9話。気持ちの切り替え。一人立ちへ
キッチンカフェ、アローズ。それが住み込みで働く事になった俺の仕事場の名前だ。床は光沢のある美しい色の木の板が敷かれていて、レンガ積みにされた壁の暗さを打ち消そうとしている。幾つか用意されているテーブルとイスも、質素ながら上質感が溢れる。粗悪なものなんて一つもなかった。キッチンカフェ経営のための食材の物流はどうしているって? そんな事俺が知るか。
また、天井を走る木組みに沿って、太陽のように暖かい光を灯す照明がぶら下がっていた。それはLEDでも蛍光灯でも白熱電球でも、はたまた蝋燭でもない。紙のような薄いケースに収納されている水晶が、その内側から店内を照らしているのだった。電気などは一切使っていないと思うが、光る原理は知らない。マナクォーツと呼ぶらしい。
店が開いたのは、リエが戻ってきた直後だ。身内が事件にあったせいで普段の開店時間より遅らしていたそうだが、切り替えるスピードはとても妹を誘拐された一家のものじゃなかった。割り切りが良すぎる。
そして俺もベクターさんによって、なし崩しに手伝いに駆り出された。エプロンを押しつけられて。カフェと言っても昼はランチ目的で訪れる客がほとんどで、モヒカンの大男や帯剣した流れ者など客層は様々だった。色々と俺の知っているキッチンカフェじゃない。
仕事中はミスが怖かったので、余計な事は考えず、ひたすら無心になって取り組んだ。広い調理場の奥の方での皿洗い、人生初めての包丁で皮剥き、ベクターさんの惚れ惚れする調理の光景などは覚えているが、その他の細かい会話はからっきしだ。
現在の時刻は既に六時過ぎ。時間の把握方法は、ふと街中に響いてきた鐘の音だ。時刻を知らせる役割を持っているのは、その時にリエに軽く教えてもらった。
「魔法?」
「うん。スズトの住んでたニホンって、魔法がこれっぽっちも発展してないんでしょ? 代わりに馬が要らない馬車とか、ずっと高い建物があったり、魔力を使わない純粋な科学があって!」
後片付けの最中で不意にリエはそう言って、布巾でテーブルを拭きながら目を輝かせた。ずっと動いていたから、後半のリエの期待に応えるには少し休みが欲しい。あと、腹も減った。
アローズの閉店時間は午後六時だ。ラストオーダーは午後五時まで。現代日本人の感覚からすれば、かなり早く終わる方だ。だが、店の外の大通りは既に陽が沈んで暗くなっている上に、自動車の往来がある訳ではないので昼間ほどの喧騒がない。夜中までお仕事上等な日本とは、時代も世界もとことん違っていた。
「大体合ってるけど……俺が魔法を使えるなんて思えないな」
リエの質問を適当に答え、その場で姿勢を低くしたまま雑巾でテキパキと床を拭いていく。手の届かない範囲は、逐一前進して対処する。
魔法はなぁ……。せっかく覚えても、戦闘以外で役に立つ未来が見えないので微妙だ。大体は、鳥賊強盗団たちが与えてきた印象のせいである。
というより、リエから触りを聞いた限りでは戦闘と治療向けのものしか知らない。特に黒魔法についての規制や法律が未知なので尚更だ。学びたい意欲がそれほど湧かない。
「そんな事ないよ。魔力だけならそこら辺の草木だって持ってるんだから。教会に行けばどんな魔法が得意か調べられるから、それを重点的に練習すればすぐに使えると思うよ?」
調理場にいるベクターさんとイリスさんの目を憚らず、それでもリエは手を休ませずに話し掛けてくる。俺が魔法について知らなさすぎる事が二人に筒抜けだけど、これまた新情報を入手だ。
ルズベリーの街の行政を担っているであろう市役所を差し置いての教会。魔法が周知の事実として一般的に浸透している以上、その手の窓口があっても良さそうなんだけど……まぁ、気にするだけ無駄か。
ただ、こうも俺に縁のなかったものが当たり前の存在と化していると、俺が一方的に慣れていないからどうも戸惑ってしまう。禁止薬物が合法になっている地域とか、日本に比べると容易に降りる海外の犯人への射殺許可とか、そう言った類いだ。
「なんか……軽いな」
「そう?」
「うん。アメリカの銃社会みたいで抵抗がある」
すると、視界の端でリエが一瞬だけ固まった。掃除を早く終わらせたいので、敢えて無視していく。
「……アメリカって?」
「アメリカ合衆国」
「それだけじゃわかんないわ」
「知ってた」
雑な回答にリエが口を尖らせるのを見届けて、俺は掃除に戻る。そこまで詳しく話をする気力はないんだ、許してくれ。
「リエ、スズト君。晩御飯できたから、取り敢えず掃除が終わってから一緒に食べましょう?」
「スズト、早く終わらせよ!」
調理場からのイリスさんの言葉にリエはすぐさま反応し、どんどん後片付けのスピードを上げていった。それでも作業が雑になっていないものだから、その手慣れた様子に脱帽する。
