真実
直に見た訳ではない。
ただ彼女の見た目は、あまりにも二人に似過ぎていた。
「何とも、因果なものです。私の命でも奪りに来ましたか」
嗄れた声に感慨が込められる。
忌々し気にも取れる声音で呟くローランドの脳裏に、浮かぶ景色があった。
「もう…十六年になりますか」
今から十六年前。とある異世界へと魔物討伐に向かった新人四人の部隊が、突如現れた数百にも及ぶ魔物の軍勢の襲来に見舞われた。
後に『豪雪の悲劇』と呼ばれることになるこの事件、唯一の犠牲者。その名を、オルナ・ピースハートといった。
しかし眼の前に、その彼女が居る。
十六年前に死なせたはずの人間が、何故。
怪訝に顔を歪めたローランドは、皺だらけの掌に小さな石を隠し持った。
「その口振り~…やっぱり、あなただったんだ。あの時“私”を“喚んだ”のは…」
死んだはずの人間ーーー否。もう人間では、ないのだろう。
放たれる威圧感が、人間のものではなかった。
この威圧感には、覚えがあった。
かつて出会ったことのある、人とはことなり異質で、しかし大いなる存在ーーー【リスクX】。『組織』において、最強最悪の宿敵に分類される化物達を示すカテゴリー。二つ名を持ち、その圧倒的な魔力で世界を滅ぼす存在ーーーそれが、悪魔だ。
女は、確かに畏怖すべき存在の威圧感を放っていた。
「“喚んだ”?」
ローランドの記憶する限り、該当する悪魔は一体だけ。
実験だった。とある古代文献を発掘し、中に書かれていた魔法陣をそのまま、とある洞窟の地面に記した。
「…あなたは、まさか」
その時は、何も起こらなかった。
古代人の落書きか。そう断定し、ローランドは帰還した。
しかしその後、魔法陣が起動した。
界座標【02943】に、【リスクX】の反応が出現したのを知ったのは、哀れな新人部隊による救難信号の詳細に眼を通した時だった。
魔法陣によって、時間差で一体の悪魔が異なる世界より召喚されたのだ。
その悪魔の名はーーー
「『滅失の虚者』…だとでも言うのですか」
『滅失の虚者』フェゴル。
正しく、文献に記されていた悪魔の名に違い無かった。
『豪雪の悲劇』ーーー後にそう呼ばれることになる惨劇の引鉄を引いたのは、他ならぬローランド・ヌーフィーその人であったのだ。
「正解。じゃ~」
満足そうに、フェゴルは声を弾ませた。
しかし、空のように蒼い瞳は笑っていない。
空のように澄んでいたかのように見えた瞳は突如濁り、
『…死んで?』
明確な殺意を帯びた。
雰囲気が、さらに変異する。
突如として爆発した闘気に当てられ、なす術無く吹き飛ばされたローランド。
その首目掛けて、大剣の切先が迫るーーーッ!
「死ねないんですよッ!」
ローランドは、持っていた『簡易魔法具』を地面に叩き付けた。
そして生じた幻の霧に乗じ、『エージュ街』から逃げ果せるのであった。
* * *
奇襲を仕掛ける側は、自分達が奇襲されるかもしれないということを念頭に置かなければならない。それは平常時に増して懸念せねばならないことだ。
その思考があったからこそ、全ての策が薙ぎ倒された瞬間に対応出来た。もし『簡易魔法具』の力が無ければ、今頃物言わぬ真っ二つになっていたはずだ。
万が一、億が一のための備えの万端さが、命を繋ぎ止めた。
自分のことながら、褒めてやりたい気分だった。
「『滅失の虚者』…。放った魔法は…文献に伝えられる『殲滅属性』。あぁぁ…凄まじい威力でしたねぇ」
思い出すだけでも、忌々しい光の暴力。
予測出来なかったのは、そのただ一つだけ。たった一つを読めなかったが故に、あらゆる予測を蹴散らされた。ローランドは、敗者になってしまった。
「(眼の前で『リーダーガルム』が死んだ時にまさかと思いましたが…。露骨な邪魔が入りましたね…)」
予兆は、あったのだ。
ローランドが『エージュ』街潜入のために変装し、付近の山に転移したばかりの頃。茂みの先を歩いていた魔物達の首領が突如として絶命した。
『マーナガルム』の習性である敵討ちの対象にされてしまったローランドは、機転を利かせて『エージュ街』潜入の助けとした。
無論命懸けだ。用意していた爆弾が爆発すれば、死。自分が喰らい付かれても、死。しかし何とかそれを乗り越え、街への潜入に成功した。
何故首領が絶命したのか。
武器も、魔法も、人の気配も無いために偶然かと思ったが、その頃から妨害は入れられていたのだ。
それだけではない。ローランドは『エージュ街』での去り際に、捕虜に仕込んだ爆弾の起爆スイッチを押した。
だが爆弾は爆発しなかった。
