44話。呼び出し
ルズベリーの街……というよりカンドラ王国には四季がある。気候は温帯で、地中海や日本と同じだと言っても差し支えはないだろう。もちろん、流石に気候は地球の常識の範疇に収まっており、北に行けば行くほど寒くなり、南に行けば行くほど暑くなる。
『ねぇねぇ、スズトー。ウォールタイフーンって知ってる? 夏になると何度かやってきて、地上から大空まで雲の壁ができるの。それなのに中は普通の雨だったりするから、不思議よね』
何故か、リエが言ってきた『ウォールタイフーン』の事を思い出すが、それは話の片隅に置いておく。決して目から逸らしている訳ではない。
そんな今日。自室の窓から外を見てみると、雨が降っているのがわかる。外だけでなく屋根越しからも雨音がサァーっと響いてくる。目を瞑って耳を澄ましてみれば、流れてくる雨音が妙に気持ち良かった。
これだけ雨が降っていては、よっぽどでもない限りは誰も外出しようとはしない。店の客足なんて尚更だ。
時刻は正午を過ぎているが、この雨の中でアローズに訪れてくるお客さんの数はかなり少ない。手伝う事も少なく、俺はベクターさんに「仕事がないから上がってろ」と言われた。今はこうして部屋の席に座り、つれづれと雨音を聴いている。暇だ。
こんな時は読書でもして時間を潰したくなる。G魔法についての調べものは手詰まり状態で、ただ魔法の知識が蓄えられるだけの勉強と化した。魔法関連の本を図書館から借りているが、軽い気持ちで読む気にはなれない。それらは難しすぎる。
なら、もう一度リエから『勇者ロザリオと光を厭う王』の本を借りてみるか。ニグラムとルキフィガを関連づけるような記述は特になかったが、あれはスルメ味のある王道物語だった。
そう思っていると、部屋の出入口の扉がノックされると同時にイリスさんの声がやって来た。
「スズト君、いるかしら? お客さんが来てるわよ」
「え? わかりました」
俺への客人とか心当たりが自然と限られてくるので、訝しみながら廊下に出る。先導するイリスさんについていき、まんまと一階に降りると――
「久方ぶりになる。突然で申し訳ないが、君には私と共に来ていただきたい。大事な話がある」
そこには、きらびやかさに溢れた白い礼服に身を包んだナサリオさんがいた。他には召使いらしき黒服の人しかおらず、単刀直入で同行を求められる。
このタイミングかよ。なんて時間差で来訪してくるんだ、騎士団。
もちろん、ここで快く同行を拒否するほど俺は図太くなかった。悪手を打って周りに迷惑を掛けるぐらいなら、穏便に事が運べる可能性がある方を選ぶ。逃げるのは論外だ。
こうして俺はナサリオさんと共に、外へと停めてあった馬車へと乗り込む事になった。その時に見たベクターさんの愉悦そうな表情は忘れない。
すみません、ベクターさん。俺が何やかんやで酷い目に遭うのを望んでいるのなら、あなたの期待に添える事はできません。俺は必ず無事に生きて戻ると決意しました。あと、もしもの時になったらティナが後を追ってきてしまう可能性もなきにしもあらずなので、生還をここで誓います。
それはさておき、狭い馬車の中にて俺はナサリオさんと向かい合うように座る。相手の装備は腰に提げている剣だけだが、例えあの白い魔導鎧がなくても怖い事には変わらない。彼の視線を向けられていると、逃げ出すなんて精神的に無理だった。
やがて馬車は動き出し、俺の気持ちを差し置いて勝手に街中を走る。こうしてナサリオさんが呼び出してきた理由はそれとなく見当がついているので、緊張感がとてつもないが覚悟はしている。潔白を証明できるかどうかは、全て俺次第だ。
俺はおずおずとしながらも、馬車内の沈黙に包まれた空気を破る。ナサリオさんの寡黙な表情に負けて口を閉じそうになるのをぐっと堪える。
「ナ、ナサリオさん――あっいえ、ナサリオ様。私に御用とは一体なんでしょうか?」
「詳しい事は城に着いてから話すつもりだ。それと、無理して私に様付けする必要はない。楽にしなさい」
「は、はい」
MAX敬語を目指した途端、ナサリオさんは表情を柔らかくしてからそう告げる。貴族身分と推測される本人からの生ぬるい寛大な許しに安堵すると同時に、とある単語を気に留める。
えっ、城? もしかしてルズベリー城の事?
