適応的な人間について 対話篇
対話篇となっておりますが、プラトンの著作をイメージして作りました。また、元々は自分用に書いたエッセーですので、内容の整合性や文章の稚拙さについては、ご了承ください。
「もし君が、ナチスの時代に生まれたとする」
「うん」
「君はナチスの暴徒と共にいて、暴徒達はユダヤ人の家の窓ガラスを割って歩き回り、暴行を加えている。君は一緒になってユダヤ人に残虐行為をするだろうか」
「そんなことするはずがない。他人に暴力を働くことは許されないし、それは古い人たちが今の我々より理性を用いることができなかったせいだ」
「なるほど。しかし、君は暴徒と一緒にいるんだ。彼らと同じような残虐行為をしなければ君は裏切り者扱いされ、反対に暴力をふるわれるだろう」
「だが、私の判断は倫理的に間違っていない」
「ああ、確かに君の判断は決して間違いではない。しかし、結果的に君の判断は周りの人間にとって正義の執行を怠った悪であり、君の内に罪悪感が生まれる」
「・・・」
「適応的な人間とは、自己を取り巻く環境に対して順応できる人間だ。多数派に従うことだ。それは、他人の評価を自分の評価にできる人かもしれない。ひょっとしたら二重思考¹ができることかもしれない。ミーム汚染かもしれない」
「だったらどうしろと?」
「ミーム²を選択する。よく観察し、その時何が起こっているかを理解し、自らの意思で行動する。
『人間には、意識的な先見能力という一つの独自な特性がある』
ミームに先見能力は存在しない。考えることを放棄してはならないし、君自身が正しいと思うことについて立ち止まったりすることも必要だし、考えた末に得た結果が、もし君の内にあるなら、恐れずに進むんだ」
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注釈
1. ジョージ・オーウェルのディストピア小説『1984年』より。対立しあう認識を同時に信じることができること。例:2+2=4であることを知っていながら、2+2=5であることを信じていること。
2.リチャード・ドーキンス 『利己的な遺伝子』