糸を手繰りしモノ
「お前…? 『鹿風亭』の人達はどうした」
開かれている襖から覗く空は、曇っていた。
ここに来る前は、あんなに晴れていたのに。いつの間に。
バアゼルとの戦いで、時間がそれなりに経
過しているためであろうか。
しかし時間の経過を無視しても、普通に考えれば音弥の存在を疑問に思うだろう。
間接的にとはいえ、女将である風音を傷付けたのだ。
そんな男が、のこのこと『鹿風亭』の外に出られるのだろうか。
おかしい。
何かが、おかしい。
「──ッ!?」
考えられる可能性の中で、最も可能性の高いものがある。
阻むものなくここに来られたということは、阻むものが存在したとして──
「(まさか…いや、だが……)」
そこから先は、出来れば考えたくない。
「あぁ、あの旅籠屋ですか」
考えたくなかった──が、
「焼き払って、皆殺しにしたに決まっているじゃないですか!」
考えざるを得ない程に、厳しい現実が突き付けられた。
「まぁあの女だけは殺し損ねましたがね」
阻むものが存在するのなら、消してしまえば良い。
単純であるが故に、明快。
それは、最悪の結果を意味していた。
「ふ、ふふ……っ! 楽しい、楽しかったですよ! さっきまで人を見下していた連中が! 怯えて助命を乞うのですから…!!」
狂気に憑かれたモノの下卑た嗤いが響く。
箍の外れた外道の思考に染まった男は、昨日までの姿とは似ても似つかない。
「‘『陰』に蝕まれたか…’」
人知れず呟いたバアゼルの言葉は、誰の耳にも留まらない。
「あぁぁああ! 楽しい! 楽しい愉しいタノシイィィッッ!!!!」
おおよそ健常な人の言動とは思えない様子に、フィーナの肩が大きく跳ねた。
「酷い……」
空いた手で、助けを求めるように装束の端を掴んでくるフィーナ。
弓弦の背中越しに男を睨む瞳には、強い嫌悪の感情が
宿っていた。
「人間の心は面白いよね。少し助言をしてあげただけですぐに行動に移してくれたよ…ククッ」
人間の心を、まるでモノ呼ばわりである。
謎の存在は、子どもの顔立ちがさせているとは思えない程に醜い笑みを浮かべていた。
「お前は…一体…?」
「手土産に教えてやる!」
裏声混じりの男。
血走った眼で睥睨しながら、粗い息のままに言葉を続ける。
「この方は僕に、素晴らしい剣を…力を与えてくれたんだ! 心どうこう吐かしたあの女とは違ってねぇっ!」
音弥は腰に帯びた鞘から剣を抜くと、それを両手で掲げて恍惚とする。
妙な魔力を漂わせる、何とも歪んだ形の剣。
黒塗りの刀身に、まるで血の巡りのように紅の線が走っている。
「(…原因は、あの剣…か!)」
柄をよくよく観察すると、男の手との間に強い魔力の繋がりが窺えた。
まるで身体を、心を、剣に魅入られてしまっているかのように。
「フィーナ…あの剣、ヤバいぞ」
「…私もそんな気がします」
緊張感が高まっている。
最早、戦いを避けることは出来ない──そんな気配が漂っている。
こちらは二人。対して敵は数十人にも及ぶ武士と、悪魔並みの気配を漂わせる子ども──そして、謎の剣を携えた音弥。
危険だ。取り囲まれた状況では、逃げ場が無い。
「(使うか…? “シグテレポを”……)」
取るべきは、逃げの一手か。
弓弦が静かに思案していると、
「…去ね。此処は王の戦場ぞ」
痺れを切らしたらしいバアゼルが、ここにきて明確な拒絶を口にした。
己の戦いを邪魔されたことが腹立たしいのか、苛立ち混じりの声であった。
「横槍を収めねば──」
「王、一度ならず二度も破れた者がそれを言う権利は、ありませんよ、ククッ」
しかし、有無を言わせぬ子どもの言葉に阻まれる。
「…道化が」
そうバアゼルは吐き捨てると、鋭い視線をより厳しいものに変える。
「(…バアゼル)」
弓弦は、親近感のようなものを覚えていた。
二者の間で何が話されたのかを、しっかりと聞いていた訳ではない。
