1. ささやかな願い
「今日もとても可愛らしいですわ」
華奢な腰まで伸びた長い髪のサイドだけを結い上げた侍女が得意げな声をあげると、鏡の中の少女が控え目に笑う。
少女の名はロゼリエッタ・カルヴァネス。カルヴァネス侯爵家の長女で、十六歳になったばかりだ。
甘いミルクティー色をした髪はまるで綿菓子のようにとても細くて柔らかく、結うことには適してはいない。侍女のアイリはそんな髪を、陽の光が当たると淡いヴェールに包まれているようで綺麗だと言い、毎日楽しそうに手入れをしてくれる。そして、今日のような有事の際には様々な形に結ってくれるのだ。
「ベビーピンクのドレスは子供っぽくないかしら」
「お嬢様ったら」
思わず不安をこぼせば、アイリは柔らかな笑みを浮かべた。
「そのベビーピンクのドレスは、クロード様がこの日の為にと贈って下さったドレスではありませんか。とてもよくお似合いに決まっています」
それから、優しい表情とは逆にしっかりとした言葉で断言をする。
「夜会での殿方からの注目も、ロゼリエッタお嬢様がいちばん集めるに違いありません」
「……そうかしら?」
「そうですよ!」
若草色の瞳を不安そうに揺らすロゼリエッタに、アイリは力強く頷いてみせた。もう五年も仕えてくれているアイラのことは、とても信用している。けれど、いくら主と言えどロゼリエッタへの評価が些か高すぎる気もした。
ロゼリエッタは小さく溜め息をつく。
賑やかな場所は好きではない。
ロゼリエッタはずっと身体が弱く、些細なことでも体調を崩しがちだった。その為、今よりももっと体力のなかった幼い頃は、ベッドの上で過ごす時間の方が圧倒的に多かったほどだ。
十六歳になった今でも、いくぶんかましになったとは言え同年代の少女たちと比べると、やはりまだ健康だとは言い難い。その身体つきは良く言えば華奢、悪く言えば貧相だった。つまるところ、少女特有の瑞々しさを感じさせるにはかなり魅力が乏しいというのが自己評価だ。その為に人前に出るということに気後れしてしまう。
そして"知らない人"がたくさんいる場所も、好きではない。
だから夜会は、出来ることなら参加したくないものだ。親しい相手からの誘いは申し訳なさを感じつつも体調を理由に断っているし、親しくない相手にはどうせ断るのだろうと思われて最初から誘われないことも少なくない。でも、その方がロゼリエッタとしても気が楽で良かった。
それが今日は王女から直々に招待状が届いた。さすがに顔を出さないわけにも行かないだろう。
けれど、王女から招待状が届いたという事実こそがロゼリエッタの心を重くした。
「せめてお兄様とご一緒出来たら良かったのに」
思わず不満がこぼれてしまう。アイリは困ったように眉を下げて笑った。
「そんなことを仰って、レオニール様の申し出をお断りしたのはお嬢様ご自身ではありませんか」
「それは、だって、そうよ」
分の悪さを感じてロゼリエッタは口ごもる。
兄のレオニールにも同じ招待状は届けられていた。そして心配性な兄の、一緒に行動しようかという提案を拒んだのはアイリの言うようにロゼリエッタだ。
いくらロゼリエッタでも、兄の婚約者のサフィアのことを想えばそんなわがままは言えない。二人で、と招待されたのだから二人で行きたいのは当たり前だ。そこに友好的な関係を築いているとは言え婚約者の妹がくっついて来ては、がっかりしてしまうだろう。
アイリは鏡越しにロゼリエッタと優しく目を合わせた。
「私が地位のある殿方だったなら、今すぐにでもお嬢様に求婚したいくらいです。もっとも――」
そこでアイリは一度言葉を切った。ちらりと時計を見やり、時間を確認する。アイリの仕草にロゼリエッタも、そろそろ彼が来る時間が近いのだと察した。
会えるのは二週間振りだろうか。
彼はそれこそ、相変わらず女性たちの視線を集めるほどに素敵なのだろう。
でも嬉しいのに、嬉しくない。
「お嬢様の婚約者のクロード様には、とても太刀打ち出来ませんけれど」
アイリは楽しげに声を潜め、ドアを開けた。まるで紳士のような気取ったポーズを取り、ロゼリエッタを部屋の外へ促す。
「さあ参りましょう、お嬢様。王子様がお迎えにいらっしゃる時間です」
ロゼリエッタは覚悟を決め、アイリの後をついて部屋を出る。見送りのメイドたちが左右に並ぶ廊下を少し歩くと吹き抜けから階下が見えた。
執事がちょうど、一人の青年を出迎えたところのようだ。遠目にも明るい金髪は陽の光にも似て眩しい。太陽そのものを見てしまった時のようにロゼリエッタは目を細め、さりげなく視線を背けた。
