名無しの決着
穏やかな朝食の一時の終わりがけの橘家に、チャイムの音が響いた。
食器を洗う手を止めた俺が背後を見ると、杏里姉さんが玄関に向かうところだった。
「(こんな朝に、誰だろうな)」
そんなことを考えながら、洗い終えた食器を拭いていく。
洗い終えたら制服に着替えて、学校だ。
何か用意し忘れた物は無いだろうか。昨日の記憶を思い出そうとしている中で、
──ダンッ!!
日常に似つかわしくもない銃声が、耳を打った。
「ッ!?」
突然の衝撃に、手にしていた皿を取り落としてしまう。
落下した皿は割れ、床に破片を飛び散らせた。
「ちょっと、何の音なのよ!?」
「そんなこと私に言ったって…! でも今の音って…!」
美郷姉さんと優香姉さんが動揺を隠し切れていない様子で顔を見合わせた。
あまりに日常と掛け離れた音が響いた所為だろう。僅かに身を強張らせながら、二人揃って玄関の方を見遣っていた。
音の正体は銃声だと分かっている。だがどうしてそんなものが近くで聞こえたのか、状況を呑み込めていないのだ。
「……杏里姉さんは……?」
木乃香の言葉に、俺は我に返った。
音は玄関の方から聞こえた。
じゃあ玄関に向かった杏里姉さんは今、どうなったのだろうか。
「…ッ!」
状況を知る必要がある。
身体が勝手に動いていた。
「ユ〜君!?」「駄目よ!!」「お兄ちゃん!!」
家族の静止の声も聞かず、俺はリビングを飛び出した。
破片の飛び散る床を越え、部屋を隔てる扉を抜けた先には──
「ぅぅ…っ」
蹲る杏里姉さんと、
「「……」」
その周りに、無言で拳銃を向ける覆面の男達が居た。
「…な、何だよお前達…!?」
複数人の視線に晒され、心臓が跳ねた。
強盗団か。まさか、こんな日本の朝に遭遇するなんて。
どうしてこの家に、杏里姉さんは無事だろうか。
様々な思考が脳裏を駆け巡り、頭痛がする。
「ッ!!」
俺は反射的に腰を探った。
しかし、そこに銃剣なんかあるはずもなく。
動きに反応したのか、数丁の銃口が向けられる。
──ダンッ!
発砲。
数発の弾丸が俺の側を通り、壁に穴を空けた。
「──ッ!?」
一発だけ頬を掠めたのだろう。熱く、鋭い痛みが走った。
頬を撫でると、指先には血が付着していた。
実弾だ。こんな日本の片隅で、一住人がおいそれと持って良い代物ではない。容易く人の命を奪える凶器だ。
「(多勢に無勢……剣も無い……どうする…?)」
銃刀法違反甚だしい不審者を前にしながらも、俺の思考は冷静に回っていた。
不思議と、身体が痛みに慣れていた。
無論感じない訳ではない。この時も激痛が走っている。
しかし夢の中で負ってきた傷の数々に比べれば、これは掠り傷程度でしかない。
「杏里姉さん!? ユ〜君!?」
しかし普通の人にとっては、由々しき事態であることには相違無い。
事態の重大性を察した美郷姉さんが、家に唯一存在する対抗手段を手に、俺の前に飛び出した。
「あ…あんた達ねぇッ!! よりにもよって人の家族に、なんてことするのよ…ッ!!」
「美郷姉さん! それ…!!」
抜き放たれたるは、一振りの日本刀。
橘家に伝わる家宝であり、名を『唐橘』と言う。
家宝ではあるが、特に歴史に名を残すような名刀ではない。ある家にはあるような、世間一般からすれば無銘刀にも等しい一振りだ。登録証にも、「打刀」としか記載されていない。床に落ちた鞘に、紋様なんてものは無い。
しかし、『唐橘』は家宝として伝わっている。先祖が生涯を共にした刀であるとか、そうでないとか──詳細は不明だ。
不明であるが、俺は人生の中で、ここまで美しく魅入られるような一振りを見たことがない。
テレビや雑誌等で他の刀を見る機会はあったが、勝る一振りはなかった。
どうせならどこぞの鑑定団にでも出してみれば良いとは思うのだが、一家の主である父親曰く、「その必要は無い」らしい。人が決めた価値どうこうより、持ち主がどう思っているかが大切なようだ。
つまり、俺がどの刀にも勝る一振りだと思えたのなら、それこそが『唐橘』の価値そのものと言うこと。そこに他者の評価が介在する余地は無い。
何とも、深い言葉だった。俺自身納得している部分はあるため、特に反発しようとは思わない。
兎にも角にも、美郷姉さんが持ち出したのは、かの有名な天下五剣にも勝るとも劣らない一振りだった。
「ユ〜君は離れてて! ここは私が!」
「でも向こうには杏里姉さんが…!」
「分かってるわよ!」
美郷姉さんが素早く刀を構えると、男達に初めての動揺が走った。
「面倒だから」と段位こそは持っていないけど、美郷姉さんの剣技は一流だ。
俺自身一度も勝てた試しがないし、何より気迫が凄まじい。
頼もしい背中ではあったが、それでも引き下がれない理由が俺にはあった。
「でも、杏里姉さんが……」
「‘…優香が恭弥に連絡してくれたから。時間さえ稼げれば……’」
美郷姉さんの言葉に、俺は押し黙る。
恭弥兄さんは警察官だ。兄さんへの連絡は、警察への通報と同義だ。
それに、家族の危機となれば恭弥兄さんは飛んで来るだろう。警察さえ来れば、このあり得ない事態も何とかなるかもしれない。
だが美郷姉さんの表情が晴れないのは、囲まれている杏里姉さんの姿があるからだろう。
美郷姉さんがどれだけ強くても、敵は杏里姉さんの心臓を掴んでいるような状況だ。
迂闊なことをすれば、杏里姉さんは銃殺される。それだけの殺気を、向こうは放っていた。
どうすればこの場を切り抜け、杏里姉さんを救出出来るのか。美郷姉さんも、きっと必死に考えているに違い無い。
俺だってそうだ。時間稼ぎ以外の手段は、本当に無いのか。
いや時間稼ぎをするにも、どう時間稼ぎをするべきか。
場の空気は張り詰めている。一触即発とは、正にこんな空気のことを言うのだろう。
不審者が動かないのは、こちらの様子を窺っているためだ。引鉄一つ、それで俺達の敗北は確定する。そう、様子を窺えるのは、自分達が圧倒的優位に立っていることを自覚しているためだ。
──ドクン。
心臓が、早鐘を打つ。
「(何か…無いのか…ッ)」
俺は打開策を懸命に探した。
「何が目的なの? こんな朝っぱらから人様の家に上がり込んで…ッ!」
美郷姉さんもまた、打開策の袋小路に入っている。
時間を稼ぐしかないのか。他に何か手立ては無いのか。
声音の奥に、探るような色が宿っている。
しかし男達が時間稼ぎを良く思うはずがない。
気付かれないような時間稼ぎのためには、どうすれば良いのか──いや、向こうに多生でも冷静な判断力があれば、何か策を巡らしたところで看破されているも同然だ。
「言いなさいよ、その口は飾りなの?」
「(何か…無いのか…ッ!)」
──ドクン。
心臓が早鐘を打つ。
思考が回る、回る、回る。
しかし思い浮かぶのは、夢の中での手。所謂反則だ。
例えば、障壁で姉さんを守る。
例えば、転移魔法で姉さんをこちらに取り戻す。
例えば──何でも良い。現実にあり得ない現象を起こして、向こうの注意を引き付けられれば、“速度倍化”を俺と姉さんに掛け、発砲される前に片を付けるなんてことが──!!
