静夜
不思議な光景だった。
少女と、女性。先程までは確かにそう見えたはずなのに、二人の姿に重なるようにして、別の何かが見える。
それは、一組の若い女と男。青き春を生きる、若人達。
アンナは何度も頭を振った。本当にこれは現実なのか、湯煙が作り出した幻ではないのかと疑いもした。だが、何度首を振ろうとも、頰を抓ようとも景色は変わらなかった。
「(な、何なんだこれは…っっっ)」
現在トレエは、横からジェシカに詰め寄っているところだ。
謎の青春劇は未だに終わらず、それどころかどんどん展開していく。
アンナの混乱も、悪化していく。
頰が持つ熱は、湯煙に当てられているためだろうか。ヤケに熱く感じる。
「誰に言われて髪型変えたと思ってるのよッ!! あなたが地味って言ったからでしょ!? なのにどうして避けるの
よ、バカぁっ!!!!」
トレエの閉じられた瞼から流れるのは、感情の滝。
ジェシカの肩を何度も叩くその姿は、捨てられた猫のように震えていた。
表情が、仕草が、訴えてくる。「寂しかった」、と。怒っているはずなのに、怒りたくても怒り切れない程、側に居られる嬉しさが込み上げてきて。
どうして良いのか分からない。伝えたい言葉を、沢山準備していたはずなのに分からなくなってしまって。ただ、絞り出した言葉を打つけることしか出来ない。見ているだけでも、胸の苦しさが伝わってくる。
トレエであって、トレエでない。そこには、彼女の身体を借りて恋の感情を露わにする一人の少女が居た。
演じているだけだと分かっているのに、彼女のそれは演技とは思えない程の真実味があった。
「そんなこと、分かってる! ただな、やるにも限度ってヤツがあるだろッ!!」
「きゃッ!?」
しかしジェシカも劣ってはいない。
素早く体勢を変えると、突き出した両腕でトレエを浴槽と自らの間に挟んで逃げられないようにした。
恐るべき演技力。女性と少女の遣り取りだというのに、最早甘酸っぱい香りしかしない。
「髪切ったらこんなに可愛くなるなんて知らなかったんだぞッ!? どう声を掛けたら良いか分からなくなって当然じゃないかッ!!」
「(…は?)」
何という切り返しだろうか。
言葉を失うアンナの視界には、湯煙が見せる幻だろうか、トレエの背中に壁が見えるような気がする。
「(…逆上せてきたのか? いや、だが確かに…壁が…見える。何なんだこれはッ!?)」
混乱を続けるって彼女を他所に、二人の劇は続いていた。
「は…はぁぁっ!?
真っ赤になるトレエ。
彼女の口から出たとは思えないトーンの声だ。
口をあんぐりと開けながら暫く固まっていたトレエは、動揺の声と共に再起動したようだ。
「か、かかか可愛いって…っ! …そんなので声掛けられなくなるんだ。ふぅん…」
何とも間抜けな理由だと思うアンナ。
しかしトレエは、別の感情を抱いたようだ。腕組みをしながらの流し眼が、意味深な光を帯びている。
「…悪いかよ」
「(あぁ、悪い。何なんだその理由は、色気付くなうつけ者が)」
混乱するアンナ、取り敢えず男に突っ込みを入れ始める。
そもそもどうしてこんな状況になっているのか。劇の是非はさておき、男が女から距離を取っていたのが理由だ。
「別に悪いなんて言ってないし」
「(悪くないのか。と言うか開き直るな)」
アンナは頭痛を覚え始める。
顔全体が熱くなってきた。そして妙に心が騒ぐ。
「じゃあ何が言いたいんだよ」
これは、先が気になり始めたということだろうか。
アンナの中で疑問符が、舞う、舞う、舞う。
「別に。ただ見る眼が無いなって思ってるだけ」
「はぁ?」
華麗な身の熟しで腕による拘束を脱するトレエ。
先程までの興奮振りはどこへやら。今の彼女は余裕を纏っていた。
揺れていた心が、温かいものに包まれて落ち着いたように。雰囲気が自信に満ちていた。
「冗談♪ これからは、ちゃんと声掛けてよね。逃げたら今度こそ許さないんだからっ」
「うるせ。そう言うお前こそ、逃げるなよ」
拗ねたようなジェシカをトレエは、得意気に鼻で笑った。
