ふっふっふ。お姉ちゃんって凄いんだよ? byレイア
──前回までの、あらすじ。
セティと風音は寮内の食堂に居た。
グルメに食べる少女を眺めながら、風音は小さな決心を固める。
それは何故弓弦が教師になる必要があったのか、水面下で動いている作線行動に関するものであった。
風音による調査の手が伸びようとしていることを、弓弦はまだ知らない──
* * *
配達された自らの私物を確認する。
丁寧に畳まれた衣類を見、そのまま箪笥にしまっていく。
机の上に鏡を置いたり、積まれた教科書の中身に眼を通していく。
食事も、風呂も終えていた。入浴のタイミングには少々悩むところがあったが、下手に遅くの時間に入るよりは自由行動になってすぐ食事を摂り、その後に終えてしまった方が良いと決心し──無事に入浴出来た。
従者という位置付けの人物と、妹という位置付けの人物と会いはしたが、こちらに関しては会えて嬉しかった。
少しだけ会話に花を咲かせて、別れた。
二人の人物が同室であるという情報を得られたことも、思わぬ収穫であった。
収穫はそれだけではない。移動中、また別の知人の姿も見掛けた。「ユリちゃん」と唇が動いたことから、こちらの両者も同室であると考えられる。
編入生は、編入生同士の部屋割りになる。女性は、六人。
四人の組み合わせが判明すれば、自ずと最後のペアも決まる。
「(…何となく、そんな気はしていたのだけど)」
──それが、彼女にとっては問題だった。
それこそ、変探偵以上に。
「(いきなり鉢合わせなかったのは…幸運ね)」
内心で胸を撫で下ろした女性──フィーナは、鏡に映った自身の姿を見る。
編んでいた髪は下ろしていた。
ドライヤーで乾かした髪は、空気を孕んだようにフワリとしている。
「(ふふ…思った以上に安心しているみたい)」
右手首に巻いてあったゴムで髪を括り、肩から前に流す。
美しい金糸の奔流は、彼女の髪が良く手入れされていることの表れであった。
「(…臆病なのね、私)」
指で髪を撫でながら、自嘲する。
自分の中だけでも言葉にしなければ、自身の感情が分からなくなってしまう。
感情を抑えられなくなってしまうような──そんな気がした。
「(自分がどうなるか、分かってるから…。まだそうならないことに、安心してる)」
だからこれは、事前準備。
無駄なことだと分かっていても、少しでも悪い結果になり過ぎないように準備する。
これを臆病といわずして、何というのか。
おかしくて、クスリと笑ってしまった。
「(笑ってちょうだい? ね…)」
問い掛けるように、胸元へと指を伸ばす。
撫でるように触れたのは──指輪。
小さなネックレスに通された想いの形は、照明を反射して淡く輝いた。
「ふふ」
脳裏に浮かんだ人物の表情が、笑っていた。
左右で色の違う瞳を細めて、穏やかに。
「(でも笑われたら笑われたで、ちょっとだけムッとするわね…)」
フィーナもまた、自然と頰が緩んでしまった。
随分とおかしな行動をしているものだ。
お酒が入っている訳でもないのに。
「(…でも笑ってくれるぐらいが、良いのかもしれないわ。…だってこんな姿、あなたに見せられないから…)」
正直に話したら、笑われてしまうかもしれない。
だから、こっそりと吐露する。
心の中で、こっそりと。
「(…片付け、しないと)」
温もりを感じた指輪から、教科書類へと手を移す。
静かな作業であった。無言の空間の中、聞こえるのは小さな息遣いだけ。
片付けが終わると、翌日の時間割を基に翌日の教材を準備していく。
「(…あ、魔法生物)」
その最中、一つの科目に手を止めた。
午後、一発目の講義だ。
担当教員の欄には、「橘」と書かれていた。
「そう…」
思わず声が出てしまう。
思わぬ気付きだった。
そこはかとなく、運命さえ感じてしまえる。
「(…運命…)」
そういえばと、昼の出来事を思い出す。
「(…本当、人に気に入られ易いんだから)」
食堂の女性に言い寄られていた姿を、フィーナもバッチリ見ていた。
他の女性陣が動いていたので、わざわざ自ら手を下すまでもなかったが。今後も同じような場面に出くわす予感はあった。
「(…予習、何か必要かしら…)」
それはそれとして、受講の準備である。
教科書に眼を通し、重要そうなところには線を引く。
「(どんな講義をしてくれるのかしらね…♪)」
集中力が研ぎ澄まされていく。
同時に、明日が楽しみになってきた。
正直、それ以外の授業に関しては既知の情報が多過ぎて退屈の気配を感じていたが、この科目に関しては楽しめそうだ。
きっと、頰の緩みが抑えられないだろう。
今のように。
──ガチャ。
「──!」
扉のロックが外された音を引鉄に、フィーナの瞳が冷めた色を宿した。
それは、まるで仮面を被ったように。
「ただいま〜♪」
部屋に入って来たのはレイアであった。
上気した頰と、微かに湯煙が立ち昇っていることから、風呂上がりということが分かった。