──ドクン。
心臓が早鐘を打つ。
「(何を考えているんだ…俺はッ!)」
夢のような思考を、すぐさま振り払う。
姉さんを助けつつ男達を退ける魔法のような手段は現実に存在しない。
幾ら何でも、夢に毒され過ぎている。こんな状態で考えるようなことじゃない。
「ただ人の命が目的だなんて、そんな理由じゃないわよね…!!」
──次の瞬間、覆面越しの瞳が、歪に笑った。
彼方に聞こえるサイレンの音。
警察は、まだ遠い。
覆面の男達は、構うものかとばかりに、その場を動く気配は無い。
代わりに杏里姉さんに向けられている銃口の引鉄が、徐々に倒されていく。
「(どうする、どうする──ッ!?)」
──ドクン!
心臓が早鐘を打つ!
「──ッ!!」
俺は、床を蹴っていた。
床に落ちている鞘を拾い上げ、男達に向かって投擲する。
「!?」
男達の視線と、幾つかの銃口が、一斉にこちらを見た。
俺は走り出してしまった。もう、止まれない。
「ユ〜君駄目ッ!!」
銃声が響く。
「づッ!?」
激痛が走り、意識が一瞬にして遠退く。
霞む景色の彼方から、パトカーのサイレンと、姉さん達の悲鳴が聞こえる。
「(駄目…なのか……)」
破れかぶれだった。
どうにもならないことが分かっていても、それでも。
諦めることだけはしたくなかった。
──ダァンッ!!
* * *
気が付けば、俺は暗闇の中に立ち尽くしていた。
「何も無い」
何も聞こえない。
「…何も見えない」
広がるのは虚無と言う名の、闇。
後にも先にも、何も無い。
「…そう…か」
額を撫でる。
最期に走った激痛は、額からだった。
恐らく頭部を撃ち抜かれたのだ。その意味することは──。
「俺…死んだのか」
即死だったに違い無い。
何も守れず、何も出来ずに、死んでしまったのだろう。
「はは…そりゃあ……無いだろ……」
きっと、夢に毒されていたのだ。
どうにかなると、心のどこかで思っていた。
しかし現実は、これだ。どうにもならない。
どうにかしようとしたところで、どうにもならないことだってある。
「…いや、そんなことすら、分かってはいたつもりだ」
ただ俺は、それでも。
それでも、諦めたくなかった。
その結果が、こんな結末だとしても。それでも。
──何故。
どこまでも広がる闇の中で、不意に音が響き渡った。
──何故、諦めなかった。
声だ。
突然の声の主は、眼の前の空間から滲み出るようにして現れた人物。心なしか見覚えがあるような気もする。
どこだったか。夢の中だったような気もするが、現実でも見たことある気がする。
不思議な気配を前に、俺は尋ねていた。
「…質問…か?」
どうしてそんなことを訊かれなければならない。
首を傾げた俺の脳裏に、夢の中での出来事が思い起こされた。
「そう言えば…“運命を覆す覚悟”が俺にあるとか、無いとか…だったか」
随分と陳腐かつ、無駄に仰々しい問い掛けだ。
「…別にどうってことないだろう。諦めたくなかった…それだけだ」
だから俺の答えも、ありきたりで、陳腐な言葉になってしまった。
──戯れのつもりか。
「別にふざけてなんかいない。寧ろ、どうして諦めなければならない」
──其の結果が、「死」だ。其の愚行が、死を招いた。
「…あぁ」
──汝の同胞は、何れも汝の行動を望まなかった。然し汝は臨み、命を散らせた。頼まれた訳でもなく、己が意志で。何故に。
「…そうだな」
どんなに崇高な目的があろうと、人に褒められるような行動であっても、命を落としてしまっては元も子も無い。
それはそうだ。死んだらそれまでであり、何事も命あっての物種だ。
声の言うことは、正しく正論だ。
もし変に歯向かわなければ、他に道があったのかもしれない。
だかそれは仮定だ。どうとでも考えられる。
「それでも、俺は逃げたくなかった。諦めたくなかった。俺があのまま動かなかったら、杏里姉さんが殺されていた。…仮に俺が命を失うのだとしても、もし僅かでも可能性があるのなら、俺は賭けたかったんだ」
あの場で逃げていたら、俺は一生後悔していたと思う。
そして思うんだ。「戦っていれば、どうにかなったのかもしれない」──と。
だが今は、不思議と後悔は無い。
自分の非力さを嘆きたくはなるが、逃げずに戦えた──それで十分だ。
「どうしても退けない戦い…だと思っていたからな」
──遺された者の事は脳裏を過ぎらないのか。
「過りはするさ。こうしている今も、家族のことが心配でならない」
だが、やれることはやった。
やれることはやれたと思う。
「もしあの世で家族に会ったら、平身低頭で謝るさ」
きっと怒られると思うが、心の底から謝れば許してくれる。
そして「何でも言うことを聞く」と言えば、これ幸いとばかりに思うがままに扱われるだろう。
俺の家族は、そんな人達しか居ない。
「だから後悔したくないように、やりたいようにやった。それは、俺の生き方だ」
──其れが、必要とされない行動であっても。
「あぁ、やりたいようにやる。お節介焼きだからな。勿論、時と場合にはよるが、度は考える。今回みたく、どうにも退けない瞬間以外は」
お節介焼きだが、事なかれ主義なのも俺だ。
平和が一番。真面目は…はたして、真面目なのだろうか。
──全て汝の裁量次第だと?
「行動を起こすのは俺だ。俺の人生だ。俺が決めて、何が悪い」
──其の選択が、他者を殺めるのだとしても。
「殺めた覚え…か」
謎の声と言葉を交わすにつれて、俺は不思議な感覚に包まれていた。
ずっと夢だと思っていた出来事が、まるで夢はなかったような──奇妙な現実味を帯び始めた感覚がしていた。
逆に、先程まで現実味を帯びていた日常での非日常が、夢の出来事であるとさえ思っていた。
夢と現実が倒錯──いや、俺が現実だと思っていたことが夢で、夢だと思っていたことが現実と言うのが自然な形だと思いつつあった。
夢だと思っていた全ての出来事が、鮮明に脳裏に思い起こされる。
その中で俺は、確かに人を殺めていた。
「先に手を出したのは向こうだ。やらなければ、こちらがやられていた。俺はフィーを…大切な人を守るために、剣を振るっただけだ」
──綺麗事を。
「その何が悪い。俺が美郷姉さん…剣の師匠から教わったのは、『活人剣』だ。意気地がどうとかで大切なものを守れないなんて情けない姿見せたら…ぎっちり関節技をキメられそうだ」
──守る為ならば、人を斬るか。
「そうしなければ、守れないものがあるのなら」
──やはり、綺麗事よ。
「綺麗…ではないのかもしれないな。人殺しはどこまでいっても悪だ。俺が言っていることは、言うなれば自分のために人を斬るってことではあるからな」
俺の居た世界では、人が個人的に人を裁く道理は無い。
自分のために人を殺すなんて行為、到底認められたものではない。
「だとしても、俺は守るべきもののためなら、修羅になる。仏と会えば仏を斬り、鬼と会えば鬼を斬る。それが罪だとしたら、後で地獄に堕ちてやるさ」
──傲慢な男だ。
人の言うことに一つ一つ小言を言う声は、そこで小さく笑った。
──然し、其の意気や善し。
世界が光で満たされていく。
突然の光だ。俺は思わず顔を手で覆い、光の奔流に耐える。
──人は基より己が為に生きる存在。なればこそ、己が信ずるモノの為なら運命にも抗える。覆せる。
眼を覆う刹那、散々俺に質問を投げ掛けていた存在の顔が一瞬だけ見えた気がした。
くどくどと人と説教するような話をしてきた存在だ。一眼見てやろうと脳裏に焼き付いたのだろう。刹那にも拘わらず、相手の顔がハッキリと見えた気がした。
「な…っ」
そして俺は、見覚えのあり過ぎる顔に思わず絶句していた。
「お前は…」
髪は白。
瞳は両眼とも紫色だ。
随分と神秘的な雰囲気を纏ってはいたが、そこに立っていたのは間違い無く、俺だった。
* * *
あの人が、愚痴っていたことがある。
この世界に来てからと言うもの、激戦に事欠かない…と。
確かにそう。バアゼル相手でもあんなに息切れしたのに、まさかここまでの戦いが待ち受けているなんて。
魔法も、武器も、全くと言って良い程に通らない。
一方、悪魔の放つ魔法は容赦無く私達の身体を撃つ。
フォーメーションは、イヅナと風音が前衛。私が後衛。
傷付く二人を、私が全力で支援する形だ。
「…ッ! 二人共、来るわよッ!」
既に青天井となった天守閣。
暗雲を背にした悪魔の翅が、大きく広げられた。
漆黒の魔力が両翼に収束。
「ははっ! 良いねぇ良いねぇ! 足掻けェッ!!」
放たれた。
魔力は幾重にも渡って分散し、私達に降り注いだ。
次々と床が抉れる中、イヅナと風音は右へ左へと攻撃を掻い潜る。
回避し切れない光線は、私が事前に障壁を展開させ、僅かに時間を稼ぐ。
その隙に二人は回避する。後には障壁が打ち砕かれる甲高い音が響く。
「風音!」
「…ッ!」
イヅナの刀に水が、風音の薙刀に焔が宿る。
息を合わせて放たれた斬撃は、悪魔を中心に交叉する。
「温いよ! 温い温い!」
悪魔が腕を突き出すと、障壁が展開された。
二振りの刃は、いとも簡単に防がれる。
即座に距離を取ろうとする二人。しかし障壁は二つに別れると、それぞれドーナツ状の拘束具に変化した。
二人は瞬く間に腕と身体を拘束されてしまう。
「「──ッ!!」」
「蒸発しなよ…!」
動きを抑制された二人を嘲笑うかのように、再び漆黒の魔力が収束する。
至近距離。回避するには、あまりにも二人の身体は自由を奪われている。
「(逃げられない──ッ!)」
私は即座に魔力を高め、声高々に詠唱する。
『守護の光陣…!』
私は即座に障壁魔法を複数に渡って展開しようとする。
だけど悪魔の魔法の方が、速い。
収束した破壊の光が、放たれる──!
