敗北からの旅立ち、故郷再び
気を失ったユヅルから聞いていた通り、私達は『鹿風亭』の入口に転移していた。
…いえ、そこは最早…旅籠屋とは呼べるべき場所ではなかった。
「…っ、これは……」
火の魔力が、信じられない程に活性化している。
二百年前から変わらず、長きに渡り人々に愛された老舗旅館は、今は見る影も無い。
五芒星が描かれた柱の周りに転がるのは、炭。
木材だけかと思えば、妙に刺激臭が鼻を付く。
よくよく見れば、焦げた衣服の端と思われる布切れも見付かった。
「(あの男…火まで点けたのね)」
どうやらここで、火事が起きていたみたい。
木造の旅館が燃えないはずもない。さぞ赤く燃えたのでしょうね。
火消しによって消された…と言うよりは、燃えるものが無くなって自然鎮火したみたい。
「そう……」
ユヅルに軽く応急処置と回復魔法を施しつつ、そっと背負った。
魔法も使えるし、身体の力が戻っている。動揺していた思考も落ち着いてきた。穢れた魔力の下から逃げ出せたことで、調子が戻ってきたみたい。
「……」
でも心配なのは、ユヅル。
傷口は焼いて止血した。状態は一応落ち着いている──とは思う。けど失った血液が多過ぎるし、落ち着いた所でしっかり傷を癒やす必要がある。
あの音弥と言う男のことだから、きっと追手が差し向けられているはず。目視下で生存者が居ない以上、ここに長居する必要は無い。
ごめんなさいご主人様。
例えこの場に生存者が居たとして、それを見捨てることになるとしても──私はあなたの生命を助けたい。
「(森へ急がないと…!!)」
城から離れるように、その場を後にしようとする。
ユヅルを背負い直し、街の南側へ。
「…世話になったわね」
若干の名残惜しさを覚えつつも、『鹿風亭』に背を向けた瞬間──!
「っ!?」
足下が、真紅の光に包まれていた。
「(いけないっ!)」
咄嗟に大きく横に飛び退く。
直後、巨大な火柱が上がった。
「っ!?」
火属性魔法…? ここまで純粋な魔法を使える人間が居ると言うの…ッ!?
「(でも…この魔力の感覚は…知らない)」
穢れている訳でもない。でも、私の知る火の魔力とは少し違うようにも思える。
追手? いいえ、まだ時間が掛かるはず。
一体、誰。
「姿を現しなさい!」
張り上げた声に応じたのか、炎の中に気配が生じた。
まるで降って湧いたかのような出現だ。気配すら掴ませない存在に、嫌な予感が駆け巡る。
「その声は…フィーナさんですか?」
だけど声の主は、思わぬ人のものだった。
凛とした、落ち着きのある女性の声。
私の記憶の中に、該当する人物が一人居た。
「…風音?」
そう。『鹿風亭』の女将、風音のものだった。
炎柱の中に、人影が見えた。
「はい、風音で御座います」
所々煤で汚れた身形をしているけど、中から現れたのは間違い無く風音だった。
「…後無事で何よりです」
安堵した様子で私の下へと歩いて来たけど、ユヅルの姿を見て表情を険しくした。
「どうやら…一刻を争う事態の様ですね」
ユヅルの容態を見て、状況を理解したらしい。
僅かな思案の後に、意を決した様子で言葉を続けた。
「一箇所だけですが、確実に街の外へと出られる通路を知っています。何も言わず、私の後に付いて来て下さい。積もる話は後回しで」
「…それは」
本当に、信じられるのだろうか。疑問が過った。
風音には、世話になったわ。でも彼女もまた…人間。
私達を…ユヅルを、「化物」呼ばわりしてくれた男達と同じ存在。
信じられる? 本当に?
