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9. 婚約という名の契約

 ロゼリエッタは泣いている自分に気がつき、慌てて指で涙を拭う。

 誰の前でも泣かないと決めたばかりなのに弱く、嘘つきだ。


 ダヴィッドがハンカチを差し出したり、慰めの言葉をかけないことが今はとてもありがたかった。今ここで人の優しさに触れたら、涙が止まらなくなってしまうに違いない。そしてきっと、自分の足では立てなくなって行くのだ。


 逆に言えば、ただ見守っていてくれるだけのダヴィッドは本当に優しい。

 だからクロードもロゼリエッタを託す相手に選んだのだろう。


「ごめんなさい、ダヴィッド様」


 涙で濡らしてしまわないよう便箋を返し、両手の指を組んだ。

 なおもまだ小さくしゃくりあげる。いっそのこと、みっともないくらいに泣き喚いた方が楽になれるのかもしれない。だけど泣くことにすら体力は必要で、今のロゼリエッタにはそんな力もなかった。

 だからいつまでもわだかまりが残るのだ。だけど忘れられるわけがない。ロゼリエッタ自身が、忘れることなど望んではいないのだから。


 気持ちの整理をつけるのに、どれだけ時間をかけたのか。

 もう大丈夫だと心を奮い立たせるとダヴィッドに視線を戻して頭を下げた。


「本当にごめんなさい」

「いや、僕のことは気にしなくていいんだ。それよりも僕からも一つ、君に確認しておきたいことがあってね」


 根気よく待っていてくれたダヴィッドは穏やかな笑みで応える。

 ロゼリエッタの口角もつられたようにわずかに上がった。今は無理やりにでも笑った方がいいのかもしれない。ほんの少し気持ちが楽になった気がした。


「何でしょうか」

「クロード様と君は、まだ婚約者同士の関係にあるよね?」


 一瞬、意味が分からなかった。

 クロードには面と向かってはっきりと、解消しようと言われたのだ。だからもう婚約者じゃない。――そのはずだった。


 何度も言葉を頭の中で繰り返し、ダヴィッドの言わんとすることを理解する。


 ――そうだ。


 婚約の解消はクロードがロゼリエッタにそう告げただけの話でしかない。

 そして婚約とは家同士で結ぶ契約の一種である以上、いくら爵位が上であろうとクロード個人やグランハイム公爵家だけの思惑では解消など出来ないのだ。


「は、はい。婚約解消は、クロード様が口頭でそう仰ったのみ……です」


 にわかに心臓が大きく脈打ちはじめた。

 まだクロードと繋がりがある。今のロゼリエッタは、傍から見たらまだクロードの婚約者なのだ。


 期待してはいけない。希望を抱いてはもっといけない。

 理性はそう言い聞かせても、感情は言うことを聞かないばかりかその抑止を振り払った。一筋示された光明に手を伸ばし、掴もうと足掻きはじめる。


 クロードも命を落としたと決まったわけじゃない。きっと――いや、必ず生きている。彼が戻った時に話し合えば、また婚約者にも戻れるかもしれなかった。


「その状態で、当事者とは言えクロード様の出した文書のみで僕が君と婚約関係を結ぶことは出来ないと思うのだけど」


 ふと違和感を覚え、ロゼリエッタはダヴィッドを見つめた。


 そうして、違和感の正体にすぐに気がつく。

 もしかしたらダヴィッドはクロードが隣国で行方不明になったことを知らないのだろうか。それ以前に、隣国へ行ったことすら知らないというのも十分にありえた。


 公爵家の人物が他国で行方知れずになる。

 それはたとえ国同士が友好関係にあろうとも、とても大きな出来事のはずだ。少なくともグランハイム公爵家に表立った動きがないのはおかしい。あるいは、政治的要素が関わりすぎていて却って公には出来ないのだろうか。


 ロゼリエッタは視線を彷徨わせた。

 いずれあかるみになることだ。でも今はおそらく一部の人々しか知らない。従兄弟相手とは言え、それをロゼリエッタ個人の判断で話して良いとは思えなかった。

 だけどクロードが婚約解消を決意した理由は、隣国へ行くからだ。


「――ああ、ごめん。君とクロード様の婚約そのものについては、僕が立ち入っていい話じゃなかったね」


 ダヴィッドが謝罪を口にしなければいけないことなど何もない。

 けれど何をどう、どこまで話して良いのか判断がつかないロゼリエッタは首を振ることしか出来なかった。

 ロゼリエッタの様子にダヴィッドは一度身を引き、再び言葉を紡ぎ直す。


「僕としては、気心の知れた君が婚約者になってくれるというのであれば何も問題はないし構わないよ。ただ他の令息と婚約状態にあるのなら当然、僕との婚約は成立しないからね。そこだけをはっきりさせておきたかったんだ」