「はぁぁッ!!」
その直前、悪魔の頭上に障壁が展開された。
攻撃魔法は中断され、拘束が緩んだことでイヅナは解放される。
何事かと顔を上げれば、風音が悪魔の頭上から踵落としを見舞っていた。
拘束されていたはずの風音は丸太に変わっている。
「へぇ。お前、やるね」
風音と衝突している障壁が光を放つ。
彼女が跳躍した直後に、爆発が起こるのと同じくして、発動待機状態にさせていた“バリア”を発動させた。
──ドカンッ!
爆発は障壁の中に包まれた。
音を立てて壊れる障壁。直撃していたら危険だったけど、身代わりになってくれた。
縦回転しながら着地する風音。
彼女が身を低くして突撃しようとする先では、立ち込める硝煙の中で、イヅナと悪魔の接近戦が始まっていた。
そのまま接近戦に持ち込むイヅナを忌々しく睨みながら、悪魔は大きく腕を振るった。
風魔力が活性化し、暴風が巻き起こる中で私は声を張り上げた。
『“ウィンドウォール”ッ!!』
暴風を風の障壁が阻む。
『動きは風の如く加速する!』
即座に次の詠唱を完成させ、イヅナの身に疾風を纏わせた。
悪魔の腕と、緋色の刃が激しく交錯していく。
「ふ──ッ!!」
乱撃に、風音が加わった。
風音に対しても“クイック”を発動。激しさと速さを増す戦いの中に二振りの刃が舞う。
私の眼でも追えない高速戦闘が繰り広げられていく。剣戟音が、炸裂音が、何度も響き渡る。
私も二人に負けじと、数々の攻撃魔法を繰り出した。
火、水、風、土、雷、氷、光、闇──持てる力を全て引き出し、微かな勝利を掴もうと足掻いていく。
「鬱陶しいなぁ」
それでも、悪魔は傷一つ付かなかった。
面倒とばかりに吐き捨てると、今までにない魔力の衝撃波を起こした。
至近距離での衝撃波はイヅナと風音の身体を捉え、大きく吹き飛ばす。
『もう飽きたな』
──空気が、変わった。
これまでと変わらないはずの悪魔の声に、異常なまでの重みが宿っていた。
体勢を立て直そうとしていたイヅナと風音は、突然見えない力で圧迫されたかのように膝を突く。
私もまた、全身を凍て付かせるような寒気に襲われていた。
一同に共通しているのは、冷汗が止まらないこと。
まるで超常的な存在を前に、魂が萎縮している感覚だ。
立ち上がる力が、全く湧いてこない──。
『だから、終わりにして良いかな?』
悪魔の背には、いつしかもう一対の翅が生えていた。
二対──計四本の翅から、異様な魔力の高まりを感じる。
魔法陣が、展開する、展開する、幾重にも展開し空間を埋め尽くす。
それはさながら全方位から銃口を向けられているかのようでもあった。
危険だ。直撃すれば、どうなるか分かったものではない。
そうは分かっていても、身体は金縛りに遭っているかのように動かなかった。
「く…ぅぅ……ッ!!」「あら…困りましたね……」
それは二人も同様だった。
死の危機が、眼前にまで迫っている。それなのに、誰一人として動くことが出来ない。
「(負けるの…? ここまでやって…!)」
魔法陣から溢れた漆黒の雷が、音を立てる。
一撃でも撃たれれば、焼死体の完成だ。魔力の濃さから分かってしまう。
『あぁそうだ。僕はこう見えて、寛大な心の持ち主でね。辞世の言葉ぐらいは言わせてやるよ。最期に言い残したことはない?』
悪魔は嗤いながら、私達を見下ろしている。
勝利を確信している様子に、私は歯噛みした。
「(死ぬの…!? こんな場所で……!!)」
『ほら、誰からでも良いよ? 何なら、あの男に言付けてやろうか? いやぁ、僕って寛大だ』
「…け…な…!」
絶望に挫けそうになる中、小さな声が聞こえた。
「…!」
風音が驚きを顕にしながら隣を見ている。
『うん?』
刀を支えに立ち上がり、震える切先を悪魔に向けるイヅナの背中が、そこにはあった。
「…ふざ…けるな……!」
震える足腰から、血が滲み出る。
加えられている負荷に、身体が耐え切れていない。
それなのに、イヅナは立っていた。
『…。お前、本当に鬱陶しいね。ここは諦めて、辞世の句でも言うところだよ? …醜いよ? 最期ぐらい潔く出来ないのかな』
「…諦めるぐらいなら……死んだ方が…マシ……ッ!!」
『ハッ、お前馬鹿なのかい? 死ぬんだよ! お前はッ!!』
雷が迸り、イヅナの周囲を撃つ。
衝撃で弾けた床の破片が、彼女と風音の身体を打ち付けた。
「あづっ!?」「うっ」
「イヅナッ…風音…!!」
声を上げるも、身体は動かない。
飛来した破片は、私の頭を打ち付けた。
意識が霞む。
気を緩めた瞬間、私の意識は消えるだろう。
その命と共に。
だけど気力を振り絞り、堪え切った。
“諦めるぐらいなら、死んだ方がマシ”──イヅナの言葉が、私を繋ぎ止めていた。
「(まるで…あの人が言いそうな言葉……)」
ドクンと、心臓が跳ねた。
私の脳裏で、イヅナの声に合わさるようにして、ユヅルの声が聞こえた気がした。
『おっと僕としたことが。嫌だねぇ、時には諦める事も大事って、親に教わらなかったのかい? …お、今良いこと言った』
「──!!!!」
イヅナの小さな身体が、弾かれたようにビクリと震えた。
悪魔に気圧された訳ではないことは、身体中から滲み出ている魔力から分かった。
「…それでも…抗う…諦めたくないから…抗う……! それが…私が──」
魔力が高まる。
オーラのように、気高く、煌々とした輝きが溢れていく。
「教わったことッ!!」
そして、爆発した。
イヅナの髪を結んでいたリボンが解け、漆黒の犬耳が現れる。
今にも崩れそうだった足腰は、今や床を確かに踏み締めている。
刀を構えた彼女は、疾風と共に飛翔した。
『はぁ…じゃあ、さっさと死になよ!』
漆黒の雷が、一斉にイヅナに向けて放たれた。
「ッ!」
イヅナは止まらない。
決して諦めないと言う強固な意志を持って。
「(それでも…か)」
そう、それでも。
命が消えるかもしれない。それでも、抗う。
イヅナの姿が、彼女と重なるようにして見えるユヅルの姿が、私の心を奮わせる。
「(そうよ…!)」
私は全霊の魔力をイヅナの前方に放った。
形成された障壁が、彼女に迫る電撃を防いでいく。
「あの子死なせたら、あの人に合わせる顔がないじゃないッ!!」
迫る攻撃は全て防ぐ。
どんな軌道を描こうと、全て。
自分の中の魔力が枯渇していくのを感じながら、私は歯を食い縛る。
一撃毎に破壊されていく障壁。しかしその度に、新たな障壁を築く。
「く…ぅぅ……ッ!!!!」
意識が遠退く。
過耗症になりかけている。
これ以上魔力を行使していたら命に関わる。
「(イヅナ…!)」
一つでも当たればイヅナが死ぬ。
風音は倒れ、頼りになるのは自分の力のみ。
だけど、魔力が足りない。
──バリィィィン!!