「……っ」
信じるしか…ないわよね。
だって、ユヅルが信じた人なのだから…。
「…分かったわ」
「追手の到着まで、幾許の猶予も残されていないでしょう。急いで下さい!」
風音に急かされる形で、彼女の後を追う。
その背中を見ながら、ふと思いを馳せた。
「(風音…ね)」
先程までの様子を見るに、彼女も魔法が使えるようになったのね。
私の“ヒール”で魔法を扱うための回路が開いたのは想像に難くないけど。だとしても、すぐに火柱を上げられるような魔法を使えるなんて。
今の時代に、ここまで適正が高い人間が存在したことが驚きね。
もしかしたら、火属性に関しては私よりも適正があるのかもしれない。世界は広いわ。
「(火属性…ね)」
一つ、不思議なことがある。
彼女の魔力は、本当に火の魔力なのか。
微妙に違うように視えるのは、どうして?
個性と言えばそれまでなのだし、同じ属性を操る人でも微妙に魔力の性質が異なっているのは当然のこと。
でも彼女のは、何故だか異質なものがある。
そもそも魔力とは根本的に違うような…。
「……」
…ううん、考えるのは止めよ、止め。
今はユヅルの安全を確保しないと。
「さぁ、此方です」
風音が足を止めたのは、敷地の隅。
大中小、丸四角三角と様々な岩が転がる一角。
足を踏み入れると、不思議な方向から風が吹いてきた。
「(…あぁ、そう言うことね)」
足下からの風。
その意味することは、一つ。足下に、空間があると言うこと。
それも、どこかに繋がる通路へと続く空間。
…成程、ここに身を潜めていた訳ね。
「急ぎましょう」
風音がその中の岩を一つ退かした。
風が吹き上がり、曇った香りが鼻腔に入る。
岩の下から現れた階段を、二人急いで降りて行った。
「…ここは?」
階段を降り切ると、小さな部屋に出た。
「…私の仕事部屋です」
「少々御待ちを」と言い残し、風音は部屋の棚の本を動かし始めていた。
何かからくりがあるみたいね。急ぎたいけど、取り敢えずは待つことにする。
「(仕事部屋…か)」
そこは鍛冶場だった。
一番眼を惹くのは立派な鑪。
お淑やかな風音に似合わない、何とも暑苦しい鉄の塊だわ。
「…随分年季が入っているのね」
「はい。父から継いだ物ですので」
「…あなたの鍛冶の腕は、父親譲りなのね」
昨日の包丁の件があったから、良く分かる。
刃物についての造詣があまり深くない私でも、風音の腕は大抵のものでない。
弟子が弟子なら、師匠も師匠。
さぞ、高名な人だったのでしょう。
「クス…父のことを御褒め頂き、ありがとう御座います」
風音は微笑むと、誇らしそうに鑪を見遣る。
本当に立派ね。こう言った場所は男の浪漫だとか言うらしいけど…ユヅルが見たらどんな反応をするのかしら。
『…凄い……本物だ……』
なんて。
ふふ、食い入るように見詰める姿が眼に浮かぶけど…それはまた今度。
「…これで」
──カチッ。
スイッチが入る音が聞こえると、本棚の隣にある壁が横に動いた。
強まった風の香りに、瑞々しいものが混じる。
どうやら外に通じているみたいね。
「…では、参りましょうか」
風音は本棚に立て掛けてあった薙刀を手に、隠し通路を先行する。
「…見て御分かりになるかと思いますが…あの後のことを御伝えした方が宜しいですか?」
「音弥と言う人間が城に来た時点で大体予想は付いているわ。別に話さなくて良いわよ」
道すがらに口を開いた風音を、私は制した。
残念だけど…興味が沸かなかった。
『鹿風亭』で何が起きたのか。わざわざ聞かなくても、おおよその察しは付いていた。
あの異様な気配を漂わせた子どもが、兵を率いて音弥を解き放ったのだ。
従業員達は尽く復讐の餌食となった。風音を逃がすための身代わりとなって──こんなところね。
「左様で御座いますか」
「ただ、その力については気になるの。…いつ、そんな力が使えるようになったの?」
「…何故でしょう」
風音は自分でも不思議そうに答えた。
「一人、また一人と斃れていく知人達の顔を目の当たりにする内に、私の中で何かが弾けていきました。身体が熱を持ち、心は芯まで冷えていく…。不可解な感覚が走ったかと思えば、次の瞬間には辺り一面に炎が走りました」
溢れた魔力が、炎として実体化したのかしら。
魔法として発動されていないのに実体化したのなら、それだけ魔力の密度が濃いと言うことになる。
「(そこまでの力が……)」
感じた疑問は、彼女の魔力を改めて確認することで氷解した。
彼女の魔力は、およそ人のものとは思えない密度を有している。
流石に私達に比類するとまではいかないけど、常人の倍近くはある。
