0002 欠けた記憶
「ダメだ……」
わっけ、わからん。
夢でもみてんのか俺。
意味不明すぎるだろう。
俺の身に何が起きてんだ。
つーか何が起きたんだよ、本気で。
俺はいったい……あぁ、まるで思い出せない。
直前の記憶だけが、脱け殻のようにスッポリと抜け落ちている。
必死に思い起こそうとしても、その部分の記憶だけはどうしても意識が途切れたかのようにプツンと真っ暗闇に染まっていて、脳内で映像として思い浮かばせることすらできない。
いやいや、意地でも頑張って思い出すんだ俺。
もう一度、辿ってみよう。
たしか……夕方の6時頃に。
学校帰りの俺は、本日発売された最新第1巻のとある漫画を駅前の本屋で買って、そんで嬉々としながら急いで家に向かったんだよな。
必死に自転車のペダルを漕いでいたのは鮮明によく覚えている。
なんせ俺の買った本は、今は亡き人で「俺の最も尊敬しているホラー作者」の原作小説本を(祝)漫画化した物だったからだ。
累計発行部数200万部の、とあるデスゲーム物の大人気小説。
既に内容を知っていようと、二次元にデフォルメされたそれを早く読みたくて早く読みたくてしょうがなかった。
帰路への道中、ずっとニヤニヤしっぱなしだった。
あぁ、そこまではハッキリとした記憶がきちんとある。
あるんだ。
けど、その後……やっぱりダメだ。
そこまでは思い出せるのに、その先が全く思い出せない。
なんでだ、なぜ思い出せない。
もしかして……自転車のスピードを出しすぎてて、帰宅途中にどっかで事故って死んだのか俺は?
ってことは、この白い空間は天国か何かなのか?
この人たちはもしや、リアル天使?
というかだ。
もしそうなら死後の世界って本当にあったんだな。
いやいや、待てよ。
でも、それなら何ゆえにこんなにもハッキリとした体の感覚があるんだ。
おかしくないか?
「う~ん、ダメだ。全然理解が追い付かない」
ここがどこなのかも、俺の身に何が起きたのかも、なに一つ理解できていないこの状況。
いったい、俺の身に何が起きているのだろうか。
「無理もねぇ。ここには犠牲なしで来た奴も多いがらなぁ。俺のところは抵抗して死にまくっただがぁ、おめえさんのところは比較的平和だったんだろうよぉ」
なんだ突然……犠牲?
抵抗して死にまくった?
なんだかすごく不気味な言葉の数々が、ドワーフの見た目をしたおっさんの口から聞こえてきた。
「たしかぁ、ここはホワイチェルって言ったがぁ? そんな名前だった気がするがなぁ。もう怒りでほとんど覚えてねえが」
「あの、もしかしてここは天国というやつでしょうか? というか、死後の世界?」
「お、おめぇ……」
「はい?」
「お、おめぇ……まさかぁ……」
小さなおっさんが目を丸くしながら、言葉を失ったかのような顔でこちらを見続けてくる。
俺の声が届く範囲にいる他の人もだ。
なんだ、どうしたんだ。
まるで、体力測定で俺が50m走の記録を読み上げられたときの、周りにいた同学年たちの表情が思い起こされてくる。
あれはたしか、高一の一学期のときだったよな。
ははっ……はぁ……。
「なっ……なっ、何も覚えていねぇのがぁ!?」
おっさんの語尾のトーンが一気に上がり、渋い顔には似合わぬような素っ頓狂な声が俺の耳に届いた。
明らかに動揺しているような、そんな上擦った声だ。
いったい、何をそんなに驚いているのだろうか。
「なんにもっていうか、まぁはい」
死ぬちょっと前から、ここに至るまでだけど。
「そうがぇ……」
俺のその言葉を聞くや否や、幾人の人は俯き、幾人の人はお互いをみつめ合い始めた。
「多大なる精神的負荷やらなんやらでぇ、たまに途中で呆然自失になって記憶を失ってしまう者もいると聞いてはいたがぁ……何もわかってねぇのはある意味、もっともつれぇがもなぁ……」
独り言のように、白い地面をみつめながらそう呟くドワーフ風おじさん。
そんなおじさんが、重苦しい顔つきで俺に向かって視線を合わせ、言葉を続けてきた。