辛うじて展開した障壁が打ち砕かれた。
『はっ! 終わりだよッ!!』
「──ッ」
最後の障壁だ。
私の魔力は底をついた。対して雷はまだ止まらない。
複数の雷がイヅナに迫る。
あの子の命へと──!
「(ユヅル…!!)」
霞む意識の中で、私はあの人の名を呼ぶ。
あの人なら、どうしたのだろうか。
この絶望の戦場を、どうにか出来たかもしれない。どうにかしてくれたかもしれない。
だけど、現実はそうもいかない。
彼方で悪魔と戦っているあの人が、すぐに駆け付けられるはずがない。
だったら──。
「どうにかするしか…ないじゃないのよッ!!」
背中から倒れていく中、身体の底から絞り出すように魔力を放つ。
それは魔力と呼ぶには、あまりにも光り輝いていた。
魔力の代わりに、どうやら命の力を使ったらしい。
生命を燃やすことで、魔力の代用を図る方法──書物で読んだことはあるけど、咄嗟に出来てしまうなんて。
「(必死って…怖いものね……)」
霞む視界の中で、戦闘は続いていた。
イヅナに迫っていた雷は殆どが打ち消されていたが、まだ数発残っていた。
刀を鞘に納め、空を駆けるイヅナ。
悪魔を狙い、一直線に突っ込んで行く。
その前方からは障壁を逃れた雷が、彼女目掛けて迫っている。
──どうやら、ここまでやっても力及ばなかったらしい。
「(悔しい……)」
悔しさのあまり、目頭が熱くなる。
今の私には、あの子が命を落とす様を見ていることしか出来なかった。
──コン…!
だから、その直後に起こった出来事がハッキリと視界に焼き付いた。
雷の轟音を割くように清音が響き渡り、
「…焔の、舞」
炎の渦がイヅナの身体を押していた。
「…!」
爆発的に加速したイヅナの背後を、雷が掠めていく。
紙一重の回避だった。それはつまり、
『な…っ!?』
イヅナの間合いが悪魔に届くことを意味していた。
「(風音…!)」
倒れているだけと思っていたら、彼女はこの時を狙っていたのだろう。
静かに息を潜め、確実な一手が打てるこの瞬間の到来を待っていたのだ。
果たして、それは完璧な援護だった。
焔と言う推進力を得たイヅナの姿は緋色を纏った流星のようだ。
「抜く──ッ!」
流星が悪魔の下へと迫るにつれ、手にした刀から静謐な水を思わせる青色の魔力が溢れ出る。
それはまるで、全身から溢れていた魔力が、刀身に集約されたかのように。
赤と青。二色の鮮やかな軌跡を残しながら悪魔に肉薄した流星は、肉薄と同時に秘めたる刃を解き放つ──!
眩いばかりの光が鞘から溢れる。
裂帛の気合と共に、イヅナが吼える。
「やぁぁぁぁぁぁあああッ!!!!」
青の閃光が、一閃。
空を駆け、悪魔の身を袈裟上に斬り裂き、彼方へと抜ける。
「「……」」
訪れる静寂。
静止した悪魔とイヅナを見上げる私達は、それぞれ生唾を呑んでいた。
やがて抜き放った姿勢で静止していたイヅナが刀を振り払う。
刀身を徐に鞘へと納めながら、ポツリと、
「…手応えあり」
勝利の宣言を上げた。
『ぬぐ…っ!?』
悪魔はその場に蹲る。
二対の翼は消え、圧倒的な威圧感は消失する。
同時に、イヅナも糸の切れた人形のように落ちていった。
「イヅナ!」
どうにか立ち上がれるようになった風音に抱き止められた彼女は、悔しそうに顔を歪めていた。
手応えに反して、実際の一撃が浅過ぎたのだろう。
悔いるように唇を噛んでいた。
「まさか…この時点で僕が…手傷を…。痛…っ、治り切っていないところをなぞってくれちゃって……」
悪魔が右手で押さえた左肩からは、魔力の粒子のようなものが溢れていた。
その額には険しい色が宿り、明らかにダメージを受けていることが見受けられる。
でもそれだけ。それ以上の傷は見られない。
悪魔の驚きは、その実力の高さが故だろう。
言葉通り手傷を負っただけの悪魔。対してこちらは、戦う力が残されていない。
二回戦なんてことになったら──そこから先は、考えたくもない。
「…まぁ、楽しめたよ。思った以上に」
床に降りた悪魔は私達を見回しながら、愉快とばかりに手を打った。
賛辞の拍手のつもりなのだろう。それは同時に、未だ余力を残していることの証明に過ぎない。
実力差…まさかここまで意識させられることになるなんて…。
「満足したし、僕は帰るとしよう。『あの女』に感謝することだね、お前」
そう言うと、悪魔は魔法陣の中に消えた。
「ま…待て…っ」
イヅナの声は、虚しく響く。
悔し気に俯く彼女を他所に、私は胸を撫で下ろしていた。
嵐のように現れて嵐のように去る。これが悪魔…。正に天災、力の無い存在は踏み潰され、蹂躙されるしかないなんて表現も強ち嘘ではないわね。
「(あの女……ね。あの悪魔に傷を付けられる存在だなんて…世界は広いわね……)」
誰かは知らないけど、どうやら見知らぬ人に助けられたらしい。
元々あった傷の上を、偶然にもイヅナの切先がなぞったことで手傷を負わせられたのだ。
それが無かったらと思うと───この結果には繋がらなかったのかもしれない。
「(…あら?)」
顔も名前も知らない誰かに感謝しつつ、私は思った以上に意識を保てていることに気付いた。
「(どうして…?)」
理由を探り、ふと身体が温かいことに気付く。
枯渇したと思っていた魔力が、僅かに残っていたらしい。
でも、そんなはずはない。私は確かに、自分の存在すら魔力に変換して使用していたはず。過耗症の症状は、確かにあった。
それなのに、何故だろうか。
何か便利な『魔法具』でも持っていたのかと疑い──ふと、身に纏っている装束から魔力を感じないことに気が付いた。
「そう……」
どうやら、本来私の中から用いられるはずだった魔力を、肩代わりしてくれたらしい。
あの人と二人で作った装束が、私の意識を繋ぎ止めてくれていたのだ。
私は思わず、感極まりそうになった。
あの人の想いが私を、私達を守ってくれたのだ。どんなに離れていても、距離なんか関係無いとばかりに。
私を、守ってくれたのだ。
「(ユヅル…)」
装束を握る力を強めながら、私はあの人の名前を呼んだ。
また一段と、あの人の存在が心の底に刻まれたような気がする。
湧き上がる感情に暫し浸る中、潤んだ視界の中で二人の無事を確かめる。
「ッ! ッ!! ……ッ!!」
そして、冷水を浴びせられたように現状を認識させたられた。
多くの偶然に助けられたが、奇跡のような勝利だった。
本来、私達が太刀打ち出来るような相手ではなかったのだ。
一度バアゼルに勝利した言うだけで、「悪魔」と呼ばれる存在を甘く見ていた部分があったのだろう。
…認めるわ。私の中に慢心があった。それがこの状況に繋がったのなら眼も当てられない。
「(駄目ね……)」
どうにか身体が動くことを確認すると、私は身体を起こした。
気怠さはあるが、ふらつく程ではない。装束によって補充された魔力は、相当量であったようだ。
少しだけなら魔法の行使も出来るだろう。
「イヅナ…」
瞳を潤ませながら、怒りを床に打つけている少女の下へと急いだ。