「…焼けるような暑さの中で、私は意識を保てずに倒れ落ちてしまいました。最後の視界には、多くの兵と…音弥の姿がありましたが…気付いた時には、誰も…」
「…そう」
溢れ出る力を抑え切れずに、暴走させてしまった──とすれば、聞こえ的には辻褄が合うのだけど。
魔法の覚醒にしては、随分派手。
彼女の適性の高さがそうさせたの? それとも──別の理由。
例えば、抑えられていた力が堰を切ったように爆発した──とか。
「(…まさかね)」
だとしたら、初対面の時に違和感の一つぐらい覚えたはず。
でも、彼女の魔力の流れにおかしなところはなかった。
「倒れたことで、きっと命尽きたのだと思われたのでしょうね。良かったじゃない、命あっての物種だもの」
それが何を意味するのか。私には分からない。
でも分からなくても居ましたは良い。大切なのは、ユヅルの命だから。
「…フィーナさん…少々纏われている雰囲気が変わりましたね」
「悪いわね、余裕が無いだけよ」
変わった──と言うよりは、元々私は人に好んで親切を働く性格をしていない。気が向けば、手助けぐらいはするのだけど。
好きでもない人間に対してなら、なおのこと。
「…そうですか」
──ねぇ、ユヅル。あなたは…怒る?
「人間がもっと嫌いになった」…なんて言ったら。
「風音、この先も一本道なら…私は先を急ぎたいのだけど」
だけど私は、あなたを傷付けた人間をどうしても許せない。許せないのよ。
「左様で御座いますか」
向かう先に、微かな光が見えた。
風の香りも強く感じる──間違い無く出口ね。
これでこの町から脱出出来る。気持ちを引き締めながら、ユヅルを背負い直した。
「…ご主人様、もう少しの辛抱ですから」
このまま“クイック”で加速して、一気に森まで向かう。
森でこの人の傷を癒やさないと…。
「誘導、感謝するわ。でもここからは、私達二人で行かせてもらうわ」
でもその旅路に、風音を付き合わせる必要は無い。
「今回のことは悪いと思っているわ。私達が飛び出したのが一因ではあることだし…責めないでくれるのは嬉しい。だけど、これ以上あなたの世話になるつもりは無いの」
「…そうですか」
「また縁があれば、会うことがあるかもしれないわね。じゃあ──」
足を止めた風音の隣を通り抜け、その先へ。
「御待ち下さい」
だけど突然障害物が現れた。
狭い隠し通路は、人二人がようやく通れるかどうかの道幅。何かに阻まれば通り抜けることは出来ない。
「何のつもり?」
私の前には、通り抜けを阻むように薙刀が突き出されていた。
「御二方の旅路に、私も加えて下さい」
風音の横顔は、真剣そのもの。
冗談で言っている様子ではないわね。
「…そう」
断らせてはくれないみたい。
まぁ、戦力は一人でも多い方が良いはず。彼女が今の状況下に置かれているのは、私達に責任がある。
そんな彼女を置いて行ったら、きっとご主人様が怒るわね。
怒るは怒るでも、悲しい怒り方をされるわ。
そんな怒り方は──私の好みじゃない。
それに…彼女の魔力も個人的には気になる。
だから、
「好きにして」
新たな旅の仲間を受け入れることにした。
「ありがとう御座います♪」
道を封鎖していた薙刀が収められる。
元々付いて来るつもり満々だったのね──と言うのは、今になって思ったことだけど。私が首を縦に振るまでは、梃子でも動かなかったに違い無いわ。
「(ふぅ…強情な人ね…)」
風音と共に先を急ぎながら、通路を抜ける。
どうやって造ったのか。土製の階段を昇って行くと、不自然に灰色な天井が迫ってきた。
「行き止まり…ではないわね」
「はい。出口を塞いでいる重石です」
帽子に打つかるか打つからないかの位置に迫った天井に触れる。
微かに風の音が漏れ聞こえる。出口であることは間違い無いわね。
「…でも」
ご主人様を片手で支えながら、空いた手を天井へ退かそうと力を込めてみる。
「動かないわよ…?」
けれども、天井は動かない。
まるで壁でも押しているような感覚。
少なくとも力づくでどうにか出来る雰囲気ではなさそうね…。
「そんなはずは…。おかしいですね…」
「普段は少し押しただけで動くのですけど…」と話す風音。
壁が少し押しただけで動いたら、私だって困惑しないわ。
交代して、彼女の行動を見守った。
「何か引っ掛かっているのでしょうか…」
風音は慣れた様子で天井に手を伸ばしていく。
岩肌を撫で、不思議そうな様子で首を小さく傾げる。
「…?」
何か、妙な力の流れを感じた。
魔力に近い、でも魔力とは違う力。
だけど、どこかで感じたような気もする力。
これは──風音から?
