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俺と彼女の異世界冒険記   作者: 仲遥悠
裏舞台編
377/411

平穏

 その日、『シリュエージュ城』三階にあるヨハンの執務室では、緊張の一瞬が訪れていた。

 ヨハンの腕に巻かれた包帯。白の螺旋が、ジェシカの手によって少しずつ解かれていく。

 夫婦の表情は、石のように固かった。特にジェシカは、ヨハンの表情を見たり自身の手元を見たりと視線が忙しい。


「…もう、大丈夫そうですね」


 包帯を解き終わり、ジェシカは安堵の息を吐く。

 包帯に包まれていたヨハンの両腕は、皮膚の爛れが治癒していた。幸いにして皮膚の色が元通りなのは、日々回復魔法が掛けられていたため。そして、火傷を負ってから時が流れたためでもあった。


「…そうか」


 ヨハンは腕の感覚を確かめるように、強く握り締めてみる。

 包帯を巻いてからというもの、極力動かさないようにしていたのだ。

 両腕が使えない日々というのは億劫なもので、業務は勿論のこと、身の回りのことも一通り出来なかった。

 それはつまり、誰かの手を借りねば生理的な行動すらままならなかったことを意味する。ヨハンでなくとも、負担を強いられる結果に繋がったのはいうまでもない。

 しかしそんな悔しい思いをさせられながらも、ヨハンは毎日を楽しく過ごすことが出来た。

 ポイントは、楽しく過ごせたという点だ。こうして包帯が解けた今では、そんな苦労も名残惜しく思えたのだから、側で負担を支えてくれた人物の功績が理解出来る。


「色々と迷惑を掛けたな、ジェシカ」


 だから食事や入浴に付き添い続けてくれた妻に、感謝の気持ちを伝えられた。


「あなた…っ」


 感極まったようにヨハンに抱き付くジェシカ。

 夫の胸に顔を置き、微笑む彼女は幸せの中に居る。

 ヨハンの手伝いは、毎日が彼女にとって至福の時であったのだ。

 何せ普段に追加する形で、入浴を手伝えたのだから。その分一緒に居る時間が増えて嬉しかった。

 そして、ヨハンからの感謝の言葉が彼女を有頂天へと誘った。

 感謝の言葉はこの場合、いわば言われても当然のものではあるのだが、やはり直接口にされると別格の嬉しさがある。

 その嬉しさを喩えると、ジェシカの人生の中で、一際強く煌めいていた一日に近いだろう。

 そう、あれは確か、青い春の最後のこと。踏み出した勇気の一歩が踏み締めたのは、遠き日より抱き続けた淡い桃色の結果。華が舞い降りる中で飛び込んだ、あの温かく、硬い腕の感触を変化した距離感で初めて感じた時の。


「…どうやら、心配も大いに掛けていたようだ」


 背中に伸ばされた手が、そっと圧を掛けてくる。

 感じていた感触が強まり、思わず小さな笑いが溢れた。


「素敵な日々でしたよ。心配はしてましたけど、迷惑を掛けられた覚えはありませんので誤解の無きように」


「…そうは言ってくれるが。俺の気が済まなくてな」


「あまり要りませんね、その心配は」


「礼の一つもさせてもらえないのか?」


「…その内容にもよりますけど」


「質問に質問で返さないでくれ」


「でしたら遠回しにではなく、直接仰ってください」


 ヨハンの胸を両手で押し返すと、視線が重なる。

 少し強めに押し返しても後ろに倒れないのは、背中を支えられているからだ。

 胸に触れる手の感覚と、触れられている背中の感覚を楽しみつつ、ジェシカは夫の言葉を待つ。

 ヨハンは不器用な方の人間だ。器用に熟せるの、仕事や戦いといった特定のものに限られ、自分の想いを素直に伝えたりするのが元来苦手なのである。

 何せ遠回しな言い方をする癖に、遠回しな表現が通じないことが多いのだ。昔は随分と苦労されられた覚えが大いにあった。

 もっとも、それと同じくらいに楽が出来た部分もある。そして、楽しめた部分もある。


「…こう言うことだ」


 その一つが、直球的な表現をしてくれることだ。

 遠回しな表現は、いってしまえば直球的な表現を敢えて避けているから出てくるもの。故に敢えて避けないようにすれば、それは女心に揺さ振りを掛ける殺し文句になったりする。