声無き悲痛を上げている彼女は、自らの一撃に自信があったらしい。
己の存在を全て込めた一撃は、残酷な程に浅い一撃でしかなかった。
傷を付けることが出来た。撤退に追い遣った。それだけでも誇れるはずなのに、彼女は己の無力さを呪っていた。
「イヅナ、止めて下さい」
「そうよ…あなたは十分頑張ったわ」
「でも……!」
風音と二人で、イヅナを励ます。
大人しい彼女が、こうも感情を顕にしている。
浅からぬ因縁があることは、間違い無い。
この子とあの悪魔との間に、一体何があったのだろうか。
考えようと思えば、幾らでも考えられる。
本人は話さないけど、ヒントは幾らでもあるのだから。
隠そうとするつもりがないと言えば、そうなのかもしれない。それとも、隠そうとはしているけど、全然実態が伴っていないだけかもしれない。
いずれにしても、私の中では間違い無いと確信出来ていることがある。
鈍いユヅルは気付かないかもしれないけど、まず間違い無い。
何故、どうしてかはこの際どうでも良い。
「イヅナ」
私にとってイヅナは──ユヅルと同じぐらい、側で見守っていかなければならない存在であることは確かだ。
その身を取り囲む因縁を彼女が口にするまで、側に居よう。
心の底からそう思えた。
「もう…十分よ」
イヅナの身体を包みこむように抱きしめながら、ふと思う。
『ブリューテ』の皆を失って、すっかり独りになっていたはずなのに、側に居たいと思える相手が次々と増えている。
それはきっと、幸せなことなのだろう。
「貴女は十分頑張りました。自分を責めないで下さい」
「…でも」
「皆生きている。それで良いじゃない」
イヅナはまだ何か言いたそうだった。
やがて私と風音の顔を交互に見ると、静かに俯いた。
「次こそは…必ず……」
自らに言い聞かせるような呟きと共に。
「…そうね」
悔しさを滲ませている少女の背中を徐に擦る。
ピクリと最初に犬耳が動いたけど、やがて大人しく倒れる。
されるがままになってくれるらしい。素直な姿勢がとても愛らしかった。
「…痛いところは無い?」
「…コク…大丈夫」
「大丈夫」と言いながらも、イヅナの身体には首筋の痣を始め、幾つかの傷が見受けられた。
それでも私達の中では、一番ダメージが少ないかもしれない。悪魔の攻撃は、主に風音が捌いていたためだ。
一方風音は、ケロリと立っている。
一番矢面に立っていたはずなのに、一番元気そうに見えるかもしれない。
そんな風音を見た所為か、私は心配になってしまった。
首筋に痕が残ってしまったらどうしようか──と。
『かの者を癒したまえ』
私は念のため、“ヒール”を使うことにした。
治癒力を促進することで、回復を促す魔法。その効果は重ね掛けすればする程、一定の部分までは増すとされている。
今現在も、イヅナの首の痣を少しだけ消退させてくれた。
まだまだ、発動させる必要があるかもしれないわね。
「……大丈夫…」
『かの者を癒したまえ』
珠の肌に傷でも残ったら大変だもの。
首筋の傷なんて早々隠せるものでもないし、何より痛々しい。あの人も悲しんでしまうわ。
痕が残らないように、ありったけの回復魔法を唱えていく。
「……」
イヅナは眼を細めて私を見ている。その様子は、まるでうっとりしているようにも見えなくもない。
彼女の傷がより癒えるように魔法を、
「かのつぁっ!?」
唱えようとしたところで、風音が脇腹を突いてきた。
「ちょっと風音! 何を…!」
思わず抗議の声を上げた私だったけど、続けて口にしようとした言葉を噤むことになった。
「フィーナ様」
ズイズイと詰め寄って来る風音は、有無を言わせぬ迫力があった。
「御自分に、掛けて、下さい」
一言一言を区切りながら、笑顔が迫る。
貼り付けたような笑顔の裏に、鬼の能面が見えていた。
怒っている。それはもう、凄まじく。
これは無視したところで、延々と詠唱を阻まれること請け合いだ。
『…癒したまえ』
私は渋々自分に“ヒール”を掛けることにした。
短い詠唱を終えると、光が私の身体を包み、痛みを取り除いていく。
「あの散々な直撃を受けておいて…何故、御自分を無視なさるのですか」
「…それは、だって……イヅナの方が傷が多かったわ」
「それは? だって? …言い訳をして済むのでしたら、町奉行は要りません」
「北町と南町奉行所…そう言えば行ってない……」
イヅナも何故だか肩を落としていた。
「な、何よ…」
町奉行って…あの人を取り締まるような組織じゃない。
まるで子どもを嗜めるような言い方に、私は苦虫を噛んだような顔をした。
「何か?」
笑顔が怖い。
どうしてこうも強気なのかしら。
舐められてはいけないと、私は風音を睨む。
「…随分、上からな言い方ね。風音、あなた私達の、従者として同行していたんじゃなかったかしら」
「御言葉ながら、私は弓弦様の言伝に従い行動しています。御二人の事を、弓弦様から、頼まれていますので」
「…あの人をだしに使うつもり」
「何の問題がありましょう。一番悲しまれるのは、他でもない弓弦様
だと言うのに」
「ぐ」
い、言ってくれるじゃない……。
「弓弦様を悲しませることが、貴女様の本意ですか?」
考えていることの基準が一緒って…地味に不服だわ。
「そんなことはないわよ。私は傷付かないわ、あの人が守ってくれるし…今回も守ってくれたから」
あの悪魔の魔法は、どれも直撃してしまえば死を免れられなかった。
散々やり込められたけど、それでも私が生きていられるのは、実はあの人のお蔭でもあった。
「はい?」
「風音、『何を言っているんだこいつは』みたいな顔をしないで」
「………」
「ちょっと。そこで静かにならないでよ」
「…愛が守った」
「その通り」
イヅナは理解が早くて偉いわね…ふふ、よしよし。
「……気持ち良い」
「装束に込められている魔法の中に “マナレジスト”と言う魔法があるの。属性抵抗力を対象者の魔力に応じて上昇させる効果の魔法ね」
「はぁ」
「わぁ…!」
「さらに、私とご主人様の愛が編み込まれているから、大抵の魔法は無効化。仮にそれを貫かれたとしてもダメージは軽微で済むのよ」
「そうですか」
「凄い…!!」
この対照的な態度。
風音はあまり興味が無いとばかりに、薄目の反応を返してくれた。
そんな彼女に思うところはあったのだけど、流すことにした。
彼女の追及も収まったし、これ以上変に藪を突く必要も無いわね。
「(ご主人様ならどんな態度を取るのかしら…)」
──そう思って西の空を見る。
…きっと、“あの場所”でユヅルは戦っている。
たった一人で、誰の手を借りる訳でもなく。
「……」
「弓弦様のこと、考えているのですか?」
「えぇ、少しね」
本当は、思考全体で考えているのだけど。そこまでは言わない。
だって恥ずかしいじゃない。例え、本当のことだとしても。
「…私達は、待つ…だけですね」
「えぇ、森に帰るわよ」
同じように西を眺めた風音に同意しながら、森への帰路に就く。
