世界を2つ持つある一人の話
一、
ここは日本。私は日本人。両親も日本人。普通の中学校に通う普通の女子中学生。部活は吹奏楽部。トランペットを吹き始めて3ヶ月、小学生だったことを忘れるくらい私はもう学校生活に馴染んでいる。毎日制服を着て、通っていた小学校の裏を通りすぎ、小学生だった頃より大きくなったはずなのに倍の時間をかけて登校。毎日、勉強をして遅くまで部活をして帰る。それが今の私。そう、今の私―。
信じてもらえないだろう。私には秘密がある。秘密というか特異体質かな。もしくは、病気なのかも。実は同時に二つの人生を生きている。ああ。意味不明だな。でも、それしか言いようがない。私の中でもどっちがメインの人生で、どっちがサブの人生なのか分からない。どっちにとっても今いる場所の現実こそが現実なのだ。切り替えスイッチは夜。というか、つまり寝ること。なんだよ、夢じゃん。そういうことだ。そういうことにしたい。あまりにもリアルで、名前も人種も性別も世界の仕組みや常識が違うだけの夢。毎日夢を見ることはないように、毎日切り替わってる訳じゃない。夢の中では、逆の世界を夢だと思い込みながら生きている。
「おはよう未来ちゃん!」
私は田邉未来。もっと可愛い名前が良かったなぁ。ツインテールの歌う女の子じゃないんだから。親にセンスがあったなら、もっと読み方が変わってて、可愛い名前だったのに。
「おはよ。陽葵ちゃん!」
そう。友達の陽葵ちゃんみたいな名前。陽葵ちゃんは小学校からの私の親友である。
私と彼女は同じ学校になったものの違うクラスになってしまった。でも、部活は一緒。今日は早めに部活の練習に行って、パート練習のあとに合奏があったな。吹奏楽コンクールというのが一ヶ月後にあるようだ。そろそろ本格的に練習をして、コンクール出場メンバーを決める。
陽葵ちゃんも同じ吹奏楽部で、彼女はフルートだ。小さい頃からピアノが上手で、運動神経も抜群。元気で、明るくて、可愛い。運動部に入るのかと思っていたのに、私がトランペットを吹きたいと伝えると、彼女はあっさり一緒に吹奏楽に入ってくれた。優しくて大好き。陽葵ちゃんに昨日借りた本、返さなきゃ。
そんなことを考えているうちに一日の授業が終わった。ベルが鳴る。
私はすぐに隣のクラスの陽葵ちゃんと共に音楽室に向かった。
そして、今日も何事もなく一日が終わる。いつもの日常。普通の女子中学生だ。
二、
目が覚めるといつも僕は夢のことを思う。その夢の中では、僕は女の子なのだ。はっきり言って気持ち悪い。意識はあるのに思い通りにならない。いや、そんなことはないのかもしれないが向こうの常識で行動しているのだ。でも、僕はしっかりとあの女の子を僕だと自覚している。
鏡の中に見えるのは黒髪、黒目で髪が短い女の子。僕よりも少し歳上。同じくらいの歳の同じ服装をした人が集い、勉強をする。たしかに僕なはずなのに、お喋りでうるさい。意味の無い会話を繰り返し、会話の内容が突然変わる。品もなく大きな声で笑い、器楽の演奏に力を入れていて、毎日が同じ日常を送っている。
まぁ、僕の日常も日々の生活にあまり変わりはないか―。
僕はこの家のご主人様の息子だから、偉いのだ。でも実は父様の何が偉いのかよく分からない。父様はあまりここには来ない。僕が小さかった頃は、たくさんの大人と一緒に来て、馬に乗せてくれたりしたのに、最近は父様がどんな方だったのかも分からない。この家にはたくさんの人がいるが子供は少ない。同年代の友人といえば、乳母の娘のライラと庭師の息子のルードくらいなもので、二人とは一緒に過ごすこともあるが、夢の中の僕――ミクのようにたくさんの同年代と過ごすこともない。
ミクといえば、何故こんなことになったのか。
自分でもはっきりと覚えている訳ではない。
一年は5つの季節のからなり、火の季節、風の季節、雪の季節、花の季節、水の季節とめぐる。
僕が生まれて5回目の風の季節。5歳になったときだった。僕はあまり身体が強い方じゃなかったから、季節が変わるときにいつも熱を出してしまう。
誕生祭が終わり、雪の季節の到来を告げる雨混じりの初雪が降る頃、僕は案の定熱を出した。特にその年は雪の季節が早く来てしまい、7日間寝込んだのだと僕の先生は言っている。あの時くらいからだ、体調を崩したり疲れて寝ると夢を見るようになった。毎日ではないので、変な夢だと思った。だけど、さすがに何度も繰り返し見る夢に、現実感がありすぎて怖くなった。寝ることが恐ろしくて、乳母にずっと一緒にいてもらったこともある。
あのときからもう4年くらいたったから、今ではもう慣れてしまって物語でも読んでいるような感覚になってきたが。
「失礼します。お早う御座います。ハーディパスト様。お目覚めでございますか。」
ノックの音がして、執事のヴァンスが来た。彼は僕のより濃い栗色の髪をしていて、首もとでひとつに束ねている。瞳も茶色なのだが、僕がいたずらをして怒っている時や体調を崩して心配していると灰色にみえる。今は灰色に近いような気がする。
「おはようございます、ヴァンス。」
ヴァンスは執事だが、目上なので丁寧な言葉を使わなくては失礼にあたるだろうと思っている。歳がいくつなのかは聞いたことはないが、父様や乳母と同じくらいだろう。紳士は常に礼を重んじなくてはならない。挨拶は第一印象を決めるから常日頃から丁寧に。先生の教えだ。
「ハーディ様、本日も暑い一日になりそうです。朝食をお召し上がりになりましたら、裏庭の離れにてストック先生がお待ちです。また、明日は来客の予定あります。」
彼は僕の予定を話しながらも、顔を洗い着替える僕を手伝ってくれいている。少し急いでいるのだろうか。いや、彼は手際がいいのか。あっという間に終わった。彼はとても忙しいので、こうやって身支度を整えてくれることはあまりないが、僕に先生ことを伝えに来てくれたついでだろう。先生とはミクの世界の言う家庭教師のことだ。いつもなら乳母とメイドが来てくれる。誰も来ないのは珍しいな。
朝食の後、裏庭の離れへ行く。この離れ家は火の季節である今の暑さをしのいでくれる。この屋敷の裏には小川が流れていて、涼しいのだ。ライラとルードも来ていた。彼らは僕よりも2つか3つくらい歳上だ。たぶんミクと同じくらいだろうか。ライラは金の髪、金の瞳の明るい女の子。ルードは赤い髪、青い瞳のしっかりした男の子だ。今日はどうしたのだろう。いつもは僕が二人を呼んだときに一緒に勉強をする。でも、僕はまだ二人を呼んでないはずだ。朝一番は彼らも仕事があり、そちらを優先しなきゃいけない。何かあるのだろうか。少し不安だ。
「おはようございます、ハーディパスト君。お加減はいかがですか?顔色が優れないようですね。」
ストック先生は背が高く、全体的に細長い。髪が白くて、お爺さんといえるくらいの見た目なのに、姿勢が良かった。
先程まで椅子に座って何か二人と話をしていたようだが、僕が室内に入ると立ち上がり、優雅な仕草で挨拶をした。いつもきっちりとした服装をしていて、何でもよく知っている。
「おはようございます、先生。体調は悪くありません。ですがー」
僕は不安の原因を探しながら、先生にどうやって伝えようか考えつつ言葉を続ける。
「今朝は、ヴァンスだけでした。いつもは乳母が来るのに。朝食の時も、彼女は居ませんでした。でも、ライラはここに居ます。乳母がお休みの時もありますが、その時はライラだってお休みでしょう。あと、上手く言えないのですが、ヴァンスの様子もいつもと違うように感じて…。」
先生になら…伝わったかな?それとも、小さな子のような説明になってしまったことを指摘されてしまうだろうか。
「ハーディ君は、とてもよく周りを見ていらっしゃいますね。」
大丈夫だった。褒めてもらえた。なんとか伝わったようだ。
「いつもと様子が違うようだと気付けるということは、とても大切なことです。」
先生は僕を座らせ、続いて先程先生と同時に立ち上がっていたライラ達に座るようにと指示をしながら話を続ける。
「例えば、料理を運んでくるメイドの様子がいつもと違うことに気付く。その料理には毒が入っている可能性がうまれます。疑うことができるのです。貴方は毒殺をされずに済みます。疑うことが良いことという意味ではありませんが…少し、難しいでしょうか?」
分からない。もうちょっと例えを工夫してほしかったな。食事が出来なくなりそうだ。
「先生、メイドの様子が違うからと言って、毒が入っているとは限らないと思います。ただ、お腹が痛かったり、頭が痛かったりするだけかもしれません。または、機嫌が悪いだけとか。僕は家の者がそんなことをするなんて、考えたこともない。」
「その通りです。ハーディ君は賢くて優しい。そうですね…確かに、毒は大げさでしたか。」先生は少し笑った。
「私が言いたかったのは、何か些細な変化を感じ取ることで、次の予想ができ、予想に対する対策ができるということです。貴方は体調の悪いメイドの持ってきた料理をお召し上がりになりますか?」
食べないな。感染る病気なら困る。それに、ヴァンスがメイドを休みにするからそもそもそんなこと起きないだろう。あれ、ちょっと待てよ。何の話をしていたんだ?ヴァンスの様子がおかしいという話をしていたんだ。あと、乳母が居ないという話。
「うちの執事と乳母を疑え、ということですか?」
「ほっほっほ。今回はそういうことではありませんから、安心してください。」
ああ、良かった。ヴァンスだって乳母だって、僕にとっては居なくてはいけない人だ。疑うことなどできない。たぶん、あまり知らない父様よりも。
「では、先生は理由をご存じだということですね。」
「ええ。おそらくは、この国の者ならば殆どの者が知っている事かもしれませんね。今日はとても大事な話になります。なので、ライラとルードを呼びました。よろしいですか?」
僕は頷く。
「まずはこの国について、お話しましょう。」
ストック先生が語ったのは僕も知っている事から始まった。
この国は6つの地域からできていること、大昔に統一戦争があって、ひとつの国になったこと、僕の住む地域に王様の居城があるのは、統一戦争の時に勝利した国だからだということだった。
僕は王様も城も見たことは無い。ここは田舎で、お城までは遠いから当然なのだけど。
今の王様は54代目。この国は統一されてから250年続く大国家だ。統一前から数えると1500年くらい続いている。
僕はこの屋敷にある書庫で歴史の本を読むことが好きでよく覚えている。たしか、隣国のうちの一つは270年前に出来たばかりの新しい国だ。統一戦争から逃れた人々が築いた国。
しかし、ミクの国はもっと長いから、向こうの方が大国家なのかもしれないな。ミクは僕だというのに歴史が苦手で、はっきりとは分からないが2000年以上経っているようだ。ミクの国では王様が変わるときに一年から数えていくから、どの王が何年国を治めたか分かるようになっている。おもしろいな。
