動揺
「…では一段落したところで。ディーさんはそろそろ、お帰りになった方が良いのではありませんか?」
アンナの抗議が終わったため、ジェシカは場を仕切り直した。
ミーアやジェラルが退室してから、少々時間が経過したのが現時刻だ。月はどんどん沈んでいき、いよいよ地平線と星空の中間地点にまで移動していた。
「ん? あ~、そうなんだな」
あまり待たせると部下達が煩いし、これ以上長居する理由も無かった。
灰色混じりの髪を掻きながら、ディーは先程から気配の薄れている少女を探す。
「(さ~て、ドゥフト中尉は…?)」
「…じぃ…っ」
月が見える窓側を探し、薄明るい照明に照らされた壁を順に見回していく。
そうしている内に、ディーの視線は止まった。
小柄な彼女の姿は、ヨハンの菓子棚の前にちょこんとあった。
「……」
一体、何をやっているのだろうか。
そろり、そろり。棚に向かって音を立てることなく歩み寄る背中に、ディーはわざとらしく声を掛けた。
「ドゥ~フト中尉」
ビクリと跳ね上がる背中。
「はいっ!?」
恐る恐ると振り返る彼女は、とてもバツの悪そうな顔をしている。
「…何をしているんだい」
「え? …あ、特に考えていなかったです」
どうやら小腹が空いたのか、無意識の内に菓子を求めていたようだ。
道には迷うし、時折気配が消えるし、不思議な少女である。
その内、知らないおじさんに付いて行かないか心配になるディーだ。
だがそれは、彼女が放つ放って置けない雰囲気がそうさせるのだろう。
所謂、大人に可愛がられるタイプなのだ。
「一種類か二種類なら、持って行くと良い」
ヨハンの声に、トレエの表情に花が咲く。
花というのは、あくまで比喩だ。
しかし少女の面持ちは、正に花が咲いたような喜びに満ちていた。
「…良いん…ですか?」
問い掛けの視線がトレエからヨハンへ、ヨハンからジェシカへ。
「良いな?」
「えぇ」
笑顔の花、咲き誇る。
「ありがとうございます…!」
トレエはお礼の言葉と共に、ゆっくりと棚の引き出しを引いた。
中にあるお菓子を眺めること数秒。袋を取り出しては、奥にある袋に眼が止まっている。
どうやら選ぶのには、少々時間を要しそうだ。
「ノアに戻るのか、ディー」
ならばその間に、こっちはこっちの話をする。
というと、どっちなのかが謎になる。つまり、大人の話だ。
ディーは視線をヨハンに戻し、頷いた。
「そ~ろそろ式の日が近くて。向こうに戻らないと駄目なんだな」
「式」。その言葉に、ヨハンの中でとある場所の景色が浮かぶ。
「…そうか。向こうはもうそんな時期か」
同じように、ジェシカも同じ景色を思い浮かべていた。
「桜が綺麗な時期ですね」
「あぁ。そうだな」
鮮やかな桃色景色。二人並んで歩いた並木道は、思い出と化してもなお色褪せることはない。
お互い歳を重ねた。
お互い時を重ねた。
そうしてお互い、絆を重ねてきたのだ。
「お~前さん達も来るかい?」
顔を見合わせる二人。
今二人で、原点に立ち戻る。それも悪くはないが。
「ふふふ。私達が行ったら、大騒ぎになりますよ?」
「フ…。そうだな」
満更でもない様子で、答えを「ノー」とした。
「…どうして大騒ぎになるんですか?」
お菓子を抱えたトレエが戻って来る。
相当悩んだのだろう。表情が達成感に満ちていた。
「二人は、ちょっとした因縁持ちだからね。と~言うか、有名人? なんだな」
「有名人? …ですか?」
「知~る人ぞ知る? い~や、知~らない人ぞ居ない伝説譚? 超が付く程の有名人なんだな」
超が付く有名人。
そう聞いたトレエの眼が興味に輝く。
「…そう言うことになるのか、今は」
「…少し、恥ずかしいですね」
その視線の眩しさに、ヨハンとジェシカは顔を見合わせる。
そう大したことはしていないのだ。自分達ではそう思っているだけに、変な誇張が付いた今では面映く思える。
「為すべき時に為すべきことをした。単にそれだけのことだが…」
「まぁ…。でも、それが今に繋がっているのですから素敵です」
「素敵なんですよ?」と重ねて言うジェシカ。
夫への愛情が、瞳に満ちていた。
「為~すだけじゃなくて、成~し遂げ切ったから今に伝えられるんだな。た~った二人だけで」
「…凄い…です…っ」
二人だけで、何をしたのだろうか。
何となく凄いことだと分かったが、どう凄いのかは分からない。
「…ん」
インカムが震え、音が鳴った。
この場に居る全員の視線がトレエへと集まった。
音はすぐ鳴り止んだが、鳴った目的は何となく誰もが察した。
これは恐らく、「急げ」のメッセージだ。