いつしか、あれ程気にならなかったはずの人の気配が強まり始めていた。
これ程派手な戦闘を行ったのだ。寧ろ今までどこに行っていたのかすら気になる。
知らない間に悪魔が固有結界でも作っていたのか、はたまた城中の人間を眠らせていたのか。兎も角慌ただしい気配が漂い始めている。
人間達にとっては大切な城が荒れ放題になっていると知れば、現場に駆け付けられるのも時間の問題かもしれない。変に鉢合わせる前に、退散するべきだと考えた。
「…どうやって帰ろうかしら」
そこで問題になるのは、手段な訳で。
残されている魔力は、決して多くない。
行きと同じように、“イリュージョン”を使って人目を避けることは難しく、他の方法を探す必要があった。
「でしたら、城壁を飛び降りますか?」
「…大胆な方法ね。でも、それしかなさそうね。丁度青天井だし…裏側から降りるわよ」
勢い任せな方法だけど、素直に町中を歩くよりは良い方法だろう。
風音の意見を聞き入れ、イヅナにも確認してみると、
「…………頑張って」
少女は西を眺めながら、何言かを呟いている最中だった。
指を組みながら、秘めた思いを口にしている。
「「……」」
祈りを捧げる聖女のような姿に、私と風音は顔を見合わせた。
微笑ましい。ずっと見ていたくなるような姿に、互いに顔が綻んだ。
「…? …戻らないの?」
そうしている間に、少女の激励は終わったらしい。
キョトンとしている姿が、また一段と愛らしかった。
「勿論戻るわよ」
「そうですね」
戦いが終わり、後は穏やかな休息時間を過ごすだけ。
私達は無事に生きて帰ることが出来そうだ。後はあの人だけ。
疲れて帰って来るであろう彼を、笑顔で出迎えよう。
きっと帰って来る。どんなに離れていても、私の想いがあの人を守るから。
そう、あの人の想いが守ってくれたように。私の想いだって、絶対に負けていないのだから。
「(だから…頑張ってくださいね、ご主人様)」
城壁を滑り降り、森への道を急ぎながら。
大切な人の無事を、切に願っていた。
* * *
「…モノマネ…にしては随分と不思議な姿だな」
現れた自分そっくりな存在を前に、俺は値踏みするような視線を向けた。
一体何のつもりなのだろうか。声の主は、紛れも無くバアゼルのはずだ。
しかし俺の姿──それも、ファンタジー感丸出しな白髪紫眼だ。
白髪と言っても、加齢による脱色ではない。他色の一切混じっていない髪は、どことなく神聖な気配すら漂わせている。…「かみ」だけに。
「誰何にしては、些か変な問いよ」
「…そりゃあ、誰かは分かっているからな。…その姿には、色々言いたいことがあるが」
「此処での姿形に、さしたる意味は無い。求められるのは唯一つ…力だ」
俺が増えたと知影さんが喜びそうな姿で、“俺”は言う。
「成す心意気はあろうとも力が伴わなければ…是則、無意味。力も…其の意志でさえも」
どこからともなく、風が吹く。
“俺”が徐に右手を出すと、瞬きの刹那に武器が握られていた。
禍々しい気配を放つ漆黒の大鎌。鋭利な輝きに満ちている刃先は美しい湾曲を描いており、何物でも刈り取れてしまいそうだ。
それを軽々と操りながら、“俺”は構えを取る。
「心の次は、力…と言うことか」
俺もまた、腰に帯びている愛剣の鞘に手を伸ばす。
俺そっくりだとは言え、纏っている威圧感は悪魔そのもの。
さっきまでの出来事が前座に思える程、異様なまでの寒気がする。
嗚呼、一体どうしてこうなったんだか。
まさか【リスクX】なんて最強の存在と、一対一で相対する羽目になるなんて。
「汝が力を以て、汝が意志を徹せ。…死の覚悟が、出来ているのなら──!」
“俺”の姿が消えると同時に、俺は抜刀した。
──ガギィィィィィンッッ!!!!
鋭い剣戟音。
火花が散る中、眼前には“俺”の鎌が迫っていた。
「(速い──ッ!?)」
刹那に接近を許し、俺は肝が冷える思いだった。
後一秒でも反応が遅れていたら、俺の身体は両断されていただろう。
互いの刃を挟んで視線が交錯する。
「──ッ!?」
直後、奇妙な感覚に襲われた。
“俺”の姿が闇に溶け、見えなくなる。
しかし刃から受ける手応えは変わらない。
見えなくなったはずなのに、濃密に気配だけを感じる。
──ほぅ、装束の魔力に遮られたか。五感総てを支配した心算だったが。
闇の中に声が聞こえる。
──然し貴様の視覚は支配された。我が姿を捉える事、既に能わず。
切り払われた。
「(装束が無ければ、一瞬で積んでたと言うのかッ!?)」
手応えが掻き消えると同時に、“俺”の手掛かりを失う。
視界を奪われ気配を探る中、俺は狼狽えていた。
予備動作も無ければ、魔力の気配もしなかった。避けれるはずもなかった。
「それは残念だったな…!」
敵の危険性は、重々承知していたつもりだ。だが現実なんてものは、いつだって予想を大きく越えてくる。
先の戦いだって、あの悪魔はフィーの意識を支配してみせたのだ。五感を奪うなんて造作も無い芸当なのだろう。
「(フィーに感謝だッ!)」
迫る気配に対して剣を振るうと、刃と衝突した。
数度打ち合い、弾かれ、防ぎ逃した鎌によって髪を僅かに掠められ、風圧で切られたのか、頬を熱いものが伝う。
「チ──ッ!」
分の悪い戦いに、思わず舌打ちした。
何も見えない。心眼なんて大したものは持ち合わせていないのだ。
見えない敵、見えない刃。
どうやって攻略する。どうする!
どうする──ッ!
「ならッ!」
精神を研ぎ澄まし、俺は眼を切り替える。
見れないのなら、視れば良い。
「(妖精の瞳…!)」
暗闇の中。素早く周囲を確認するも、“俺”の姿は無い。
「(どこだ…!?)」
上方から魔力が迫る。
「上か──ッ!?」
咄嗟に剣を構え、迎撃体勢に移る。
振り下ろされた鎌の切先が、横向きに構えた刃と競り合う!
「ぐっ」
衝撃で膝が笑い始めた。
あまりにも重過ぎる一撃。悪魔の膂力は、見た目が俺でも健在らしい。
徐々に押され始める中、俺は刃を斜めに傾け衝撃を往なしていく。
「ッ」
刃の上を刃が滑り切ると同時に身体を翻し、回転の勢いを乗せた袈裟斬りを見舞う。
──ほぅ、中々。
弾かれ、生じた隙を狙われる。
喉元に迫る鎌。
「ッ!」
上に弾き、懐に踏み込む。
「はぁッ!!」
横薙ぎの一太刀は、空を切っていた。
悪魔の鎌が命を刈り上げようと迫る。
唸るような一振り。受け止めるや否や、刃の乱舞が幕を開ける。
刃と刃が交わり、激しい剣戟音を立てながら火花を散らす。
息も吐かせぬ瞬間の連続に、心臓が跳ね、喉が渇く。
ただただ己の瞳を、感覚を頼りに、剣を振るう。
思考の暇すら惜しいとさえ思えた。得物を振るわなければ、命を奪われる。
極限状態。しかしだからこそ、意識は研ぎ澄まされる。
「うぉぉぉぉおおおおッ!!!!」
込み上げる不思議な高揚感を胸に、俺は吼えた。
勝ち、克つための、喝。
咆哮は活力となり、全身に溢れんばかりの覇気を届ける。
視覚を奪われているからこそ、他の感覚が全て鋭敏になる。
──ッ!