しかし男に対してあまり良い印象を持っていない様子のバアゼルの態度は、どこか人間らしい。
悪魔というだけで身構えていた部分はあるし、災いをもたらした存在でもあるのだが──それ以外の部分があるのかもしれない。
「(…悪魔…か)」
悪魔とは、何なのか。ふと疑問になった。
「僕はこの剣で“英雄”になるんだ!」
だがまずは、眼の前のことか。
「ありとあらゆる化物を討ち倒し、後世に伝えられ、讃えられるような“英雄”に! 英雄…英雄ッ!! あぁ…! 考えるだけでゾクゾクしてしまうよねぇッ!!」
「そ、そうか…」
何が良いのか、この男の思考回路が全く分からない。
アレか。そういう年頃なのか。夢を捨て切れず、拗れてしまったのか。
英雄志望は結構なことだが、あまりにも夢物語が過ぎている。
「ご主人様…この人、壊れています」
フィーナの言葉に頷く。
「あぁ…風音さんがコイツに言った言葉が大体予想出来るな」
風音の顔が浮かぶ。
「心」──確かに眼の前の人物は、彼女に認められるためには未熟だと感じた。
要は気持ちの持ちようだ。人にどうこう言えるような立場ではないが、力に酔い痴れている時点で未熟とする他無い。
今の彼の姿はさながら、玩具を与えられた子どものようだ。
しかし未熟どうこう以前に、こうも歪められてしまっては──認められることはもう、叶わない夢なのだろう。
「‘…どうしますか?’」
バアゼルと子どもの関係性と、音弥の剣──気になるものはあるが、疲労の大きい状態での無茶は難しい。
態勢を整える必要性があった。
「逃げるぞ。嫌な予感がするし、風音さんが心配だ」
そうと決まれば手は一つ。
「分かりました」
フィーナの手を握り、転移したい場所──鹿風亭の入口をイメージする。
あまり良くない予感がそうさせた逃げの一手。だが、
「させないねぇッ!」
男の叫びと共に、魔力が霧散した。
「何っ!?」
周囲に生じた黒い靄が、玉座の間を覆い尽くす。
脳内に急激なノイズが混じり込み、周りから音が消える。
──ザザザザザザッッ!
耳を劈くような雑音に、魔法の発動は中断されてしまう。
「魔力が…消えていく……っ!?」
フィーナも眼を見開く。
まさか。驚愕の宿った視線が男の剣へと向けられる。
「さぁ! 僕にその力を見せてみろ! 魔を喰らい、英雄への道を照らすが良い! 『血塗られし凶剣』よッ!!」
靄が濃さを増す。
「ぐ…っ!?」「つぅ…っ!?」
身体に重圧が掛かる。
重力が何倍にも増したように思える程、足に感じる重みが増す。
両足で立つ力が失われ、弓弦とフィーナはしゃがみ込んでしまった。
「重力魔法…ってヤツか!?」
「…違う、これは封魔の力…。あの剣…『魔封石』製の剣だと言うの…っ!?」
「ふう…ま…!? そうか、封魔か!? だが、確か……」
かつてフィーナが言っていた、ハイエルフの弱点を思い出す。
──ハイエルフや、魔法生物を無力化する『魔封石』。かつて身体能力において遥かに勝るハイエルフが人間に遅れを取ってしまったのは、その石の存在があったからだ。
人間が酸素無しには生きられないように、水中では陸よりも動きが制限されるように。
ハイエルフは魔力が完全に存在しない空間では、極端に身体能力が落ちてしまうのだ。
しかし『魔封石』は、存在そのもの希少であると共に、加工が難しい鉱石とされている。
それだけではない。後々の憂いを絶つため、フィーナがかつての旅で仲間と共に破壊して回ったこともあるのだとか。
「あの輝きは…『魔封石』よ。…まさか、あんな綺麗な剣の状態で今の時代に残っているなんて……」
“魔封石”から鍛えられた剣が、その効力を発動させてしまった以上──この空間では、一切の魔力が存在していない特殊空間となっていることになる。
陸上生物に例えるならば、真空空間に等しい。
つまり死の空間なのである。