手に持つタオルが微かに膨らんでいるのは、中に脱いだ着替えが入っているのだろうか。
「あ」
帰って来るなり、フィーナの姿を視界に止めたレイアは、若草色の瞳を丸くする。
「フ〜ちゃん! やっと会えたよ〜!」
親し気な様子でフィーナに話し掛けるレイア。
頰を少しだけ膨らませる仕草をしながら、フィーナの側へと寄って来る。
どうやら食事帰りでもあるだろう。シャンプーの香りに混じり、微かに料理の香りを身に纏っていた。
「食堂にもお風呂場にも居なかったから、どこに行ったんだろうって思ってたよ」
フィーナは、教科書から眼を離さない。
黙々と、魔法生物についての記述に眼を通していく。
「…フ〜ちゃん? お〜い」
返事はしない。
何度呼ばれようと、返事するつもりはない。
フィーナは以前、レイアにハッキリと伝えたのだ。「フ〜ちゃん」呼びをされる限り、返事しないと。
そこまで親しくするつもりはないし、何より──呼び方として気に入らなかった。
だから、返事はしない。
顔も合わせない。
「お〜い」
「(…。『バット』…ねぇ? 詳しくは書いてあるけど…魔法生物と言うより、動物じゃない。…こんなのについても講義しないといけないのね…)」
完全なるガン無視である。
「フ〜ちゃ〜ん?」
暫くレイアは呼び掛けていた。
呼び掛けだけでなく、横から覗き込んできたりもするが、フィーナは反応を返さなかった。
そろそろ面倒に感じ始めてきたが、それでは自分が「フ〜ちゃん」呼びに反応してしまうことになる。だから、徹底的に無視する。
レイアもレイアで呼び方を変えないので、最早我慢対決の様相を呈していた。
「フ〜ちゃん」呼びが続く室内。
気付けば時計の針と、教科書のページだけが進んでいった。
「ありゃ…頑固だなぁ」
微かに息を切らしたレイアが、離れていく気配がした。
流石に暖簾に腕押しだと気付いたのだろう。胸を撫で下ろすフィーナであったが、
「返事しないと、脇突くよ。突くからね?」
安堵するには、まだ早かった。
当然返事をするはずもないので、レイアはとうとう実力行使に移った。
「えい」
レイアの人差し指が、フィーナの脇腹を突く。
「ッ」
直後フィーナの身体に、何とも形容し難い擽ったさが走る。
フィーナは、脇腹が弱かった。
「そ〜れそれそれ〜♪」
フィーナの防御を避けながら、両手を使って執拗に突く。
柔らかく括れた横腹を突いては抜いて、突いては抜いて。
「きゃんっ!? ちょっ、も…っ!?」
擽ったそうな声を上げながら、身を捩るフィーナ。
そして、椅子から転げ落ちた。
翡翠色の瞳の眦に涙が光り、息も荒くなる。
「お〜しまいっ」
レイアはそこで、攻めの手を止めた。
五、六分は突き続けたか。そう気付いたのは、時計を確認したため。
実際には、一瞬にも思える程に楽しい時間であった。
「あ、あなたねぇ…っ」
肩で息をしながら倒れているフィーナが、怒りの宿った瞳で睨み付けてくる。
「こんな仕打ちをして…っ。酷いと思わないの…?」
「相手にしてくれないフ〜ちゃんだって酷いよ」
視線を正面から受け止め、レイアはしゃがむ。
してやったりな表情だ。歯噛みしながら睨むフィーナに、
「でも…やっと私のこと見てくれた」
どこか安堵したような、優しい表情で見詰め返す。
「折角一緒のお部屋になったんだよ? 話したいこと…一杯ある」
思いがけない言葉に、暫く間が空いた。
話したいこととは、何なのか。
「…何よそれ」
溜息。
「…あなたはいつもそう。そうやって…私の調子を乱す」
そんなことを言われたら、無視も出来ない。
身体を起こしたフィーナは、また溜息を吐いた。
「えへへ…でしょ?」
「彼女」はいつも──そうだ。
さも当然のように素直な気持ちを打つけ、こちらの心を引き出してくる。
人の心を開く魅力を持っているのだ。
だから誰とでも打ち解ける。
人を愛し、人に愛される。お人好しで、博愛主義を地で往く女性。
「たった一つの例外」を除いて──。
「フ〜ちゃんの反抗期も、私の前には無力なの。…そう、だったでしょ?」
だからこそ、フィーナは時折心配になる。
「彼女」は、例外のためなら手段を選ばない。
無論知影程ではないが、下手すればあの知影よりもタチが悪い。
誰が、どう動こうと。結末として彼女の「利」になることは変わらない。変わらせてもらえない。
「…ねぇ、あなたは」
途方も無い芸当だ。
そんなことが出来る存在は早々居ないが、他に一人だけフィーナは知っている。
いや、正確には知らない。フィーナとしてはは知らない。
厳密にいうなら、覚えているが正しい。
記憶の底。無意識の奥。
いつかどこかで、深く関わっていた人物にレイアはよく似ていた。
似過ぎていた。
「どこまで…あの人なの」
似てはいる。しかし、当人ではない。
当人ではないのに、似過ぎているから──不安になる。