「いえ、そうでもないみたいですね…」
一瞬にして力は感じなくなった。
跡形も無く消えたために、残滓は辿れない。
そもそもそこに力自体存在していたのかもすら、怪しい。そう思える程には。
「……」
視界の明度が増す中、私の頭の疑問は晴れない。
「…押した所が悪かったのかもしれませんね」
「(そうは言われても……)」
外に出た私は今しがた通って来た出口を見る。
正確には、天井となっていた岩を見た。
草むらの中に埋もれている岩は、平ぺったく歪んでいる形状をしている。特段視界に入ってくる訳でもなく、草の中を注意深く見た際にようやく見付かるような印象。
大きさは人一人通れる程度通路を横に塞ぐ程度のサイズ感。決して大き過ぎる訳でも小さ過ぎる訳でもない絶妙なサイズ感ね。多少は人の手によって形を整えられているのが分かる。
足先を梃子にして持ち上げようとしたら、僅かに持ち上がった。
押した所が悪い──確かに、そうとでも仮定しないと動かないはずがない質量。引っ掛ける所も無いし、決して私が込めていた力が弱過ぎる訳でもない。動くのが必然で、動かないのが偶然な代物。
「(…本当に、それだけ?)」
そもそも地上の真中に置いてあるこの岩と地下への階段。
普通に考えれば、地下通路と言う見方になる。
つまり一度大雨が降れば、土に吸い込まれた水によって洪水が起こってもおかしくはない危険構造。
昔から雨が降り易い時期があるとされるこの東大陸で、こんな構造が成り立つと言うの?
それにしては、通路の土が乾燥していたように思える。
ずっと雨が降っていなかったのなら、分かるのだけど。大気には水の魔力もしっかり感じられるし、草花は瑞々しい印象を受ける。
少なくとも、干ばつ状態でないと言うこと。土が水を蓄えていると言う証左。
「(通路に使われている土が、乾き易い性質を有していた)」
そんな土もあるけど。微かに風の流れを感じる通路に、全く水気が無いことがあるのかしら。
不思議とするには、あまりにも違和感がある。
それに、防犯上の問題も大いにあるわよね。
「フィーナさん?」
足を止めたままの私の耳に、少し離れた所まで歩いた風音の声が聞こえた。
気が付くと、出口は完全に岩で塞がれていた。
急ごう急ごうとは分かっていたけど、あまりの違和感に考え込み過ぎていたみたい。促されるようにして彼女の下へと向かいながら、脱出先を確認する。
色鮮やかに広がる、草原の景色。
前方には鬱蒼と樹木が生い茂る故郷が、背後には先程まで居た東の国の城壁が見える。
「…ふぅ」
願ってもない方角からの脱出に、安堵の息が溢れていた。
森はもうすぐね。でも街に意識を向けると、慌ただしく動き回っている複数の魔力を感じた。
「(近付いているわね…っ)」
気を引き締め直し、近付こうとしている追手を引き離しに掛かる。
魔力を高め、逃走のための一手を自分と風音に対して打つ。
「『動きは風の如く加速する…』…あぐっ」
“クイック”が発動すると同時に、視界が霞んだ。
ご主人様もそうだけど、私も私で魔力が尽き掛けているみたい。
あれだけの戦いをしたんだもの。この結果も当然のものね。
「…フィーナさん、弓弦さんは私が背負いますから…無理だけは」
「必要無いわ」
この人は私のためにここまでの傷を負った。
だから、私が私の力で守る。私の持てる力の全てで森まで連れて行く。
「そうですか…」
それが妻の立場にある私の、せめてもの意地。
「(…後少し)」
だからもう少しだけ保って、私の身体。
「ご主人様…少し揺れるとは思うけど、我慢して下さいね。行きます…ッ!」
足に力を込め、全力で地を蹴る。
途中何度も転びそうになるけど、その都度何とか持ち直して森の中に突入する。
すぐさま私は、唇に指笛を当てると息を鋭く吐いた。
──ピ──ィッ!