奴が距離を取ったのが分かる。
投擲された鎌が、意思を持ったように襲い掛かろうとしているのが見える。
僅かな呼吸の乱れが、視える。
奴の位置が、刃の軌道が、呼吸の間隙が、闇の中に光る灯火のように鮮明に。
フレクサトーンの音色が鳴り響いている訳ではないが、視えてしまう。
「視えているんだよッ!!」
激しい剣戟音と共に伝わる、確かな手応え。
踏み出した足は、止まらない。
駆け抜ける。疾風の如く、地を滑るように。
上段に構えた剣の感触を確かめるように、握り直した。
瞬時にして間合いに入る。
奴の気配が動き出した。しかし、俺の方が速い。
「っらぁぁぁぁぁぁぁッッ!!!!」
全力で振り下ろした。
刃を阻むものは無く、描かれたのは美しい斜め一文字。
存在を断つ気配を感じた。
程無くして闇の中に、金属製の物質が落下する音が響いた。
「手応えあり、だな」
闇に閉ざされた視界が晴れる。
振り返れば、一面の黒景色の中、両手を突き出した姿勢で“俺”が背中を向けて立ち尽くしていた。
手応えはあった。
視覚が閉ざされていたからこそ、得物を通して肉を断った感覚がしっかりと分かったからだ。
だがその一方で、見えているからこそ気付けた違和感があった。
「…よもや、此の魔法を使わせるとは」
刃は確実に通した。
しかし当の奴は、淡々と言葉を紡いでいた。
微かに驚いているようには見える。しかしそれだけだ。
振り返った“俺”の身体には、傷一つ付いていなかった。
「…何をした」
手応えに反し、あまりにも違和感のある光景。
なまじ先程まで多少のダメージが通っていただけに、際立つ光景だった。
「支配の最奥…。因果の支配。我は貴様が手繰り寄せんとした結果を、打ち消したのだ」
「な…!?」
にわかに信じ難い言葉を前に、俺は絶句した。
それはまるで、俺が勝利した結果を捻じ曲げ、無かったことにしたとばかりの表現だった。
因果を支配し、敗北を打ち消す──そんなの、あまりにも反則だ。
「…っ」
勝てるのか?
込み上げてきた疑問を呑み込む。
勝つしかない。それ以外無い。
だが、どんなに手を尽くしたからと言って、無かったことにされたら──。
「(…それでも)」
意味が無いのだとしても、それでも。
それでも、ここで諦めて良い理由になんかなるはずがない。
不安も、恐怖も、全てを踏み越える。
支配しようと言うのなら、抗ってやる。
得物を構え、静かに向き直った。
「…抗うか」
「あぁ」
一度は見えた勝利。
二度見えるとは限らない。でも見えない訳ではないはず。
因果を支配するのなら、何度でも勝利の道を切り拓く。
「ッ!」
「まぁ待て。…急いても好事は無い」
しかし何故か奴は、駆け出そうとした俺を制した。
そして驚きの発言をするのだった。
「…我とて斯様な結末を望んだ訳ではない。此度の戦いに水を差す様な事をな」
「何が言いたい。まさか、大人しく負けてくれるって訳じゃないだろうな」
「阿呆が。此のバアゼル、易易と首を渡す訳が無いだろう」
「だろうな……」
「我が貴様の覚悟に免じ、報いるのは一つ。…此度の戦いに於いては、魔法を禁じよう。力と技のみで貴様と相対してやろう」
何の目的だ。
そんな疑問が湧いた。
疑問──そう、不思議なんだ。
思えばこの“バアゼル”と言う悪魔は、随分と不思議な存在だ。
妙に人間味があると言うか、言葉を交わすにつれてどこか親近感すら覚える。
「それは結構なことだが、なら俺は好きに使っても良いのか?」
「貴様の好きにせよ」
肯定と言うよりは、どうでも良いと言わんばかりの返しだった。
その言葉の真意は分からない。しかし、予想は浮かぶ。
慈悲か、あるいは──。
「……。なら俺も使わない」
俺の第六感が告げていた。
これは、「あるいは」の方だ。
覚えた親近感の訳を紐解けば、どことなく思い浮かぶ。
あれ程感じていた畏怖の感情が、僅かに薄れている。
それは畏怖の源泉が──「奴」が放つ存在感が、弱まっているからだ。
俺でも単独で渡り合えるのだ。弱体化しているのかもしれない。
もし『ジャポン』の天守閣で、あの謎の子どもと戦い、大いに消耗していたのだとしたら。
先程咄嗟に使った魔法で、魔力を使い切ったのだとしたら。魔法なんて使えるはずがない。
勿論これらは勘だ。実際には違うのかもしれない。
だけどとある確信がある。
正々堂々の一騎討ち。男と男(?)の物理勝負。
魔法が存在する世界で、こんなことを考えるのはどうかと思ったが──少なくともこの戦いにおいて、魔法は無粋だと感じた。
向こうがどう思おうが、俺は魔法を使わない。
もう決めたことだ。
「阿呆が。魔法を封じた其の身で、我を下せると」
「それは…やってみないと分からないだろう」
“俺”は距離を取り、静かに鎌を構え直した。
ゆらりと刃先が流れるように動く。
「だが俺は勝つ。勝ってみせる。…待たせている人が沢山居るからな」
俺もまた剣を構える。
弾倉を一瞥すると、残弾はゼロ。
飛び道具は使えない。あったとしても、使う訳ではないが。
「「……」」
訪れる沈黙。
呼吸を整え、足に力を込める。
その動きに応じるかのように“俺”も身構えた。
「「ッ!!」」
そして最後の決戦が幕を開けた。
小細工も、魔法も、何も使わない一対一。
銃剣と鎌が打つかり合い、激しい剣戟音を立てる。
息も吐かせぬ程の速さで二つの刃が凌ぎ合う。
数度の打ち合いの後、鍔迫り合いになった。
「…もらった!!」
「ぬぅ…っ!!」
剣を滑り込ませ、踏み込む。
「おぉぉぉぉぉッ!!」
しかし均衡を破ったのは、奴だった。刃の部分で剣を固定し、俺の喉元を掻き斬らんと刃先を迫らせる。
鎌の柄に力が込めていく。
俺も負けじと、得物を握り締めた。
圧倒的な腕力に押されながらも懸命に踏み止まり、膠着状態に持っていく。
だが幾ら力を込めても、一向に情勢は覆らない。
巌も打ち砕くような悪魔の膂力に、ヒトのそれは遠く及ばない。
押される。僅かながらも、確実に刃が迫る。
「ぐぅっ!?」
到達した刃から逃れるために、俺は剣先を滑らせた。
柔の要領で往なし距離を取ると、刹那。
「遅い」
動きを見越していたかのような速さで鎌が迫る。
何度も弾き、何度も往なすが、その度に鎌は迫る。
「な──ッ!?」
捌き切れなかった。
刃先が描く軌跡が、袈裟をなぞる。
身体が、交差上に斬られていた。
「ぐぅッ!」
骨までの到達は免れた。
しかし筋肉には僅かに届いただろうか。鋭く、熱い激痛が走る。
鮮血が溢れる中、俺は妙に感覚が研ぎ澄まされていくような感覚を覚えた。
痛みとは異なる、あまりにも澄んだ感覚。
勝利への渇望が、思考に冷水を浴びせた。
殺し合いに身体が適応し始めているような気がする。
出来れば、あまり慣れたくない感覚だ。しかしだからこそ、まだやれると分かる。俺に可能性を示してくれる。
「(そう──!)」
まだ、臓器には届いていない。
まだやれる。だから──ッ!
着地と同時。全身の力を、両足に込める。
「づぅぅッ!!」
急制動による反動で、身体が悲鳴を上げた。
「終いだ、ユヅル──」
「(踏ん張れ男の子ッ!!)」
激痛が走る中、バネのように強く地を蹴って加速。
──ゴゥッッ!!