今になって思えば、捕虜に対しても『滅失の虚者』は手を打ったのかもしれない。
これは予測でしかないが、だとすると随分嫌味な嫌がらせだ。
どうやら、『滅失の虚者』に強い反感を持たれてしまったと考えるのが普通か。
「ひひっ…。しかし、その邪魔のお蔭で面白いものが見れたのも事実。そう言った点では痛み分けでしょう」
自身の研究室へと辿り着いたローランドの視線は、室内の中心に設置された柱に据えられた。
変わらず青と緑の混じった液体が湛えられている柱内では、妖しい光を放つ一つの石が浮かんでいた。
少々光が弱まってしまってはいるが、これは一の策の失敗で刻まれたダメージによるもの。時の流れと共に回復しているため、元の状態に戻るには暫しの時間を要するだろう。
「…少な過ぎればじきに自壊、多過ぎればその場で自壊、もしくは化物化する。『滅失の虚者』は…実に危ういバランスでした。しかし、成り立っている。精神の争いに悪魔が勝つことも、身体の主が勝つこともなく、共在していた…」
次に、ローランドは椅子に座ると自身の端末を立ち上げた。
カタカタと打たれるキーボードに従い、画面内に文字が記されていく。
「悪魔が勝てば、身体の支配権は悪魔のものとなり、主の精神は消える。主の魔力は悪魔の魔力に塗り潰され、肉体と共に変質して化物になる。…名売れの実力者でも、悪魔一体分の魔力となると耐えられずに化物化、あるいは自壊したために半ば諦めてはいましたが…。成程、こんな解があったのですね」
簡潔に文章を打ち終え、椅子に深く凭れる。
『滅失の虚者』に焼かれた部分が酷く痛んでいた。『魔石』と同じように、ローランドも暫くの療養が必要なのはいうまでもない。
「オルナ・ピースハートは、悪魔一体分の魔力と鬩ぎ合うだけの存在だった。やはり例外は居ると言うことでしょう。ならば…」
ローランドはそのまま、椅子を倒した。
倒すと寝床になる椅子に身体を預け、静かに意識を沈めていく。
「逆に…悪魔に打ち勝ち、悪魔そのものを従えることの出来る存在が、世界のどこかに居るのかもしれません。ひひっ…そのためには…片っ端から実験ですね…」
己が望みへの成就が近付いたことに、闇のような嗤いを浮かべながら。
そのヒビ割れた嗤いはさながら、悪魔のようであった。
「ぅ…っ」
ローランドを追い掛けて来たゼザは、部屋に足を踏み入れるなり口元を押さえた。
不気味な嗤い声に血の気が引いた彼は、意識を失いそうになりながら来た道を引き返すのであった。
* * *
上も下も、右も左も無い空間で、静かに、ひっそりと。
此方から彼方へ、眼に見えない流れに乗って流されていく。
ーーーここは、どこ。
どこかであって、どこでもない。
どこでもないけど、どこかにある。
捉えどころのない景色を、虚ろな空が映す。
ーーーなにもない。
滲むように広がる景色を見詰め、淡々と呟く声は女のもの。
その声音は、まるで感情が抜け落ちたように色が無かった。
ーーーあるのはこのこと…。
共に漂う得物へと伸ばした指が、側に寄り添うように柄を撫でる。
そっと自分の下へと寄せた刃に頬を寄せると、徐に眼を閉じた。
ーーーおもいで。
瞼の裏で、景色が瞬く。
明滅する情景の中で、人々の顔が浮かんだ。
知っている人達だ。そう最初は思った。
ーーーせいしゅうくん、りぃるちゃん、せんせい、ぱぱ、まま。
しかし呟いても、妙な程腑に落ちない。
実感が湧かない。
知っているはずなのに、知っていたはずなのに、知らない人達のように思えてしまった。
ーーーわたしのなまえ…おるな。おるな、ぴーすはーと。
自分の名前でさえも、実感が湧かない。
ーーーだけど「せんせい」はちがうって。だけど、「ぱぱ」はそうかもしれないって。
まるで他人の名のように聞こえて、むず痒い違和感と空虚感だけが全身を駆け巡る。
ーーーわたしのなまえ…ふぇごる。
もう一つの名にも、やはり違和感。
呟きが、とても遠くに聞こえる。
自分が、分からない。
ーーーどっち? ほんとのわたしは…。
本当の自分とは、何なのか。
そもそも自分は元々どんな存在であったのか。
分からない。ただただ心の中で虚しさが広がる。
ーーー…。
でも。
ーーー……っ。
チリリと、胸を焼くようなこの痛みは。
虚無の中でも、この痛みと、思い浮かぶ一人の男の顔が、虚しさをほんの少しだけ埋めてくれる。
ーーーおしえて、…………。
どうしてなのかは説明出来ない。
だがどうしても、彼の存在と共に浮かぶ景色だけが虚無を照らしてくれる。
ーーー私も、知りたい。
ーーー混じり合った「何か」が、語り掛けてくる。