「まぁ…」


 例えば今のように。

 ジェシカの背中は、優しい香りのする白布に接していた。

 言葉だけではない。それに付随する行為にも、女心を揺さ振るものがあるように。ジェシカの心は今、穏やかな凪を呑み込む白波が立っていた。


* * *


 その隣室に、足を踏み入れる者が居た。

 アンナだ。しかし、どうも様子がおかしい。

 足取りは重々しく、瞳は虚ろ。乱れた髪は所々跳ね、顔には生気が無い。

 清々しい朝だというのに、恐ろしいまでに正反対の印象を与える様子の者は、部屋の奥ーーー普段から設置されている椅子とは別の椅子に座り、机に向かう。

 席に着く時、口を衝いて吐かれた息は疲れたように深い。机上に積まれた書類をぼんやりと眺めた後徐に、換言すれば憑かれたように、手元に書類を寄せた。


「はぁ…どうして私が……」


 誰も居ないのを良いことに、愚痴が零れる。

 それは毎日のように言っている台詞だ。ヨハンに仕事を押し付けられて以来、彼の眼を盗んでは必ず呟いていた。

 その頻度は正に隙あらば、である。髪と髪の間を細い針で突くように、チクチクと小言を零している。何度も何度も同じことを繰り返す様は、女々しく映る。


「…もう、これで何日目だ。私は後何日こんなことをしなければならない。こんな…腰は痛くなる、腕も痛くなる、頭も痛くなる、堪らなく退屈になる。ぁぁぁぁぁぁ…」


 もしこんな姿を、普段の彼女が喝を入れている男が眼にすれば何というのか。少なくとも、文句に文句を重ねるのは間違い無い。


「大体私の眼から見ても、そろそろピースハートの腕は治るはずだ…。だったら、そろそろ私に任せていないで自分の仕事を自分でやれば……」


 文句を言いながらも、やることはやる。そう、文句ばかり言いながらもやることはやらねば、ヨハンの雷が落ちるからである。

 無論雷から逃げることも出来るのだが、その場合は後で自らの首を絞めることになる。雷の大嵐だ。

 雷の大嵐が一度襲来すれば、城から追い出されるような気がしてならなかった。怒らせてはならない人間が居るとすれば、ヨハンという男はその一人なのだと身に沁みていた。


「ったく、何が馬鹿者だ、何が。そもそも私は机での作業が苦手だと言うのに…ぁぁぁぁ、モヤモヤする。気持ちが悪い……等と思ってたら、吐きたくなってきた…っぷ……」


 書類の一山を片付け終わらせたため、アンナは席を立った。

 時間はーーーそろそろ昼が近い頃だろうか。太陽が高くなっている。

 口元を押さえながら歩く彼女は、そのまま部屋を後にして室外の空気を吸った。


「……ぁぁ、自由だ……」


 自由の空気が身体を軽くさせる。

 今なら空を飛べそうな気分だった。実際飛ぼうとしても、重力から逃げられないものの。

 壁に凭れながら凝り固まった身体を解していくと、関節が音を鳴らした。

 これだから机作業は嫌だった。固くなった身体は、解さないと気持ち悪くなる。突っ張っている感覚が、どうにも耐え難いのだ。

 しかし今はどうか。実に自由な心地だ。

 自らを縛るものはなく、自身の好きに身体を動かすことが出来る。この、何と素晴らしいことか。