森の中に指笛が響き渡ると、周辺に多くの気配が生じた。
「お願い皆! 力を貸して!」
猪や鹿や蝶、栗鼠、鳥──森に住まう動物達は、皆が私達の大切な友人。
指笛に応じて駆け付けてくれた動物達は、一斉に私達の数歩先を先行した。
「これは…!?」
隣を駆ける風音が、驚きの声を上げる。
──そう。これもまた、森の動物に仲間と認められるハイエルフの特権。
昔ご主人様に、「教えてくれ」とせがまれたのを思い出すわ。
結局勿体振って教えなかったのだけど。
「さぁ、駆け抜けるわよ!」
森の追い風を受けながら、私は一気に加速する。
風音も速度を上げると、隣に追い付いて来た。
負傷しているとは言っても、私の足に追随出来るなんて。着物を着ているとは思えない足の捌き方は、どう見てもただの「女将」のものではないわよ。
軽やかで、風のような身の熟し──もしかして彼女が、『ジャポン』に伝わる、忍者と呼ばれる人なのかしら?
何か皆深々と挨拶しているみたいだけど……。
「(…変な皆)」
不思議な行動が引っ掛かったけど、動物達の先導は確かなもの。
森と共に生き、森と共に死ぬ。そうしてまた森で生まれ、森の一部として循環していく。
『霞の森』の中を、誰よりも知り尽くした案内役に導かれ、いよいよ視界の先に村の門が見えた。
「着いた! 皆ありがとう!」
感謝の言葉そのままに、私は村の奥にある長老様の下へと向かう。
「!」
大樹の麓の地面が揺らいでいた。
まさか、もう泉への道が開いているなんて。
普段は少しでも祈りを捧げないと開かれない道なだけに、驚いた。
「これは…!?」
「飛び込むわよ! 続いて!!」
「は、はい!」
だけど嬉しかった。
ご主人様も、この森の一員として受け入れられているのだと分かったから。
「大樹の下に…斯様な泉が」
清らかな光を湛えた泉の中にご主人様を浸す。
…後はこの森が彼を癒してくれるはず。
「これで落ち着けるわ…。良かった……」
どっと湧いた疲れに、腰が抜けた。
腰から泉に浸かりながら、頭上を仰いだ。
まるで本当に長い山を登り終えた気分。疲れと心地良さが同居している心地だった。
「あなたも浸かったらどう? 人間に効果があるかどうかは分からないけど」
「…では、御言葉に甘えて」
不思議そうに透き通った泉の中へと指を潜らしていた風音が、徐に履物を脱いだ。
着物の裾を捲り上げると、足を泉に挿し入れる。
「不思議な力に満ちた場所です…」
気持ち良さそうに足を浸している風音を見て、ふと思う。
私が別に一言言わなくても、人間である風音の邪魔をしなかったわね。
この森も、動物達も、人間に対してあまり良い感情を抱いていないはず。だから人の侵入を拒み、迷わせるのだから。『迷いの森』と言う別名も、ここからきているぐらいだし。
この森の力が弱まりつつある…? いや寧ろ、その逆。少しずつだけど、人間によって荒らされる以前の姿を取り戻し始めている。動物達が多くの命を育んでいるから、間違い無い。
そう、動物達と言えば、風音…挨拶されていたわね。
まさか、風音もまたこの森や動物達に認められた存在なのかしら。
「見事な泉質です。弓弦さんの傷も、きっと癒えることでしょう」
森に認められるなんて、一体どうすれば良いのかしら。
改めて考えてみると、分からないものね。
ハイエルフにとっては、認められているのが当然のことだから…。
「ここは古来より伝わるハイエルフの聖なる泉だもの、その程度の効果はあって当然よ」
「クス…そうですか。…弓弦さんは落ち着かれたようですね」
風音に言われてご主人様の様子を確認する。
「…そうね」
…確かに、顔色がさっきと比べて良くなったように見えるわ。
魔力も少しずつだけど、回復している。