「…ま~、そんな甘酸っぱい思い出にも触れたところで。そ~ろそろ行くとするかね。ドゥフト中尉、通信を入れてほしいんだな」
トレエとしては、もう少し話を訊きたかった。
しかし話を訊くよりも、帰還時間の方が先であったようだ。
「…分かりました」
トレエは小さく頷くと、取り出したインカムを耳に装着した。
「(…ブローレン大佐に今度は何を言われるか…怖いです…)」
こういう時、どうにかして通信せず艦に戻ることは出来ないだろうか。
そんなことを考えはしたが、そんな不思議パワーが身近に存在するはずもなく。
「…はい。もう少しでそっちに…」
溜息と共に、インカム越しの声に耳を傾ける。
本当は意識すら向けたくはないが、これも隊員付き合いだ。我慢するしかない。
「(夢の人…何か良い考えを言ってくれませんか…?)」
最終手段に助言を乞うも、答えは返ってこなかった。
その代わりに、嫌味な答えがひたすら返ってくる。
「…はい。はい…‘ぅぅ、はい…’」
内心で静かな怒りを燃やすトレエの声は、彼女の怒りに反比例するように小さくなっていった。
「暫く忙しくなりそうだな」
そんな少女の様子を窺うに、まだもう少し話す時間がありそうだ。
次会えるのはいつになるか分からないが、少なくともディーが「もう一つの本業」へと戻っている間は、会えないだろう。故に時間があるのなら、ヨハンはそれを言葉を交わす時間として使いたかった。
「ま、部隊のことはブローレン大佐に頑張ってもらうんだな。今回は頼まれ事だった途中入りが数人居るから、普段より賑やかになるし。だ~ったら当然、色々と眼を掛けないといかないんだな」
「…頼まれ事か」
「ハーウェル坊やのね。ま、一旦基本に戻るってことで、隊員を寄越すことは良くあることなんだな。一つの部隊から通う人数自体は、過去一だが」
「ほぅ」
「まぁ」
「む…」
「ハーウェル」。その名が示す人物は、かつて二人居たが今や一人。
その名前に、通信中のトレエを除く全員が反応した。
「奴の所の隊員を? 誰が行くんだ」
中でも一番強い反応をしたのは、それまで興味無さそうに話を聞いていたアンナであった。
ディーのもう一つの本業を彼女が知るのは、かつて「元帥」として職場に足を運んだ経験があるためだ。
「書類にサッと眼を通しただけだから。誰が居たか…」
それなりの人数が居た記憶があるが、詳しい名前までは思い出せない。
ディーが首を捻りながら記憶を手繰っていると、インカムを外したトレエが声を上げた。
「…ディー隊長、中庭に転送装置を設置したそう…です。後…いつまで待たせるのですか? と…」
彼女の手が震えている。
怒りだ。きっと、ひたすらくどくどと言われたに違い無い。
これは、出来るだけ早く帰る必要があるようだ。トレエに加えられた危害は、ミーアを通して自分にも飛び火するし、嫌なことの大安売りなのだから。
「ん~、了解なんだな。元帥嬢ちゃん、悪いが僕達は行かせてもらうんだな」
「…おい、せめて思い出してからだな…っ」
食って下がるアンナであったが、ディーは背中を向けた。
早く戻ろう。そんな考えが、彼の頭の中を埋め尽くしていた。
「おい、リーシュワっ」
「…ジャンヌさん、どうしてそんなに必死なんですか…?」
それでもアンナは引き下がらない。
彼女の様子には、まるで何かを防ごうとしているような必死さが窺える。
何故そこまで必死なのか。疑問に感じたトレエだったが、
「あ」
ピコン、と閃いた。それはもう、新しい技や魔法を閃いたように。
閃きの根拠は勘でしかなかったが、最早確信しかなかった。
トレエは少し、悪戯っぽく閃きを口にした。
「橘隊長ですか?」
アンナの表情が固まった。
『橘 弓弦』。彼とアンナの関係は良く分からないが、彼女が良く食って掛かっていたのは記憶に残っている。
衝突してばかりの両者。あまり仲の良くない関係性のように思えたが、端から見れば別の見方も出来たりする。
「……」
そんな別の見方に基づく閃きは、どうやら正解のようだ。
固まっていたアンナの表情が、見る見る内に険しくなっていく。
「あ~。確か。教師として出向して来る坊やの所の少将が、そんな名前だったんだな」
こちらも、どうやら正解のようだった。
「む…そんな名だったな」
こちらは、先日の疑問が氷解したヨハン。
自身の知る限り最速で少将の地位に登りつめた隊員の名が、確か「橘」であったはず。
喉の奥でつっかえていたものが取れ、どこか満足気な面持ちの彼を、隣でジェシカ微笑ましそうに見ていた。
「…っっ!!!!」