いつしかリエとティナの三人で見た真っ白な城の姿を何気なく思い出す。こんな形で城の訪問が叶うとは思わず、危うく放心しかける。今回が俺=ニグラム=魔物の疑いで同行させられている形でなければ、観光気分でもっと喜べたであろう。マジで物的証拠や科学的根拠もなしにどう説明すればいいんだ?
それからのナサリオさんとの会話は、他愛な話以外には特になかった。しばらくして、馬車がようやくルズベリー城内へと辿り着く。
馬車から降りた時はまだ屋内ではなかったので、その先には広げた傘を高く持っている召使いが待機していた。俺の分も用意されていて、建物の中に入るまでは側で付き添ってくれる。
そこまで進んでわかった事だが、ルズベリー城は城壁の内側に洋館をいくつか建てている配置だった。日本の城はともかく、俺の知っているガチガチに防御を極めたヨーロッパの城とは一味違う。そのため、扉を抜けた先にある廊下は道幅が広く、窓も敵の侵入が容易なぐらいに大きく、外からの光を貪欲に取り込んで明るさを保っている。
雨が凌げる屋内へと逃げ込むと、傘を持った召使いの皆さんは颯爽とどこかへ去っていく。一方の俺は、静かにナサリオさんの後をついていくだけだ。
その途中で何度か、軽い鎧を纏った警備の兵士とすれ違う。彼らとは出会い頭に挨拶を交わすだけで、俺の存在に目くじらを立てたりなどしない。とある兵士が一つ尋ねてきた際も、ナサリオさんが「私の客人だ」と言うだけで、それ以上は深堀りしなかった。
それから応接間らしき部屋へと案内される。中には誰も居らず、壁際にはよくわからない道具や箱が置かれていた。
室内をじっと眺めていると、横からナサリオさんが話し掛けてくる。
「この部屋にいるのは私と君だけだ。聞き耳を立てられる心配もない。さあ、ここの席に座りなさい。何か飲み物を入れよう」
「い、いえ。結構です……」
ナサリオさんの心配りをやんわりと断りながら、彼の示したソファーへゆっくり腰を下ろす。
「そうか。それでは……」
ナサリオさんは頷き返すと、たくさんある道具たちの元へと寄った。その中から機械染みた台座と水晶が嵌め込まれたプレートを取り出し、俺の目の前にある四角いテーブルの上に置いてくる。
次に慣れた手つきでプレートを台座の側面から挿入し、台座に最初から備え付けられているスイッチを押していく。それで必要な作業は完了したのか、ナサリオさんは俺の向かい側にあるソファーへ座る。
すると台座の上部から淡い光が灯され、徐々に立体映像が飛び出す。映像の大きさはパソコンの画面と同じぐらいだ。
なんだ、ただの立体映像か。これぐらい驚くに値しない。
しかし、そう思うのも束の間、映し出された映像の内容に俺は絶句する。驚きのあまり、映像から一瞬たりとも目が離せなかった。
「部下の使役するゴーレムからの映像だ。私の命令で、およそ一月前から監視をさせていた。潤沢な物資と人材がある騎士団にしか取れない手段だが、これで物的証拠が手に入った」
立体映像を挟んだ向こう側でナサリオさんが淡々と述べてくる。ナサリオさんの真剣な目が映像越しに透けて見えるが、俺の意識は別の方に集中していた。
ヒマワリ怪人と交戦する青――先制疾駆形態のニグラム。背中の翅は滑空と跳躍の補助、空中での急な方向転換しかおこなえず、使用はバーストアンテナを展開している時に限る。黒の通常形態と比較すると、スピードにパラメーターを振り切った代償として防御力と全体的なパワーが低下している。
ブルーナイフはそんな青のニグラムのために用意された武器。肉弾戦上等の黒とはうって代わり、足りない攻撃力はブルーナイフ一本とスピードで補う。黒でもブルーナイフを使えるが、先制疾駆形態時と比べて攻撃力が低下する。これは形態変化が肉体だけでなく武器にも関わるからだ。
