魔石
コポ、コポ。ゲージの中で、泡が音を立てて上がっていく。
その内部で光る結晶を見詰めながら、未知の生物が佇んでいる。
そう、未知だ。その男は、人類がどこでどう道を盛大に踏み外せば進化ーーーもとい、退化するのか理解に苦しむ見た目をしている。
猫背。歳を取れば、なる人も居る。
骨張った身体。歳を取れば、なる人も居る。
突き出た瞳。人によっては、なる人も居る。
髪の少ない頭部。それは世の男の悩みである。
人によっては、加齢による特徴として見られる部分だ。しかし、やはり、何事にも限度がある。
何がいいたいのかというと、要するにその男ーーーローランドは、「面倒で面妖で気味の悪い奇妙な生き物」であるのだ。
「狼煙が掻き消されたそうではないか」
その下を、訪ねて来る男が居た。
名を、ザングス・ベルナルドというその男は、『組織』では大将の地位に在った人物だ。
かつて『組織』を、後一歩のところまで掌握せんとした『革新派』の主要人物。『組織』の地位も名ばかりではなく、得意とする鉄爪での武術はこれまで多くの魔物を切り裂いてきた。
「これはザングス。今日も立派な顔傷ですねぇ」
額から鼻頭、左頬まで横断する傷を指差され、ザングスは瞑目する。
いつ見ても、この薄暗い部屋と相性の良い醜悪な見た目をしている。暑い日の夜に視界の端でチラつくことがあれば、一気に涼しい思いを出来そうだ。
出来ればあまり視界に入れたくない輩だが、そうもいっていられない用事があった。
「どうです、基地の防衛は。無事に務まりましたか?」
「訊かれるまでもない。基地に進行して来た『中立派』の艦隊を撃退した。だが貴様の首尾は良好とは呼べないようだが。『魔石』の輝きが、弱まっているように見える」
ローランドは肩をだらりと落とし、深々と息を吐く。
今にも首が落ちそうな印象を受け、心臓に悪い。
「いや~、やられましたよ。途中までは良かったんですが、最後の最後で…グサァッッ!! …と、いかれちゃいましたよ、ザングス」
やはり、心臓に悪い。
自身がここに来る羽目になった原因を目ーーー否、耳の当たりにし、内心で同僚に苦笑を向けた。
本来ならば、ザングスは前線で指揮を取る役割があり、ローランドの下へは足を運ばないのだ。しかし現在、この場所へと襲来する魔物や陰を撃退する指揮を取っているのは別の人物ーーー弟のカイゼル・ベルナルドだ。
ローランドの下へと足を運ぶのは、現在の『革新派』を纏めているゼザの役目なのだが、彼は現在身動きの取れない状況にあった。
「(貴様の苦労も偲ばれるな、ゼザよ…)」
確かに、年柄年中この男と対峙していれば、たまに意識不明になることぐらいあるだろう。
自分達さえ良ければ良い、自分達以外の人間を問答無用で切り捨てるという冷酷な男だが、やはり人間なのだ。
もう、数日経つがーーー
「…『剣聖の乙女』とあの男を侮り過ぎたのが仇となったな。九人の手勢損失…どう責任を取るつもりだ」
「別に良いではありませんか。駒なんて、幾らでも替えが利くのですから。この石さえ無事なら、後どうにでもなりますよ、ザングス」
だがこの男は。
見た目からして既に人間離れしているが中身も、また。
「『魔石』とやらがそこまで大事か。ならば後生大事に保管するに留まれば良いものを」
チッチッチ。舌打ちのような音が聞こえた。
それは、虫がキチキチと音を立てるようにも聞こえ、不快な音であった。
「私は、実験が大好きなのですよ。ザングス。死した悪魔の存在そのものが結晶化した物質…『魔石』。こんな素晴らしい物を、保管するだけに留めるなんて…それは宝の持ち腐れって言うヤツです」
「(宝? 俺には、埋め立てねばならなん爆弾にしか思えんが)」
この男は、危険だ。