でも似過ぎていることが、どうして良くないと思えるのか。直感的なものでしかなく、根拠は無いけども──やはり不安なものは不安で。
探るように、フィーナは問う。
「おろ。何か…久し振りだね、そう言う感じの話」
レイアは不思議そうに首を傾げる。
『アークドラグノフ』で、初めて会った時以来かもしれない。
お互いがどこまで、互いの知る存在なのか。探り合い──頬に平手を見舞われた。
「そう言えばあの時さ。まさかいきなり、『久し振り』なんて言われるとは思わなかったんだよね」
「…それで? そんな前のことじゃなくて、今のあなたについて訊きたいのだけど」
まっすぐ見詰めてくる翡翠色の瞳。
先程までは全く合わせてくれなかったのに、今は逃すまいと直視してくる。
「う〜ん、今の私? 私は私だよ? 変わらずずっと…ユ〜君のお姉ちゃんだもの」
ありのままをレイアは話す。
「それは知ってる。私が訊きたいのは…」
「…全部、私だよ? どこからとか…じゃなくて、全部私だもん」
ありのままだからこそ、フィーナの中では不安が膨らんだ。
「ねぇ…。本当は気付いているんじゃない? 夢は夢よ? あなたはあなた。…あなたはレイア…でしょ?」
レイアが自らを「姉」と位置付ける姿には、どうしようもなく違和感があった。
盲目的だ。
「姉」であろうとすることに、囚われている部分がある。そこに彼女自身の意志を、強く感じられない。
まるで、「姉」であることに従っているかのように──。
「…フ〜ちゃん。ちょっと言っていることが難しいよ? 私…理解が追い付いていないかも」
フィーナとて、己の内の危機感に従っているだけだ。理解は追い付いていない。
「それは、分かってる。けど…」
「大丈夫。私は、私だから。昔も今も、変わってない」
擽ったそうな笑顔。
笑顔の奥の感情は、見えない。
「レイア…」
レイアは、気付いている。
気付いているのに、眼を向けようとしていない。
だから諭そうとしても、彼女は聞き入れてくれないのだ。
きっと、何を訊いても堂々巡りだ。
「えへへ、心配させてる…かな。ごめんねフ〜ちゃん」
「ちょっと、撫でようとしないで」
フィーナは、それ以上の追求が出来なかった。
伸ばされた手を潜り抜け、そのままレイアから離れる。
「ありゃ、残念」
伸ばしても届かないような距離を取られ、レイアは肩を落とした。
「え〜、でもよしよししたいなぁ…」
かと思いきや、また手を伸ばす。
フィーナはそれすらも頭の動きだけで避け、追撃は手首を掴んで防いだ。
「駄目なものは駄目よ」
断固とした口調は、明らかな拒絶の意思。
「…フ〜ちゃんの意地悪」
そんな意思を伝えると、とうとうレイアは拗ねた。
悲しそうなでフィーナを見ると、ついっとそっぽを向く。
「だから、その名前で呼ばないで」
意地悪だか何だろうが、実に結構。
フィーナも予習に戻る。
勉強は予習から始まるのだ。少しでも勉強して、疑問を持って──無いならそれっぽいものを準備する。
「彼」はどんな返答をしてくれるだろうか。想像するだけで、もう楽しい。
「もう良いよ。お姉ちゃん悲しい…悲しいよぅ…。明日、ユ〜君に撫でさせてもらおっかな…」
その一方で、レイアはまだ拗ねているようだ。
不穏な言葉に、部屋の外では隠しているフィーナの犬耳がピクリと反応した。
「…間違っても学園内ではしないでね」
どちらが撫でる側でも、問題の香りしかしない。
いや、学園外でも自重してほしいものだが、そこまで強要は出来ない。というかしたところで、素直に従う彼女ではないだろう。
頭を撫でたくなる気持ちが分かってしまうからこそ、せめてもの妥協案であった。
「…そんなこと言って、フ〜ちゃんだって授業中にユ〜君の頭を撫でたことぐらいあるでしょ?」
「あら、私は授業なんてしたことないわよ? 人違いじゃない?」
「確かに、人違いではあるね。でも…憶えている、でしょ?」
フィーナの脳裏にふと、とある映像が過ぎった。
自分は濃緑色の板に向かって数字を記している。振り返った視界の中に入ったのは、制服に身を包んだ多くの男女の姿。
その中には、フィーナも良く知る、大切な異性の姿も。
「……」
映像は、確かにフィーナの中で「記憶」として残されていた。
「やっぱり、授業中なのに撫でたりしたんだ。そう言う公私混同、お姉ちゃんいけないと思うなぁ」
「記憶」の中では、確かに事実なのかもしれない。
フィーナの中には、確かに想い出としての映像が残っていた。
でもそれは、「想い出」でしかない。
「あなたがやろうとしていることも公私混同よ、レイア」
それはそれ、これはこれ。
学園外でのことには眼を瞑るが、流石に学園内での狼藉は見過ごせない。
「誰よりもあの人の迷惑になるってこと…分からないあなたではないでしょ?」
「…。フ〜ちゃんが意地悪する」
レイアはますます拗ねた。
別にどこでだろうと、良いではないか。
可愛い可愛い大事な弟代わり。こんなに撫でたいのに撫でられないなんて──そんなお預けという地獄があって良いものなのか。