戦闘映像を見るにつれて、そんな感じの情報がパッと脳内に浮かんできた。ウィリーさんに黒いニグラムの似顔絵を見せられた時と一緒だった。
まさか、色々頭のネジがイカれているけど基本的な文明水準は中世末期並みに低い異世界に、ビデオカメラの代用品が存在するなんて。ちくしょう、侮りすぎていた。ニグラムに変身した瞬間を映像に収められれば、否定しようがなくなる。
いや、まだだ。取り敢えず深呼吸して落ち着こう。ここで自棄を起こしてしまえば、全て悪い方向へと転がる。今は辛抱強くなって、まずは言葉で身の潔白を主張しなければ。
また、リエたちの関連性も白だと示さなければいけない。俺と道ずれだなんて、そんな恩を仇で返すような真似は避けたい。
なるべく冷静に努めて、俺はナサリオさんに弁明する。
「……何度でも言います。俺は、人間です。例えゴキブリの化身的なヤツに変身できたって、俺は魔物じゃない」
「それは知っている。今の君は、ほぼ間違いなく人間の状態だ」
「今……?」
「君が先天的に習得したとされるG魔法は、主にこの変身能力で間違いないだろう。変身能力の前例がデビルアロマ系列しか見当たらない以上、下手に推測する事しかできないが。もちろん、デビルアロマとは変身過程が異なるのは明白だ」
今の自分。
ナサリオさんから言い放たれたその単語に、心が揺さぶられる。G魔法の推論で根本的な間違いをナサリオさんは犯していたが、そんなものよりも“今”が反芻して仕方がない。それは俺が一番考えたくないからと、自然と遠ざけた可能性だ。
ついでにゲジゲジ怪人の言葉を思い出してしまう。変身する度に俺の身体がだんだんと怪物になっていくと一度でも想像してしまえば、己は人間だという自信がどこかに消えてなくなりそうだった。
……待て。恐怖と不安で際悩まされるには早すぎる。リエが言っていたじゃないか。俺は人間だと。そうした他者からの承認があるだけでも、曇った心は少しでも晴れていく。微かな希望が見え、それでも魔物じゃなく人間だと胸を張って言える。
ナサリオさんとの重要な話の最中で、危うく思考放棄して打ちひしがれるところだった。改めて正面を見据えると、立体映像がループしているのに気づいた。
「この事を知っているのは私含め、天翔騎士団所属の数名に限る。そこで私は君に一つ提案をしたい」
そう言いながらナサリオさんは台座を操作して立体映像を消す。その内容が不明瞭な提案とやらに俺は内心怯えつつ、拳に力を込めて明かされるのをじっと待つ。
ナサリオさんの口がゆっくりと開く。刹那、その一動作がとても遅く感じられて、どうしようもなく待ちあぐねそうだった。
そして遂に、彼の言葉をしかと耳にする。
「今後一切、G魔法を使わないでほしい。その力は身だけでなく心までも魔物に堕とす危険がある」
次の瞬間、俺たちの会話の間に空白が生まれる。最悪な想像の斜め上を飛び越えた意外すぎる要求に、俺は思わず耳を疑った。
正直に言って、トゲが含まれているものの自分を心配するような言葉を掛けられるとは、微塵も考えていなかった。絶対に楽観的にならず、常に悲観的で合理的な思考回路を働かせていたからだ。
リエやティナのように、仮にも異形の怪物に変身できる俺を拒絶しないと、どうして想像できる? とにかく、俺を化け物ではなく人間として見てくれている節のあるナサリオさんが不思議だった。そのあまり、つい勢いで思った事を呟く。
「……秘密の暴露を盾に何か脅迫するかと思ってました」