いや、今はこの国の話だ。6つの地域にはそれぞれ領主がいる。元々はどの地域も小国や小民族だったのでその時の国主や族長がそのまま領主をしているところもあるが、国主が最後まで抵抗を続けた結果殺されてしまったり、戦争に負けた責任を取らされて、死刑になったところもある。そういう地域では、新しく領主を立てることもあるが、勝戦国――つまりこの国の王族が領主として立つ。もっと細かい歴史もあるが、だいたいがこんな感じだ。
僕はそれを聞きながら、なかなか不安の答えを見つけられずにいた。それとこれとどう繋がるのだろう。
「ハーディ君、君にはお父様がどの様なお仕事をされているのかお話しましたか?」
先生は突然僕に質問をした。
「父様は、国の重要なお仕事をされていると聞きました。」
「そうです。王、6人の領主、軍事長、3人の大臣で、この国は動いています。お父様は3大臣のお一人でございます。」
そうだったのか。はっきりと教えてもらったのは初めてかもしれない。大臣が何をしている人なのかは分からないが。
「お父様は、お若いのにとても素晴らしい才能がある方です。ですが、3大臣になられてからというもの、なかなかこちらに来て頂けなくなり、さみしい思いをされておりますね。」
さみしい思いをしていなくもないが、居ないのが当たり前なのでそれほどでもない。でも、そうか。国の仕事をしているから来ないのか。
「では、お母様についてはお話しましたか?」
母様は知らない。会ったこともない。僕には母が居ないのだと思っていた。
「母様が、いるのですか?」
そう質問を返すと、先生は少し悲しそうな顔をしていた。あまりにも変な質問だったのかもしれない。どんな生き物も母親がいなくては子供は産まれないのだ。
「申し訳ありません。お話しなかった私の責任でございます。少し辛いお話せねばなりません。」
そういうことではないらしい。僕はそれほど母のことに興味を持ったことがなかったので、初めて知る母のことにドキドキした。僕の母様。なぜ僕は今まで気にしたこともなかったのだろう。
「お母様は、ご存命でございます。お母様はこの国にはおられません。隣国トルネニアにいらっしゃるのです。」
トルネニアはさきほどの270年前にできたという国だ。僕は母に捨てられたのか。これはこれで衝撃の事実だ。
「トルネニアは我がルスターシ国とは表向きは友好的な関係ですが、建国以来、難しい関係が続いております。ハーディ君が産まれたばかりの頃、国境付近にてある事件が起こりました。」
トルネニアはこの国ルスターシから東にある。東の国境で起こった出来事はあまり広く知られていない事件のようだ。ルスターシ国皇太子が国境付近にて、トルネニアの貴族に傷を負わせたという。皇太子はそのままトルネニアに拘束されてしまった。
「皇太子様はルスターシ領の領主様なので、国境に不穏な動きありとの知らせを受け、国境へ様子を見に行かれました。隣国の罠でした。国王陛下は皇太子様の身柄を解放するため、皇太子様の妹姫をトルネニアに差し出されました。…他に方法がなかったのです。そして、そのお方こそお母様です。」
わからなくなってしまった。話に気持ちがついていけない。国と国の関係の話をしていたはず。急に母様が出てきた。
国の話もたくさん質問をしたかったけれど、母様のことが出てきて、質問がわからなくなってしまった。代わりに一つだけはっきりした。
「僕の母様は王女様だったのですか?」
「はい。」
「お爺様は国王陛下?」
「その通りです。」
驚いた。僕は唐突に自分が何者なのかを知らされた。王様の血は流れていても、今は大臣の息子なのだから、王族とは違うだろうと思う。少し誇らしいと思ったけれど、よく考えると怖くてたまらない。母様は隣の国の人質にされてしまったということだ。なぜ母様なのだろう。僕は母に捨てられたわけではなかった。しかし、その血を持って生まれたというだけで、僕もそうやって他の国へ人質にされたりするのだろうか。大きな話が急に身近な人の話となって危険が身近に感じる。
先生はさらに続けた。
「そして、この度、国王陛下がご病気のため皇太子殿下へ譲位されることが国中に伝えられました。これは先程ライラとルードにもはなしましたね。」
気持ちが置いてきぼりだけど、しっかりしなくては。
王様が代わるということ。それは大騒ぎになるだろう。色々と変わるのかもしれない。それで、大人たちは様子がおかしかったのか。ヴァンスや乳母や他の大人たちはそのための準備で忙しいから様子がおかしかったのだ。それは分かったけれど、僕は、この家は、何が変わるのだろう。これからなにが起こるのだろう。
「先生、すみません。分からなくなってしまいました。えっと、父様のお仕事が大臣で、母様は隣国にいて、お祖父様の国王陛下が退位される。その3つのことが繋がりません。」
頭では理解しようとしているのに、気持ちの整理もつかなくて、僕は素直にそう言った。
「ハーディパスト君、突然のことで、驚かせてしまいましたね。結論を急がず、お聞きください。ここからが大切なお話になります。ライラもルードも。いいですか。皇太子様が王におなりになるにあたって、いくつか心配しなくてはならないことがあります。」
予想することで、対策をすることができる。そういう話に繋がるのかな?
「お父様は隣国トルネニアとつながりがあるという噂が流れているようです。誰が流した噂なのか、国王が代わる時に国外追放や死刑になるだろうと。お母様については、トルネニア国内で我が国の暗殺部隊に殺されるはずだという者も。もしかしたら、貴方の身も危険なことに巻き込まれてしまうかもしれません。ライラとルードはハーディ君に何かあればすぐに知らせて下さい。このようなお話を貴方にしなくてはいけないのはとても辛いです。ただ、今は歴史の節目にあるのだと、何が起こるのか分からない状況であるとだけ理解しておいて欲しいのですよ。」
何でだ。何で王様が代わるとうちの父様と母様が殺されてしまうんだ。僕に分かるのは王様が変わるのは良くないことなのだということだ。これからとても恐ろしいことが起きる。だが、なせだろう。先生は落ち着いている。
「辛い話をしました。まだ、これから10歳になろうというあなたにこの国の運命は大きすぎます。出来るならば、無関係であって欲しかった。」
「…。」
「王はすぐに代わるわけではありません。お父様やお母様のことも無事を信じております。そのうちまた詳しくお話しましょう。」
先生はそう言って、午前の授業を終えた。
そのあと、昼食を取り、午後からは剣術と乗馬をした。僕の気持ちは落ち着かなくて、剣術も乗馬も上手く出来なかった。父様はどんな気持ちだろう。母様はどんな方だろう。僕に会いたいと思ってくれているのだろうか。いつまでもいつまでも考えは尽きずに、その日はなかなか眠れなかった。
三、
気分は最悪。私は重い話を考えながら一日を過ごすことになるじゃない!向こうの世界で聞いた話が頭の中でぐるぐるしていて、私は体は疲れていないはずなのにその日一日のやる気をなくしていた。あの淡い栗色の髪と緑の瞳を持つ少年は、相当めんどうな立場だった。お爺ちゃんが王様?父親と母親が殺されるかもしれない?そんな脅すような言い方しなくても。私には関係ないのに……私には…関係ないよね?
なくないか…今だってこんなに影響されてる。
「おはよう。未来。どうした?具合悪いの??」
クラスメイトに声をかけられて、適当に手を振っておく。その日の授業はあまり身に入らなかった。が、国語の授業で先生が自分の旅行の話を始めて、旅行にからめてフランス革命の話まで行ったときに、思った。先生に聞いてみよう。向こうの先生も話してくれる感じだったけど、私――未来とハーディの関係が何か見えるかもしれない。。終業ベルと同時に先生を探して職員室まで行く。職員室の入り口で、一度躊躇。何て言えばいいのかな…。授業の質問じゃないし…。………う~ん。あ。本の話にしよう!
先生を呼び出すと、先生はすぐに来てくれた。国語の先生はまだ20代の男の先生で、女子からも男子からも人気がある。すぐ脱線して授業が止まるけど、先生の話は面白い。旅行が好きで、歴史に関係する建物を実際に見に行くのが趣味だと話していた。
「先生、授業とはあまり関係ないんだけど、この前、読んだ本に理解できないことがあって、聞きたいんですけど。」
「なに?田邉、なんか難しい本読んでるの?俺がわかる範囲なら答えるよ。」
先生は、生徒に気安い感じで話をしてくれる。でも、ちゃんと先生として教えてくれることは教えてくれるからそこがみんなに人気なんだろうなぁ。
「ある国の王様が引退するの。それは病気のためなんだけど…そうすると、その国の人はどうなるの?」
「え?突然何?どこの国?それはその国状況によるよ。僕は社会の先生じゃないから、全部の国について覚えてないしなぁ…。」
「違う違う。歴史の本じゃなくて物語の話です。」
先走って、質問が滅茶苦茶だった。私は自分なりに向こうの世界のことを先生に話した。全部ってわけにはいかなかったけど。
「…で、何で王さまが代わると大臣が殺されなくちゃならないのかわからないんです。」
「…なるほどなぁ。…この国でもそうだけど、大臣になりたい人はたくさんいるんだよ。TVで政治家の事件とかよくやってるだろう?あれと同じじゃないか?」
「?」
「つまり、新しい王様に変わるときに混乱が起こる。その隙をついて、次に大臣になりたい人が、今の大臣に都合の悪いことを宣伝して辞めさせようとするんだよ。自分の方が新しい王様にとって価値のある人間だと認めさせようとしてね。相手を蹴落として、自分がのしあがる為に。」
「あー。でも、先生、それって殺されなきゃいけないほどなのかな?」
「まぁ、その辺は物語だしなぁ。そういうものだって思ってもいいんじゃないか?」
そういうものだって、そんな簡単なことじゃないでしょ。
「あと、大臣の奥さんが本当は王女様で、隣の国の人質になってるでしょ?何で王女様は自分の国の人に暗殺されちゃうの?」
「それは…ちょっと難しいなぁ。もう少し読み進めてみたら、きっと理由が出てくるだろうと思うけど。俺の予想としては、その国の新しい王様の足かせになるからじゃないかなぁ…。王女様の命は何か交換条件で隣の国に渡されたものだろう?それは今の王様との約束だからね。王様が代わったときに隣の国に弱味を握られたままだと、新しい王様は隣の国との交渉に負けてしまうかもしれないんだよ。国のための犠牲っていうのかなぁ…。うん。もし、俺が書いた本なら、きっと王女様は喜んで死んでいくんだ。少しでも国の役にたてるならって。悲しい物語だね…。……?…なんかゴメン?」
悲しい?私は悔しい!自分の妹に何てひどいことを!自分の身代わりになってくれた妹を国のお荷物になるからって殺すの??お母様があまりにもかわいそう!お母様は産まれたばかりの子供を置いて、人質になったのに!