それにしても、流れるように住み込みが決まったなぁ……。一時は野宿を覚悟していたのに、気がつけば一生懸命働いている。自称神に殴られる然り、盗賊との遭遇然り、人生何が起こるか本当にわからない。
でも、失われた未来の分までの人生を謳歌し直すチャンスには違いないんだよな。自称神が何もしでかさなければと思うと癪に触るが、この際はもう仕方ない。生きていけるなら、とことん生きていこうじゃないか。
日本への気持ちの折り合いは、まだ完全についていない。葬式で涙を流していた家族に対して未練もある。できる事なら、俺は元気にしているから泣かないでくれ、悲しまないでくれと伝えたいところだ。今ではそれも叶わないけど。
お父さん、お母さん。故郷に帰れないどころか、一切の連絡もできないレベルで俺は自立します。あの世に行った扱いでも構いません。どうか、この親不孝者の幸せを祈っててください。
あと、自称神。お前の望み通りにの垂れ死んでたまるか。天寿を全うしてやる。顔も殴りたくなるほど見たくもないし、すぐ死んですぐ再会する展開も御免だ。それが非力な俺の、せめてもの仕返しだ。
※
拠点に残っていた鳥賊強盗団の中で唯一軽傷だったBさん――ボンデルは、ルズベリー支部の取調室で事情聴取を受けていた。イスに座らせられ、テーブルの向かい側には聞き取り役の男が座っていた。
室内には他にも剣士が控えており、とてもボンデルには逃げ出せる状況ではなかった。抗魔法製――魔法の行使を抑制する手錠を嵌められ、窓には鉄格子が備え付けられている。
「おい。コレ、デビルアロマの空きビンだよな? どこで手に入れた?」
その時、聞き取り役の手によってテーブルの上に空の香水瓶が置かれた。鳥賊強盗団の親分が使っていた物だった。キャップもしっかり回収されている。
剣士団員から厳しい視線が突き刺さる中、ボンデルはおずおずと答えた。
「し、知らねぇよ。親分が使ってる姿は何度も見たけど、いつの間にか持ってたんだ」
真実から程遠い内容に聞き取り役は眉をひそめる。
デビルアロマの流入元は不明だ。ブローカーが存在している事以外には手詰まりの状態で、何もわかっていない。おかげで根本的な解決には至らず、対処も後手に回る一方だ。
おまけにデビルアロマの製造方法も明らかになっていない。捜査が順調に行かないもどかしさから、次に聞き取り役はドスの利いた声を放ち、ボンデルを威圧する。
「いつの間にかぁ? んな訳ねぇだろ。コイツはそんじょそこらの魔法薬と違って、入手経路が限られてるんだよ。ブローカーから直接買うか、持ってる奴から奪わない限り。……さてはお前ら、過去に誘拐した人間の荷物から――」
「しつけぇよ! 何でそんな事を下っ端の俺に聞くんだよ! バカじゃねーの!? 親分に聞けよ!! 戦利品の管理は全部親分がしてたんだからさぁ!!」
「その親分のフィナード・トルイトは、魔物化の副作用でまだ絶賛昏睡状態だ! だからこうして部下のお前らにしらみ潰しで聞いてるんだろ! 察しろ!」
「酷い!」
「散々罪を犯したお前が言うか! だが安心しろ、拷問まではしない。俺よりも素敵な刑罰を考えてくれる奴がいるからな。お前の裁判結果が楽しみだ」
そう言って聞き取り役はほくそ笑む。何の抵抗もなく人を見下す事ができる者の邪悪な笑顔だ。実力だけでなく人柄も問われる王国剣士団がして良い顔ではない。
「すみません、誰かこの人と代わってください! 顔が怖いです!」
「んだとぉ!?」
遂に心が折れたボンデルは、他の人に救いを求める。すると、真に受けた聞き取り役がテーブル越しにボンデルに掴み掛かった。
そこにすかさず、一人の剣士団員が聞き取り役を背中から羽交絞めにした。
「先輩、暴力はいけません!」
「だからってコイツを許しておけるか!?」
「それでもダメなものはダメです! 私情も入ってるじゃないですか!!」
剣士団では犯人を事情聴取する際、自白の強要や暴行を加える事は規律で禁じられている。規律を破れば最後、犯罪者ではないのにも関わらず、それなりの罰が待っている。
後輩の言葉は至極真っ当だが、それで聞き取り役の怒りがすぐに収まる訳ではなかった。別に私怨だけでもなく、相手は何度も強盗殺人や誘拐を繰り返した重罪組織の一員なのだから。
結局、聞き取り役が冷静になるには時間が掛かった。それまでボンデルへの事情聴取が進まなかったのは言うまでもない。
それからしばらく経過し、支部内の事務室にて。
ウィリーは机の上に、十枚以上の似顔絵を並べていた。似顔絵はどれも、白黒写真とも呼べるべき写実的な完成度だった。
その様子を横から見ていた女性が、感心しながらウィリーに話し掛けた。
「ウィリーさん、絵が上手ですね。鳥賊強盗団の全員分あるじゃないですか。こっちは、ええっと……」