 クロードに頼まれたからとは言え、ロゼリエッタを気遣ってくれている。


 改めてダヴィッドの優しさに触れると同時にロゼリエッタは自分が恥ずかしくなった。

 ロゼリエッタはずっと自分のことばかり考えていた。自分の気持ちしか見えてはいなかった。


「ダヴィッド様は……本当にそれでよろしいのですか?」


 ロゼリエッタとは親しい従兄弟同士ではあっても、特に仲が良いわけでもない。

 クロードに頼まれたと言っても、それこそダヴィッドが自らの人生のいくらかを投げ打つほどの交流や恩義はないはずだ。


「ロゼ、君がクロード様を想っているのは分かっているよ。そのうえで僕との婚約は、お互いがお互いの自由を守る為の契約だと思えばいい。僕もそろそろ相手くらい作れと両親に言われ続けるのは正直煩わしいからね。大きなメリットがないのであれば、さすがに僕も引き受けたりはしないよ」


 だから何も気に病むことはない。ダヴィッドはそう言ってなおも笑いかけてくれたけれど、今度は笑みを返すことは出来ずにいた。




 ダヴィッドの訪問からさらに三日が経過した夕食後、父の書斎へと向かうと母と兄の姿もあった。


 ただごとではない様子に嫌な予感がする。

 ロゼリエッタの不安を煽るかのように父は神妙な面持ちを浮かべており、その手元には二通の封書があった。

 開封された状態のそれらには、ロゼリエッタにとって全く嬉しくないことが書かれているに違いない。


 ロゼリエッタが兄と並んで長椅子に座るのを見届け、父は口を開く。


「グランハイム公爵家から正式に、婚約を解消したいと申し出があったよ、ロゼ。理由は君も分かるね?」


 心臓に氷を直接押し当てられたような気になった。


 婚約の解消という重要な事柄に対し、クロードが不確かな口頭のみで済ませ、必要な手続きをしていないわけがない。そんなのはとうに分かっていた。分かっていて、目を背けていたのだ。


「クロード様が行方知れずとなられたからですか」


 かろうじて声を振り絞って答えると、父は深く頷いて続ける。


「そして王家も、解消するに至るやむを得ない事情だと判断して公爵家による申請は受理されたようだ。後はこちらが同意書を提出次第、クロード君との婚約は全て白紙になる」


 ロゼリエッタは俯いた。

 一方的な理由で解消したいと言われたところで同意など出来るはずがない。

 けれど正式な手続きを取られ、正当な理由だと王家の判断が下ってしまった以上、ロゼリエッタ一人の気持ちでは覆しようもないのだろう。


 理論上は覆すことが出来るのかもしれない。

 当事者のみでは様々な理由から穏便に済ませられないこともある。立場の弱い者がより不利な立場に落とされないよう王家の公正な裁定を求めることも、珍しくはないという話だ。


(でも、私の場合は無理だわ)


 おそらくは誰が間に入ったところで、婚約は解消すべきだと言うだろう。

 生きていたとして、クロードが戻って来る保証はどこにもない。

 まだ十六歳のロゼリエッタが身を捧げるには若すぎる。


 あくまでも"ロゼリエッタの為に"と称し、もっともらしい理由は挙げられるのだ。ロゼリエッタ本人の気持ちがどこにあろうと関係ない。

 客観的に見て、どうするのが良いのか。第三者の視点を通したその結果、婚約を解消することが最善だと判断が下された。


 もう本当に、気持ちの上だけでなく立場の上でも、ロゼリエッタはクロードの婚約者ではなくなってしまった。


「ロゼ、もう我慢なんてしなくていい。泣いていいんだ」


 黙って話を聞いていたレオニールがそっと肩を抱いた。けれどロゼリエッタは唇を噛んで首を振る。


 心が死んでしまったかのように、悲しみは沸いて来なかった。



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