一方アンナは、口をパクパクと動かし、信じられないとばかりに暫し言葉を失う。
そして少々の時間を要した後に、ようやく声を絞り出した。
「な…っ!! あの男が、教師だとォッ!?」
たちまちアンナの表情が青褪める。
ツカツカとディーの前に立った彼女は、鬼のような形相で背後から肩を掴んだ。
「どう言うことだ! 何を考えているッ!? よりにもよって、何故ッ!! 何故ぇッ!!」
ディーの景色が、揺れる揺れる。
前後に揺れる。グルグル揺れる。
まだまだ揺れる。いつもより多くーーーではなく、今回初めてのことだが、兎に角揺れる。
「お、お~お~お~ッ!?」
先程のアンナと同じように、ディーの表情が青褪めていく。
物の見事に血の気が引いていき、顔面蒼白に。
見ている全員が察した。揺らされ過ぎて、気持ち悪くなっているのだ。
「おい! 何故アイツなんだ! リーシュワッ!!」
スピード、アップ。
「お~~~~ッッ!!!!」
揺れる頭は、最早残像すら見えていた。
悲痛な老兵の叫びが、『シリュエージュ城』中に木霊した。
「じゃ、ジャンヌさんっ。止めてあげてくださいっ」
これ以上はいけない。
ディーの青褪めた表情から、色々と凄惨な未来が予想されたため、トレエは慌てて二人の間に入る。
左手でディーの背中を押し、右手でアンナの腹部を押し退ける。
「(あ…硬いです)。えいっ!!」
そんな感想を抱きながら、兎に角強引に二人を突き放した。
「うぐぅっ!?」
アンナ、鳩尾にクリーンヒット。
「うごぅぉっ!?」
ディー、止め。
「ぅ…っ」
「…あ」
そして。
「ーーーッッ!?!?」
汚い大瀑布、上から下へ止め処無く。
「これは正に、汚物の何とかや」。そんな溢れんばかりの濁流に対する評論家の声が聞こえてきそうだ。
執務室の絨毯に吸い込まれていく滝は、実に何というか。汚い。
「ッ!!」
しかしその時、不思議なことが起こった。
吹き抜けた風が、ヨハンの髪を微かに撫でた。
「?」
反射的に隣へと視線を向けたが、そこには誰も居なかった。
だが次の瞬間聞こえた声に、微かに眼を見開き視線を戻した。
「うぉぉぉぉぉッッ!?!?」
ディーの口から溢れ出す汚いアーチ。
その麓に袋が。
「ッッッ!!」
袋が。
「はぁッ!!」
袋が、滑り込むーーー!
「ぉぉぉぇ…っ」
汚れたアーチは、無事袋に吸い込まれた。
「ふぅ…っ」
唖然とした面々に見詰められながら額を拭ったジェシカは、手早く袋の口を縛り、一息吐く。
一仕事終えたとばかりの彼女もまた、トレエと同じようにディーとアンナの間に入った。
「…少し…やり過ぎですよ?」
威圧感を放つジェシカの背後に、瞳を光らせる鬼が垣間見える。
愛する夫の仕事室を汚す輩は、何人たりとも許さない。怒りを背負ったジェシカの姿に、ヨハンがそっと視線を逸らした。
「…っ、すまん……」
流石のアンナも、放たれた威圧感にすぐ屈した。
「…助かったんだな。ジェシカ、ドゥフト中尉」
ディーの額にも冷汗が伝う。
「はい。では、トレエちゃんも困っていますので…そろそろお戻りになっては?」
「……」
ディーにも見える、ジェシカの背後。
この場に居ると、アンナによる追及は終わらないだろう。だからこの場合は、早く帰ってもらった方が得策なのだと彼女は考えていたのだ。
「…分~かったんだな。ドゥフト中尉、戻るぞ」
その意図を察したディーは、アンナやジェシカに悪いとは思いながらも部屋を後にする。
「…はい」
トレエも小さく頭を下げ、ディーの後に続くのだった。
「あ、おいっ。待ーーー」
「駄目、ですからね」
「な…っ!? や、止めろジェシカ…っっ!?!?」
アンナの声に、振り返りたくなりながらも背を向けて。
「あぁぁぁぁ…風呂は良い。何と良いものなんだぁぁ……」
「五臓六腑に染み渡るこの癒し…。これこそ、病を治すという長旅の疲れを癒すに相応しい! あぁぁぁぁ…良い、実に良いぞ…ふぅ……」
「……。何だか、寂しいな。それもそうか、一人で入っているからな…」
「…。寂しいと意識したら、余計に寂しくなってくるな。ここは一つ…歌でも……」
「~♪」
「…紛れんな、うむ」
「…と言うかここ…少し暗くないか?」
「…ぁぅ。予告だ。『策士は策を立て続ける。そうして力を絡め取る。策士は策を巡らせ続ける。そうして望みを手に入れる。しかし策士は敗北した。過去からの亡霊が、全て蹴散らしたからーーー次回、亡霊』…ひぃっ!? ぼぼぼぼ亡霊だとぉっ!?」
「…ででで、出るか。けけけ、決して怖い訳ではないがな!! うむぅっ!!」