自分で言っておいて何なのだけど、本当に聖なる泉なのね……。
「……。今はこの人を一人にさせてあげましょう。意識が戻るまでにはまだ時間が掛かるわ」
「はい、分かりました」
容態の安定を確認してから、風音を連れて
地上に戻った。
「…さ、次は追手の処理に取り掛かりましょうか」
「…処理ですか。打って出る…と、言うことですか?」
「いえ、まだ私も本調子じゃないし…ここは守りを固めることにするわ」
そのために風音と一緒に村の入口へ。
地の利はこちらにあるとは言っても敵の力は未知数。ただの人間なら、この森は十分な砦として機能してくれるけど、あの子どもの存在がある。楽観視はしたくても出来ない状況ね。
向こうに魔力を封印する手段がある以上、魔法及び身体能力での優位性は無いに等しい。
となると、同じ戦場で戦わなければならない。数の理がある人間との差を埋める必要が生じる以上、せめてご主人様が完全に回復するまで時間を稼がなければならない。
「守り…ですか?」
「使えるものは何でも使うわ。効果が見込めると思われるのなら、なおのことね」
聖なる泉にあそこまでの力があるのなら、他の聖なる力も活用出来るはず。
二百年前に大部分が燃やされたこの森に力が戻っていることを願い、私は森に呼び掛ける。
『聖なる森よ…母なる森よ…フィリアーナ・エル・オープスト・タチバナとユヅル・ルフ・オープスト・タチバナが願う…』
長老様を守護する役目を担う『オープスト家』にのみ許された、特別な結界魔法を発動させるために。
「…きた」
優しい風が私と風音の肌を撫でた。
足下が淡く輝き、巨大な魔法陣が展開する。
「(…魔法は問題無く発動しそう。なら…!)」
森に満ちた魔力を集め、練っていく。
私達を守る、森の力。大いなる力を今、解き放つ。
『御森に護精の結界を!!』
清浄な風が森中を駆け巡っていく。
“御精の結界”。『結界属性』と言う特殊な属性に位置付けされるこの魔法は、その属性の中でもさらに特殊な魔法。
発動するのに必要なのは『結界属性』の魔力ではなく、私達──オープスト家の魔力。一族に代々名を連ねるハイエルフだけが、森の加護を受けて発動させることが出来る。
詠唱には、オープスト家の血を引く者が名を宣誓し、森に認められる必要がある。
つまり、その身にオープスト家の魔力を宿した者が宣誓しない限りは、詠唱すら成立することはない。
そして、魔法が発動した。
発動したと言うことは、私は当然としてご主人様もまたオープスト家の一員だと森に認められていると言うこと。
『契り』を交わした以上、当然の現象なのだけど──悪くない気分だわ。
「…今のは何ですか?」
「“護精の結界”。最も森と結び付きが強いハイエルフが願うことで発動する魔法。効果は“この森で暮らしているハイエルフや植物、動物以外の全生物を森から弾き出し、侵入を阻むこと”…」
そう。つまり、森と森の外を徹底的に分断する魔法。
森に認められていなければ、森の中に存在することを許さない魔法。
それだと言うのに…風音の周囲に何かしらの変化が起きる気配は無い。
特に、指定性を持たせることの出来る魔法ではないのだけど──やっぱり、大丈夫なのね。
「一応あなたは大丈夫だから安心して」
風音、あなたは一体──いいえ、考えても無駄ね。
「さぁ…この魔法の効果が、どこまで保つかしらね」
少なくとも、並みの存在には突破出来ないような代物だもの。
かつてバアゼルに突破されたこと以外、突破されたことはない。
あの悪魔を超えるような存在でもなければきっと…守ってくれるわ。
…。これ…ご主人様の言ったところの…「フラグ」ってものよね。
考えない方が良かったような気がするわね。
「…私も、森の一員として迎え入れて頂けたのでしょうか…」
