

 何度も書いては消して、最後には変わらず元気にやっていますと書くだけ。何かあったと心配させてしまうと分かっていても、どうすることも出来なかった。


 マチルダはただ、生まれて初めて恋をしただけだ。

 何も悪いことはしていない。

 なのに胸を張ることは出来ずにいた。

 だって相手にも婚約者がいる。


 何より――この国の、第三王子だった。


『お父様、お母様、お兄様。わたくしは今、恋をしています』


 苦悩の果てに打ち明ければ、さしもの公爵も顔色を変えた。父からの手紙は取り返しのつかない事態になる前に諦めさせようと、精一杯の説得の言葉ばかりがそこに並んだ。


 分かっている。

 この恋は誰にも祝福されない恋だ。

 家族なら認めてくれると甘いことを考えていたわけじゃない。

 でも、それでも好きな気持ちはどうしようもなく激しく、愚かなほどのひたむきさを持って燃えさかってしまうのだ。



 たった一度の恋のはずだった。

 けれど神は確かにいて、一度だけだからなどと、いいわけや逃げを許してはくれなかった。浮つく心のまま、その想いがもたらす様々なことも一切考えず目を背け続けていた恋に、地に足をつけて自分を取り巻く状況と真っすぐに向き合うべく大きな責任をマチルダに課した。



『お父様、お母様、お兄様。本当に申し訳ありません』


 マチルダのお腹の中には、アーネストの子供がいる。



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