 剣も振るえる。嗚呼、今無性に不埒な男を斬り裂きたい気分だ。

 今この時間、不埒な行為に及んでいる男は居ないものか。

 いやいや、願ってどうするのか。本来ならば、居ない方が良いはずなのに。


「む…」


 アンナは眉を顰める。

 どこからか、不埒な気配が漂ってきたのだ。

 何故そのような気配を察知出来るのか。断言しよう、勘である。


「どこだ…?」


 まだまだ朝だというのに、こんな時間から不埒に及ぶとは、実に憤懣遣る方無い。

 右か、左か、前か、後ろか。

 周囲をつぶさに観察するアンナは、ふと顔を上げた。


「(まさか…天井に張り付いて…?)」


 そんなはずがないだろう。


「(違うか。む…まさか)」


 今度は足下をじっと見詰める。


「(足下で…と言うことでもないようだな)」


 思案するアンナ。

 そんな彼女は幼い頃、小人さん達が居ることを信じていた時期があった。

 どうやら獰猛に不埒の気配を探るあまり、眼に見えない何かが不埒な行為に及んでいるかもしれないと考えてしまった彼女。絶賛ストレス蓄積中であった。


「(…こんな時、あの男が居れば…問答無用で剣を振るえるのだが)」


 ストレスの捌け口が無い。

 アンナの脳裏に、憂さ晴らしに最適なとある人物の顔が浮かぶ。

 このままストレスが溜まってしまえば、ふとした時に爆発してしまいそうな危険性があった。

 由々しき事態であるのだが、その考え方だとまるで「その男」の存在を願っているようで余計に不快になる。


「‘斬り甲斐のある男と言うものは、早々居ないものだな…’」


 不快にはなるが、張り合いが無いのも確かで。


「…って私は何を言っているんだ。あんな男…居ない方が世のため人のため女のため、だ。はぁ…」


 肩をもう一度解し、踵を返す。

 休憩時間は程々にして仕事を終わらせなければ、何を言われるか分かったものではない。アンナは扉に手を掛け、手前に引こうとしたところで動きを止めた。


「…ッ」


 気怠そうな雰囲気が、瞬時にして研ぎ澄まされたものに変わる。

 空いた左手が、得物が封印されている紙札へと伸びた。

 背筋にゾワリと冷たいものが走る。

 「警戒しろ」、と己の経験が忠告していた。


「(何か…居る…ッ!)」


 物音は聞こえてこなかった。

 だが扉から通う、僅かな風に違和感が混じっている。

 思考が回る。

 そういえばと、ヨハンの姿を見ていないことが思い出される。

 恐らくまだ、彼は自分の部屋で身体を休めているはず。


「(狙いは…ピースハートか!?)」


 抜刀の構えを取り、一歩の踏み込み一太刀の刃で切り捨てられるよう感覚を研ぎ澄ます。

 アンナは部屋の中へ飛び込んだ。

 僅かに逆光の視界の中で、武人の視線が巡る。

 飛び込んできた景色には、どこにも異変が見られなかった。


「…居ない、か」


 気の所為だったのだろうか。アンナはもう一度部屋中を見回し、息を吐く。

 扉一枚隔てて感じていた違和感も霧散していた。執務室は今、静寂に包まれている。

 違和感は、胸の内に抱いた不安が意識を惑わしたためだったのだろうか。違和感の主は、自身の心かーーー?