「そうみたいね。その点に関しては大丈夫みたい」
「それは良う御座いました。ですが…結界は保つでしょうか……」
風音の問いに、私は首を横に振る。
「…侵入を阻むと言っても、向こうの力は未知数。何らかの手段を用いてここまで来る人間も必ず居る…」
居るような気がするし、居ることを前提に考えなければならない。
そして、もし人間達がこの村に辿り着くようなことがあったら──。
「…私達に殺されてあげる理由は無い。きっと殺し合いになるわ。風音…あなたはそれでも、私達の側に立って戦い続ける覚悟はある?」
風音の返事は、即答だった。
「はい、そうでなければこの場に居ませんよ?」
正直なところ、頼もしさを感じたわ。
迷いの無い返事。彼女の心には、既に揺るぎない決意があるのね。
「…そう」
立ち振る舞いから考えると、風音は相当な薙刀の使い手。
薙刀術…確か『ジャポン』に昔から伝わる武道の一つだったと記憶しているわ。
そして、火系統の魔法も使える。
伝統武術に、強力な魔法。並みの人間とは思えないその実力は、味方ならば心強い…味方なら。
「そう言えば。渡し忘れていた物が御座います」
風音が不意に薙刀を地に突き立て、背中から一振りの刀を取り出す。
「…はい?」
そんな物、どうやって。
「(結び付けていたのかしら…?)」
眼を白黒する私の前に、刀が差し出される。
「渡し忘れていた贈り物です」
さも当然とばかりに差し出された武器に、私の視線は釘付けとなった。
「ジャポンってさ、ジャパン的な国だよね。うん…いや、さ。作品に一つはあるんだよねぇ、和テイストの国。しかも東の国って言う、方角まで完璧。…実際、どんな国なんだろうなぁ……」
「ジャパン? どこだ〜そりゃ。俺達が向かっているのは、ザハンだろう?」
「隊長さん聞いてたんですか。うーん。ザハンって…そんな女の子だらけの南国っぽい名前じゃないです。ジャポンですよ。『ン』しか合ってないです」
「女の子だらけの南国…! そんな国があるのかっ!?」
「うーん、まぁあったと言いますか…無かったと言いますか…。とある物語の中で登場する架空の場所です」
「そこの女性達は、水着なのかっ!?」
「そんなことは知らないです。弓弦の記憶の中にあった場所の話ですから」
「つまりは〜…弓弦がそこの場所を知っていると言うことだな!?」
「…隊長さん」
「ん〜?」
「そんなくだらない理由で弓弦捜索の意気込み燃やされても…嬉しくないんですけど」
「ん〜? 別に励ましとか、そんな意味で言った訳じゃないからな〜」
「…隊長さん」
「?」
「ちょっと…擁護出来ない程に最低です」
「な、何でそんなことを言われなきゃいけないんた〜? 女だらけの南国って、男の夢だろうが〜」
「それでも…最低です」
「最低だな」
「「…ユリちゃん?」」
「すぅ…」
「…。ユリちゃんは一体、どんな夢を見ているんだろうな〜」
「…あ、隊長さんが話逸した」
「…男ってのは、浪漫無しには生きられないんだ〜」
「別に無理に戻さなくても良いですよ」
「…知影ちゃん」
「…はい?」
「も〜少し、俺にも優しくしてくれないか〜?」
「嫌です。私が打算無く優しくするのは弓弦だけと決まっているんで」
「…弓弦相手にも打算だらけだろうが〜……」
「…隊長さん、今何か?」
「何でもないぞ〜? 何でも。じゃ〜予告だ。『何故愚者は、何度も過ちを繰り返すのか。己が生をもって、何故他者を害そうとするのか。愚か者共に、裁きの鉄槌を。愛する場所を、愛する者を守るため、女は鬼となる──次回、焔を纏いし新たな仲間』…それにしても、弓弦の奴はどうしてこんなに想いを寄せられるんだろうな〜?」
「ふっふっふ…知りたいですか? ではそこに座ってください。今からしっかりとお話するんで」
「…うげ」