会うのは二週間振りだけれど、華やかな席を共にしたのは半年ほど前の話だ。ロゼリエッタの交友範囲が狭すぎるから、同じ席に二人揃って招待を受けること自体がとても少ない。それこそ王家が主催する規模の大きな夜会くらいのものだった。
すらりとした痩身に騎士の正装を纏う様は、とても凛としている。
こんな素敵な人が婚約者なのだと明るく自慢出来たなら、どれほど良かっただろうか。何も知らない、何も気がついていない振りをするには苦痛が伴うようになってしまった。
「ロゼリエッタ様、足元にはお気をつけ下さいませ」
廊下の端にある階段に差し掛かったところでアイリが声をかけてくれる。
丁寧に泡立てたメレンゲのようなボリュームのスカートは足元が見えない。クロードと執事それぞれの視線を受け、ロゼリエッタは逸る気持ちと後退りする気持ちとを戦わせながらゆっくりと一段ずつ降りて行く。ようやく玄関ホールに到着した頃には、すでに心が疲弊しきっていた。
「お待たせして大変申し訳ありません、クロード様。私のお嬢様が可愛らしいあまりに準備に熱が入りすぎてしまいました」
自分のことのように誇らしげなアイリの言葉に、ロゼリエッタは居たたまれない気持ちになった。
自分でドレスを贈った以上、クロードはロゼリエッタの装いを褒める必要はある。でもそれにしたって心にもないことへの同意を強要してはクロードが気の毒だ。ロゼリエッタは俯き、胸の前で右手を軽く握り込む。
グランハイム公爵家の三男であるクロードとは、三歳年上の兄の友人として知り合った。
そして縁あってロゼリエッタと婚約関係を結ぶことになり――ロゼリエッタの自己評価を低くする大きな要因でもある。
「ロゼ、顔を上げてよく見せてごらん」
優しく促されるままにロゼリエッタは顔を上げた。
クロードの背は、自分より頭一つ分ほど高い。だからお互いがそう意識しない限り、視線が重なることは決してなかった。
若干青みがかった緑色の目に自分だけが映っている。
でも本当にその目が映しているのはロゼリエッタではない。
他の、女性だ。
「本当に、僕のお姫様は今日も世界でいちばん可愛いね」
そう言って、結い上げた髪を崩さないよう、クロードは優しくロゼリエッタの髪を撫でる。
可愛いと思ってくれていること自体は、おそらく本当なのだろう。
でも、その根底にある感情は異性に対するものではない。婚約者という肩書きではあっても、彼にとってロゼリエッタはいつまでも"放っておけない病弱な妹"と同等の存在に違いなかった。
「ありがとうございます。クロード様も、いつも素敵です」
「お姫様のお眼鏡に適ったなら嬉しいよ」
婚約者が自分へ抱く想いが恋ではないと知っていても、ロゼリエッタ自身をクロードに褒められれば嬉しい。それだけで心は簡単に舞い上がってしまう。はにかんだ笑顔を浮かべながら淑女らしく礼をすると、微笑ましげに目が細められた。
三歳年上のクロードは、けれどその年齢差以上に大人びて見える。それは、すでに彼が近衛騎士として大人に混ざっていることもあるだろう。何よりも彼はずっと、病弱で部屋にこもりがちのロゼリエッタとは比べるまでもないほどに広い世界を見て来ていた。
本来なら住む世界が違う人なのだと感じることも、一度や二度ではない。
夜会に出た時だってそうだ。人目のある場所では特に、彼が遠い存在に思えた。
でもクロードがロゼリエッタを婚約者にしているのは、ロゼリエッタが彼にとって"とても都合の良い存在"だからだ。
身体が弱いから、人前に出る機会は少ない。エスコートをしなくても済む。だからクロードは婚約者がいても、自分の時間を好きに持ち続けることが出来る。それは他の令嬢と婚約していたら叶わないことだ。
「ロゼ、どこか具合が悪いのかい?」
浮かない表情をしてしまっていたのか、クロードが心配そうに尋ねる。ロゼリエッタはやんわりと首を振り、鈍く軋む胸の内を悟られないよう笑いかけた。
「いいえ。でも久し振りに王女殿下とお会い出来るので、少し緊張しているのかもしれません」
「それならいいのだけど。レミリア殿下も、君に会えると楽しみにしていたよ」
「――光栄です」
クロードの口から出た他の女性の名が、ほんの一瞬だけロゼリエッタの心に棘となって刺さる。痛みに思わず顔をしかめかけ、寸でのところで踏み止まった。
緊張していると言ったことで、笑みの形が多少ぎこちなくなっても上手く誤魔化せたと思う。
大丈夫。
多くを望んではいない。
――だから、どうか。
今日も泣かずに、最後まで笑えますように。