「そんな事はしない。騎士団は元より国、民を守るために存在する。相手が悪人であれ、まさに救命が必要なら助けなければならない。そうして後に法の下で公正な罰を与える。何の罪もない人間を手に掛けたりするのは断じて許されない。君には魔物ではなく、人間であってほしい」
「変身するななんて、それが決まるのは状況次第です。変身しないと殺される場面とかになったら、俺は……」
真摯に語るナサリオさんの姿には説得力があった。しかし、物事がそう簡単に決着しないと認識している俺としては、彼の寛大な対応を受け取れきれない。
自身に命の危険が迫っている時など、まさしくそうだ。変身すれば助かるのに、敢えて変身しないのは生に執着する身としてはおかしい選択だ。死にたくない気持ちがあるのに変身禁止だと言われたからと、諦めて死を受け入れられる訳がない。馬鹿げている。
それにもしも、生身ではダメでも変身する事で目の前にいる死にそうな誰かを助けられるのなら。俺は自分の価値観と意識に基づいて、人として普通の選択をする。命はいつだって一つで換えも利かず、死は原則的にとびきりな不幸だと思っているから。手遅れな後悔はしたくない。
そんな訳で、さっき述べたような理不尽な状況に遭遇した場合の意見をナサリオさんに求めたい。俺は途中で言葉を止めて、ナサリオさんと目線を合わせる。こちらから目を背けるなど、決してしない。
すると――
「前回まで私のおこないについては謝罪しよう。申し訳なかった。だが、これでも公的にはあまりにも寛大すぎる処置だ。もし次に君が変身した状態で私と出会う時があれば、魔物として君を……抹殺しなければならない」
瞬く間にナサリオさんの眼光が鋭くなり、威圧の効いた言葉と一緒に俺へ突き刺さる。とても冗談で言っている雰囲気ではなく、目だけで生き物を殺せそうな彼の表情に息を飲んでしまう。
せめてもの救いは、腰に提げた剣にいっぺん足りとも手を掛けなかった事だろう。少しでも剣を握る素振りでもあれば、恐怖のあまりに俺は咄嗟に先制攻撃していたかもしれなかった。それぐらいの行動を自ずと取らせるほどの本気度が、ナサリオさんにあった。
※
ルズベリー城の正門より一台の馬車が出発する。雨は未だに止まず、いくら道路が舗装されていると言ってもほんの僅かな窪みがあれば、そこに水溜まりが出来上がる。その上を馬車は遠慮なしに渡り、水が勢い良く跳ねる。
馬車に乗っているのは鈴斗だ。ナサリオとの対談が無事に終えた後、帰りの馬車を用意されたのだった。ナサリオに、鈴斗や彼の関係者に手出しする気はなかった。
馬車を見送ったナサリオは、そそくさと城内の館へと戻る。表情は常に緊張感を持っていて、緩む気配が全くない。
対談の内容は実に単純なもので完結していた。ニグラムへの変身禁止を鈴斗に求める。ただそれだけだ。
ただし、口でそう言っても鈴斗からの信用を得るのは至難だった。それもナサリオも承知の上だったが、いざ鈴斗の警戒心が会話の最後まで持続したとなると、彼も心穏やかではいらない。非常にもどかしかった。
ナサリオは、身分問わず他者と打ち解け合うのが人並みに得意だと自負している。それでも、あの対談での鈴斗の対応が組織の様々な闇を知っているかのような口振りだと気づいてしまえば、打ち解ける手応えが一気に変わってしまう。鈴斗が意外と賢く、少しでも先を推し測れる思慮深い少年だと理解してしまった。単純ではない。
論より証拠。とりわけ、鈴斗には言葉だけでなく行動で示す必要があった。王国剣士団や騎士団に夢見る純粋な子供のように一筋縄ではいかない。これにはとても苦心した。