と、先生が心配そうにこっちの顔を見ている。あれ。私、泣いてるのかな。
「…そんなにいい本なんだね。政治の勉強にもなりそうだし、今度俺にも教えてよ。」
「すいません。ありがとうございました!」
私は急に恥ずかしくなって、無理矢理に終わらせようとお礼を言うと走って教室に帰ってきた。走ったお陰で少し気が晴れたような気がする。何で私、あんなに怒ったのかな。
「あー!未来!今日は部活??」
教室に入るとクラスメイトに声をかけられて、何となくその輪に加わる。3、4人で雑誌を囲んで放課後のおしゃべりタイムらしい。
「今から行くよ。ちょっと先生に質問しに行ってたんだ。」
「お。未来ちゃん、勉強熱心じゃん!」
「違うよ~。」
軽いお喋りは助かる。きっと考え始めたら、またイライラしちゃう。
「未来、今みんなにも話そうかと思ったんだけど、このカフェ知ってる?」
クラスメイトの一人が雑誌の一部を指差した。
「何?バトラー喫茶??執事?」
「そうそう!この近くらしいよ~。ほら!駅前通りのところ。イケメンの外国人お兄さんが『いらっしゃいませマイプリンセス。』って迎えてくれるらしいよ~。それで、お姫さま抱っことかしてくれるんだって!!」
指差した女の子が得意げに話していると、その隣から他の子も話に乗ってきた。
「それ、昨日の朝TVでも紹介されてた!私見たよ。」
「メイド喫茶の男版ってこと?」
「キャー!お姫さま抱っこって!」
いやいや、何それ。執事はそんなことしないでしょ。彼は忙しいんだから。だいたい、そんなに若くてチャラチャラした執事がどこにいるのよ。さっきのイライラとは違うイライラ。
「執事って、そのお屋敷のことをする人でしょ?お屋敷で必要な食費とか修理代とかのお金の管理とか、雇われている人の管理とか、主人の予定の管理とか、掃除が行き届いてるかとか…」
「夢がないなぁ~。」
「現実的過ぎるよ。」
「執事の仕事に詳しすぎじゃない?」
「えー!ひょっとして、未来お嬢様だったりしてー!実は家に執事がいるんでしょ??」
私がムキになっていることに気がついた時には、脳内で、30代半ばのバトラーが灰色の目をこちらに向けて苦笑していた。しまった。ヤバイ。逃げよう。
「そんな訳ないじゃん。ちょっと本に書いてあっただけ。じゃぁ、私、部活行くから、またね!」
部活帰り、陽葵ちゃんと帰りながら、頭の片隅で今日の先生との会話やクラスメイトとの会話を思い返すと失敗したかもしれないと考えていた。
私、今日は向こうの世界寄りだった。向こうのお母様のことで悔しくなって泣いたり、執事の仕事をムキになって訂正したり…。明日、クラスメイトに何か言われるかなぁ。女子中学生が執事の仕事に詳しいって、明らかにおかしいよね。
「はぁ。」
「どうしたの未来ちゃん?」
「陽葵ちゃん、私って変なのかなぁ。」
「未来ちゃんは変だよ~。」
「えぇ??」
「あははっ!冗談だよ~。面白いこといっぱい知ってて、スゴいと思うよ。たくさんいろんな本を読んでるからだよね。」
「も~!ヒドイ!…でも、ありがとう。陽葵ちゃん大好き~!」
それからは、その日の部活の話をして家に帰った。来週、ついに選抜メンバーの発表だ。まだマトモに吹けない私はきっと無理だ。小さい頃から習っていたピアノもそんなに上手くならなかった。上達しないうちに5年生で辞めてしまった。人一倍不器用なんだよね、私。
自分の部屋で一人になると、急に不安が襲ってきた。私はいつからこんなに向こうと繋がってしまったんだっけ?いつか、私は向こうの世界に取り込まれてしまうってことないよね?
私は昔、眼鏡っ子だった。小児弱視というやつで、みんなより視力が弱かった。5歳くらいの時、裸眼で素早く目を動かしたときに変な黒い影が見えるようになった。私だけが見えているとは思わなくて、お化けなんじゃないかと思っていた。大きくなるにつれて目は良くなって、影は見えなくなったけど、目を閉じているときに何か見えるようになってきたと思う。それで小学校の2、3年生くらいの時ジャングルジムから落ちて、頭を打ち、少しの間意識を失ったらしい。あんまり覚えてないけど。その頃から、向こうの世界をはっきりと見るようになったんだったと思う。親とか友達に話してみたけど、子供の空想だと思って取り合ってもらえなかった。小学校の時、嘘つき呼ばわりされて、いじめられたこともある。だけど嘘じゃない。夢の中の自分も大きくなっていく。
私はもうひとつ人生を持っている。もし、向こうの私ーハーディお坊ちゃんに何かあったら私はどうなってしまうのかなぁ。今日の国語の授業で、先生はフランス革命の時、王族は皆殺しだったとか言ってなかったけ?内乱だけじゃなくて、隣の国との戦争があるかどうかもわからないし。大袈裟に言っただけかもしれないけど…。日本は平和だから、戦争とかそういうことはわからない。戦争になったり、ハーディ一家は全員反逆罪で皆殺し何てことにならないといいけど。ハーディが死ぬときは私の意識はどうなるの。怖い。部活の選抜メンバーどころの話じゃないわ。
ふと時計を見ると今8時過ぎ。少し考えすぎかな。宿題はやらなきゃね。こっちの世界にはこっちの生活があるんだから、こっちを精一杯やらなきゃいけない。よし、少し大丈夫。私は数学の宿題に取りかかった。
次の日は朝一番体育の授業だった。拳より少し大きな玉を投げられて、打って走る。アウト!みんなに注目されて恥ずかしい。私自身を見ているんじゃなくて、ゲームの進行を見ているだけっていうのはわかってるんだけどね。野球もやったことないし、ソフトボールなんて出来ないよ。初めてだもん。と、ここで攻守交代。
「田邉、外野ね。」
「はーい。」
「未来、お嬢だから、当たらないようにもっと遠くにいた方がいいよ~。」
「だから、違うって!」
いじられた。セカンドベースを守るのは昨日の女の子だ。とはいえ、クラスの男子に外野と言われて、その通りにする。みんな下手だから、こっちには飛んでこない。良かった。
「?!…危ない!」
焦点を定めず、辺りを見ていた時、セカンドを守る女の子の方に何か黒い棒のようなものが飛んできたように見えた。思わず叫んでしまったけど、勘違いだった。と思った瞬間、私が叫んだと同時に打ち返されていたボールが彼女のこめかみに当たった。え?今のなに?
「大丈夫??」と口々に女の子に駆け寄るクラスメイト。彼女は先生と保健室に消えた。
「田邉、なんか言わなかった?」
「あ。うん。何でもない。」
クラスの男子が私の声を聞いていたらしい。なんだったんだろう。予知能力!とかだったらすごくない?ちょっと漫画読みすぎかな。その男子は何か言いたそうにしていたけど、何も言わないでキャッチボールを始めた。
その後、特に変わったこともなく、授業が終わり、部活はミーティングのみだった。
音楽室に着くと、なんだか騒がしかった。騒がしさの原因はミーティングが始まって、すぐに分かった。コンクールの出演順が決まったらしい。あと、選抜メンバーじゃない人も練習や合奏は一緒にやり、メンバーに何かあったときはいつでも代役が出来るようにしておかなくてはいけないといった内容だった。いつの間にか、夏制服でも耐えられないくらいの暑さになっていた。今日はミーティングで良かった。音楽室は涼しいもん。運動部はかわいそうに。
「あ。」
ふと、音楽室の窓から陸上部の練習が見えた。ここからは校庭が見渡せる。朝の体育の時に見たあの何かが飛んでくるのもまた《・・》見えてしまった。直後、走っていた陸上部員が派手に転んだ。足首の捻挫のようで、すぐに足を冷やす。他に怪我はないようだ。考えたくないけど、全く同じように見えた。
その日の帰り。
「未来ちゃん、朝の体育で何かあったの?」
「え?」
驚いた。陽葵ちゃんは私が何か変なものが見えてることに気づいてる??
「朝、なんか外が騒がしかったから何かあったのかなって。」
さすがに、違うよね。ビックリした。確かに少し騒がしかったし、教室は2階だから、校庭の声も聞こえる。
「そうそう!ソフトボールやってて、一人の子に当たっちゃったんだ!しかも、顔!」
「えー!かわいそう。」
でも、隠す必要もないし、話が出たついでに陽葵ちゃんに相談してみよう!
「…それでね。私、彼女にボールが当たる直前に何か別のものが当たるのが見えたような気がしたんだ。」
「別のもの?」
「黒い尖ったもの?はっきり見えたんじゃなくて、影みたいな。」
「未来ちゃん、昔から不思議だよね。」
「やっぱり、変だよね。…実はさっきもミーティング中に陸上部の人が怪我する瞬間、同じことが起きたんだ。」
「えー!それって、怪我する前の予兆が見えるってこと?」
「どうかなぁ。気のせいかもしれないけど。」
「それって、例の昔の、小学生の時のやつに似てない?」
「?」
陽葵ちゃんには、あまり隠し事はしない。だから、モヤの時も、夢の時も、今日のことも話す。でも、考えてみたらずっと話し続けてる訳じゃなかったから、今も私が異世界トリップをしているとは思ってないみたい。
「あぁ…うん。」
曖昧な返事になってしまった。
「あっ!未来ちゃんゴメンね。変なこと言っちゃって。あの時もいっぱい悩んでたのに…。気にしなくて大丈夫だよ!疲れてるだけかもしれないでしょ?コンクール近いし!」
「ありがとう。そうだね、気のせいかもしれないしね。そうそう、コンクールと言えば…」
それ以降、その事は忘れてしまっていた。
四、
この鈍い頭痛の正体はわかっている。戻ってきたな。
ここルスターシはニホンほど時間の管理がされていない。時を告げるのはキキョウの役目。キキョウは鳥の名前だ。ニホンでは花の名前らしい。どんな花かはよくわからない。キキョウの羽の色は朝は黒に近い紺色で、昼になるとエメラルドグリーン、夕方になるにつれてまた色が濃くなる。先生の話では朝と夕方は体温を上げるために光を吸収しやすい色に、昼間は光を吸収しにくい色になるという。今はちょうど緑と青の中間くらいか。少しゆっくり寝てしまった。
しかし、ミクの先生に聞いた話は本当だろうか。所詮こちらとは別世界、当てはまらないことの方が多いはずだ。物の名前も、人の名前も、髪の色や目の色も違う。国や制度も違うし、動物や食べ物だって違う。僕が―ミクが知らないだけかもしれないが、雌雄が別れているのはイチョウという木だけだ。向こうの木は番井にならない。なぜ、一本で実が成るのか不思議だ。それほどまでに違う世界。
「お早う御座います。ハーディパスト様。お加減はいかがですか?」
「おはようございます。ヴァンス、僕はまた熱を?」
ヴァンスの表情は瞳に出る。僕を心配するとき、怒っているとき、哀しい時も茶色い瞳がグレーに見える。
「ええ。左様で御座います。」
「この体はどうにかならないかな…。」
「お医者様をお呼びしますか?」
僕の独り言にヴァンスは丁寧に答えてくれた。
「いえ、大丈夫。」
「体調が優れないようでしたら、お休みなさって下さい。今日はお客様がいらっしゃいますが、先方にお伝えして、後日に致しましょう。」
お客さま…、そうだ。父様に?僕に?どなただろうか。時々、こうやってお客さまが来る。大抵は大人だ。本当なら父様に会いに来たのではないかと思う。そして、なんとなくの会話をして帰る。会話の内容はいつも覚えていない。僕の体調のことや、ここでの暮らしのことだったと思うが、内容の無い会話だ。