「ここは天国なんがじゃねぇぞぃ、小僧よぉ。むしろ地獄と言ったほうがしっくりくるがもしれねぇ。見た目は真っ白だけどよぉ」
「地獄ですか……」
おいおい本当かよ。
俺はあれか、怠惰な人間だったから、天国か地獄かを決める番人か審判かなんかに地獄行きに判定されちまったってのか。
そりゃ、ないだろ。犯罪なんか何一つしたことないんだぞ……あ、いやお袋から500円盗んだことはあるけどよ、ぁ、ぁれは床に落ちていたからでな、だから決してやましい気持ちなどは毛頭無くてだな……はい、すみません。
「地獄じゃねえがぁ、ここは地獄みてえな場所ってことだぁ」
地獄じゃない……のか。
なんだ、よかった。
とりあえず、地獄ではないのならいいや。
というか、地獄って本当にあるのだろうか……いや、こんな摩訶不思議な、死後の世界があるくらいだし、実際に有っても不思議ではないか。
「小僧よぉ。俺たちはなぁ、選ばれちまったんでぃ」
「……選ばれた?」
「あぁ、そうだぁ。俺たちはなぁ、俺たちは死神の遣いになぁ……死神の遣いに……」
まるで突然何かを思い出したかのように、おっさんは悔しそうに顔をしかめて、唇を強く噛み締めながら両目に涙をじわっと溜めていった。
続くはずの言葉はすっかり止まっていて、気になるその後が聞こえてこない。
「──その潤いはとても大切で、失ってはいけない複雑な感情です。ご無理をなさらずとも、よいのですよ。小さきドワーフさん」
代わりに口を開いたのは、おっさんのすぐ近くで俺たちの会話をずっと聞いていた長身の、あの女性だった。
さきほど俺の目が釘付けになっていた、雪よりも白く透き通った肌を持つあの超絶美人女性だ。
「言葉は交わらずとも、女神様は衆生を決して見捨てはしません。今、この瞬間も私たちを見ておられるはずです。私の世界に住む者も、貴方の世界に住む者も……亡き者をも含めて」
ブロンドのサラサラとした美しい長髪をフワリと揺らしながら淑やかにしゃがみこみ、白い地面に座りこんでいるオジサンの肩に手をやる美人さん。
「理想郷は不浄な魂さえ癒します。命に無価値なものなど、ありはしないのです。ですから今は、その一滴の無垢を溜め込まずに洗い流しながら、前をみつめましょう。光ある世界の未来を求めて」
な、何を言っているのか全然わからない……。
け、けどまぁ。
この美人さんが、おじさんを励まそうとしているのはなんとなくわかる。
すごく優しそうな表情でおじさんに微笑みかけている、その彼女の面様からは、邪な感情など一欠片も感じとれないしな。
わけのわからない単語ばかり出てきて意味不明だったけれど、そこにはとても暖かい言葉の意味が内包されているのだと、俺の心はそう判断していた。
心身共になんて素晴らしい人なのだろうか。
恐らく、ドワーフさんと言っていたのは聞き違いなのだろう。
この人が、人の風貌をみてあだ名を付けるような御方のはずがない。
断言しよう。
彼女の口からそのような言葉が出てくるはずがないのだ。
「どうか、小さきドワーフさんに樹霊のご加護がありますように……」
ぇ……ぁ、ぁぁ。ぅん……いや、うん。どうみてもドワーフさんって聞こえ……あーあー聞こえないー聞こえないー。
「……あぁ、ぐぞぉぅ! なんて野郎だ俺ばぁ!」
う、うるせぇ!?
「エルフの嬢ちゃんに気を使わせちまっただぁ! どんだバヂあだりでぃ!」
突然、おじさんがこれでもかと意味不明なくらいの大声で叫び始めた。
耳の穴に指を突っ込みたくなる衝動に駆られてしまうほどの大きな音が、俺の鼓膜を襲ってくる。
い、痛すぎるぅぅぅ……。
「あ”ぁ”っ”! で”も”い”や”だ”ぁ”! 死”ん”で”ぼ”じ”ぐ”ぇ”ぇ”! 死”ん”で”ぼ”じ”ぐ”な”が”っ”だ”だ”ぁ”ぁ”!」
今度は顔を上空におもいっきり向けながら泣き叫び始めた。
強いダミ声でこれでもかと声を荒げている。
このおっさん、情緒不安定かよ……。
死ぬ直前に、何かあったのか……?