レイアは、断固として拒否したかった。
「当然のことを言ってるだけよ」
机に突っ伏すレイアを、フィーナはさらに突き放す。
学園内では撫でさせない。
どこで誰の眼があるのか分からないのだ。撫でるなら人に迷惑の掛からないような場所で──
「(でもそれはそれで…何だか嫌な感じね)」
撫でたくなる気持ちは分かるが、学園内で撫でるのは駄目、しかしコソコソと隠れて事に及ばれているのも──複雑だ。
「(あぁ、もぅ…っ。どうしてそんなに魅力的なの…っっ)」
たかだか撫でる撫でられないで、人を悩ませるとは罪なものである。
しかし本能に基づく衝動的な行動は、中々止められない。
「……はぁ」
いつしか、机に広げた参考書に眼が行かなくなってしまった。
どうすれば、波を立てることなくレイアが弓弦を撫でられるのか。それを考えている内に、自分が彼の頭を撫でたい衝動に襲われていた。
「(…“テレパス”で念話でもしようかしら…)」
せめて衝動を紛らわそうと、代替策を見出す。
人気の無い場所なら良いのだ。こっそり念話が出来る場所が、どこかにあるはず。
「おろ、どこか行くの?」
そうと決まれば、早速行動。
席を立ち、フィーナは上着を羽織る。
「…散歩ついでに、夜風に当たってくるわ」
幸いにして、ここな女子寮だ。
外出のために着替えなくとも、寝間着姿で出られない訳ではない。
上着の着用は、湯冷めし切らないようにするためだ。
「(きっと起きてる…わよね?)」
不安はあるが、念話を掛けてみないことには分からない。
大きな期待と、ほんの少しの不安を胸に、部屋を後にしようとする。
「ぷっ…」
廊下への扉に手を掛けると、背後から噴き出すような声が聞こえた。
そこから堰を切ったように、堪え笑いが聞こえ始める。
「な、何よ急に…。撫でたさのあまり、壊れた?」
あまりに笑うものだから、フィーナは身体ごと振り返った。
困惑気味の声音ではあったが、不満そうに眉が寄っていた。
「ううん。何か…懐かしいなぁって」
一頻り笑ってから、レイアは染み染みと呟く。
懐かしい思い出を思い出すかのように、瞳が彼方を見詰めていた。
「いつもそうだった。…いつも、こうだった。私の知ってるあの子はね、不安と期待が混じっているような顔をしていた時は、決まってユ〜君を恋しくなっていたんだよ」
「…何の、ことかしら」
「非常階段に行くと良いよ。あまり人が立ち入る気配無かったから。ちょっとぐらい声出しても、周りに見付からないと思う」
そう言いながら、レイアは親指と小指を立てる。
「通話するなら」、そう言いたいのだろう。こちらを見るや否や瞑られた左眼が、何とも小憎たらしい。
「…そう、一応の参考にさせてもらうわ」
フィーナは顔を背けると、逃げるように部屋を出た。
「(…レイア、恐ろしい人)」
思考を物の見事に読まれていた。
お蔭で、要らない助言まで受けてしまった。
これから念話のための場所を探そうとしていた以上、非常に参考となる話ではあったのだが──それにしても不服だ。
「(…それともそんなに分かり易いのかしら。私…)」
試しに、弓弦に訊いてみるのも良いかもしれない。
幾ら取り繕っても本心が見え見えでは、色々と格好が付かないではないか。
「(取り繕うだけ無駄な取り繕いをする。…まるで、どこかの誰かさんみたい)」
脳裏に鳶色髪の人物が浮かんだ。
対抗心を剥き出しにしている癖に、要所要所で甘さを見せる女性を一人知っているのだ。
そんな人物と同列になりたくない。
だから自分が分かり易いのか、レイアが聡いだけなのか。これをハッキリとさせなければならない。
「(非常階段は…あっちね)」
館内の見取り図を確認する。
目的地は、通路の突き当たりだ。
方向が間違っていないことを確認すると、フィーナは足先を非常階段へと向けるのだった。
* * *
『ねぇ、私って分かり易いと…思います…?』
「は?」
『だから。私って…分かり易い?」
突然の“テレパス”は、丁度風呂上がりにかかってきた。
寝惚けるシテロを悪魔達に連れ戻させ、ようやく一人で落ち着けると思ったらの念話である。
「…分かり易い…なぁ」
腰にタオルを巻いた姿の弓弦は、冷蔵庫を開ける。
中からフルーツ牛乳を取り出すと、それを片手にソファに腰掛けた。
「ま…分かり易いと言えば、分かり易いんだろうな」
通話越しにも分かる深刻な雰囲気から何事かと思えば、これだ。
第一声からそんなことを訊かれても、正直どう答えたものか悩みものではあったが、取り敢えず。
「(フルーツ牛乳、美味…っ)」
一気に飲み干したフルーツ牛乳が、とても冷えていて美味であった。
『…ちょっと。私、これでも結構真剣に訊いているつもりなのだけど』
途端、どこか拗ねたようにフィーナの声音が変わる。
弓弦の様子から、全く相手にされていないと受け取ったようだ。