「いいえ。ヴァンス。僕は大丈夫です。お客さまをお迎えする準備をしてください。」
「かしこまりました。」
僕がサッと立ち上がると、ヴァンスは準備に向かい、入れ替わるようにメイドが来た。朝食を取り、書庫にいこうと思いダイニングルームとは真逆の二階一番奥へ向かう。
お客さまは昼食後のティータイムに来るらしい。家の中が騒々しい。いや。音もしなければ、人の姿も見えない。だが、雰囲気が騒々しい。以前、ヴァンスに聞いたところによると、彼らは主人に仕事中の姿を見せてはいけないらしい。気が変わった。僕が家でうろうろしていたら困るだろうから、外に散歩に出かける事にした。
一旦部屋に戻り、ヴァンスを呼ぶ。
「ヴァンス。僕は厩舎の方に行きます。お客さまが来たら、人を寄越して下さい。」
「…お供致します。」
忙しくはないのだろうか。
僕は屋敷を出るときに何度かメイドの姿を見かけたが、彼女たちは何もしていなかったようにサッと端に寄り、壁と一体化する。僕も彼女達がいることに気づかない振りをする。これがマナーなのだ。ニホンのメイドも執事もおかしい。
厩舎までは庭園を通りすぎ、裏の小路を通り抜け、しばらく柵沿いに進む。牧場の真ん中を突っ切る道を通り、厩舎着くのだ。散歩をするのにいい距離だ。ヴァンスを伴い、庭園のなかに虫がいないか目だけで探しながら歩く。触ると怒られてしまうから、目だけだ。本当は捕まえて、よく見たい。でも、今一緒にいるのは庭師の息子ルードじゃなくて、執事のヴァンス。諦めよう。そうだ。聞かなくてはいけないことがあったな。
「ヴァンス。乳母を見ましたか?」
「お気にかけて頂きありがとうございます。彼女は元々王城にて優秀な侍女をしておりました。ただいま、そちらに行っております。本日中に戻る予定です。」
「そうか。わかりました。…それは、危険な用事ですか?」
「ご心配には及びません。ご配慮頂き、彼女も幸せでしょう。」
彼は嘘をつかないから、きっと大丈夫だろう。今、青い花のところに青黒い虫がいたな。いままで見た中で一番大きいかもしれない。早く捕まえないといなくなってしまうのに。帰ったらすぐにルードに話して捕まえてもらおう。
庭園を通り抜け、木で隠された道を行く。
「今日のお客さまはどのような方ですか?」
これから来るお客さまの事を何も知らない事にようやく思い至る。失礼があったら大変だ。僕は子供だけど、父様の代わりなら大人のようにしっかりお客さまをお迎えするんだ。
「本日のお客様は、ハーディ様もお喜びになるかと思います。」
「もしかして…ボルス卿?!」
ヴァンスの言葉に思わず大きな声を出して彼の方を振り返った。彼は穏やかな笑顔で、頷く。
ボルス卿は父様の友人で、とても楽しい方だ。楽しいお話と、王都の珍しいお土産をもって来てくれるのだ。以前、父様は忙しいから僕の様子を父様に伝えるために来てくれていると話してくれた。他のお客さまとは全然違う。今回は父様代わりじゃなくて、僕のお客さまだった。楽しみだ。早く来てくれないかな。
小路を抜け、草原の中の柵の道を進む。ここはいつも動物と草の匂いがする。右側の柵の奥に森が見える。ここから森の木に向かって弓矢を射ても全く当たらない位の距離だ。この森はどこまで続いているのだろう。あの中にも、行ってみたいな。逆に左側の柵の向こうはすべて草原。
ふと、森の方で何か動くのが見えた。
「ヴァンス!」
執事の方を振り向くと、彼も同じモノを見たようだ。
「ハーディ様、厩舎の館まで走れますか?」
僕は森に動くものの姿を確認せず、とにかく走った。館は厩舎に隣接していて、小さな家みたいなものだ。あそこまで行けば安全だ。それにしても、こんなに遠かったか?いつも乗馬の練習のときはもっと近かったのに!やっとの思いで館に着くと、すぐ後ろからヴァンスも来る。他は何も見えない。息が苦しい。心臓がドクドクと音をたてた。
「中の方へ!」
ヴァンスが叫び、馬小屋から鞭を取るとドアを閉められてしまった。
僕は奥に進み、エントランスホールを抜け、いつも休憩をする部屋に入った。ここには壁に剣がかけられている。僕も少しは剣が使える。人とも動物とも戦ったことはないが、何とかするしかない。いつでも剣が手に届く場所へ移動しながら、息をひそめる。胸が締め付けられるような気がする。どのくらいの時間がたったのだろう。ヴァンスは大丈夫だろうか。見に行くべきだろうか。
と、表のエントランスドアが音をたてた。その軋む音が僕の身をますます竦み上がらせる。息が止まりそうだ。
隠れるか、戦うか。敵か?ヴァンスか?僕は必至に考えて、考えて――――動けなかった。
「ハーディ様?!ご無事ですか」
しかし、ドアの方からしたのは、ヴァンスの声。良かった。
「ここです。」
声をかけるとすぐに来た。
「ああ、良かった。ご無事でしたか。」
彼は安心した声を出してティールームへ入ってきたが、彼の姿を見た僕は叫びそうになる。
「血が!!」
「このような姿で申し訳ありません。」
蒼い顔で入ってきた彼の右胸から脇にかけて赤黒い血が張り付いている。
「すぐに手当てを!」
僕が駆け寄って傷口を見る前に、彼は僕を手振りで制した。近付くと血の生臭い錆びた匂いがしてクラクラする。思わず片手で鼻と口を抑えた。
「ご心配には及びません。また、すぐに危険はないと思われます。これは、私の血液ではありません。メイドのアリシャが木の実を集めているときに何かに襲われたようで、本来ならこのようなお願いを申し上げるべきではないのですが、アリシャの治療のため館を使わせて頂くことをお許しいただけますか。」
「当たり前です!僕も手伝います。彼女はどこに?」
アリシャはホールにいた。入ってすぐの壁に手をついて凭れている。部屋中が血の匂いでいっぱいになっていて、香りのついたハンカチで抑えているはずの口の中まで鉄の味がした。うっ。吐きそうだ。
彼女の傷は見てすぐに分かった。左のこめかみに黒い爪かキバのようなものが刺さっている。獣に襲われたのだ。
「あぁ、このような…申し訳…ありません…」
アリシャが僕らの姿を見て頭を下げようとする。
「アリシャ、長椅子に掛けなさい。ハーディ様はお許しくださいました。主人に心配をかけさせるのですか。」
ヴァンスはティールームから長椅子を持ってきていた。
「僕は人を呼んできます。」
何も出来ない僕は召使いが普段いるバックヤードと呼ばれる空間に向かった。簡易的なキッチンの先、入るのは初めてだが、向かうドアは一つ。
「誰か!」
厩番とメイドが向かおうとしたドアから急いで出てくる。
「どうなさいましたか?!」
「アリシャが!傷の手当てを!何かに襲われて!」
「お坊っちゃんはこちらでお待ちを。湯を沸かします。」
メイドが湯を沸かし、厩番が応急措置の道具を取りに行き、手に箱を持って現れるとすぐにホールに向かう。
一先ず、応急措置を終えてお医者さまを呼んだ。命に別状はない。僕は何も出来なかったが。
ヴァンスが彼女から聞いた話では、木の実を取りに森へ行き、夢中になって集めていたら黒い大きな獣に襲われたという。姿はちゃんと見えなかったと言っていた。こめかみに刺さっていたのは獣の爪であり、深くはなかったため失明はしないとお医者さまが話してくれた。
ちょうど、お医者さまが帰るとき、入れ替わりに来客があった。
「ボルス様!こちらにまで来ていただいて、すみません。」
「ハーディパスト、家に居ないので驚いたよ。何かあったようだね。」
「ボルス様、僕は初めて獣に襲われるのを見ました。何をしていいのか分からず、何も出来ませんでした。」
今あったことをボルス卿に話した。話しをしていくうちに僕は泣いていた。男でも、我慢できないときがあるんだ。いつもなら泣かない。今日はしょうがないじゃないか。本当に怖かったんだ。
「君が無事で良かった。この家の執事は優秀だね。ハーディパスト、君もよく頑張った。」
メイドが昼食をとり損ねてしまった僕に、軽食を作ってくれた。お腹は空いていたが、あまり食べる気はわかなかった。
ボルス卿は僕が落ち着くのを待ってくれていた。
「お話中、失礼致します。殿下、お話が。」
ボルス卿の従者が入ってきて、何か耳打ちする。
「…そうか、分かった。」
従者に向かって頷くと、僕に向かって笑顔を向ける。
「ハーディパスト、獣の心配はもう大丈夫なようだ。帰ろう。」
家に戻り、仕切り直しとなった。
夕食後にボルス卿とゆっくりと話すことができた。彼は王都の様子、父様からのお土産とボルス卿からのお土産、それにまつわる話をしてくれた。僕は楽しい時間を過ごした。でも、ふと気になって、聞いてみた。
「ボルス様、獣の心配はいらないとは?」
「ああ、獣は私の従者が倒したよ。普通の獣ではなかったようだ。だけど、私の従者は強いからね。少し苦戦したようだが、もう心配はいらないよ。」
従者の人がドアの横でお辞儀をする。手首と足首に包帯が巻かれているようだが何でもないようだ。格好いい。僕は逃げて、隠れて、震えてただけだ。僕も強くなりたい。
「ありがとうございます。ボルス様がいなければ、この屋敷はまだ不安の毎日になっていたと思います。」
「君がそんなに気にすることではないよ。私にも責任があるしね。」
「責任、というのは?」
「君は陛下が退位される話を聞いたかな?」
「はい。ご病気だとか。」
「表向きはね。でも、実は違う。この国は国王が守っている。それは王族の血に宿る力が関係しているんだ。」
「守る…?」
「文字通り、王が土地を守る。年に5回、各分節の折に祭りが開かれるね。あれは土地を治める儀式さ。王が行わなければ、獣が狂い、土地が渇き、大水が来るという。」
「獣が…狂い。今日の…?!」
「その通り。王の血族のみが使える力さ。君にもある。私にもね。」
僕と…ボルス様にも?なんの話だろうか。ボルス卿は王族らしいな。親戚になるのかな。
「僕に王の血族のちから?」
「そう、当たり前だろう?君だって、君の母上だって王の血族さ。母上は…その力のために隣国に捕らわれてしまっている。私の代わりにね。」
「…。」
「父王は力が弱くなっている。国を治めきれていない。それは病ではないが、原因は不明だ。だから、父上は私に王位を譲るとおっしゃった。」
『私に王位を譲る』と言いましたね、殿下。
王族の力とやらは、弱くなるものなのか。
「国王陛下…お爺様。そうだったのですね。」
それにしても、殿下はああ言っていたが僕も何か力があるのだろうか。実感はないし、出来ると思わない。
「その力というのはどういうものなのでしょう?王の血族ならば必ず使えるものなのですか?」
「力の正体は分からない。しかし、国を治める儀式を止めると、確実に国は荒れる。王族以外がしてもダメだ。女よりも男の方が力が強い。女は初潮をむかえたり、子を産むと力が無くなることが多い。妹のように例外もあるがな。君の母上は女性でも力が強く、君を産んだ後も力が無くならなかった。しかし、皮肉なことに父王は王になった時には既に力があまり強くなかった。本来なら、私がすべき事だ。故に私にも責任がある。」
ボルス卿は悲しそうに僕を見る。