「…く」
どうする。
身体から力が抜け落ちていく中で、弓弦は歯を噛み締める。
「まだだ、まだ! 照らせぇぇぇッ!!」
剣の輝きが、増した。
倦怠感が、吐き気が、凄まじい。
ともすれば地に伏してしまう状況は、さながら戦う力をほぼ持たない子どもだ。
意識が朦朧とし、息も苦しい。
いや、もう息を吸うことすら億劫だ。
空気が喉を通るだけで身体が重くなる感覚は、まるで毒の霧を吸わされているようにも思わされる。
「(こちらに時間を与えてくれていたのは、いつでも封じられるって余裕の裏返しか…。くそ…っ)」
「‘ユヅ…ル……’」
横眼で隣を窺うと、フィーナの顔色が想像以上に悪かった。
青褪めた顔に血の気が感じられない。
このままでは、死ぬかもしれない。
何とか、何とかしなければ。
「さぁ! 僕の英雄譚の始まりだ! 総員、あのハイエルフ共を討つぞッ! 僕らの、人間の時代を勝ち取るためにッ!!!!」
「「「「おおおおおッッ!!」」」」
玉座の間を突き破らんとする閧の声。
立っているのがやっとの状態を嘲笑うかのように、兵達が一斉に剣を抜いた。
雄叫びを上げながら、二人に襲い掛かる。
「ッ……!」
怒りを瞳に、足に、腕に込めた弓弦が剣を抜き放つ。
「させるかァァッッ!!!!」
振り下ろされた刃を受け止め、一度に押し返す。
「化物共がッ!!」「消えろ!」「音弥様の手を煩わせるまでもない!」「女の化物を先に狙え!!」
掛けられるのは呪いの言葉。
向けられるのは黒い感情に憑かれたモノの瞳。
振り続けられる剣の応酬を、フィーナを庇いながら渾身の力で切り払っていく。
「はぁ、はぁ…づ…ッ!」
しかし動きの悪くなった身体では、幾ら巧みな応戦を繰り広げても傷が増えていく。
「ご主人…様…!?」
フィーナをやらせる訳にはいかない。
指一本でも触れてみろ。たちどころに腕を──いや、手心を加える余裕は無い。
首を、心の蔵を斬り裂く。
二度と立ち上がることがないように。
「(…生き延びる…何としてでも…ッ!)」
斬る、弾く、斬る、斬る、斬る。
「ぉぉぉおおおおおッッ!!」
獣のように猛々しく、猟犬のように正確に。
急所を狙い一人、また一人と息を絶えさせる。
上がる血飛沫。斃れる兵達の数が増え、血霧が漂い始める。
生き残るため、人を殺す。
殺した兵達にも家族は居るのだろう。自分が生み出しているのは、悲しみでしかないのかもしれない。
だが先に剣を向けてきたのは向こうだ。割り切り、いや割り切るよりも先に身体が動いている。
弓弦の鬼神をも思わせる戦い振りにより、兵の数は当初の半分程にまで数を減らしていた。
「やるねぇ…流石は腐っても英雄…ヒーローだ……」
高笑いする音弥が指示を出した。
「ならその英雄らしさ、存分に発揮してもらおうか! 鉄砲隊前へ! 女を狙えッ!!」
装填音が聞こえた。
弓弦が素早く視線を巡らせると、フィーナへと向かう銃口の数々が見えた。
「──!」
起こそうとした身体は、命令を拒否する。
魔力を欠いているのだ。それは血液を欠いていることに等しい。
動悸が、意識の乖離化が止まらない。
何も出来ないまま、自身を殺めようとする殺意を睨み付けるしかなかった。
「(ぐ、マズい!)」
ハイエルフにとって、魔力が無いこの空間は全身に重りを付けているようなもの。
しかしそれが何だというのだ。フィーナを庇うように、弓弦は剣を振るい続ける。
銃弾の嵐に晒されながら、時にはその身を弾で抉られながら、フィーナを守り続ける。
「ご主人様ぁッ!?」
銃弾が尽きるのが先か、弓弦が果てるのが先か。
フィーナの視線の先で、凶弾が弓弦を喰らっていく。
「く…っ、ぐぅぅぅぅ…ッ!!」
弓弦は血の味を噛み締めながら、獣のように唸る。
魔力が、血が、足りない。
痛い、苦しい、辛い。
だが、斃れる訳にはいかない。守るべき、守らなければならない存在が自分の背後には居るのだから。