「これでも風呂上がりなんだ。初仕事の風呂上がり、まずはフルーツ牛乳の一本でも飲ませてくれ」
『そう…。じゃあ今日のお仕事は無事に終わったのね。…お疲れ様』
「と言っても、殆ど見学だったがな」
鼻で笑いながら、空き瓶を机の上へ。
思った以上美味い一杯だった。また買いに行こうと考えつつ、
『でも、慣れないことって気疲れの一つでも感じるんじゃないの?』
取り敢えず寝間着に袖を通していく。
湯冷めによる風邪の予防だ。
確かに気疲れはしているのかもしれない。というかしない程、弓弦は自らの神経が図太くないと認識している。
体調管理には十分配慮しなければならない。
「それはお互い様だ。そう言うフィーも、声が疲れてるぞ。…今日も一日、お疲れさん」
自分のことでさえ気になってしまうのだ。だから他人のことも気になってしまう。
『…やっぱり私、分かり易いんじゃない』
弓弦としては当然のことを言ったつもりなのだが、フィーナは深刻に受け止めたようだった。
「いや、声の疲れぐらい分かるだろ。それが分からない程、鈍くないと思っているが」
『そうなのかしら…』
「…そもそもな話を訊くが。何をそんなに気にしてるんだ。何かあったのなら、相談ぐらい乗らせてくれ」
『…それはね』
フィーナが悩むところに至るまでの話を話す。
最初は真剣に聴いていた弓弦であったが、次第に眼が細まっていった。
「(それぐらいで悩むのか…っ)」
口元が引き攣っている。
深刻とするには、あまりにも微妙な問題であった。
『あなたにならまだしも、他の人に行動を見透かされるのは何だか嫌なの。…深刻でしょう?』
「別に聡い人間ぐらい幾らでも居るだろう」
『だとしても、嫌なのよ。縛られているような気がして…』
「だとしても…ってなぁ」
駄々を捏ねられても。
誰にも本心を隠し続けるのは、中々に難しい話で。
『縛られるのならあなたが良い……』
妙に艶っぽい言い方に、弓弦は背中がむず痒くなるのを覚えた。
『にゃは。お熱いお誘いだにゃ』
『師匠のツッコミは激しく鋭いのだ。癖になってしまうのも当然』
『にゃはっ、それじゃ別の意味にも取れちゃうのにゃ』
途端に賑やかになる脳内。
「(…取り敢えずクロ、静かにしてろ)」
「きゃっほ〜♪」
隣に顕現するシテロ。
「(またか…っ)」
折角戻したというのに。
「ユールに呼ばれたから出て来たの」
小龍の姿で顕現したシテロが、頭の上に乗った。
『君の言い方もまた、別の意味として捉える者が居たようだな。弓弦…』
「(んな…っ)」
「静かにしてろ」、「してろ」が「シテロ」に。
気付いた頃には時既に遅し。
ヴェアルの呆れたような声が聞こえてきた。
『ちょっと…そこで静かにされると、何だか変なこと言ったように思えちゃうわ』
「(変なこと言ってるだろうがっ)」
フィーナ、発言の自覚無し。
「…ちょっと頭の中がな、賑やかなんだ」
「…ん〜、石鹸の良い香りがするの」
「頭の上もな」
もう滅茶苦茶であった。
弓弦の周りは、またも賑やかに。
『あら。夜には戻って来ているなんて、律儀な悪魔達ね。昼間、散り散りになっていたような気がするけど』
「あぁ…」
確かに。弓弦は同意した。
言われてみれば、不思議なもの。
長い時を生きる悪魔達にとって、人間の時間は刹那にも等しい。
それこそ瞬きの間で、一国が興亡している程の流れなのだ。
「勝手に出ろ、とか好きにして良いとは言ったが…特に門限とか決めてなかったな…」
それなのに、悪魔達の殆どが弓弦の在学中に戻って来ている。自発的に。
「なぁ、別にもう少し自由にしてくれても良いんだぞ? 今もわざわざ俺の側に居なくたって」
頭上と、自らの心の中に問い掛ける弓弦。
唯一自らを悪魔ではないと豪語する神鳥だけ行方が知れないが、蝙蝠悪魔の居場所については決まり切っているのだ。
律儀な悪魔達──よくよく考えてみれば、深々と頷ける話である。
『師匠の側に居た方が、笑いについて学べるからな…』
『別に僕は、日向ぼっこをしていただけだし、涼しくにゃったから戻っただけにゃ』
「ちょっぴり複雑だけど、半分はクロルと同じなの。ユールの側が一番ポカポカだから」
『フ…しかるべしということさ。帰る場所があるのだから』
「お前等な…」
全員が全員真面目な答えを返してくれる。
律儀というか何というか。
「全員本当に悪魔なのか? 何で、そう…」
むず痒さが留まることを知らない。
苦虫を噛み潰したように面持ちを崩した弓弦の耳を、微笑ましそうな声が打つ。
『ふふ…その様子だと、律儀な答えが返ってきたのね。良かったじゃない、人気者ご主人様』
「…あぁ。随分と大切にされてるよ」
どこか拗ねているようにも聞こえるのは、何故だろうか。
『…私だって、ずっとあなたの側に居たいのに』
いや、気の所為ではないのだろう。
本音がハッキリと聞こえてきた。
「(本当…大切にされてるよ)」
自然と、弓弦の頬が緩んでいた。
自分は恵まれている。思い、想われている。