「私も、実はここに居たことがあるのだ。君が産まれる前、ここで陛下を助け、儀式をしていたのだ。同じだね。」
彼は少し笑った。それは違う。同じじゃない。
「あの…ボルス様、僕は出来ません。僕は力が何か分かりません。使ったことがないので、使えないのだと思います。」
がっかりさせてしまっただろうか。僕だってガッカリだ。ついさっき強くなりたいと思ったところなのだ。だが、体も弱く、自分ではなにも出来ない役立たずだ。ボルス卿は驚いた顔をしてこちらを見ている。でも、悔しいけど、本当に役立たずなんだ。
「君はまさか本当に気付いていない…?風節の祭に君は風節の剣舞を踊るだろう?」
年に一度、僕は自分の産まれた風節の祭の時、ルスターシ領の祭壇の前に舞台を作り、そこで剣舞を披露する。ミクのピアノの発表会のようなものだ。
「あれは、僕の生誕祭だと思っていました。」
「そうか。力のことは、王族とごく近しい者しか知らない。各代の王の力の強さが違うことで、王族の信用を無くさないようにと、他国から利用されるのを防ぐためだ。それに本来なら、剣舞は王しかしてはならない儀式だからね。表向きは祭りの余興だと言っているようだ。実際、あの祭壇は父上の負担を軽くするために作られた祭壇なのだ。」
もうすぐ風節の祭だ。僕は10歳になる。ボルス卿はこの事を伝えに来たのかもしれない。ボルス卿は父様のご友人というだけではなかった。皇太子様で、僕の叔父様だった。
「ボルス様、僕は実は最近まで王族の血が流れていると知りませんでした。貴方が皇太子様なのは今、知りました。何も知らない、体も弱く、力の無い子供でした。今でもそれは変わりませんが、もう少ししっかりしなくてはと思います。」
「ははっ!ハーディパストはとてもしっかりしてるよ。体が弱いのは、力を使うからだろう。体が辛いのは季節の変わり目じゃないか?それに、知らないことは悪いことじゃない。これから学べばいいだけさ。」
その通りだ。そして、風の祭の後は特に身体を壊す。毎年、何日も動けないほどに。寒くなる気候についていけない体が僕は大嫌いだった。それも、理由があったのか。
気を取り直すように明るく、少しいたずらっぽく彼は笑った。
「あとは、もう少し洞察力を養えるといいね。私の名はヴォルティスパスト・フォン・ストリシア・ルスターシャ。ここの領主だよ。」
僕は愚か者だな。ここ、ルスターシ領の領主の名は誰もが知っている。ヴォルティス・ストリシア卿と呼ばれていて、皇太子様である。ボルス様はヴォルス様であることに今まで気がつかなかった。それと、母様でなければならない理由はあった。僕はどうやら、隠れ住んでいる状態になっているのだ。血と力のせいで。
五、
ダルい。でも、今日はそれほど辛くない。頭も痛いけどね。私は少し気分が良かった。自分は特別だって言ってもらったみたいで。私じゃなくて、私の中のお坊っちゃんのことか。あのボルス様は王子様だった!カッコいい!顔とかじゃなくて、性格も。いや、顔も素敵だけどね。
でも、誰にも自慢出来ない。いやいや、そうじゃなくて。私最近、向こうの世界に入り込みすぎだなぁ。
今日は土曜日だから、午前中は部活。午後は遊びに行く。
まずは教室でそれぞれ楽器ごとのパートで合わせてから、音楽室に集合して合奏。パート練が終わって教室から音楽室に移動するときに、陸上部の先輩の声が聞こえてきた。
「足、なんでもなくて良かった。私、千夏ちゃんの手に思いっきり当たってコケたでしょ?足より手首の方が痛いよ。」
「ごめんねー。」
「並走してたらよくあることじゃん。むしろ私が当たったから完全に自爆っていうのよ。」
あー。昨日部室から見たやつ。ここは3年生の教室だから、昨日怪我したのは3年生だったんだ。
なんともなくて良かった。少し気になって、通りすぎるときにチラッと見た。右手の包帯が一瞬見えたけど、ジロジロ見るわけにはいかないからそのままスルー。早くしない先輩達に置いていかれそう。
部活が終わり、家に帰ってから公園集合。アイスを近くのコンビニで買って食べながら、陸上部の先輩の無事を報告した。
「で、通りすぎるときに、手首に包帯巻いてあったのは見えたけど、普通に歩いてたみたいだったよ。」
「へぇー。何ともなくて良かったね。未来ちゃん、変な予知できるとか言ってたから、ひどい怪我とかだったら責任感じちゃうじゃん?」
「同じクラスのあの子もあのあと授業受けてたし。」
そこで私は、あることに気が付いた。同じくらいの時間。怪我の場所。同じだわ。偶然かな。
「アリシャ。」
「え?」
「あ。何でもない。」
それから、一緒に本屋さんに行き、好きな本の最新刊が出てないかチェック。もう一度公園に戻って解散がいつものコース。
「トランペットのパートリーダーの亮介先輩、格好いいよね。」
「そうかな?私はオーボエの優斗先輩のほうがハーフっぽくてかっこいいと思う。」
「未来ちゃん、面食い!優斗先輩、一番人気で望みないじゃん!」
望みって、付き合うとかそういう話してないじゃん。私も優しいのは亮介先輩のほうが優しいとおもってるよ?話しやすいし、面倒見いいし。ソロのときの真剣な顔と、冗談言って笑ってる時の顔が見られるのは同じパートの特権だもん。
「いいなぁ。私もトランペットにすれば良かった。」
「陽葵ちゃん、お母さんのフルートがあるから、それでいいやって決めちゃうんだもん。ビックリしたよ~。」
どうでもいいおしゃべり。もう今の時間は小さい子がいないから、ブランコを占領しての恋愛トークだ。ここからは公園の外がよく見えるんだよね。他の場所は木があるのに、そこだけ出入り口だから互い違いになった柵があるだけ。私は話ながらぼーっと眺めていた。
車が通り過ぎる。信号が変わる。人が渡る。また車が走り出す。
と、次の瞬間。信号が変わる直前、急いでいたサラリーマンが待ちきれず走り出す。黒い車が止まりきれない。茶色い何かが飛んできた。ドゴッという音をたてて、男性は車にぶつかった。
「!!」
あまりのことに私も陽葵ちゃんも声が出ない。信じられない。事故。初めて見たよ。
車のドライバーさんが降りてきて、警察や消防に連絡した。
轢かれた男性は通行人によって公園のベンチへ寝かされていた。助けてくれた通行人に何か話している。意識があるみたいだ。流血もスプラッタもないし、会話ができてるみたいだから、大丈夫そう。
茶色い何かは気のせいかな。やな予感。これがあれで、間違いないならきっとあれだ。
「じゃあ、帰ろうか」
「またね」
憂鬱な気持ちで家に帰った。
六、
今日は僕は外には出ない。朝から気分が悪い。血の匂いがまだ残っているような気がした。昨日のアリシャの光景、ミクの中で見た事故。ここ数日間のうちにどれ程のことがあったのだろう。ミクの中で出た結論。こちらの世界とあちらの世界は繋がっている。もし、昨日のアリシャとボルス卿の従者、ミクのクラスメイトと陸上部の先輩がそれぞれ同じ時間だったとしたら。
ぼーっとする頭をなんとか振り切り、突然誰かに伝えなくてはと思った。
「ヴァンス!」
ベルを鳴らし、執事を呼ぶ。
「お呼びでございますか?」
「もう、ボルス様はお帰りになりましたか?」
「いいえ。客間にいらっしゃいます。ハーディ様、何かお飲物をお持ちしますか?」
「ボルス様のお部屋にお願いします。」
僕はあまりお客さまの前に出るには良くないと分かっていたけれど、普段の服のまま客間に急いだ。
ノックをして声をかけると、中から二人の男性の声が返ってきた。
この声は!
「失礼します。ボルス様と…父様!」
「!!もう大丈夫かい?」
父様は僕を見ると駆け寄って抱き上げた。ボルス卿の前で恥ずかしい。
「父様、お止めください。僕はそんなに小さくありません。」
急いで抗議する。思い止まってくれたみたいだ。父様は僕を抱きしめて、すぐに解放してくれた。
「挨拶が遅くなりすみません。父様はいつお戻りに?」
「いや、先程だよ。」
父様とボルス様がお二人とも僕の所に!何年ぶりだろう!父様、やっぱり来ていただけると嬉しい。生きている。無事で良かった。恥ずかしさが大きくて止めてもらったけれど、本当は少し抱っこしてもらいたかった。…いや、そんなことはないぞ。僕は小さな子供じゃない。何を考えているんだ。
「お父上には、いつも国外との関係を善くして頂いてるのでね。とても素晴らしい手腕だ。この国は平和でいられるよ。」
「ヴォルス殿下、息子の前で社交辞令はやめてもれえますかな?」
軽く笑いあう二人。今のはお互いに冗談だったのだろうか。何が面白かったのかわからない。二人の邪魔をしているようで、居心地が悪い。
「あの…僕は失礼させていただきます。」
ここは空気を読んで部屋に戻るとするか。思い付きで行動しなければ良かった。ちゃんとヴァンスに話を通してもらうべきだったな。
「そのようなことを言うようになったか。大きくなったな。しかし、体は細すぎるようだ。ヴァンスに言って食事を改善させなくては。あと、父に気を使うな。何か用事があったのでは?」
「はい、父様。父様がそう言って下さるなら。」
気を使ったというより、本当は僕は父様と話すのが少し苦手なのだ。何を話せばいいのか分からない。それにここはボルス卿のお部屋だ。ボルス卿に気を使わせてしまうし、長時間お部屋にいるのも失礼にあたるのではないのかな。場所を変える方がよさそうだ。
「ボルス様、父様、場所を変えてもいいですか?」
部屋をリビングルームに移し、その隙に僕はガウンを取りに行った。火の季節の終わり、こうやって時々肌寒い日があるのだ。いつもなら誰かに頼むが、今日はお二人の話の邪魔になってはいけないような気がした。
「…話したよ。彼は自覚がないみたいだった。年に5回行うはずの儀式を1回で、それも1本で治めているというのに。」
「それではあの子が一人で治めているみたいな言い方だな。」
リビングルームに戻ると僕の話をしているようだった。気まずいな。またやってしまった。考えなく部屋に入ってしまったけど一声かけるべきだった。マナーは難しい。
「お話中に失礼します。お待たせしてしまいました。」
「ああ。今日は少し肌寒いからね。今、君の話をお父上に話していたんだ。」
「…はい。」
なんと答えていいのだろう。どうやって話を始めたらいい?大人の話の中に入るのは苦手だ。二人とも、僕を一人の大人として話をしようとしてくれているのに。とても緊張していて頭が働かない。
「何か、話があるのだったかな?私に?父上に?」
「そうです。あの…お二人に…」
僕が話を切り出せないでいるとボルス卿が助けてくれた。ボルス卿も父様もきっと僕のことを僕よりも知っているから、二人に話そうと思った。
「あの、僕は…どうやら普通ではないようです。」
僕は今まで誰にも話さなかったもうひとつの世界のことを二人に話した。
「それで、向こうで先に事故が起こるのです。向こうの僕はほんの一瞬、こちらの世界で起こることが影のように見えます。そのあと、すぐに向こうの世界で本当の事故が起こるのです。」
二人はとても難しい顔をしていた。
「本日の夕刻に何か起こると思います。」
僕は本当に伝えたかったことをやっと伝えることができた。
しかし、二人の顔色は変わらず難しい表情のままだ。