「…ま、平和ならそれで良い…か。仕事も増えんし」


 警戒を解き、ここ最近の定位置に戻る。

 まだまだ仕事は終わりそうにない。もう少しで折り返し地点であってほしい、とは思うのだが。現在は、折り返し地点への折り返し地点といったところか。


「…平和、平和…って、これではあの男みたいじゃないかっ。…あぁ、顔思い出した。ぁぁぁぁぁぁ……腹立つ」


 先の長さに今一度溜息を吐き、椅子に座ろうとして。


「…どうして私が腹を立てなければならんのだ。これも全て……あ」


 ヨハンのことを気にして突入したというのに、肝心な本人の無事を確認していないことに気付く。

 椅子から離れ、向かったのはヨハンの私室と執務室を隔てる扉。


「ピースハート、起きているか」


 それを叩き、在室を確認する。


ーーーあぁ。元帥、何か用か。


 ヨハンの声が聞こえてきた。

 どうやら、部屋の中に居るようだ。


「…?」


 物音が聞こえた。

 少し慌ただしそうに思えるが、何か落としたのだろうか。


「大丈夫そうなら、良い。朝から一度も姿を見ていないから気になっただけだ」


ーーーそう、か。


 言葉が、不自然に詰まった。

 咳き込みそうにでもなったのだろうか。


「後、お前宛の書簡が届いている。起きているのなら、さっさと返事を用意するんだな」


ーーー。


 今度は、返事が聞こえてこなくなった。


「…ピースハート?」


 流石のアンナも怪訝に思い、確認するようにヨハンを呼ぶ。


ーーーあぁ…。


 今度は何ともハッキリしない声が聞こえる。

 意識が呆然としている時に溢れるような、気の無い声だった。


「(返事はあるが…寝惚けでもしているのか? まぁ、良い)」


 気になることはあった。

 だが余程の事情が無い限り、そこまで親しくもない他人の私室など入るべきではない。


「あまり寝過ぎて、ジェシカを心配させないようにな」


 アンナはそれだけ言って話を切り上げ、椅子に戻る。

 視界に入る前髪を耳の上に掛け、頬杖を突いて退屈そうに文書の内容に眼を通していく。

 彼女の仕事は、まだ始まったばかりだ。


「‘……オルレアでも来てくれたら…こんな退屈な仕事にも精が出るというのにな……’」


 心からの言葉をポツリと零して。

「…うむ、良いぞ。これだけあれば…十分分析が出来るだろう。目眩はないか?」


「…あぁ、大丈夫だ。この後俺は…扉の先に行けば良いんだな?」


「うむ。後は私に任せてくれ。必ずやこの夢巨乳病、解決してみせよう」


「…本当に、大丈夫なのよね?」


「大丈夫だろう。ユリがこう言うんだ。どうなるかは、正直分からんが…だが、信じているからな」


「弓弦…! っ、あぁ!」


「だとさ」


「…そんな良い話みたいな…!」


「じゃあ、行ってくる」


「ユヅル…っ。ぁ、もぅっ」


「フィーナ殿…すまない」


「……」


「許されるようなことではない。許せとも言えん。だがどうか…分かってくれ」


「パフェ」


「む?」


「色々と片付いたら、溜まった鬱憤を甘い物で晴らそうと思ったの。だから後で付き合って」


「ぬ、それはつまり…」


「えぇ勿論。私とあの人の財布よ」


「な。む、むぅ…そう言うのに私が付き合うのはどうなんだ。そんな…デートのようなものに」


「ならあなたの謝罪も分かってあげないわ」


「そ、れは…! だが、それは…他の皆に悪いではないか!」


「あら。皆って誰?」


「知影殿とか、セティ殿とか、風音殿とか、レイア殿とか…」


「なら全員連れて行く?」


「な、全員っ!? ………六人でか!?」


「そ。たまには良いじゃない」


「…良いのだろうか」


「良いと思うわよ? あなたの財布さえ良ければ」


「な…っ、ぜ、全員分を私が持つのかっ!?」


「だって、あの人に危ないことをさせってことは、皆に迷惑を掛けるのと等しいのよ? そこはしっかり、お詫びをしてもらわないと」


「…しかし」


「万一感染したあの人の病が治らなかったらどうするの? あなたの胸を永遠と揉ませるだか何だか知らないけど、それはあなたの勝手な都合。私や他の皆が、それで許すと思う?」


「…ううむ…だが…」


「さっき私が折れたのは、あの人の前だったから。完全に納得していた訳じゃないわ」


「…むぅ」


「…ねぇ、ユリ。あなた胸を揉ませ続けると言った時の気持ちに、やましい感情は無いでしょうね? 扉の先に居た男達に怯えていたあなたが、わざわざ身体差し出すなんて。やましい香りがそこはかとなく漂っているのだけど」


「……」


「あわよくば…ってこと、考えない?」


「…。否定は出来ん。だが私の全てをもって償うという気持ちは心からのもの! 信じてくれ!」


「そう。なら…分かるわよね?」


「ぬ…」


「皆で行くスイーツな旅の財布係、お願いね」


「……。あ」


「…?」


「うむ、良いぞ。幾らでも出す」


「……」


「これも償いだ。腹を括るしかないのだからな」


「…お金を使い過ぎたことを言い訳に、あの人と一緒に任務(ミッション)。それも沢山…なんてことは考えていないでしょうね?」


「ぅ…っ」


「…分かり易過ぎよ、もぅ」


「だ、駄目か…?」


「……ねぇ」


「…む」


「…素敵な未来設計しているのは結構だけど、今扉の向こうであの人が襲われているかもしれないってこと、忘れてないわよね?」


「…。そう言うフィーナ殿こそ」


「…。私はいつも考えているわよ。心のどこかで」


「……」


「……」


「…予告だ。『始まりは、いつも些細なことだった。些細なことから発展して。発展は、いつも唐突だった。唐突に気付いた時には後戻り出来なくなる。唐突はいつも突き破る。平穏の先のーーー次回、不穏』…良し」


「え、いきなり?」


「うむ。次の話にならなければ、弓弦の状態が分からないからな」


「…本編じゃないことによる弊害ね。場面の切り替えしてると…尺が…って話ね」


「…うむ。ままならないものだ」


「えぇ、そうね」


「…弓弦はどうしているだろうか」


「…もう少ししたら、開けるわよ」

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