だから、自分も負けじと守ろうと思える。その気持ちに応えようと思えた。
「(だからこそ、皆が楽しめる学園生活のために…俺には課されたものがある…!)」
学園に及ぶ魔の手を退けるという任務を、完遂する。
そのためには──。
「…ところで──」
弓弦は机に置いてある眼覚まし時計を一瞥した。
談笑の間に時は流れ、いつしか明日が眼と鼻の先に迫っている。
だとすると、気になってくることがあった。
「寮の規則をしっかり見た訳ではないんだが、常識的には消灯時間じゃないのか…? 起きていて良いのか?」
消灯時間である。
寮を始め、公的に共同生活を営むタイプの宿泊には、この消灯時間というものが概ね存在している。
個室を除く共同スペースの消灯時間とは、即ち便宜上の就寝時間でもある。この時間ともなれば、寮生達は充てがわれた部屋に戻って各自の時間を過ごす。
だが完全に自分だけの時間かといわれると、そうでもない。
自室内における行動を咎める規則はないが、それでもある程度の分別ある行動は求められる。
曰く、他人の迷惑とならないように。
ありがちな決まりだ。
「(ま…そう言うのは決まって、決まりを破る生徒が居るもんだが…)」
『…何のことかしら』
フィーナの素知らぬ素振りが、声音から容易に察せられた。
『…いつ寝るかは私の勝手じゃない。
「(…初日から破るなんてな…。フィーめ)」
どうやらシラを切るつもりらしい。
「あのな…」
転入生は、基本的に転入生同士で相部屋となる。弓弦が教員として赴任する直前に、学生寮の資料を見て得た情報だ。
フィーナの話し振りからするに、彼女の同室者がレイアであることは想像に難くない。
そして彼女のことなのだ。わざわざレイアが居るような場所で通話してくるはずもない。
「どうせ部屋の外に居るんだろう」
必然的に、現在人気の無い部屋の外に居るということになるのだ。
『…どうせって、何よ。…どうせって』
共同スペースに居るのなら、あまり褒められた行動ではない。
教員として、規律は守るように注意しなければならない。
『これでもし私が部屋に居たら、どうするつもりなのかしら』
シラを切る悪い生徒には、教育的指導の必要がある。
そのために、裏を取る。
「じゃあ今から確認するか」
『え』
弓弦は感覚を研ぎ澄ます。
遠方に感じる魔力の中で、一際眩しい輝きを見せるレイアと、フィーナの魔力を追い──
「…やっぱりな」
両者が離れていることを確認した。
詳しい位置までは分からない。しかし殆どが重なるように感じても良いはずの魔力に、明確な距離を感じていた。
『…レイアを基準に考えられるの、不服なんだけど。シスコンご主人様』
「そりゃあ、レイアかフィー、どっちが優等生かと比べたらな…」
規則を守る印象の強さは、残念ながらレイアに軍配が上がる。
勿論、両者を比較した場合の話だが。イメージとしてはそんなものなのだ。
「(ま…こんなこと言ったら、機嫌を損ねそうだが)」
内心で苦笑しつつもフィーナの反応を待つ弓弦。
『…何よ』
案の定、フィーナの声音に拗ねたような色が宿った。
今頃、抗議の瞳をしているに違い無い。
明日顔を合わせようがものなら、凄まじい勢いで抗議してきそうだ。
そして弓弦の初授業となる明日のクラスは、フィーナの居るクラスである。
授業中に向けられ続けるであろう抗議の視線を予防する手段は、勿論準備済みだ。
「フィーは…」
温めておいた言葉を、ここぞとばかりに口にする。
「いけない娘って話だよ」
いけない娘。
声は低く、少々キザったらしさを添えて。
どこか揶揄うようにも伝えた言葉の直後、息を呑む気配がした。
『い…いけない娘…っ』
フィーナの声が上擦る。
微かに聞こえていた呼吸の音が量を増し、荒さを伴う。
『ん…っ』
そして幸せそうな吐息が聞こえてきた。
「こら、喜ぶな」
等と言いつつも、弓弦はしたり顔を浮かべていた。
フィリアーナ・エル・オープスト。金糸の如き髪が、その幻想的なまでに整った容姿が、あまりにも美し過ぎるハイエルフ。
時に『高貴なる森の妖精』とも呼ばれ、詩人が唄う伝承の彼方に存在するような美女は──。
『ご主人様…聞こえなかったから、もう一度…っ』
中々のマゾヒストであった。
普段はそうでもないのだが、何かの切っ掛けでスイッチが入ると、途端にこうして甘えてくるようになる。
『…って、ちょっと…学園でそう言うのは止めてほしいのだけど……』
そして、普段のフィーナに戻る。
「その割には、乗り気だったがな」
「…ノリツッコミよ。人で弄ぶ誰かさんお得意の」
相変わらず拗ね気味の様子だが、機嫌は少し良くなったようだ。
「性格悪そうだな、そいつ」
どこか満足そうに皮肉で返したフィーナに、弓弦は素知らぬ顔のまま鼻で笑う。
人で弄ぶとは、大分捻くれ者のようだ。
『そうそう。沢山の女に囲まれ想いを寄せられにゃがら、誰も選ぼうとしにゃいぐらいには捻てるのにゃ』