そんな鈴斗をナサリオは敢えて力で黙らせず、ここまで手間を掛ける理由は簡単だ。騎士道に殉じ、守るべき者を守るため。悲しみや絶望を打ち払い、希望をもたらすため。それは彼にとって、己の死よりも重たい使命だ。
もちろん、それは鈴斗を少なからず信用しての事だ。ゴーレムより撮れた映像には、明らかに鈴斗が任意で変身している様子が映されている。鈴斗より信用を得られる代わりとして、まず最初に映像の内容を根拠にナサリオは彼を信じた。魔物ではなく人間であると。他にも現場にいた二人を守るような動きを見せていたのも、その要因の一つだ。
だが、鈴斗への処遇としては不十分だという考えも浮かぶ。そんなに不安要素があるのなら、とっとと殺した方が早いと。それでもナサリオは、人間としての彼を信じる道を選んだ。私情である自覚は当然持っている。
そうして廊下を歩いていると、たちまちアンジェラと遭遇した。アンジェラの格好はナサリオと同じ、騎士団の白い制服姿だ。ただし、左腕には包帯が巻かれ、幾つか組み合わせた木の棒で患部を固定させた上で、首から布に吊るされている。
そんな彼女の病状をナサリオは知っている。ダンジョン調査中に起きた戦闘による骨折だった。その他にも打撲や裂傷などの怪我を負っていたが、今となってはそれらの跡すら残っていないほどに回復していた。
アンジェラはナサリオの前に立ち塞がり、やや冷たい目をしながら彼に話し掛ける。
「手緩い対応ですね。無理にでも彼を断頭台に立たせれば良いものを」
「今の彼はれっきとした人間だ。君の言う通りにしてしまえば、多くの者から糾弾されかねない。敵視している者からすれば、私を団長の座から蹴落とす材料になりうる」
アンジェラの過激な発言にナサリオは少し眉をひそめながら、建前も交えて返答する。
元よりアンジェラは魔物を人一倍嫌っている。それは魔物化してしまった者たちも同様で一切の容赦はしない。味方には優しく敵には厳しいと、実に両極端な考えの持ち主だ。
ナサリオが見る限り、今のアンジェラは雰囲気からして内面に留まるレベルで荒々しくなっている。一先ずは頭ごなしに彼女の気持ちを不意にせず、尊重しつつも落ち着かせようと彼は努める。
「どちらにせよ、人の口に戸は立てられません。周囲に知られるのは時間の問題です。その上、彼が魔物に変身して誰かに危害を加えない絶対の保証などありませんから」
「箝口令は徹底させる。知るのは少人数に限るので容易だと思うが、もしもの時は私が責任を取るしかないだろう。ところで、アンジェラ。怪我の調子は?」
極端的な思考もここまで来れば、逆に素晴らしい。ナサリオは内心では呆れつつも表情には出さず、すぐさま話題を逸らそうとした。
「明日には完治します。ここまで体力が回復すれば、強力な治癒魔法による反動は耐えられますから。瀕死だった団長の回復力がおかしいだけです」
アンジェラはむすっと答えると、まじまじとナサリオの身体を見つめた。骨折中のアンジェラとは対照的に、ナサリオは至って健やかだった。
先ほどの彼女の言い草は、ナサリオの回復力の異常さを皮肉ったもの。実際にナサリオは数日前に生死の境をさまようほどの重症を負っていたのだから、回復速度については本人にも言い返しようがない。
なので、ナサリオは素直にアンジェラの指摘を認めた。
「自覚はしている。己の未熟さもな。そのせいで桜花騎士団は七人、我々から三人が命を落とした。二つ目のダンジョンを調査し終えただけでこれだ。ローザリーの修復もまだ時間を要する」
ナサリオは顔をアンジェラから僅かに逸らす。彼女の皮肉をきっかけに脳裏で思い返すのは、ダンジョン調査の最中で死んでいった騎士たちの顔だった。自分の部下である天翔騎士団員だけでなく、余所である桜花騎士団員の顔――少なくとも調査隊メンバーの分までも鮮明に覚えていた。