そんなことは分かり切っている。分かり切っていた。
だがこの男を招き入れたのは、ジェフ・サウザーだ。またこの男がいなければ、魔物であったり陰であったり、袂を分かった『保守派』に攻め込まれ、『革新派』はとうの昔に捻り潰されていた。
そのためこの男をどうこうする権利は、今は誰にも許されていない。
ジェフが戻らない今は、好きにさせるしかないのだ。
「宝は、活かされなければならない。才能も、また同じ。良いですかザングス。ここには宝も、それを活かすための才能も揃っているのです。活かさない手は無いでしょう?」
「その宝のためならば、我等の命が失われても構わないと言うのか」
「理想のために殉じられるのです。本望では? それに他の誰がどうなろうと、自分達が助かれば良い…ここは、そう言う派閥では?」
ザングスは唸る。
誰かのためではなく、己が命のために生きる。それこそ『革新派』が掲げる理念。
悔しいが、ローランドの言葉は正論だ。反論の余地は、無い。
「誰もが自分のために動く。本能的で良いではありませんか。…顔も知らぬ誰かを守ろうとして、自分が死ぬなんてそんなの、困りますからね。自分が死んだら終わりなんですから。そうですよね? ザングス」
寄って来るローランドから距離を取りつつ、ザングスは視線を逸らす。
正論の言葉。だが何故だろうか、どこか空々しく聞こえてしまう。
「私は好きにやらせてもらいますよ。次の仕込みがありますので」
「仕込みだと?」
「ヒッヒ…狼煙は燻るもの。そう易々とは消えませんよ」
そう言ってローランドが取り出したのは、何かの装置だった。
ボタンが一つあるだけの簡易的なリモコン。それを突出している瞳が面白そうに見ていた。
「…まだ、手があると」
嗤うローランド。
怪しい光を帯びる瞳が、肯定を示していた。
「あのヨハン・ピースハートのことです。失った兵達は、どうせ地下牢で捕虜にされています。…それを利用するのですよ」
「何を…」
ザングスは喉が、乾いていくのを覚えた。
ローランドの思惑が理解出来たという訳ではない。ただ心のどこかで、「何か」を察そうとしている。
捕虜を、どう活かすというのか。
『シリュエージュ城』の地下牢は、当然のように堅固だ。おいそれと脱獄させられるものでもないし、牢であるのだから内側からの脱出は不可能だ。
「数名の手勢を連れて『エージュ街』の潜入部隊に合流します。ザングス、あなたは合流する手筈を整えておいてください」
「貴様自ら足を運ぶと?」
嫌な予感しかしない。
嫌な予感と、これ以上に無い不気味な感覚が全身を隈無く駆け巡る。
「私は現場でも生きる人間ですからね」
「(死んだような風体の分際で、良く言う)」
内心で悪態を吐きながらも、表面上は「そうか」と相槌を打っておく。
どの道どこでだろうと生きられるのだろう。生命力だけならば、ゴキブリよりも上に思える。攻撃したら、すぐに分裂でもしそうだ。
攻撃、そして分裂の連続。行き着く先は、辺り一面を埋め尽くす人混みならぬ、ローランドゴミ。説明するまでもないが、混みとゴミのダブルミーニングだ。
殺しても死なないであろう男の相手に、いよいよザングスは疲れを感じていた。
「…信じられないのですか? つい最近、果敢にも一人寂しく【51694】異世界に行ったばかりの私の言葉が、本当に信じられないのですか?」
「かの世界で何をしていたかは知らんが、貴様の所為で要らん憎悪を向けられる羽目になった。その行動以来、一部の中立派もこちらに仕掛けさせる火種を生み出した貴様を、信じろと?」
忌々しい。
感情を隠すことなく、ザングスは表出させた。
最近のローランドの行動の中で、最も意味が見出せないのが界座標【51694】への外出だ。