斃れる訳にはいかないのだ。
「(…そんなに傷付いて……そんなになってまで……どうして、そんなに…!)」
「ぐぅぅぉおおおおおおッッ!!!!」
弓弦は吼える。
戦意を高々に叫び、己の闘志を鼓舞する。
例え自らの生命を投げ出してでも、傷付けさせたくない大切な女性が──『契り』と絆で結ばれた、“家族”が、居るのだ。
身体が壊れようとも、心は決して果てない。
もう家族を、失いたくなかった。
数時間前まで一緒に笑っていたはずの大切な人々が、居なくなる。そんな悲しみはもう、沢山なのだから──。
「…っ」
少しずつ、しかし確実に傷を負っていく弓弦を見詰め、フィーナは唇を噛み締める。
思い起こされるのは、二百年──より、さらに数年前の戦いでのこと。
北の国に降臨した悪魔との戦い。人を操る『支配の王者』と初めて戦火を交えた時のこと。
不甲斐無い自分のために、四人の人物達が生命を落とした出来事を──。
「どうして…」
いつだってそうだ。自分を大切にしてくれた人々は皆、自分を庇って果てていく。
「(どうして私の身体は動いてくれないの!? こんな時に限って…魔力が足りないくらいで……どうして…っ!!)」
フィーナもまた、拳を握り叫ぶ。
「ご主人様ぁッッ!!!!」
このままでは、「彼」の生命が消えてしまう。
しかし身体は動かない。
力が入らない。
魔力を集められない。
「(私は…っ)」
取り乱すことしか出来ない己を悔いるしかなかった。
せめて、せめて彼の勝利をと願ったが、
「あぁ…素晴らしい、素晴らしいじゃないか…!」
だかその思いは、いとも容易く打ち砕かれる。
銃弾の雨が上がると同時に繰り出された音弥の剣が、弓弦の剣と衝突した。
「なッ!?」
何という剛力だろうか。
鍔迫り合いに持ち込む暇も与えさせず、弓弦は剣を叩き落とされてしまう。
「あぁ…紙でも斬っているような手応えだ。英雄の膂力をも超えるこの力…。やはり、次なる英雄には僕こそが相応しい……」
片膝を突いた弓弦の手は、衝撃に震えていた。
剣を握る力は残されておらず、身体を起こしていることすらそろそろ危うい。
地面に伏さないよう辛うじて堪えている弓弦を前に、音弥が顔を愉悦に歪めた。
「さぁ、終止符の瞬間だ!」
兵達の口から、感嘆の息が洩れる。
「…“賢人”から一転、化物…。運命とは皮肉なものだよ。その心中は如何程のものか…」
剣が振り上げられる。
「礎になってもらおうか! 永遠に讃えられる真なる英雄への道として!」
「(あぁ…情けないな……)」
弓弦は内心で自嘲した。
もし自分の剣の師がこの惨状を眼にしたのなら、あまりの酷さに一喝すると確信出来た。
守るべきものも守れず、無様に膝を突いているのだ。
「(怒りのサブミッションでも仕掛けられそうだな……)
叱られるだろう。半日近く部屋の中で説教されるかもしれない。
「(はは……)」
そう、決して許してくれない。
「(こんな…ところで…っ!)」
ここで気持ちが折れるようなことがあっては。
「ぐ、ぅぅうう…!!」
もう、手足の感覚も定かではない。しかし弓弦は立ち上がった。
「ユヅ…ル……」
フィーナは眼を見張る。
まだ立てるというのか。
その傷だらけの身体でどうやって。
「…!」
そして気付いた。
体力なんてものは、とうに限界を超えていたのだ。
弓弦が何度でも再起しているのは、その度に気力を振り絞っているためでしかない。
気力一つで肉体の限界を突破し、立ち上がり続ける。
そうして今も、立ち上がってみせたのだ。
「(気持ちがどうとかなんて、そんな根性論に頼るつもりはないけど…。それで今立ち上がる力を振り絞れるなら──ッ!!)」
肩で粗い息を吐きながら、音弥を睨み付ける弓弦の背後でフィーナは歯を食い縛っていた。
「ぐ、はぁ…っ! ぐぅ…ッ!!」
