第五幕 Ⅱ
「どっちも苦しいよ!」
繋いでいた心の糸が、切れる。
ハクシャクに投げつけたカバンは、落書きで汚れていた。
マントでそれを防いでいたハクシャクの目は怪訝そうだった。
何でそんな目で僕を見るの?
それもそうか。
だってわかってないんだもん。
何で僕がカバンを投げたか。
何で僕が怒ってるのか。
わかるはずないよね。
妖怪には。
「僕が何でいじめられてるか知ってるの?僕が妖怪の子どもだからだよ!?本当は人間なのに…。やり返すなんて僕にはできない。だって僕は弱いんだもん。父さんたちみたいに強くない。だって人間なんだもん!」
「自分が妖怪の子どもだと、周りに言いふらしたのはお前自身だろう?」
初めて、ここでハクシャクは狼狽えてみせた。
わからないから、狼狽える。
それが、ムカつく。
「全部あんたらの所為じゃないか。妖怪なんかに育てられたから!」
「落ち着け、少年。さっきからお前の発言は全然面白くないぞ?」
ムカつく。
「っあああああ!何なんだよ、その呼び方は!?僕にはちゃんとした名前がある。面白いとか退屈とか、僕はそんな価値観で生きていない!」
「人間がつけた名前に価値なぞない。そのうち、『ちゃんとした』名前を決めるさ。名前を考えるのは、私の楽しみの一つだからな。」
ムカつく
イヤだ。
イヤだ。
イヤだ。
イヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだ。
「…わけがわからないよ。もうイヤだ。何もかもイヤだ。何で父さんは僕を拾ったの?面白そうだったから?今がこんなに苦しいなら、その時のたれ死んだら良かった。いっそ生まれてこなければ良かった。もう、死にたいよ…。」
「そんな…アンタちょっと落ち着いて、」
ドールが二人の間に割って入る。
こいつも、ムカつく。
「あんただって騙してたくせに…!」
突如、ドールの視界が破裂した。
同時に、軽快と言っていいほど高い音が、空気を振動した。
「え…?」
ドールにはすぐにわかった。
自分は殴られたのだ、と。
息子に…少年に殴られたのだと。
フランス人形とはいえ、彼女は妖怪だ。
興奮して体が火照ることがあるほどの妖怪だ。
痛みが彼女の頬を包む。
「いった…。」
「はぁ、はぁ…。やられたから、騙されたから、やり返しただけだよ。」
ぷつん。
ハクシャクの中で何かが切れた。
「…お前、さっき自分は弱い、と言ったよな。」
コツ。
室内にドラキュラの足音が響く。
「ということは今、ドールが自分より弱いと思ったから殴ったわけだな。」
コツ。
ドラキュラは人間に、静かに、確実に近寄る。
「確かにこの世は弱肉強食だと私は教えた。だがお前のその考え方は、クズだ。」
コツ。
「そしてこうも言った。『死にたい』と。だったら、」
コツコツコツ。
「死ぬか?」
「え?、」
「く、っかぁ!」
刹那、ドラキュラは人間の喉仏に喰らいついた。
「う、わ、あ……。」
血液を吸い取る音は、様々な感情の渦の中で、憤りに満ちているように聞こえた。
頬を押さえながら、ドールはドラキュラと人間を引きはがそうとする。
「セバスチャン、アンタも手伝いなさいよ!」
「…わたくしは、この子が死のうがどうしようが、興味ありません。」
久しぶりにしゃべったかと思えばこれだ。
ドールは頭が沸騰しそうになる。
「っ、…~!!いい加減にしなさい、よ!!」
感情を言葉にし、半ば強引ではあるが、ドールは二人を引き離すことに成功した。
「安心しろ、手加減はしてある。」
ハクシャクは口を軽く拭うと囁いた。
「…どんな気分だ、今?怖いか?いいか。私がお前を拾ったのは、お前が言ったように面白そうだと思ったからだ。だが!私は!お前を自ら死を選ぶようなクズに育てたつもりはない!私を失望させるな。私を退屈させるな。怖がるくらいなら、粋がった言葉でしゃべるな!」