突然姿を消したかと思えば、程無くして向かったと思われる異世界の『崩壊率』が上がるという事態を引き起こした。
引き起こしたというのは、途中までがザングスやゼザを始めとした面々の予想で、後にローランドの口から自身の手によるものだと話された。
報告は完全な事後報告であり、そこにはどのような行動を取っていたのかといった内容が含まれていなかった。そのため、ローランドが【51694】世界で起こしていた具体的な行動については誰も知らなかった。
しかし『崩壊率』を上げたということは、文字通り異世界を崩壊させようとしたと受け取られるのが自然。当然のように方々からの反感を買い、要らぬ敵を増やしてしまう結果に繋がった。
前線で指揮をすることの多いザングスにとって、これ程嫌なことはない。
「まぁまぁまぁ。そんな連れないこと言わないでください。しっかりと仕事をしていたんですから」
飄々と話すローランドの言葉は、常に一つ一つが嫌悪感を逆撫でする。
仕事をしていたと話すならば、その内容を話すぐらいしても良いはず。
だがローランドは、これまでゼザが、何度訊こうとも答えなかった。ただ、不気味な笑いをするだけで。
放っておくと、今後ロクなことをしない。ジェフの協力者でなければ、今すぐにでも身体中を引き裂いてやりたかったが、それが出来ないのが歯痒い。
「ならば何をしていたのかを説明をしろ。それによっては一考する余地も考えなくはない」
歯痒かった、が。
ザングスの身体は動いていた。
「考えるために考えるとは、また器用なことを言いますね、ザングス。まるで平和呆けした議会採決を見ているようです」
両腰に帯びた鉄爪が、両拳に装着される。
瞬間的に達した激情が、反射的な動きに殺意を乗せた。
「黙れ…! その良く回る舌を引き摺り出して刻んでやろうか!」
怒号が薄暗闇に反響する。
吐き捨てるように、裂き捨てようとするように。
ローランドの喉を狙わんと、両爪の先が触れていた。
「おお、怖い」
爪先に、紅が滴った。
滴る雫が、ひたり、ひたり。
ザングスの瞳が、怒りを煮え滾らせて捉えて離さぬ視線の先。
「平和呆けと言う言葉…そう言えばあなた、何よりも嫌いでしたねぇ」
ザングスの感情を弄び、上機嫌とばかりに口角を吊り上げて。
ローランドは嗤っていた。
「怒った? 怒りますよねぇ。でも私を殺せば、『革新派』は死にます。ジェフにどう釈明するつもりですか? ザングス」
爪が震える。いや、震えるのは爪だけではない。ザングスの心もだ。
何と分かり易い挑発だろうか。しかし時として、単純な挑発こそが最も怒りを煽る。
「私の研究成果は、私の命と共にあります。ジェフが私に命じた悪魔の力の研究が、いかに有用なものなのかは分かってもらえているかと思いますが…?」
試すような眼。
いや、嘲るような眼だ。どの道、ザングスが選ぶ選択肢は一つしか存在しないのだから。
「(戯言に踊らされるな…。今はまだ…)」
感情を、理性で冷やす。
ザングスは短く息を吸い、徐に爪を下げた。
「(悪魔の力でも…必要なのだ…ッ!)」
見下ろした鉄の床が一部、紅くなっていた。
小さな円状に広がった痕はまるで、感情が零した涙のようだ。
「…『エージュ街』の仲間に通信を飛ばしておく。いつ向かうつもりだ」
背中を向けたザングスの態度に満足し、ローランドの口角が上がった。
皺だらけの表情が歪み、視線に愉悦の光が宿る。
「良い判断です。では、明日でお願いしますよ」
聞こえるか、聞こえないかの足音が遠退く。
何かを操作する音が、室内に響いた。ローランドはどうやら、研究に戻ったようだ。
「(…今なら、殺れる……)」
鉄爪の先が、鈍く光っていた。
微かに映る男の顔が、剣呑に満ちている。