「私が逃げると思う? どこかの誰かさんみたいにビビリじゃないから、逃げませーん。何なら待ち構えているぐらいなんだから」
「……」
可愛い。
何だこの勝気な少女は。ギャップという名の矢が、アンナの心を目掛けて放たれては射抜いてくる。
何故だ、どうしてこうも惹き付けられてしまうのか。溢れ出る疑問符が思考を埋め尽くした時、アンナの眼は点に、立場は劇の鑑賞人になっていた。
「…チッ。ちょっと可愛くなったからって調子乗るなよ」
「(だから何なんだ、この男の開き直りは)」
しかしかといって、突っ込みを入れる姿勢は怠らない。不真面目な男に制裁をーーーそれは、彼女のポリシーの一つなのだ。
「のーりーまーせーんー。ばーっか」
「(ぐ…)」
湯の香りに甘酸っぱさが混じる。
胸が苦しくなる、この波動はーーー恋の波動。
すっかり劇の鑑賞人になっているアンナ。もう先が気になって仕方無かった。
何せ、色々と視界に映る光景が新鮮なのだ。ジェシカの演技も、トレエの演技も、水準が実に高い。
特にトレエに関しては、いってしまえば水を得た魚に近いだろう。殆ど別人の振る舞いをしていた。
故の、ギャップ。ギャップというものは、大きければ大きい程効果を発揮する。
「っ、何だよ」
「べっつに」
「(ぅ…ぐ…ぉぉ…っ)」
「何なんだよ。分かんない奴だな」
「分からなくて結構こけこっこ。…可愛いって言ってくれてありがと、少し嬉しかった」
浴槽から出ながら、手は後手に。くるりと振り返った少女の表情の、何と可憐しいものか。
何なんだこの演技力は。
トレエなのに、あの地味で内気な少女なのに、ここまで演技で変われるのかーーー嗚呼、ギャップが凄まじい。
「(こ、こここけ…こけぇ…っ!?)」
アンナ、鶏化。
非現実過ぎる現実を前に飛び交う疑問符に、思考回路が停止した。
「じゃね♪」
一方、手を振って浴槽から離れて行くトレエ。
後ろ歩きで下がって行った彼女は、後手に戸を開けて脱衣所に入った。
「…ぁぁ、やっぱ…可愛いなぁ…っクソ…」
俯いたジェシカがポツリと呟く。
心の内に秘めていた感情の扉を、そっと開けるように。固まったままのアンナの隣で、その面持ちが寂し気に笑っていた。
「こ…こけ……」
その後。逆上せたアンナを連れて、何事も無かったようにジェシカは脱衣所へと向かうのであった。
脱衣所に出ると、湯煙が晴れた。
涼やかな風が吹き付けてくる室内では、トレエが見慣れた服に袖を通していた。
正確にいうと、ジェシカにとって見慣れた服である。トレエが袖を通している姿というのは見慣れない。
「まぁ…」
トレエが袖を通していたのは、オルレアが着用していた寝巻きの一つであった。
桜の柄があしらわれたネグリジェは、柄が少々主張出来る程度の桃色が可愛らしい印象を与える。袖から覗く二の腕から手首までが、ほんのりと朱色を帯びており、それは裾から覗く足下も同じであった。
彼女は何とも言葉にし難い面持ちで俯いている。その視線の先にあるのは、少々主張余り気味の首元。
「(オルレアちゃんには…丁度良い具合だったのだけど)」
どうやら気にしているらしいので、触れないことにした。
「ぁ…」
トレエがこちらに気付いた。
先程までの様子とは打って変わって、普段通りの雰囲気に戻っている彼女の視線がアンナに向けられる。
「…こ…け…」
逆上せて眼を回しているアンナを椅子に座らせ、ジェシカはいそいそと身体をタオルで拭いていく。
アンナの身体を拭き終えてタオルを巻かせると、今度は自分の身体も吹き始めた。
「…大丈夫…ですか?」
トレエはアンナの前にしゃがみ込み、彼女の顔を見上げる。
呼び掛けへの返事は無い。茹で蛸のようになっているアンナの瞳は虚ろ気味だ。
その瞳は誰も捉えておらず、明らかに意識が朦朧としているのが見て取れた。
「トレエちゃん。少しの間、彼女の様子を見ていてほしいのですけど…良いですか」
「はい…です」
そう言うと、ジェシカは二人の下を離れて脱衣所のある一角に向かった。
そこでは、風呂上がりを更に楽しめるように冷やされた飲料が用意されていた。ジェシカはその中から、三本のコーヒー牛乳を取り出して二人の下に戻った。