「シラス・スズト君とリエ・クルヴェットさんです。そしてこちらが、強盗団の下っ端たちが言っていた黒い化け物です」
ウィリーが指差す先の似顔絵は、ニグラムのものだった。ただし、使用されている紙の小ささの都合上、描かれているのは首から上のみだ。
ニグラムの似顔絵だけは他と違って、鳥賊強盗団の証言を元に描いてある。ウィリーのやった事は似顔絵捜査員の役割とほぼ同じものだ。
「化け物……仮面ぽいの被ってますね。どこが化け物なんですか?」
「身体がゴキブリを彷彿させるほど、生物感があったそうです」
「えっ」
その瞬間、ニグラムの全身像を脳内で勝手に補完してしまった女性は、たちまち身震いした。顔も若干青ざめている。
だがウィリーはそんな彼女に構わず、悠長に続きを話した。
「強盗団たちはこれに襲われたと皆、口々にしていました。その上、彼がこの黒い戦士に変身したと」
「デビルアロマ……じゃないですよね? 検査結果は陰性でしたよ。体に残った魔法薬の反応はゼロです」
現代日本の場合、通常の薬物検査をする時は血液、唾液、毛髪、尿から調べられる。
対してこの世界の場合、魔法を用いない科学技術の発展度合いが低いため、当然の如く検査方法は限られてしまう。しかし、魔力が関わっている魔法薬の類いであれば、検査方法が確立されているので容易だ。
デビルアロマは身体に振り撒く香水式の魔法薬。その成分が身体から抜け切るのには時間が掛かり、衣服の繊維や皮膚の表面にも残る。外部から干渉して肉体を強化する効果の都合上、水やお湯、石鹸で簡単に洗い落とす事は限りなく不可能に近い。
そう考えると、白須鈴斗が不審な存在になる。ただし、特に犯罪行為をしていなければ逮捕するのも法的に不可能で、抑留も理由が弱すぎて無理だ。人種云々についてはエルフ、ドワーフなどの異種族と共存している世の中なので、不当に捕まえる事も叶わない。
「ええ。現状、スズト君がこれになるにはデビルアロマで魔物化する以外に見当がつきません。冷静になれば盗賊たちの気が狂ったかのように思えますが、もしもの場合なら……」
――本当に変身できたのかもしれない――
女性の返しを肯定しつつ、ウィリーはさりげなく低い可能性を示唆する。それは彼の単なる憶測に過ぎず、根拠は特にない。
だが、例え可能性が低くても人がそうだと想像できる限り、絶対に起きない・あり得ないと断定する事もできない。与太話の範疇を越えなくても、思い付けた事は確かなのだから。大昔の人間の空想が未来になって実現した回数など、ざらにあるだろう。
ウィリーの示唆したものが悪い事だと女性は読み取り、自分なりの意見も含めて指摘する。
「もしもって……でも、彼が魔物とかなら街のあちこちに仕込んである魔除け道具に、何かしら反応を示したはずです。何の抵抗もありませんでしたよ?」
女性の言う魔除けとは、凶暴な魔物に対して初めて本格的に力を発揮するものだ。一定範囲内に魔除け効果が働く空間が形成され、魔物たちはそれを嫌がって近づかなくなる。それは街の城壁にも仕込まれるほどの代物だ。
あくまでも空間であるので、侵入自体は魔物が我慢すれば容易い。また、効果量には個体差があり、害をもたらさない温厚な魔物相手にはとりわけ薄い。
当然だが、ルズベリーの街に入った後の鈴斗に嫌がる素振りなど一度もなかった。身だしなみや礼儀、知識、常識(魔法は除く)などは完璧な文明人であり、我慢するどころか落ち着いてさえいた。緊張はしていたが。
人型の魔物も一応存在するが、それらはどれもれっきとした異形の存在だ。動物から進化していった結果であり、見た目が完全にヒトの容姿を取ったものはいない。
単に確認されていないだけで存在自体はあるかもしれないが、それはそれで不思議だ。根本から遺伝子が変わらない限り、突然変異でも難しい。仮に変身魔法や幻術などを使えているとしても、それに応じて新たに魔法の痕跡が現れるはず。
「魔除け効果に物理的な障害はありません。その気になれば、どんな魔物も効果範囲内に突っ込む事が可能です。まぁ、僕の考えすぎであってほしいですが」
そう言ってウィリーは頭の中を一度リセットする。論理的に考えていきたいのなら、憶測だけで物事を押し進める訳にも行かなかった。
「考えすぎですよ。スズト君、魔法どころか自分の魔力を使えてなかったんですから」
「そこも個人的に気になりますねぇ。出身地というニホン、彼が森にいた理由、リエさんの助け方、鳥賊強盗団相手への立ち回り方。疑問は到底尽きません」
「事件は一応解決してるのに、そこまで気にするんですね」
「細かい事を知りたくなるのは昔ながらの性分でして。特に魔法は」
ウィリーが満面の笑みで答える一方で、女性は苦笑いを浮かべる。この時のウィリーの表情は、大人びて眩しいと言うよりもまるで純真な子どものようであった。