それは虚無の根底に、ある感情が存在しているから。
それがこの虚無の始まり。虚無が求めているモノ。
「何か」、には元々何も無かった。
元々虚無であったが故に、己以外の「何か」を求めた。
求めた先に生じたのは、やはり虚無。
虚無が「何か」を塗り潰し、道連れとした。
それはこれまでも変わらなかったことであり、これからも変わらないと思っていた。
なのに。
ーーーまた殺し合えば。ほんとうのわたしが、わかるかな…。
虚無は今も変わらず、「何か」を求める。
しかし「何か」が何であるのか。それを見出すための、強い光が照らす彼方を見据えていた。
ーーーまた、あいにいこう。また、ころしあおう。そうしたら、きっといつかわかるかも…しれないから。
虚無は求めていた。
暗闇を照らす、温かな光を。
そして思い出の地へと、また静かに足を運ぶのであった。
* * *
エージュ街。
人々の喧騒に塗れた街は、今日も人の往来が激しい。
先日悪魔からの襲撃があったにも拘らず、人々の表情は和やかであった。
しかしその街中から外れた路地の奥には、今も生々しい殲滅の傷痕が残っている。
地上と地下、住居二軒分の穴が縦に空いている地は、今は立入禁止となってる。
しかしその地に、人が居た。
大きく抉れた地面の底を、屋根の上から一人見下ろす者が居た。
ほんの数分前に足を止め、見下ろして。もう、数分経つか。
フードの奥は影になっていて窺えない。しかし、何やら視線が釘付けになっているようだ。何の動きも見せることなく、暫く静止していた。
冷たい風が吹いている。
フードから繋がる古ぼけた旅装束が風に煽られると、中から腰に帯びた小さな物体が鈍く陽光を反射する。
「……!」
その視線の先に、姿を見せる者が居た。
遠眼からでも美しいと分かる鳶色の髪。
凛とした佇まいの背中から放たれるのは、強き武人の気配。
鎧越でも美しい曲線を描く腰からも、その人物が女性であると物語っていた。
その者を見詰める存在の口が、小さく動いた。
ーーーッ!?
視線の先の女性が振り返る。
まるで声にならなかった声が、聞こえたように。
ーーーお前なのかッ!?
しかし屋根上には既に、誰も立っていなかった。
「ただいま戻ったぞ…?」
「弓弦とフィーナ殿は……まだ寝ているのか。まったく…良く寝てくれるものだ。縄で縛られているというのに…。まるで変態ではないか」
「…私も人のことをとやかく言う権利は無い…か。こんな…弓弦の服を着て喜んでいるのだものな…」
「…仕方が無いではないか。この…弓弦の香りに包まれている感じが、どうにも堪らないのだ…っ」
「すん…。…ぁぁ……弓弦…♪」
「すん…すん…。すん…♡」
「……すん…? 心なしか、弓弦の匂いが薄いような……!? いや、この弓弦、良く良く見たら本人じゃないっ。服を着せられたクッションではないかっ!?」
「すぅ…」
「フィーナ殿は…本物だな。幸せそうに寝ている…」
「…弓弦はどこに? …部屋に帰ったのか? 確かに小さくなったり、女体化したりするが……わざわざ身代わりを用意してまで…。中々巧妙な……」
「…まさか、連れ去られたのか? だとすると…ふむ」
「…予告だ! 『不穏が終わると、光が差した。雲の間を切り裂く艦に乗る男に城に残る男、どちらにも光は隔てなく差し込む。彼等の前には、空が広がっていた。どこまでも広がる、澄んだ空がーーー』」
「あら…」
「む…。起きたかフィーナ殿」
「…。してやられたわね」
「どこへ行くのだ?」
「決まっているじゃない。全ての元凶の下へよ」
「…元凶?」
「大体こう言うウィルス沙汰を起こすのは、一人しか居ないの。…あの人も、きっとそこに居ると思うわ」
「…そうなのか?」
「間違い無いわ。…で」
「む」
「…どうして、あの人の服を?」
「…引き出しの上に入っていた服を持って風呂に行ったのだ」
「…それで、着てしまったのね」
「うむ。つい」
「…分かるわ」
「…分かってくれるのか?」
「…付き合いたての熱々な頃とかにね、する子が多いのよ。そしてさせたがる男が多いのよ」
「…う…む?」
「…熱い頃…か」
「フィーナ殿?」
「…たまには若々しく、制服とか着てみるのもありかも」
「…えっと…フィーナ殿?」
「ちょっと…ね♪ それよりも、ユリ。一番最後の予告コールが抜けているわよ。次で、今章の最終話なんでしょ?」
「う…うむ、最終話…。そうだったな」
「はい、じゃあお願い」
「『ーーー次回、青空』…うむ、では参ろうか」
「‘制服着て…首輪付けて…教室で……’」
「フィーナ殿〜、行かないのか〜?」
「…は!? 今行くわ!」