「何か、分かることはあるか?ヴォルス卿」
「いや。そんな話は聞いたことがない。もしかしたら過去にあったのかもしれないが、私の知る限りは。カルナス卿、私はこれから起こることが真実であると見届け次第王都へいく。次国へ発つのを少し遅らせてはもらえないだろうか。ルスターシ領を頼む。」
「わかった。」
「あの。僕はどうすればいいのですか。」
大人はいつもこうだ。僕には今の会話でボルス卿が王都へ行くことと、父様がルスターシ領に残ることしかわからなかった。
「お前はこれから風節の儀がある。今年は早めに執り行うことが決まった。12日後だ。時間があまりないが、準備をしてくれ。それと、今日の話は誰にも話してはいけない。ヴォルス卿は何かお前に繋がる事がないか調べに王都にいく。しかし、今ルスターシ領はご少し危険があってな。領主が不在であることも知られてはいけない。お前に何かあっては大変なのだ。」
「わかりました。」
こういう時の父様は少し怖い。しっかりと理解する前に頷いてしまう。僕は風節の祭りの準備をする。僕の夢の世界の話は誰にもしない。ボルス卿がルスターシ領からいなくなるという話も誰にもしない。よし。たくさんやることがあるような気がしていたけど、思っていたほどないな。
「お父上は、君の身を案じているのだよ。」
大丈夫です。分かっていますボルス様。『何かあっては大変』のことを言っているのだろう。父様は国のことを考えて言っのだ。きっと僕でもそう思うだろう。でも、そういうところが本当に格好のいい方だ。ちゃんと僕の気持ちをフォローしてくれる。だから僕は風節お祭りを成功させる。僕はしっかりと頷いた。
何か起こるのを恐れていては何にもできないというので、その後三人で遠乗りに出かけた。実際にはもっとたくさんの大人がいたが。昨日の今日で、僕も同じ道を通り厩舎へ行くのが怖かった。でも、今日はたくさん人がいてくれたので不安は消えていた。始めは父様が僕を乗せるつもりだったようだが、僕はいつもの相棒に一人で乗った。二人は驚いていたが、とても嬉しそうにしてくれていて、少し誇らしかった。
遠乗りは家の近くの小川の源流である川を渡り、小高い丘の上まで来た。僕は細かい指示を出さなくてはけない馬術は苦手だが、こうやって何も考えず馬に乗るのはとても気持ちがよかった。季節の終わりを予感させる気温、顔に受ける風は冷たかったが、馬の体温が暖かかった。
僕はすっかり忘れていた。遠乗りの帰り、馬で川を渡っていたときの事だ。
川は行きの時よりも水量が多かった。水の匂いが深く、雨が降ったわけではないのに涼しく感じた。いつもの場所では馬で渡ることができないため、少し遠回りして帰る事になった。
本来は人が歩いて渡ることができるほど浅く、僕が入ると腿くらいの深さしかない。川幅はそこそこ広い。僕が知っている木の橋は水面から少し高い所にあるはずだったが、それが今は、溢れた水に濡れていた。僕たちは慎重に渡る。全員が無事に渡り終えたと思った。
「うわぁ!」
最後の従者の一人が馬を降り、引くようにして渡っていたとき、突然橋が崩れ馬とともに流されてしまった。急いで、馬から降りて駆け寄ろうとする。一瞬だった。まさかこんな。今渡ったとき橋はしっかりしていた。姿はもう見えない。どこにも、見えない。
予想はできていたはずだ。茶色いものが当たるイメージ。落ちる瞬間の像が交通事故と完全に重なる。こういうことだったのか!悔しい!!本当にすっかり忘れていたのだ。大人の仲間入りができたと調子に乗って!なんで!なんで!!なんで!!!
「あぁ!ごめんなさい!!僕は知っていたのに!助けられなかった!!」
悔しくて、情けなくて、空しい。結局何もできなかった!向こうではこんなに大きな事故ではなかったから、大丈夫だろうと思っていた。始めて目の前で人が死ぬのを見た。常にこちら側の怪我のほうが大きかったじゃないか。
「違う。違うよ、ハーディパスト!私たちも助けられなかった。」
ボルス卿が僕を抱きとめる。父様も僕の頭を撫でながら川を見た。
「それにしても…川がこんなに溢れたのは初めてだ。」
七、
私はすっかり恐くなっていた。こんな、意味の分からない力いらない。他の世界と繋がる力。事故を予知する力。私、普通の中学生だよ?私が言うのも変だけど、ハーディくんはとっても理解力があって、小学生くらいなのにしっかりしてると思うよ?ただ、だからと言って立て続けに何件も事故を目撃したら凹むよ。だって、向こうで3つ、こっちで3つ。しかも最後のやつは人が死んだ。私も彼も数日間は重い気持ちを引きずっていた。
それから何日も特に何もない日が続いた。コンクールの選抜メンバーには、思った通り選ばれなかったけど、一年生の半分は撰ばれないもんね。結構頑張ったんだけどなぁ。でも、先輩達のサポートをするんだ。それに急に出られなくなったときのサブだもん。練習はしっかりしておかなきゃ。もしかしたら、上手くなれば、レギュラー交代なんてこともあるかもしれないし!
メンバーが決まってから一週間、毎日、本当に何もなかった。何度か向こうと入れ替わったけど、ハーディ君も剣舞の練習と衣装合わせで毎日忙しく過ごしていた。ボルス殿下は次の日に王都へ行き、ハーディパパは領主舘へ行ってしまった。
「ねえ!大変!!」
教室で次の授業の準備をしていると、陽葵ちゃんが慌てた様子で入ってきた。
「どうしたの??」
「亮介先輩、コンクール出られないかもって!」
「え??!!どういうこと?」
「詳しいことは分からないんだけど、火傷で大ケガしたみたい!」
…うそ。
「先輩、今日は来てる?」
「分からないよ。あたしも友達から聞いた話だもん。」
あの亮介先輩が。やだ!泣きそう。大丈夫かなぁ。学校来れたのかな。入院とかしてないといいけど。すぐに顔を見たくなった。
「ねぇ、昼休み先輩のところに行ってみよう!」
「先輩クラスどこだっけ?」
「3B!」
昼休み、お弁当を食べてすぐに陽葵ちゃんと3Bへ向かった。先輩は学校に来ていた。良かった。…じゃないよ!先輩は右手の中指から肩口まで包帯を巻いていて、とても痛々しかった。親指と人差し指は使えるが、トランペットは吹けそうにない。
「先輩!大丈夫ですか?!」
「ミクちゃんとひまちゃんじゃん。一年生の方までもう聞いてるんだ?」
「ビックリしましたよ~。」
「俺、やっちゃったね。そんなにヒドイ訳じゃないんだけど、コンクールまでに間に合うかなぁ…。」
十分大ケガですよ。包帯ぐるぐる巻きで、苦い顔をしている先輩。怪我の痛さよりも、コンクールに出られない事の方がツラいっていう顔。
「何があったんですか?」
「いや、ちょっと袖に引火してさ。」
説明になってないけど、まぁそうなんだ。
「ミクちゃんさ、たぶんレギュラーに入ってもらうと思う。大倉が俺のところ吹くから、そのまま繰り上がりで、サードに入ってもらおうと思うんだ。」
「でも、先輩!先輩は出なきゃダメだと思います!私は何でもやるから、早く治して下さい!」
「ありがとう~。じゃぁ、頑張ろうな♪」
その日の練習で、先生から私の繰り上がり当選が発表された。複雑過ぎてリアクション出来ない。
その日から特訓だった。亮介先輩もなるべく部活に来てくれて、私の事を見てくれた。予想外にもこれはラッキー。みんなが合奏中でも、私と先輩は二人で教室に行き特別練習をする。
「口が疲れてるのは分かるんだけど、締め方をもう少し一定にするんだよ。そうするともっとしっかりした音が出るから。」
先輩はとっても丁寧に教えてくれる。口の形や構え方なども直してくれた。優し過ぎる。私、ドキドキしてそれどころじゃないんですけど。
「ごめんな。俺がヘマしなきゃ、こんなに大変な練習させなくて済んだのに。一年生は口が固まってないから、曲を吹くだけで大変なんだ。」
ふと、先輩がそんなことを言った。申し訳なさそうな悔しいような顔。責任感強すぎ。この人格好よすぎでしょ。胸が苦しくて息が出来なくなっちゃうよ。
その後合奏に合流、合奏中にも先輩の顔を思い出して、酸欠と戦いながら演奏した。
その日は帰ってからも、ずっと先輩のことを考えていた。
八、
僕は体中が恥ずかしさで、熱くなった。ミクに引きずられて、ドキドキする。僕に戻ったのにどうしてくれるんだ。アイツの何がいいのか分からない。アイツだってミクのことなんか考えちゃいないんだ。自分が悪いことをしたから責任を取ろうとしているだけじゃないか。…冷静にならなきゃダメだ。僕にはやることがある。
僕は毎日、勉強と剣舞の練習とに打ち込んでいた。今年は父様が居てくれる。それだけで、いつもとは違う。
新たな発見もあった。剣舞は本来なら2本の剣を使うらしい。父様の話ではその剣は特殊な鉱物から作られていて、2本で一対の王家の秘宝らしかった。僕が使うのはそのうちの一本ということだそうだ。今年は新しい型の剣舞をすることになった。10歳になるからな。いつか、国王陛下の舞も見てみたい。きっと、ボルス興がヴォルス国王陛下になったら、僕は剣舞を踊らなくなる。そうすると、今年が最後になるかもしれない。その時は首都に行って、ボルス陛下のそばで見させてもらえないかな。
気がかりが一つある。未だに乳母が戻らないこと。
父様が家に戻った時に一緒に戻る予定だったようだが、結局戻ってこなかった。ヴァンスに聞いてみても分からないと言っていた。心配はしているが、行き先は王都だ。あちらは今、忙しいのかもな。
とにかく、風節の祭を終わらせれば、狂った獣に襲われたり、川が氾濫して流される事がしばらくはなくなるんだ。これを成功させることが、僕に出来る一番のこと。今までは何も考えなかった。そんなに責任の重い事だと知らなかった。今は違う。やらなきゃいけない。僕にしか出来ない。
風の季節は風が強い。そのままだな。だが、ただ強いだけなら風の季節とは言わない。毎日、強い風が吹くのだ。晴れていても、雨が降っていても。
明日に迫った風節の儀。今日はここから半日かかるルスターシ領の祭壇へ行く。いよいよだ。
祭壇は地下にある。外から見ると神殿というのか祠というのか、あまり大きな建物ではない。ミクの世界で言うところの神社くらいの大きさだろうか。その見た目は全く神社ではないけれど。白石のレンガで作られた涙型の建物というのがしっくりくる。涙型の頂点にあたる部分が石の階段になっていて、降りていった奥は洞窟だな。昔はこの階段の下に行くのが怖かった。後ろを閉められて、閉じ込められる想像を何度もした。
「ハーディ様、少し出ませんか?」
「ライラ!」
ライラはメイド修業中だ。だから、みんなの前ではこういう態度になるが、小さい頃からの幼なじみだ。ちょっと可笑しい。
祭壇の下見も済んで、今日の夜からは僕は誰にも会えなくなってしまうから、毎年ライラとルードが来て、祭の雰囲気を楽しむんだ。いつもは厳しいみんなも、今日は見逃してくれる。この街の子供になったみたいで楽しい。
「ルードは?」
「今年はダメだったみたい。私たち二人ね。」
街は祭の装飾で溢れていて、飲食店では店の前にテーブルを出し、雑貨店では祭の装飾を売り切るのに必死だ。
僕たちは、前日からやっている出店や広場で行われている器楽演奏を見て回った。器楽演奏に合わせて誰かが踊りだすといつの間にかその中に入って踊り、あっという間に時間が過ぎてしまった。