遅れて耳朶を打つ風切り音。
一陣の風とは、我ながらこのことかもしれない。
握り締めた愛剣を鞘に戻し、正面から迫るバアゼルの下へと駆ける。
「──!」
“俺”の瞳が僅かに見開かれた。
やがて不敵な笑みを浮かべると、双眸に闘志を宿す。
「抗うか…! 其の強靭な意志で!」
恐らくこの一撃で決まる。
いや、決めなければならない。
全霊の一撃。渾身の一太刀。
俺が最も得意とする剣技で、沈めてみせる──!
「(抜き放つは巌を砕く、疾風の一太刀──ッ!)」
師である美郷姉さんから教わった、かつての日常において必要でないはずの剣術。
対象を「斬る」ことに特化した、鞘を必要とする神速の一閃──!
「来るが善い! 我を滅してみせよ!」
速度はそのままに裂帛の気合を込め、刀身を鞘走らせる。
「はぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁッッ!!!!」
漆黒の鎌が迫るよりも速く。
「ぁぁぁあああああああああああああッッ!!!!」
俺の命を捉えるよりも疾く。
「一刀──ッ!!」
無数の斬撃の中を斬り抜ける──ッ!
「抜砕ッッ!!」
静寂が空間を支配した。
斬り抜けた俺は、静かに剣を鞘に収めていく。
「……見事」
倒れ伏す気配と同時に俺もまた、膝を付いた。
手が乳酸で濡れている。汗も掻いた……勝利の余韻など浸っている場合ではない程に、俺の身体は火照っていた。
“ヒール”で傷を癒して、呼吸を整えて振り返ると、奴の姿は消えていて、そのまま立ち尽くす。
「…終わったのだろうか?」
思わず声に出す。
決戦というには、あまりに呆気ないように思えたような気がした。
…そもそも俺は、バアゼルと戦ったのだろうか、それすらも疑わしい。ただ、確かなのは終わったということだけで、終わったのなら後は。
『勇ある者に風の加護を』
…ちょっとした用事の後に、待っている人の下に帰るだけだ。
「ご主人様!!」
『ブリューテ』に戻ると既にフィー達は帰ってきていた。…お互い呆気なく終わったということか…そうか、良かった。
「…どうでしたか?」「…大丈夫だった?」
「…バアゼルは倒した」
ハイエルフな二人組に見せたのは、笑顔だ。
「良かったっ!」
フィーが抱き付いてきたので、その頭を帽子越しにポンポンと撫でる。
「ははは…じゃあ、どうする? もう用事が無いんだったら、俺の用事が終わった後にアークドラグノフへ帰還しようと思うんだが」
「私は無いです」
「同じく」
「…同じく」
本当だろうか。
「…二人とも艦まで付いて来るんだよな」
「私は居場所は、ご主人様の隣か足下です」
「私もフィーナ様と似たようなものでしょうか。私の帰る場所もまた、御二方の御側です」
…その言葉に偽りは無いと思った。フィーは兎も角、風音まで俺の側と言うのは少しこそばゆいものがあるが。
「よし。じゃあ少し待っていてくれ『思い繋ぎて、運び、誘え』…っと」
『妖精の村ブリューテ』の大樹の前に転移する。
フィーの家からここは離れていないので、“テレポート”の範囲内だ。
「村の長老の大樹…良いか? 下手な家に刻むよりはここに刻んだ方が、何か、良さそうだからな」
大樹の幹に五芒星の小さな魔法陣を描く。
これは“シグテレポ”用の魔法陣だ。“テレポート”は距離の制限があるが“シグテレポ”は、魔法陣さえ描いあればどれ程離れていても転移することが出来る分便利だ。…いや、どちらも便利であることには間違い無いのだが。
「…なぁ、お前に意思があるのかどうかは知らんが、俺達を見守っていてくれ」
ご加護…あるのだろうか。
「見守ってくださいますよ、きっと」
「……よく分かったな」
いつの間にやらフィーが隣に立っていた。
「これぐらいのことは…と言うより、魔力で分かりますよ」
「はは、そうか。ま、掴まっとけ」
「はい」
フィーと手を繋ぎ、転移する。
「着いたぞ」
「あら? ここは……」
転移した先はフィーの家は家でも、もう一つの家。二百年前に二人で過ごした『名無し島』の家。戻る前に先んじて、家の扉に魔法陣を刻んでおいたんだ。
「“シグテレポ”で世界間を跨げるかどうかは知らんが、戻る前に一度二人で戻って来たかったんだ。ここにな」
…あー、知影さんが怒りそうだ。
「…ふふ、帰って来たって感覚がしますね」
「俺もだ…楽しかったな」
「楽しくて…嬉しかった」
寄り添ってくる彼女の笑顔。
この温もりが、俺が守ったもの。
「艦に行ったらどうするんだ?」
「決まってます。ご主人様と一緒です」
はは…わーい。僕の部屋の人口密度が高くなるぞぉ〜…コホン。
「そ、そうか」
「さ、入りましょうよ」
扉を開けて入るとやはり、落ち着くものがある。
だがそれと同時に少し寂しくも感じた。
「…この世界とも暫くお別れなんだな」
「ご主人様。持って来たいものがあります」
「何だ?」
「地図とベッド…です」
何故ベッド。
「持っていきましょう♪ あ、椅子でも良いですよ」
…あぁ。読めた。
「『出でよ不可視の箱…アカシックボックス』ほら、入れるぞ」
開いた穴にベッドを押し込む。相変わらずどこに繋がっているのやら。
「では戻りましょう!」
「良いのか?」
「また戻って来れば良いのですから。待たせるのも悪いですし」
「そうか、じゃあ」
「はい」
“シグテレポ”で風音さんとイヅナの下に転移する。
ん…何か普段より魔法を使っている割に身体が軽いな。
「…またお楽しみだったのですか?」
揶揄い気味に訊いているが、眼が笑っていないような気がする…ような。気の所為か。
「…待っていた。帰還出来る」
既に転送装置の起動を終えたイヅナがそれを嬉しそうな眼で見詰める。
対照的な眼だ、どんなことを考えているのやら。
「よし、イヅナ」
「お願いね?」
転送装置に手で触れながらイヅナを見る。
「…起動」
イヅナが起動ワード(そのまんま)を言うと、機械が起動し、俺達の周りを光が包み込んだ。
因みにその少し後、転送前に俺が気絶してある夢のお話があったのだが、それはまた、別の話だ。
* * *
「…眩しいのぅ」
大樹の前に現れたその者は、天に昇っていく光を眩しそうに見つめている。
彼女はある友人の頼みで弓弦に手を貸していたのだ。
「あやつ…お主の所の姫、無事に守ったぞ。これで彼は妖精の王子様じゃな、ほっほ…。 まさかハイエルフにしてしまうとは…主も乙なことをしたのぅ」
ザワザワ……と葉が揺れると、その者は寂しそうに笑った。
「そうか逝くのか…また寂しくなるのぅ四神や。結局、居なくなったあの二人は、未だ見つからなんだが良いのかの? 必要ならばあやつを呼ぶが…」
葉が揺れた。
「…そうか…っ」
瞳に生温かいものを感じて、俯く。
「『永遠の狂乱』の代償を防ぐため、人の身体を捨てて大樹と一つになり、よう耐えたわい…本当にお疲れさん…」
労いの言葉を掛けると、その者は姿を消すのだった。
「まさかあの人が現れるとは……あ、こちらの話ですわ、気にしないでくださいまし。…しかし、まさか死人もこちらに登場するとは……この空間の原理は一体どうなっているのでしょうか…気になりますけど、予告をしないといけませんわね。 『アークドラグノフに帰還する直前に気を失った弓弦。次回の物語は今回語られなかった、彼の昔の思い出の物語ですわ。彼は一体、何を思い出していたのか、そして…? 名前だけの登場だった、あの人物達が出ますわーーー次回、クリスマス短編 “過ぎ去りし日常ーーーThe last of X'mas”』見ないと暴れますわ、おーっほっほ!」