「(奴は…『自分を殺せば革新派が死ぬ』と言った。…だが)」
暗い道を、歩く。
響く足音が呑み込んでいるのは、これからの行末か。
「(奴を殺さなければ…奴が我等を殺めるのではないだろうな…?)」
鉄爪を外し、緊張を落胆に変える。
あのような男に頼らなければならない現状が、とても惨めに思える。
形振り構っていられないのは事実。『剣聖の乙女』によって証明されたが、自分達は数多の世界の守り手を主導した唯一無二、最強の魔法使いを殺めたのだから。もう後には、退けないのだ。
化物だろうが、悪魔の力だろうが、使えるものは使い、頼るものは頼る。利用するだけ利用し、必要とあらば容赦無く切り捨てるーーーそうやって、自分の身は自分で守るのだ。
「く…ッ」
ザングスはローランドの言葉に返事することなく、その場を後にした。
「ザングス・ベルナルド。平和に殺された愚かな男…」
気付くことのない、悪意の視線に晒されて。
「…んん……」
「…ん、起きたか」
「…。弓弦!? わ、私は寝ていたのかッ!?」
「えぇ、それはもう。背中でぐっすりとね」
「…むっ」
「大丈夫よ。涎は垂らしてなかったから」
「そうか。それは良かったぞ」
「…少ししか」
「何だとっ!?」
「っおい!?」
「なっ、そんなに嫌かっ!?」
「いやいやいやっ。驚いただけだ!」
「三回も! そんなに嫌なのかっ!?」
「嫌じゃない! どっちかって言うと好きだ!」
「す、好きぃっ!?
「あ、いや…言葉の綾というか」
「あら、あなたもそんな性癖があったの?」
「涎が好きで溜まるか。とんだ変態じゃないかっ」
「…ぁぅ。そ、そうだぞフィーナ!」
「ふふ、冗談よ♪」
「…ん? …も?」
「ねぇ、ユリ? そろそろあの扉の向こう側…どうにかしないといけないでしょ? どうするの?」
「あ、うむ。そうだ、忘れるところだった」
「…半分くらいは忘れていただろ」
「それは…弓弦が奇怪なことを言うからな。‘…好きって言ってもらえたし’」
「ねぇユリ??」
「う、うむ。分かってるぞ。…今回の騒動について、私は何らかの病原体が存在していると疑っている。そこでなのだが…」
「…ん?」
「弓弦。お前の血を採りたい」
「採るって…採血か?」
「うむ。弓弦にはその後、扉の先に行ってもらい…」
「ちょっと待って。もしそれでこの人が夢巨乳病を発症してしまったらどうするのよ?」
「それこそが狙いだ。発症前と後におけるデータの変化を認めることが出来れば、変化させた部分に対して直接的なアプローチが出来るようになる。…弓弦には悪いが、弓弦無くして出来ないことだ」
「…駄目よ、駄目。反対よ。…もし治らなくなったら、どう責任を取るのよ」
「…何、簡単なことだ。奴等は大きな胸を揉もうとしてくる。…だから弓弦が望むだけ…私の胸を…」
「な…っ」
「うむ。その時は、私が生涯をかけて責任を取る。だから、やらせてくれ」
「生涯って…大きく出たわね。あなた…どう?」
「…まぁ、何とかなる。俺はユリを信じてる」
「そう…あなたが言うのなら」
「…うむ、感謝するぞ。では…台に腕を」
「ほい」
「…よし、三本くらい摂ろうと思っているから、気持ち悪くなったりしたら教えてくれ」
「あぁ、分かった」
「…じゃあ私は、その間に予告でも言おうかしら。『白い布が解かれた。解かれた先は、人の肌。白い布は床に落ちた。落ちたのは、役目を終えたため。解かれた先が、思いで動く。そうして心が解かれていったーーー次回、平穏』…(ところでユリは、気付いているのかしら?)」
「よし、二本目だ」
「慣れた手付きだな」
「ふっ、そうだろう」
「(…生涯をかけて胸を揉ませ続けるって、下手すれば告白のようなものだけど…。指摘するのは藪蛇ね)」