フィーナの視線を受けながら、弓弦は息を整えていく。
僅かに身体を休ませながら、気迫に押されて後退った音弥の隙を窺う。
「…っ、何だよその眼は!」
もう少し身体に力が残されていたのなら反撃に移れるのだ。
だが、まだ身体は動かない。
後少し、ほんの少しだけ、力が足りない。
「…っ!」
音弥が一歩踏み込む。
数歩離れた距離から、少しずつ剣の間合いに弓弦を位置させようとする。
一歩、また一歩と足を進める音弥。
その前に、
「…はぁ、はぁ…っ!」
フィーナが足を引き摺るようにして、立ち塞がった。
「…っ、ご主人様は…私が守るわ」
両腕を広げ、弓弦を背に庇う。
「フィー…」
今にも倒れそうな程に、震えた背中だった。
しかし強い意志を宿した背に、頼もしさを覚える。
「あなたの好きには、させない…!」
「見上げた志だ…!」
威圧するフィーナの眼光を面白そうに受け止めた音弥。
剣を構えたままの姿勢で、突如爛々と眼を輝かせる。
「そうだ! 僕の女にならないかい? “英雄”だったら化物を従えても問題無い!」
この上無く良いことを思い付いたかのように、フィーナを見下ろす。
まるで人を人として見ていないような、見下す瞳で。
「…ッ」
フィーナの瞳に、強く鋭利な光が宿った。
「君が…僕の女になるのだったら、助けてあげても良いんだ…っ!?」
言い終えようとするや否や、音弥の頬を打つフィーナ。
パンッ。強い音が辺りに響くと、兵達がどよめく。
スナップの効いた鋭い平手は、大の男を大きく怯ませた。
「…猫も杓子も、力の次は女。馬鹿な男程…本当に下らないジョークを言ってくれるものね。…二百年早いわ。出直して来なさいッッ!!」
呆けたような面持ちの音弥。
赤く腫れた頬を擦っていたが、音を立てて歯を食い縛った。
「…っ人が優しく接してやれば!!」
当然の否定は、もうその手の手合いを勘弁願いたいフィーナの本音だ。
力、女、金。欲というものは、果てしない。
力に堕ちた存在程、その傾向は顕著だ。
「死ねぇッ!」
返答が気に食わなかったのか、音弥が剣を振り下ろす。
フィーナの身体を脳天から縦断せんと、切先が走る。
「…っ!?」
凶刃を前に、フィーナは瞼を強く閉じる。
ここで、終わりなのか。
どうして終わらなければならないのか。
まだ「彼」との旅は、始まったばかりだというのに。
悲しい、悔しい。
「──ッ!」
暗い感情が、膨れ上がっていく。
暗く、黒く、心を染め上げていく。
頬を、熱く塩っぱい雫が伝った。
それは、死への悲しみか。
それとも、どごまでも暗く染まろうとしている心の叫びなのか。
フィーナには分からなかった。
様々な感情が入り混じり、いっそのこと一思いに生命を断てとすら考えてしまう。
しかし甘んじて受け容れるしかないだろう。
自分達は、敗北したのだから。
「(死にたく…ない…ッ!)」
刹那。フィーナの身体が強く引っ張られた。
「く…そぉッ!!」
近付いてから遠退く、弓弦の声。
何が起こったというのか。
理解も、堪えることも出来ないまま、フィーナは背中から床に倒れ込んだ。
「ぁ…っ」
見開いた視界で、弓弦の背中がすぐ近くにあった。
自分を押し退け、盾になったのだと気付いた時には、
「これで英雄にぃッ!」
剣の先が弓弦の身体を走っていた。
「ぁ……っ」
床に飛び散る、赤い滴。
「英雄にィィィッッ!!!!」
弓弦の背中から突き出てくる、剣の切先。
本来漆黒であろう刀身が、赤黒い染色液で染められている。
「ぁ…ぁぁぁ…っ」
フィーナの瞳が激しく左右に揺れる。
染色液が何であるのか。一瞬分からなかった。
否、分かりたくなかった。
認めたくなかった。明らかに、血液だと分かっているのに。
「ハハハハハハハハッッ!!!!」
弓弦の身体が後方に仰け反った。
音弥が剣を引きながら、弓弦の身体を蹴り飛ばしたのだ。
「ぁぁ…っぁぁぁ…っっ」