表情は何もなかったかのように無を貫く。だが、両手の拳を握る力は無意識にギュッと強くなっていた。血までは出ないが、爪が手のひらに食い込む。
その次に思い出すのは、まさしくアシダカグモの権化とも言うべき人型の魔物――クモ怪人の姿だった。無性に嫌悪感を抱かせる容姿をしていて、更には放り投げた人間で岩盤を余裕で陥没させるほどの怪力を誇っていた。仕留めるまでに至れなかったのを今でも悔やんでいる。
その時、ナサリオの顔色の一瞬の変化を見逃さなかったアンジェラは、彼の心情は把握してか唐突にフォローに入る。
「あのクモの怪物はローザリーと引き分けるほどに強大な魔物でした。多少の犠牲は仕方ありません。案の定、私たちを徹底的に誘き寄せるための餌でしたが、デビルアロマに関する資料も手に入れました。彼らの死は無駄ではなかったと」
「……ああ。あれほどの詳細を記してあった以上は、退く事はもう叶わない。この調子なら残り二つのダンジョンも同様の餌があるだろう。だが、全ての資料を回収できればデビルアロマの解明、果てには魔物化した者たちを元に戻す手段が解明されるかもしれない」
そう言ってナサリオはおずおずと頷く。
そもそも今回のダンジョン調査は、ダンジョンに居着いた突然変異種の魔物を討伐及び、その生態を調べる面が強かった。デビルアロマ関連の調査は二の次程度で、ゲジゲジ怪人の捨て台詞が調査決定を後押しした形になったとは言え、全てを鵜呑みにはしなかった。
しかし、いざ調べてみると作為的な何かを感じさせるぐらいにデビルアロマ関連の資料が次々と発見され、ゲジゲジ怪人と同じように話すクモ怪人とも遭遇した。手間が省けたかどうかは微妙だったが、二体とデビルアロマの繋がりがある事に確信を持つには申し分なかった。
「デビルアロマを受け取る者たちが一人もいなければ、全て問題なかった話ですがね」
被害を受ける側は堪ったものではないと言わんばかりに、アンジェラは辛辣に吐く。それは絵空事にも等しいが、ナサリオはわからなくもなかった。
端的に表せば、犯罪行為をおこなう人がいなければ事件は起こらず、平和な日々を暮らせるという事。それ単体としては、何という綺麗事なのだろうか。
だが、人は簡単ではない。科学や魔法、文明の水準を高く築き上げられるほどの知能を得ているだけあって、時にはイカれたような惨劇や悲劇を起こしたりもする。認識の違いによる対立は、本当に些細な事も含めれば日常茶飯事だ。
そのため、人間関係や道徳、倫理などでは数学のように絶対的な正しい答えが存在しない。その人の考え方次第で、いくらでも異なる解答が出てくるから。
その点を省みれば、アンジェラは自分の考えを他者へと一方的に押し付けかねない。要するに頭でっかち、頑固だった。酌量を汲もうとしたり、流動的に考えを変えていく姿勢が見えない。
これは少し頂けないと感じたナサリオは、それとなく告げる。
「手に取る理由は人それぞれだ。許されざる行為でも、同情を挟める場合がある」
「醜い真似をして同情など、わかりかねます」
「ああ。だが、中には美しい醜さがある。限りある人生を一生懸命に過ごしたり、とにかく誰かのために頑張れたり……。君はもう少し頭を柔らかくした方が良い。悪事を働いてしまった善人と、本当の悪の見分けがつかなくなる」
「……善処します」
アンジェラはそう言い残すと、一礼してナサリオの元をそそくさと立ち去っていく。その際にナサリオが目にした彼女の横顔には、反省の色らしきものは浮かび上がっていなかった。