いかにも具体的な注釈とばかりに話す悪魔猫の声は、誰にも相手にされない。
『えぇ、本当。…素敵な性格してるわよ?』
「そうか?」
『そうよ』
「そうか」
『…そうなのよ』
フィーナが欠伸をした。
したというよりは、嚙み殺したか。
弓弦に気付かせまいと努力したようだが、声を抑え切れていない。
『…ぁ…。くしゅんっ』
とうとう、くしゃみもし始めた。
「…おい」
恐らく身体が冷えてきたのだろう。
それもそのはず。弓弦自身、肌寒さを感じていた。
『な、何かしら』
フィーナはなおも、何事もなかったように誤魔化そうとする。
まだまだ話し足りない。普段同じ部屋で生活を共にしていたからこそ、思うように話せない状況が話題を作り出そうとする。
寂しいのだ。
そんな彼女の気持ちが分からない程、弓弦も鈍感ではない。
しかし、ひたすら寂しさに付き合うには気持ち以前の問題──時間が足らなかった。
このままでは、延々と朝まで通話しかねない以上、キリの良いところで横になりたかった。
「…でだ。…そろそろ、俺も寝たいんだが?」
それに、フィーナの体調のこともあった。
完全に湯冷めしつつある彼女。
風邪でも引かれたら大変だ。
『…そう』
だから弓弦は、心を鬼にした。
有無を言わせぬ口振りで、それなりの嫌味も交えてフィーナを突き放す。
「また、明日な?」
鬼にながらも、飴と鞭は使い分けて。
『…! はい!』
フィーナは嬉々として返事をした。
今は会えなくても、明日になれば会うことが出来るのだ。
それどころか、早く寝れば寝る程朝は近付く。弓弦の言葉に、瞬時に明日の楽しみを見出した。
「じゃ、おやすみな」
『はい、おやすみなさい』
別れの挨拶と共に、念話は終わる。
何だか、良いことをしたような気分だ。窓の外から見える星空が美しかった。
「ん、こんな生活も悪くないな」
ソファから立ち上がり、机を部屋の隅へ。
代わりに布団を部屋の中央に持って来ると、広げた。
「良し」
一息吐いてから、戸締りをしっかりとする。
最後に玄関の鍵を確認してから部屋の電気のスイッチまで踵を返す。
スイッチを押すと、部屋は一瞬にして暗くなった。
「(明日から講義…か。上手く出来るか…)」
掛け布団を捲り、敷布団との間へ身体を滑り込ませる。
フカフカだ。背中から優しく包み込むような感覚は寝心地抜群だった。一日の中で疲弊した弓弦の意識を夢の中へと誘っていく。
こうして、弓弦の教員生活初日は二日目へと移っていくのであった。
* * *
──その頃。
「…大体、こんな所か」
トウガは用紙を片手に、鳥小屋の前に立っていた。
用務員服のポケットには色が数種類あるペンが。手に持っていた赤ペンをそこに戻し、用紙を眺める。
それは、学園の見取り図だった。校門、校舎、別棟が階層毎に分けられており、学園の隅から隅までが俯瞰的に描かれている。
広大な学園の敷地が描かれているためか、枚数が数枚に及んでいた。
図の中には、幾つも赤い丸が記している。トウガがしまったばかりのペンも、新たな丸を記すために使われていた。
「(…やはり広いな。流石は『中立派』が公的に擁する、最大の学園ってことか。目星付けるだけで、ここまで時間を取らされるとは…)
丸印はそれぞれ、学園内の隠れスポットを示している。
人目に触れ難い場所、生徒の溜まり場になりそうな場所だ。
もし学園内で、生徒達による不穏な動きがあるとすれば──という視点の下、地道に足で確かめていった魂の結晶達だ。
すぐには無理であろうが、いずれ網に引っ掛かることもあるはず。それを期待しながら、用務員としての立場を活かして清掃が出来るルートを確立させる。
怪し気な生徒や教員が居れば、それを弓弦に報告。監視対象にする。そして自分はひたすら水面下での情報収集に徹する。
当面はその方向性でいくことが、弓弦とトウガの作戦であった。
「さて、戻るか…」
一日の成果を確認したところで、トウガは用務員室への帰路に就いた。
──キェェェッ!
鳥小屋の鳥が鳴いている。
夜だというのに、先程から鳴いていた。
「…元気だな」
昼間も逃げられたし、ようやく使えてみれば抗議とばかりに鳴いている。
元々何羽飼われていたか忘れてしまったが、昼よりも一羽増えているような──。
それにしてもうるさい。
「静かにするんだぞー」
鳥を黙らせる方法なんて知らないトウガは、身体を休めるためにその場を去った。
「キェ…」
人気の無くなった中庭。
翼を落とした一話の隼が、夜空を見上げた。
そう、この隼こそ鳥小屋の新たなメンバー。
昼に羽を休めていたところを捕獲され、あれよあれよの間に小屋の中へ。
一瞬の出来事であった。
抵抗も出来ぬまま、自由を奪われてしまった。
『私は何故飼われているのだッ!?』
そんな神鳥の抗議は、澄み渡った夜の空に吸い込まれていくのだった──。
──チャッチャカチャ、チャッチャカチャ、チャッチャッチャッカッ…チャ?