フィーナの上に、力無く倒れてくる背中。
「っ!」
懸命に腕を伸ばすも受け止め切れず、息が詰まった。
弓弦の背中越しに感じる生温かい感覚に、フィーナの背筋が凍った。
どうにか出血を抑えられないかと、強く抱き締めることで自らの身体を栓にしようとするも、血は止まらない。
「(ユヅル…っ!)」
ドクンと、フィーナの心臓が音を立てて跳ねた。
「(…許さない、許さないわよ……絶対に…人間なんか……っ!!)」
憎悪が、手を差し伸べてくる。
心臓が再び跳ね、全身を冷たいものが走る。
「(許さない…ッ!!)」
何故だろうか。
今なら、魔法が使える気がする。
穢れた魔力を力に変えることで──。
「穢れに染まりし魔力よ…私に…!」
──一説によれば。『ダークエルフ』と呼ばれる存在は、穢れし魔力を自らの内に受け容れることでハイエルフから堕ちた存在とされている。
穢れた魔力はハイエルフにとって、有毒性の強い猛毒。
報復せねば、自分を許せなくなる。
例え、毒を喰らうことになっても──。
「(この怒りを放つためなら、構わない…ッ! ユヅルの…仇ッッ!!)」
伸ばした腕の先に音弥を捉え、魔力を練ろうとした瞬間──。
「た…のむ……ッ!」
声が聞こえた。
「っ…!?」
息を呑むフィーナ。
次の瞬間、腕を掴まれた。
集まり始めていた魔力が霧散し、辺りに小さな輝きが生じた。
輝きは徐々に強まり、光同士が幾重にも交叉することで魔法陣を形成した。
「何…!?」
音弥が驚愕に声を上げる。
何故魔法を発動出来ている。確かに封じたはずなのに。
疑問を抱きはしたが、慌てて剣を構えた。
魔法に関する知識は、書物程度しかない。しかし彼も馬鹿ではない。逃走手段を用いようとしているのだと、容易に予想出来ていた。
だが行動を起こそうとした時には、既に得物の身体は消えつつあった。
「ま、待てッ!」
剣を構え直し、フィーナ達の下へと迫る──が、発動した魔法の光に眼が眩み、獲物を見失ってしまう。
「(ユヅル…っ!)」
最悪の事態を予測していたが、どうやら一命を取り留めているようだ。
フィーナの瞳に安堵の色が宿る。
弓弦の温もりを感じる幸福に、口角が上がった。
「“シグテレポ”ォォォッ!!」
視界を満たす弓弦の魔力に、彼女は身を委ねるのであった。
* * *
争いの終わった玉座の間で、音弥が忌々し気に舌打ちした。
既に賢人達の姿は無い。影も形も無く消え果せていた。
「魔法は封じたはずなんだが…そう上手くはいかないか。しかし所詮は手負い化物《獣》の最後の足掻き…。どうせ奴等のことだ、向かう場所も一つしかない」
街の外へと逃げられてしまえば、その後の追跡が難しい。
兵達を見回し、剣を掲げる。
息を吸い込み、声を張り上げる。
「『鹿風亭』に向かい、今度こそ化物を仕留めるぞ!!」
轟くような号令に、兵達が雄叫びを上げるのであった。
慌ただしい足音も次第に遠ざかり、玉座の間にはバアゼルと謎の子どもが残された。
戦闘の始終を遠眼に眺めていた子どもだったが、賢人が消えてから一人思案していた。
バアゼルは瞑目したまま、静かに時を過ごしていた。
両者の間には沈黙が続いた。息の詰まるような気配は、他者の踏み入りを妨げる程のもの。
並みの度胸しか無い者ならば、たちどころに発狂してしまいそうだ。
「王…いや、『支配の王者』」
思案していた子どもが鋭く、胡乱な視線を悪魔に向けた。
二つ名を呼ばれたバアゼルは、僅かに瞼を上げるも口は開かない。
場が張り詰めていく。
「お前今…あの弓弦とか言う男に、魔力を与えたよね?」
「…さて、何の事だかな」
バアゼルは再び瞑目する。
「…へーあくまでシラを切るつもりか。…なら何故あそこで正体を現した」
ならばと子どもは、質問の矛先を変える。
「人間の王だと成り済ましたまま対峙しても良いだろう。お蔭で人間達の突入を遅らせる手間が増えたのだが?」