「ハーディ、そろそろ戻らないと!」
「え?早いなぁ。もう少し遊びたかったよ。」
「明日はあなたが主役でしょ?あなたの踊り、とっても綺麗なんだから、失敗しないように頑張ってね!」
「僕はいつも失敗なんてしないよ。」
幼なじみとの楽しい時間はすぐに終わってしまう。
神殿へ戻ると、待ち構えていた大人たちに囲まれて、ライラもすぐにメイドの顔に戻ってしまった。この瞬間は寂しいな。
「ハーディ様。いってらっしゃいませ。」
「ライラ、ありがとう。」
大人達の隙をついてライラがにかっと笑う。全く、見られてたら大変だよ。しかし、その顔を見たら僕は元気が出た。彼女の金髪が残像となって、大人の波に消えていった。
その後、僕は神殿に入り冷たい水で体を拭いて、真新しい装束に着替えると、トムというニホンで言うところの餅のような食べ物を食べる。動物が使われた食事は出来ない。明日が終わるまで。
神殿には香が焚かれている。この香の香りは眠くなる。体がふわふわしてくるような香りだ。
その後、神殿から誰もいなくなり、僕は剣を取りに行く。祭壇の洞窟には僕しか入ってはいけない。
祭壇は決して大きなものでも、豪奢なものでもない。石畳を進んで奥へ行くと、石で作られた白い祭壇に剣が突き立ててある。本来なら王都にあるはずの半分の祭壇。いったい誰がどうやって運んだのだろうか。この石の祭壇も特殊な鉱物とかいうものなのか。
洞窟内は暗かったが、洞窟の内側に光るコケがびっしりと生えていて、目が慣れるととても神秘的な空間になっている。そして、いつもひんやりとした空気が流れていて、土と水とコケの匂いがした。
剣は半分ほど石の中にあり、小さいときは引き抜くのが大変だった。剣は少し婉曲していて、ニホンではサーベルというのだったか、それを細くしたような形をしていた。僕とヴォルス殿下だけがこの剣を引き抜くのにコツがいることを知っている。「同じだね。」と言った彼の言葉を思いだし、嬉しくて、少し笑った。奥に向かって少し押しながら引き抜くと簡単に抜けた。腰につけられた鞘に納める。
僕は来た道を戻り階段を上がると、そのまま神殿の中で夜を明かすのだ。
神殿の中央に石の寝台がありそこで寝なくてはいけないが、僕はこれが大嫌いだった。棺桶みたいだ。敷布や毛布があるが、それでも石の感触が硬くて冷たい。寝られるように作っていない。そもそも寝台だと言い張っているだけの石の塊だ。他に寝られる場所がないから寝るが、本当なら明日に備えて気持ちよく寝るべきだと思うぞ。
次の日、神殿の中ではいつ朝になったのか分からないが、人の声で目が覚めた。少しの食事と飲み物をもらったが、緊張して喉を通らない。剣舞が行われるのは、朝と夕刻。
風節の祭りの開始を告げる鐘が鳴る。僕は舞台へ向かった。
朝の剣舞は剣を鞘ごと使う。そして、とても短い。型どおりに動き、人々の中にライラを見つけた。僕はライラに少し笑って、最後まで踊った。父様がいなかったように思ったが、もしかしたら中央広場の方へいっているのだろうか。朝の舞はいつもそれほど人も多くない。
「お疲れ様でございました。」
白い服を着た知らない女の人に声をかけられる。
「お水をもらえますか?」
「こちらにご用意しております。」
「ありがとうございます。」
短いやり取り。長時間話していなかったためか、息が上がっていたためか、緊張していたからなのか、声が震えてしまった。情けないな。
夕刻の舞は祭りが最高潮のとき。辺りが薄暗くなってきて、燈火に灯がともる。炎に照らされた舞台とその後ろにある神殿がオレンジ色に染まり揺れている。ここからが本当に本番だ。最後だとしたら精一杯やるだけだ。
僕が舞台の中央に立つと楽団の音が始まる。僕はひとつ深呼吸をする。
するり剣を抜いた。音楽が、徐々に速度を上げていく。音に合わせて少しずつ速く、大きく、流れるように動き続ける。水が流れを止めないように、剣の流れを止めてはいけない。剣技の型を円を描くように舞台を端から端まで使って、舞う。今日は調子がいいな。体が軽い。
風が強い。遮るもののない舞台の上、吹き抜ける風が僕の髪を巻き上げる。炎が大きく揺れ動く影が見え、まるで炎までが踊っているようだ。
笛の音が聞こえる。太鼓の音も。
いつの間にか、僕の中には音楽しかなかった。周りは見えない。とにかく夢中で、曲と一体になっていた。
揺れる景色。色。光。光。光――――。
ふと気づくと曲がやんで、あたりは真っ暗になっていた。上がる息と人々の歓声。人々の顔もよく見えない。燈火の灯も少し減らされたのか、とても暗い。しかし、その中で手に持つ宝剣だけが青白く輝き、強い光を放っていた。頭が痛い。ボーっとする。最後までやり遂げなくては。
僕は光る宝剣を抜き身のまま神殿へ捧げ持ち、神殿の中に入ると、石の階段を降り、祭壇へと突き立てる。
そこで剣は一際大きく光を放ち…――。スローモーションのように流れる景色が光に飲み込まれるのを最後に僕は意識を失った。
九、
「うわぁぁぁ!」
私は驚いて飛び起きた。私―ハーディ君、今年はかなり気合い入ってたからね。ふふ。あの様子だと暫くは入れ替わりがなさそう。まさか、気絶するとは思わなかった。
やりきった感はすごくあった。きっと祭は大成功だったに違いない!あんなに、踊れるとは思わなかった。最高に気持ち良かった。ハーディのパパやライラちゃんとか、みんなも見てくれたかな。あんな感覚は初めてだ。やっぱりハーディ君はスゴい!えへへ。自画自賛。
と、突然、私は吐き気を覚えて、トイレにかけ込んだ。
時間は朝の5時。なんだこれ。気持ち悪い。お腹も痛いし。乗り物酔い?今日の頭痛は頭がグラグラするやつだ。乗り物なんて乗ってないけど。
まぁ、風邪かな…?
「未来?どうしたの??」
お母さんが心配して起きてきた。心配かけてごめんなさい。
「おかぁさぁん…今日は学校お休みするよ」
「大丈夫?風邪引いたんじゃない?熱測ってみる?」
「んー。とりあえず、寝る。学校に連絡しておいて」
今日は今の季節にピッタリの土砂降り。梅雨って何でこうじめじめしてるんだろう。せめてピカピカに晴れてくれたら、もうちょっと気分が良くなるのになぁ。
「何か食べたいものある?」
「んー。今はいらない。」
私は水だけ飲んで、もう一度ベッドに戻った。
もう一度目が覚めた時、お昼過ぎになっていた。
お母さんはパートに出掛けていない。
キッチンにお粥とおにぎりとメモがあった。朝ごはんとお昼ごはんらしい。私はお腹がすいていたから、両方食べてしまった。
手持ち無沙汰になって、TVを点ける。
ちょうどお昼のニュースがやっていた。今日の雨は過去最高らしい。川のような道路が映し出される。そのなかを人が膝まで水に浸かりながら歩いていた。下に流れるテロップには死傷者数が書かれている。
「うわぁ。雨、ヤバい。」
思わず独り言を言って、少し恥ずかしくなる。誰もいないか。
いつの間にか頭痛は治まっていた。お腹は痛かったが、朝よりは気分もいい。
自分の部屋に戻って、読みかけの小説でも読もうかな。なんか、ちょっとだけずる休みをした気分。
ベッドに寝転がり、小説を読もうとして、ふとハーディの様子がおかしかったことに気が付く。
なんか…取り憑かれたように踊っていた。手元の小説は平安調の恋愛小説。そのジャケットイラストは白い水干を着た男の子が笛を構えている。今までは発表会みたいなものだと思っていて、皇太子があれは儀式だと言うまで気が付かなかった。あれは儀式だ。しかも、かなりヤバい。
私はハーディ君であると同時に、客観的にも視ることができる。だから分かる。あの香。あの中に一日閉じ込められる。側には誰も居なくなる。あれはきっと何か良くないヤツだ。麻薬とか…?
音楽も、独特のリズムと私の知らない楽器。笛の旋律がやたらと耳に響いた。
剣舞も、今までより長かった。剣を握ると共鳴するみたいに体の中が響いて、感覚がなくなって…。これ、何て言うんだっけ?トリップ…?違う?えっと、ト、ト…―――。
…――トランス―…?
うわっ。怖い。
寒気がした。
子供に、あんなことして、大丈夫なのかな。未来の方には何も問題はないみたい。ハーディ君の体はどうなったんだろう。
「はぁ…」
ため息をついたその時、チャイムが鳴った。
居留守しようかな、と一瞬思ったけど、郵便とか宅配なら受け取ったほうがいいかなと思い直して、玄関に行った。
「はーい。お待たせしましたー。」
「未来ちゃん!良かった!」
「あれ?陽葵ちゃん??」
「今日、4時間授業で、午後は先生たち何かあるから部活休みだよ。
未来ちゃんがお休みするなんて、珍しいから心配で来ちゃったよ。」
「ありがとう。朝はちょっと具合悪かったんだけど、もう大丈夫。」
「最近、ハードだったもんね。これ、お手紙と宿題とノート!」
陽葵ちゃんはお手紙と宿題のプリント、ルーズリーフを渡してくれた。
「すごい助かります!神様だよ、陽葵ちゃん!」
「おおげさ~。」
陽葵ちゃんに会えて元気出た!陽葵ちゃんは「お大事にね」と言って、すぐに帰って行った。
その日の夕飯はお赤飯だった。恥ずかしい。私、大人になりました。
次の日から、私は元気に学校へ行った。実際には腹痛で辛かったけど気持ちは元気。じめじめとした空気が辺りにたちこめて、雨の日も曇りの日もうっとおしかったが、毎日平常営業。まさに平和な日常だった。ここ数日で一番最悪だったのは期末テストの結果が返ってきて、社会の点数に凹んだくらい。社会苦手だし。あんまり興味ないし。社会も物語みたいな教科書にしてくれればもっと面白いのになぁ。
いつの間にか、パタリと雨が降らなくなり、唐突な梅雨明けをして、もうすぐ夏休みだ。
7月の最後の日がコンクール。あともうちょっとだ。そろそろ先輩とのマンツーマン練習もおしまい。あとは毎日合奏。合奏。合奏。でもいいんだ。だって今回先輩と仲良くなれたし、今までよりたくさん話が出来るようになった。
先輩の怪我は全治2~3週間ということだったから、あと1週間くらいで完治するようだ。包帯を肩口まで巻いていたので酷い怪我なのかと思っていたけど、よく話を聞いたら薬指、小指から肘、二の腕の一部分を火傷したと言っていた。今はもう、大き目のガーゼ?を貼っていてそれほど目立たない。私のコンクール出場は決定だったが、やはり亮介先輩がソロの部分だけ吹くこととなった。完治していない指は痛々しく見えたが、誰も寄せ付けない集中力で個人練習をしていた。トランペットパートは怪我人とシロート(私)で部内の不安要素になっているのは気づいていたので始めの基礎練習をほかのパートよりもしっかりとすることで足を引っ張らないように必死だった。
「亮介先輩、私、心配です。」
「?…あ!俺、これでも練習してるから、信用しろよな。もう火傷もほとんど治ってるし。」
勘違いされた。私、こうやってよく通じないことがあるんだよね。
「え…いや…ち、違います!先輩じゃなくて、私が…。」
「大丈夫だよ。未来ちゃん、すごく上手くなったじゃん。俺が鍛えたから当たり前だけどな!」
先輩がくしゃっと笑った。かわいいなぁ。本気なのか冗談なのかわかんないけど、褒められたのはめちゃくちゃうれしい!