「ん…? 今日はいつものアレじゃないのか。魔法講座…内容は何とも言えないが、勉強にはなるし、楽しみにしていたんだが……」
──トントン。
「ん? こんな朝から一体誰だ? 折角人が羽を伸ばしているって時に。…は〜い」
「……」
「ユリ…。と言うか、どうしてそんなにびしょ濡れなんだ!? 色々と視線を向け難い感じなんだが…っ」
「……まぁ、何だ。色々あってな。詳しく話すと長くなるから…まずは部屋に上げてもらえないか」
「あ、あぁ…ちょっと待ってくれ、タオル持って来るから」
「ほら。風邪を引いたらアレだし、どうせならシャワー浴びるか?」
「すまない。うむ…それも良いのだが、尺がな…」
「あぁ、確かに…。だが、濡れた服を着たままと言うのもいけない気がするな……」
「むぅ…」
「俺の服で良かったら、貸そうか?」
「む…! 良いのか?」
「あぁ、ユリさえ良ければ」
「私は構わないぞ。弓弦さえ良ければ貸してくれると嬉しい」
「そうか。じゃあ服を取ってくるから、脱衣所に入っていてくれ」
「う、うむ……」
「(…そう言えば、ここはどこだ? 弓弦の家…のようだが、私はどうやってここに来た…? 色々あってずぶ濡れにななった帰り道…突然眼の前に蟷螂が飛んで来て…そこから……記憶が曖昧だな……)」
「(だが弓弦の家に来れたのは、不幸中の幸いか。タオルだけでなく、衣服まで貸してもらえるとは……)」
「ほらユリ、流石に面と向かって渡す訳にはいけないから、壁越しに受け取ってくれ」
「…ふふっ」
「…どうかしたか?」
「あぁいや、何でもない。感謝するぞ」
「どういたしまして」
「(さて、服は…ふむ、Tシャツにジーパンか。む、上着もある。成程、そのまま帰れるように見繕ってくれたのか。相変わらず優しい男だ。下着は……まぁ、替えがあるはずはないか。あっても困るしな)…。弓弦、その、脱いだ服なのだが……」
「良かったら、俺の魔法で乾かしておこうか? 予告が終わるまでには乾かしておくが……」
「…そんなことが出来るのか?」
「火と風魔法の応用でな。‘ここでなら、別に魔法を使ったところで目くじらを立てられることもないだろうし……’」
「…む?」
「こっちの話だ。それで、どうする?」
「…なら、お言葉に甘えたい」
「分かった。じゃあ、その辺りにある台に載せておいてくれ。出来れば広げておいてくれると、乾き易い」
「うむ、分かった。…少しぐらいなら重ねても良いか? その……」
「…! そう…だな。そっちの方が俺としても…な」
「う、うむ…!」
「(弓弦の服…。流石にサイズが大きいな。だが…ふふっ、悪い気はしない…が…少し恥ずかしいな)…。き、着替えたぞ……」
「…ん。やっぱり、少し大きかったな」
「私と弓弦の体格差だぞ? これぐらい当然だろう」
「…それもそうか。…じゃ、服は乾かしておくからな」
「うむ、お願いする」
「良し。…そうだ、何か温かいものでも飲むか? と言っても、ホットミルクぐらいしか無いが」
「十分だぞ。是非いただきたい」
「あぁ。…ほら」
「む、早いな」
「“ラジェーション”を使えばな。熱過ぎないよう調整はしたけど、気を付けて飲んでくれ」
「うむ。……ん、良い温度だ。身体に染みるぞ……」
「ははっ、そりゃ良かった。俺は少し講義の準備をするが、適当に過ごしてくれ」
「…講義の準備?」
「平たく言えば、事前学習だな。生徒達の質問に答えられるようにしていないと、ロクな講義が出来ないし」
「おぉ、弓弦は努力家だな」
「茶化さないでくれ。それより、予告は良いのか?」
「‘…予告を言うと、この一時が終わってしまうではないか……’」
「……」
「…いや、そうだな。どれ…『弓弦だ。とうとう初講義の日が到来した訳だが、やっぱり緊張してしまうものだな。せめて穏やかな講義を行いたいものだが…あぁ、知ってるよ、知ってたよ。新人、それも無名教師、初講義で何も起きないはずがなく──次回、真面目に授業を聞かない奴に限って、生意気な程才能があったりするby弓弦』…む、弓弦の予告じゃないか。それなら別に、弓弦が読んでも……」
「別に、俺の予告だからって俺が言う必要は無いだろう? それに、ユリなら読んでくれると思ってた」
「む…そうやって、上手く人を丸め込もうとする」
「丸め込むも何も、本心そのものさ」
「…と言いながら、私に決心を付けさせたのだろう? 自分が言い出すと、突き放したように受け取られると思ったから。ほら、これを丸め込もうとしていると言わずに、何と言うのだ」
「さぁて、な」
「…ぐ。してやられた」
「ま、予告はある種ノルマだからな、言わない限りはいつまで経っても終われない」
「言った以上、終わらなければならないとも言えるではないか…!」
「そうとも言う。だが、いつまでも続ける訳にはいかないだろう? ここは本編じゃなくて、あくまで予告なんだから」
「…それはそうだが、居心地の良い場所に居たいと思うのはいけないことなのか?」
「同じ時間は、二度と訪れない。でもだからこそ、“次”がある。いつまでも留まる訳にはいかないだろう? 次のお楽しみ、無くなるぞ」
「うむ…そうだな」
「ま、またタイミングが良ければ来れるかもな。…こっちでも、本編でも」
「…む、それはどう言う意味だ」
「さぁて、な」
「…むぅ」
「…じゃ、長くなったがそろそろ終わるか」
「…。私はまた来るからな」
「ははっ、いつでも来てくれ。ここはそう言う場所さ」
「…! ま、まさか…」
「…じゃ、良い現実を」
「なっ!?」