「世…我は“悪魔”だからな。あくまで善い余興の褒美を下賜したまでの事」
「…洒落? …まぁ良いよ、だけど」
子どもの表情が、歪に歪んだ。
およそ悪魔に向けるものとは思えない程に残忍な笑みを浮かべ、掌を天に翳す。
辺り一面で雷鳴が弾けた。
「…!」
バアゼルの片眉が上がる中、魔法陣が幾重にも展開され光を放っていく。
放とうとしているのは、雷属性の魔法か。
だがそれにしては、あまりにも禍々しい光を放っている。
「…お前はもう用済みだ。少しは役に立つかと思い喚び戻したが、つまらない」
轟音と共に、漆黒の雷が落ちた。
フィーナの魔法を遥かに超える密度で放たれた魔法は、バアゼルの身体を喰らい尽くすかのように呑み込んだ。
「…消えろよ」
雷の柱が幾重にも落ち、全てを焼き焦がしていく。
余波で部屋の畳が、木材が捲れ上がっていく。
視界を満たすのは黒。世界は一時、他の色の存在を認めなかった。
稲光が収まると、玉座には何かが存在したという焦げ跡が残るのみだった。
振り下ろした片腕を力無く垂らし、小さく息を吐いた子どもだったが、ふと顔を上げると眉を顰めた。
「…逃げた、か。しぶとい奴め」
魔力の残滓が、部屋の外へと離れていた。
稲光に紛れ、逃走したのだろう。
彼方の空を見遣りながら、鼻を鳴らした。
「まぁ放っておいても力尽きる。…無様に野垂れ死ぬのがお似合いさ」
悪魔をも超える力を見せた子どもは不敵に笑う。
他に誰も居ない空間で一頻り笑い、両腕を広げる。
「さぁどうする。…精々楽しませてもらおうか」
その背中から翼が、生えた。
半纏を突き破る翼は、持ち主がただの子どもではないことの証左。
何百、何千枚もの翅が合わさり、一対の翼となっていた。
「人間の、何と間抜けなことか。姿形に囚われ、同族であろうと容易に憎悪の対象とする。…あぁ、愚かだ」
周囲を満たす、穢れた魔力。
『大災害』によって、人の中から魔力を扱う才が薄れておよそ二百年。
魔力が限り無く減少した世界で魔法を使えるのは、魔物か、ハイエルフか、世界の「外」より訪れた存在か。
「あの男が『二十一番目』…悪魔を既に二体下した男…。殺し甲斐のある、面白い奴だ」
悪魔もまた、世界の「外」より現れる存在だ。
それ故に、世界の理に囚われない。
この子どももまた、異質な存在だった。
とある枠組みの中において、知らぬ者が居ないとされる存在。
「……せいぜい楽しませてくれよ? ククッ」
人ならざる存在は、周囲より集った魔力に呑み込まれて姿を消すのであった。
人同士の争いを楽しむように、歪に笑いながら──。
「む…? ここはどこだ? 見渡す限りの花畑が広がっているな……」
「すぅ…はぁ……。なんて甘い香りだ。鼻も胸も、甘さで焼けてしまいそうだ。しかしどうしてこんな場所に…。隊長殿と知影殿は、一体どこだ?」
「ふむ…知らない間に、知らない世界に跳ばされた…そんなところか。全く…本編の進行お構い無しだな。困ったものだ」
「しかし…何だか、ずっとここに居たいような気分にさせられる場所だぞ。こう…そこはかとなく懐かしさを感じるような……」
「む…あれは…川か。泳いだら気持ち良さそうだ…なんと、美しい……」
「…思えば、こちらの世界に来てからと言うもの…あれ程南国染みた場所に居たのに、一度も泳げなかったな。…今なら誰も見ていないし…泳いでも良いだろうか…」
「良し、泳ぐか」
「その前に準備運動と…予告だ。『力を持つだけで、何故虐げられるのか。かつて守るために力を奮ったというのに、何故刃を向けられるのか。誰よりも優しい彼が、何故傷付けられなければならないのか。倒れた弓弦を胸に抱き、悲しみに暮れるフィーナの前に広がったのは、天高く燃え上がる焔──次回、敗北からの旅立ち、故郷再び』…では準備運動だ」
「…そう言えば、水着を持って来ていなかったな……」