「はい、これ」
トレエには手渡し、アンナには頰に一旦触れさせて傍に置く。
「っ…」
突然冷たい瓶を頰に当てられ、駆け巡った冷感がアンナの意識に訴えた。
鳶色の瞳は、先程よりも少しだけ焦点を結んだように見えた。
「さぁ、冷たい内に私達も飲みましょう」
頷くトレエ。手渡された瓶をまじまじと見詰めていた彼女は、どうやら蓋の開け方について考えていたようだ。ジェシカが自分のを開けてみせると、彼女もそれに倣った。
「ひゃ…冷たい…です」
「ふふふ、そうですね」
一口含んでの一言。
思った以上の冷たさだったのだろう。トレエはキュッと眼を閉じ、肩を竦ませた。
「この冷たさが良いのですよ」
「…はい。サッパリ…します」
「でしょう? お風呂を出たばかりって、身体の中の水分とか沢山出てしまってるから…だから、美味しく感じるのですよ」
「…そうなんですね」
「だからお風呂上がりの方が、少しだけ体重が少なく出たり…」
ピクリとトレエの肩が動く。
「ジェシカさん……この方をお願いしても良いですか?」
今度はジェシカがアンナを見守ることになった。
半分程コーヒー牛乳を飲み終えた瓶を椅子に起き、トレエの足はまっすぐと乙女の神秘計測器ーーーもとい、設置されている体重計へと向かう。
「……」
台の上にそっと乗った少女は、真剣な面持ちで表示される数値を見詰める。
そして、
「…本当…です…!」
興奮を抑え切れないといった様子で台を降りる。
どうやら、望み通りの結果が出たようである。それなりの長風呂であったため、必然と体内の水分が出たのだろう。
「…♪」
気持ち軽やかな足取りで戻って来ると、トレエは残った瓶の中身を幸せそうに飲む。
些細な変化であっても一喜一憂。己が身体の変化というのは、うら若き少女にとってそれ程までに重要な問題なのだ。
「本当に減ってました。ジェシカさん…凄いです」
「そう大したものではありません。ほんの少しの工夫みたいなものですから」
「工夫って大事…です」
「…そうですね」
発汗、食事抜き等、身体の内容物を減らすという工夫。知っていると痩せを盛れる小さな、しかし身体への負担がある手間達。
ジェシカが知識として知っているのは、遠き昔に周囲の同性が自らの身体に対して神経質になっていた時期があるためだ。
誰しも、若い頃はあるのである。
「ジェシカさんも…身体が気になる時期ってあったんですか?」
しかし過去とは決まって、時を経ることに美化されたりするもの。
ジェシカは昔のことを思い出してみるも、自分では該当していた時期があったとは思えなかった。
「私よりも他の子…でしたね。私は…あまりそう言うのには拘っていなかったから」
首を横に振るジェシカであるが、真実ではない。
「トレエちゃんは気になりますか?」
こちらは頷くトレエ。
「…お肉が付くと…身体が動かし難くなります」
その理由は、とても現実的であった。
「…少しだけなら…」
「駄目です。身体の感覚が重くなります」
そして、自分に厳しいためでもあった。
想定外の返答に、ジェシカは面食らう。
身体の少し重くなるぐらいで、そうそう感覚が変わるとは思えないが。
「重くなると駄目ですか?」
「軽くなるのなら良いん…です。だけど、逆は駄目です」
そういうものなのかもしれない。
そういうものかもしれないが、良く分からない。
断言するトレエは、腕に細い糸を巻いていた。
その先端を見ると、細い針が接続されていることに気付いた。
「(トレエちゃんの武器…ね)」
見た目は可憐で内気な十五歳の少女であるが、彼女も立派な戦人なのだと実感する。
きっと、これまでその手で何かを守ってきたのだろう。そして、これからも守っていくのだろう。
そんなことを考えていると、「カポッと」視界の外から小気味良い音が聞こえた。
「…う……」
逆上せていたアンナが呻いた。
のろのろと伸ばした腕が辺りを探り、自らの分の飲料を掴んでいる。
トレエとジェシカの視線の先で、彼女は一気にコーヒー牛乳を煽る。
「っくぅ…っ!」