「私も頑張ったんですけど。」
「知ってる。だから、大丈夫だよ。頑張ろうぜ!」
やばっ。なにそれ。かっこいい。うーーーー。顔とか赤くなってないかなぁ。胸が苦しい。ドキドキしてるの先輩に聞こえてないよね??
私も笑い返した。けど、変な顔になってなかったかな。笑えたかな。
その日の帰り。
「未来ちゃんさぁ。最近、亮介先輩と仲いいよね。」
う。陽葵ちゃん鋭い。
「そんなことないよ!パートリーダーだもん。一番下手な私のこと心配してくれてるんだよ。」
「あやしー。先輩がそうだとしても、未来ちゃん、先輩のこと好きでしょ?」
「えぇぇ?ちょ、ちょっと!変なこと言わないでよ~!」
「赤くなった!かわいいなぁ、未来ちゃんは~!」
赤くない!それに、きっと先輩は私のこと本当に何も考えていないに決まってる!同じトランペットの仲間として仲良くしてもらってるんだ。だから、これは誰にも言わない。どうせ傷つくもん。
「あーあ。私が先に亮介先輩好きだって言ったのになぁ。」
「だから、本当に!先輩としては…す、好きだよ!でも、お兄ちゃんみたいな感じで、そういう感じじゃないんだって。」
大きい声で何を言ってるんだ私。そのとき、後ろから声がかかった。
「未来ひま!おつかれーーーー!」
同じパートの三年生大倉先輩だった。彼女は背が高く、髪が長く、とっても綺麗なのに男みたいな口調で話す。
「楽しそうで何よりだな。だけど、あんまり大声で騒ぐと亮介にも聞こえるぜ?あいつ、鈍感だから気づかないかも知れないけどな。」
「先輩ー!」
「未来、かわいいからな。あんまり、亮介を傷つけんじゃないぞー。」
言いたいことを言って、長いリーチを生かして手を振りながら歩き去ってしまった。豪快だ。思わずついていきたくなる。かっこいいなぁ。大倉先輩が男だったら、すごいモテるだろうなぁ。今も女の子ファン多いけど。
それにしても、傷つけるってどういう意味?思わず陽葵ちゃんと顔を見合わせてしまった。
そんな楽しい日を毎日過ごしていて気づかなかった。もう、一週間、ハーディになっていない。向こうは向こうで別の意識が入っているのかな。そしたら、私の意識は私だけのものになったってこと?まさか、まだ目が覚めてないとかないよね?それとも――死。
なるべく考えないようにしよう。もし、意識が分かれて、ちゃんとそれぞれの生活をしているならそれでいいんだから。
十、
僕は祭りの後、3、4日意識を失っていた。剣舞のあと、いつまでも祭壇の洞窟から出てこない僕を心配したライラが僕を助けに来てくれた。でも、そのせいでライラはこの街の警邏隊に捕らえられてしまった。洞窟に入ることは絶対に犯してはいけない禁だったのだ。僕が目を覚ました時にはもうライラは投獄された後で、何もすることが出来なかった。僕にもっと体力があれば、こんなことにならなかった。意識を失うなんて。
ライラをなんとか助ける方法はないかな。僕が直接話せば、解放してくれるだろうか。最後に見たライラの笑顔が思い浮かぶ。彼女は今頃どうしているのだろう。辛い思いをしているだろうか。彼女は僕にとっては姉のような存在だった。イタズラ好きで、ちょっとずるくて、色んなところに連れていってくれた。彼女に会いたい。もし、僕が普通の子供で、ライラが僕の姉さんならよかったのに。
ここは領主舘の客間だ。父様が領主代理を務めている。僕はライラがいない喪失感で何もする気が起きなくて、一日ボーっと過ごしていた。
「ハーディお坊ちゃま、失礼いたします。」
誰だろう。こんなときに。
「長い時間、留守をいただきました。また娘が大変ご迷惑をおかけしました。」
乳母!!
彼女はドアの前で決して入ろうとはせずに頭を下げ続けていた。一瞬、僕は彼女に何を言えばいいのか分からなかった。長椅子から降りて、とにかく駆け寄る。
「…戻ったの?!良かった!心配していたんだ!アドリア、大変なんだ。ライラが僕のせいで…」
後半は声が出なかった。アドリアは僕の母親代わりで、お母さんのイメージといえばアドリアだ。会えた安心感と今の不安とライラを投獄させてしまった罪悪感と悔しさと何もかもがごちゃごちゃになって、アドリアに飛びついて泣いてしまった。彼女は僕を思いっきり抱きしめてくれた。暖かかった。いいにおいがする。…?と薬の臭い!?
僕は思わず乳母を離してしまった。
「あぁ、すみません。つい、お会いできたことがうれしくて。お顔を見せてくださいな。少し見ないうちにまた少し面差しが立派になりましたね。子供ではないと分かっておりますが、もう一度だけ抱かしてくださいまし!」
彼女はひとしきり僕を抱きしめたり眺めたりしていた。そして、改めて目を合わせたとき彼女の目には涙が浮かんでいた。
「ナニー、ライラのことはごめんなさい。僕のせいで…。」
「いえ。あの子は自分の意思を持って行動したまでです。ハーディ坊ちゃんの心に病む事ではありません。それどころか、あの子は坊ちゃんをお守りした。よくやってくれました。」
乳母は確か父様と同じくらいの年だったはずだ。なんだか、すこし老けた気がする。
「ナニー、どこへ行っていたの?いつ、もどったの?いろいろあったんだ。」
聞きたいことが山ほどあった。言いたい事も。
僕は小さい子が話すような口調になってしまったことに、恥ずかしくなった。いけない。僕は大人とちゃんと話せるぞ。
「お坊ちゃんに何も言わずに出てしまったこと、後悔しております。私は、元々国王陛下に仕える侍女をしておりました。ライラを身籠ったときに、奥様のご結婚が決まり、ご好意でこちらで働かせていただくことになりました。私も下級貴族の出でございます。兵士をしている夫のためにも、こんないいお話をいただけて本当にありがたかったんです。ですが、国王陛下は奥様ではなく、皇太子殿下の侍女となるように申されました。実際は陛下直々にお話があったわけではありませんから、なぜ私のよな者がそんなにも良くしていただけるのかは分かりませんが、皇太子様にお使えすることとなったのです。」
乳母は僕を部屋の中へ戻し、ガウンを肩からかけると、長椅子に座らせてくれた。長い話になるということか。
「名目上は皇太子様の侍女でしたが、それは仲の良いご兄弟でしたので、こちらのお屋敷にて、実際のところは奥様にお使えしていたのです。国王陛下のお達しに背いて…。…奥様のことをお聞きになりましたか?」
「はい。隣国トルネニアにあると。」
「そうです。その時にお産まれになったばかりの坊ちゃんの面倒を見るように、正式に陛下のお名前でお達しがきました。始めよりそのつもりでしたので、私も喜んでお受けしました。しかし、元々乳母として雇われた身にございます。坊ちゃんが10歳になるころには解雇されてしまいます。そこで、私は坊ちゃんの侍女として働けるようにしていただくため、王都にお願いに行ったのです。長くとも一日、二日で戻るつもりでおりました。主人に会い、実家で待っておりました。しかし、何日過ぎても返信がなく、もう一度、ハーディ様の乳母であると身分を明かして関所へお願いしに参ったのです。ですが、勘違いをされてしまい、そこで捕らわれてしまったのです。」
「それは、僕の名前を出したことが原因なのですか?それなら、アドリアもライラも僕に関わったせいで…。」
「いえ!恐らくは私が昔、国王陛下のお達しに背いたという事が原因だったのでしょう。結局、覆すことはできず、有罪となってしまいました。」
なんだって!?この国の法律はどうなっているのだろう!なんの罪もない人を捕まえて罪を着せるのか…。
「そこへヴォルス殿下がお戻りになりまして、私は救われたのです。」
さすがボルス卿だ。あの方はなんでもできてしまう。次にお会いできたら、お礼を言わなくては。
「あの…その時、怪我を?」
「!?」
「薬の…薬草の臭いがしました。」
「ふふ。坊っちゃんにはかないませんね。実は少し。ご心配には及びませんよ。軽い火傷です。」
「火傷………。」
やけど…どこだったか?聞いたことがあるな。
「見てもいいですか?」
「?…お見せするほどではありませんよ。それにもう治りました。」
「じゃあ、場所は?」
「場所?命に危険のある場所ではありませんよ。それほどまでにお気にかけて下さるなんて、私は嬉しいです。本当にもう大丈夫です。なんてお優しいのでしょう!」
「いえ、そうではなくて…右側の腕のところではないですか?」
「!!…なぜ…それを…?…ヴォルス様から?」
「殿下とはお会いできていません。えっと、その…薬の臭い…その辺りから。もしも、大きい傷ならさっき触ってしまって痛かったのではないかと思って。」
ちょっと苦し紛れだったな。でも、本当に心配だったのもある。何せ、こちらの事故はミクの世界のそれより酷い事が分かっている。
「あぁ!本当にハーディ坊っちゃんは賢い!私の誇りでございます!お疲れのところ私のような者のためにお時間を頂きありがとうございました。今、お茶をお持ちします。ごゆっくりなさって下さい。」
やっぱり。僕の考えは間違っていない。リョウスケセンパイだろうな。時期を計算すると、アドリアが火傷を負った時は風説の祭の前。しかし、火傷?話し合いでは彼女のことを助けられなかったのか。王都の守備は城の兵がやっているはず。ライラのお父さんは城の兵士をしていたはずだ。そんなことがあるのだろうか。今、王都は混乱しているのかな。先生は少し前に、時代の変わり目にあって、何が起こってもおかしくないような話をしていた。それと関係があるのかもしれない。それなら、こちらで起こる事が原因で、ミクの世界に影響して、向こうでも事故になっているのか。
ミクの回りで他にも何か無かっただろうか?ミクと話が出来るなら、僕が気付かないことに気付くことが出来るのかもしれないな。自分との会話なんて、ちょっとおかしいか。
そういえば、何日も意識を失っていたのに、ミクにはならなかった。なんとなく違和感もある。胸騒ぎがする。
こんなに向こうが気になるのは初めてだ。
一度、ボルス殿下に相談したいな。いつ戻られるのだろう。王都へ行こうか。でも、その前にライラを助けなきゃ。
その夜も、僕はミクになることはなかった。
――――――――――――――――――――――――――――――
続