「ご”れ”が”ら”デ”ス”ゲ”ー”ム”だ”っ”で”し”だ”ぐ”ね”え”だ”ぁ”ぁ”! ご”ん”な”ど”ご”ろ”で”死”ん”で”人”生”終”わ”り”だ”ぐ”な”ん”で”ね”え”だ”ぁ”ぁ”ぁ”!」
重苦しい空気が漂うこの空間で、耳障りな音がこれでもかと俺の脳を揺さぶってくる。
そのあまりの大きな声量に、俺は内心気分が悪くなっていた。
いや、気分が悪くなってくる原因はそこじゃないか……わかってる。
そんなことわかってるけど……。
「わっけ、わからねぇよ……」
肩まで伸びた黒髪をかきあげながら、俺は思案する。
エルフ、ドワーフ、死神、女神、私の世界、貴方の世界──そして、聞こえてきたデスゲームという不吉なワード。
謎すぎるだろ……なんだよ、この意味不明な言葉の連続は。
何一つ俺の記憶に繋がらない。
そもそもエルフもドワーフも、今話題の絶賛上映中映画「ロ○ド・オブ・ザ・リ○グ」で初めて知った言葉だ。
最近まで単語の意味すらまともに知らなかった。
たしかに、2人とも映画に出てくるエルフやドワーフみたいな顔してるけど……あぁちくしょう、頭が混乱してくる。
あぁダメだ、落ち着け俺。
ここは小説の世界でも、漫画の世界でもアニメの世界でもないんだ。
考えたってどうにかなるもんじゃないだろ。
よしっ、また深呼吸だ。
とりあえず深呼吸をしてリラックスしよう。
「ふぅぅ……」
視線の先に映る、力強い声で延々と泣きじゃくっている小柄な太ったおじさん。
その彼の目や鼻から流れている液体をみていると、とても嘘泣きをしているようには見えない。
偽りのない本当泣きなのだろう。
まるで、小さな子供がおもいっきり泣いているようにもみえる。
……なんだか懐かしい光景だな、人が泣いているのを間近でみるのは。
一体何年ぶりだろうか。
俺の小さな頃の……遥か昔に消え去ったはずの儚い記憶を再び眺めているような気分だ。
「あぁ……」
最悪だ……。
どうやら俺は誤解していたのかもしれない。
どこか気軽に捉えていた部分があったのかもしれない。
この理解できない刺激に、内心喜んでいたのかもしれない。
ワクワクしていた部分があった……のかもしれない。
知りたくない……。
そう思うほどに、俺の心にあった「正の興味」という感情の灯火は既に消え失せていた。
だけど、知りたくなくても変わりに「負の興味」という名の感情が、俺を襲い始めてくる。
まったく状況が理解できない今だからこそ、入れ替わるように涌き出てきたこの「負の興味」という感情が、俺の心を締め付けるように強くまとわりついてくる。
知ってしまったら、きっと苦しみと恐怖と後悔しか残らない。
そんなことわかりきっているはずなのに。
それなのに俺は……。
訊きたい……。
俺たちの身に何が起こっていたのか、何が起きているのか、そして何が起こるのかを……訊きたい自分がいる。
……訊いてしまおうか。
……そうだな、どうせ苦しい気持ちを維持しなければならないのなら早めのうちがいい。
その方が却って楽になれるかもしれない。
……そうしよう。
「……あの、みなさん」「こういうときこそッ!」
「うおっ!?」
……び、びっくりした。
いきなり真後ろから自分の声を遮るように話しかけられた。
爽やかで好青年な男を彷彿とさせてくるような、そんな綺麗な声で。
声のした方へ、後方へと振り向くと……。
「死神だろうと神だろうと女神だろうと信じない。鋼の心を持つ僕の出番のようだね」
そう言い切りながら、かけているメガネを中指でクイッと手を当てている男が、俺の瞳に映ってきた。
黒髪中髪で、青縁のメガネをかけた男が。
声で想像していた通りの、整った顔立ちでキリッとした目が特徴的な中々のイケメンが……そこにはいた。