豪快だ。あっという間に空になった瓶を隣に置き、一息吐く。
「生き返った。手間を掛けてすまなかったな」
「いえいえ、どうぞお気になさらず。それよりも湯冷めする前に」
「…です」
「ん、あぁ」
アンナは手早く寝巻きーーーではなく、普段着に袖を通していく。
「……」
少女の視線を感じた。
視線に込められている感情は、悔しさのようなものか。
気付いていないように振舞いつつ、アンナはタオルの上から服を、下から下着を着用した。
タオルがハラリと落ちる。するとそこに、服の裾から下着がチラリズムするというラフ過ぎる格好が露わになる。
無地のシャツ。辛うじて中身は透けていないが、だからこそ空恐ろしく思えるのは中に何も着ていないためか。
裾からスラリと伸びる脚。肉付き良く引き締まっている脚は、座っている間僅かに溜まっていた水滴が数滴滴り落ちていた。
太腿の上を覆う布地の色はーーー
「(…色っぽいです)」
視線の主は、当然のように放たれる色気に負けていた。
一方でジェシカは、このままの格好で帰るのではと嫌な予感に囚われたが、果たして結果はどうなるのやら。
そんな不安を他所に、入浴前に着ていた衣類を無造作に纏めたアンナは一言。
「戻るか」
頼むから戻らないでと言いたい後二人。
深夜だ。戦いで疲れているのも分かる。だとしても、その姿で城内を歩くのか。
「んん…っと」
伸びをしながら脱衣所を出て行くアンナ。
どうしてそんなことが出来るのか。ハラハラする二人であったが、幸いにして見ている男は居なかった。
戦を終えて静まり返った城内。城の者達は、翌日に備えて英気を養っていた。
三人も同じように、身体を休めるために歩いていた。
そして、階段の手前に差し掛かったところでジェシカが口を開く。
「‘トレエちゃんは…今日、ジャンヌさんの所に泊まるのですよね?’」
もう今更アンナの服装をどうこうすることも出来ない。諦めた二人は、アンナの姿を警備兵の眼から遮りながら歩いている。
「‘…です’」
トレエの頷きに、ジェシカは微笑んだ。
「‘分かりました。では私は部屋に戻りますので、後をお願いしますね。’ジャンヌさん、私はこれで」
「あぁ。ピースハートによろしく頼む」
「朝になったら、様子を見に行きます」と言い残してジェシカは階段を昇り、アンナとトレエは降りて行く。
きっと、下からはとんでもない光景が見えるのだろう。トレエはそんなことを考えながら、複雑な面持ちでアンナの後ろから隣へと移動するのであった。
「はぁ…っ、はぁ…っ。よ、四年目の節目だと言うのに、ひ、酷い目にあった……っ」
「…はぁぁ…♪ 幸せだったわ…」
「…ったく、人の耳で遊ぶんじゃない……」
「そればっかりは駄目と言われても聞かないわよ」
「命令でもか」
「私の生き甲斐の一つだもの」
「これが…か」
「愛情を伝えられる方法の一つよ? ここから先は…言わせないで」
「…愛情か。…まぁ、伝わってくるが」
「なら、やっても良いわよね?」
「愛情を伝える方法ぐらい他にもあるだろう。わざわざ限定するな」
「嫌よ、やりたいのに」
「お前だって犬耳触られるの嫌がるじゃないか。それと同じだろう?」
「嫌じゃない時もあるわ。それと同じなの?」
「…俺は、常に嫌なんだが」
「でも触られている時のあなた、幸せそうよ」
「…考える気力が無くなって、表情を緩めてしまうだけだ」
「…表情を緩めたあなた…好きなんだけど」
「……」
「…私は大好きなあなたの、色んな一面を見続けたいわ」
「ぐ…」
「…駄目…?」
「分かった! 好きにしてくれ…」
「ふふ、嬉しい♪」
「…はぁ、予告だ。『夢には色んな形がある。人は夢の中で未来を見る。夢には色んな形がある。人は夢の中で望みを見る。夢には色んな形がある。今日見た夢は、何の夢ーーー次回、映夢。…そろそろ、場所を移すか」
「あら、良いじゃない。折角だしご飯でも食べに行きましょ。四年目なんだから、少し贅沢して」
「…あぁ、そうだな。四年目なんだから、呼べる奴は呼ぶか」
「…あ」
「よし、それじゃあ行くか」
「…もぅ」