奇劇
トレエは固まっていた。
アンナに籠を渡され、彼女に連れて行かれるようにして向かった城の二階。脱衣所の籠の中に服を入れて、扉に手を掛けて。中に入って身体を洗って。湯船に身体を浸したところで固まっていた。
「(どうして…ですか?)」
そんな彼女の近くでは、髪をタオルに包んだアンナが湯船に浸かっていた。
先程まで窺えた双丘は今、湯船の中。淡く桜色に色付いた湯船から、頂上の一部が覗いていた。さり気無く視線を向けると、頸から滴った桜色が丘の狭間へ入っていく。一度顎が触れるぐらいまで深く浸かってから、今の体勢になったためだ。
思わず溜息を吐きたくなる曲線美であったが、単に美しいだけでなくそれでいて力強さを感じさせられた。
引き締まっているだけではないのだ。その引き締まり、圧倒的な強さの源である筋肉が、美しく鍛えられているのだ。
だから武骨な印象を与えない。ただ麗しい戦姫の肉体が、そこにあった。
どうしたらそうも美しくなれるのか。十五の少女が悩みたくなる程だったが、今は他のことが悩ましい。
「あぁ…良いお湯」
湯船には、もう一人居た。
トレエが髪に付いた泡を流していると、シャワーの音に混ざる形でアンナと誰かが会話していたのだ。
聞き覚えがある声だったために声のした方を確認すると、そこにもう一人が立っていた。
「まさかトレエちゃんも入っているなんて、驚きました」
そう、ジェシカ・ピースハートが。
「…そう…ですか?」
「えぇ。ジャンヌさんと行動を共にされているとは思いませんでした」
クスリと微笑む彼女もまた、湯船に浮かぶ立派な丘を所持していた。
これが、中々に美しい丘だ。驚くべきなのは、一回り若いはずのアンナにも負けていないということである。
右にも左にも豊かな双丘。対して自分を見下ろせば、二人よりも小さな丘。何故だかトレエは、恥ずかしい気持ちになってしまっていた。
「意外だったでしょう? 彼女、本当に自分のことをしないから」
「…です。意外でした。あっ」
トレエは思わず頷いてしまい、ビクリと固まる。隣には本人が居るというのに、つい頷いてしまった。
恐る恐ると首を反対に向けると、半眼になったアンナと眼が合ってしまう。
「…言っただろう? 私は、普通に女なんだ。決して完璧ではないからな」
そんなことは、先程言われたばかりだから分かっている。
しかし、一度固まってしまったイメージというものは、後になっても以外と引き摺るもの。到底変えられるものではない。
視線から逃れるようにして正面を向いた
「普通に女性でしたら、もう少し自分のことをなさっても良いとは思いますけど…」
ジェシカが、アンナの言葉に苦言を返す。
「不器用なんだ。仕方が無いだろうが」
「…オルレアちゃんに関わることは、これでもかってぐらいに世話を焼くのに。あなたはどうしてそうなんでしょう…」
困ったような溜息。
これでもかってぐらいの世話とは、何だろうか。アンナが世話を焼いている光景が思い浮かばないトレエである。
悲しいかな。少女の中でアンナの印象は、「色々と駄目な人」というものに結び付こうとしていた。
完璧な人間とは違った意味で、結び付こうとしているアンナの印象の明日やいかに。
「後輩の面倒を見るのは先輩の役目だろう。それに、アイツを見ていると…」
「見ていると?」
口を開き、何かを言おうとしていたアンナ。
しかし小さく笑って頭を振ると、表情を和らげた。
「いや、何でもない」
それは、一瞬のことであった。次の瞬間には、既に跡形も無かった。
しかし、トレエは見てしまった。一瞬のことであったにも拘らず、記憶に焼き付いてしまう程の印象と共に。
アンナが、幸せそうに微笑んでいた。
眼は優しく細められ、微かに上がった口角に引かれて頬が緩んでいる。湯煙に当てられて帯びていた朱は、心なしか色を強くしたように見える。
人って、ここまで幸せそうな笑顔を作れるのだろうか。そう思える程、アンナの笑顔は美しく、もっと見たいと思ってしまうものだった。
一体彼女は、どのような言葉を自らの内にとどめたのであろうか。分かるのは、後輩のことを思わず微笑んでしまうくらい大切にしているということだ。
「(この人…もしかして)」
大切にしているといえば、ヨハンの執務室に連れ出された時に何か言っていた。
トレエは記憶を手繰る。確か、『貴殿のような花が無造作に踏みにじられるのが、私は許せないんだ』、という言葉だったか。あまりにアレな台詞だったもので、これが妙に印象強く残っていた。
トレエの中で、「もしかして」が膨れ上がっていく。
もしかして、この人は。
「(女の子が好き…なのでしょうか…?)」
アンナのレズ説、浮上する。
世界は広い。同性に恋愛感情を抱く人も居るのだ。
確かにそれを踏まえて考えると、あの妙にキザな台詞も頷けた。
「…何だ、私の顔に何か付いてるか?」
ふと気が付くと、アンナと視線が合っていた。
考え過ぎるあまり、彼女のことを凝視してしまったのだろう。鳶色の瞳を見詰める少女の姿が見えた。
「なっ、何でもない…です」
慌てて正面に向き直るトレエ。
「何なんだ…」と、アンナは疑問に眉を顰めながら唸る。
こちらを見てきたと思ったら顔を逸らされ、またふとした時に視線を注がれている。少女の様子はかなり挙動不審だった。
「トレエちゃんは、本当に恥ずかしがり屋さんですね」
ジェシカがクスリと笑うと、挙動不審少女は俯く。
恥ずかしいものは仕方が無い。いや、それもあるが、両側に浮かぶ双丘を視界に入れたくないという気持ちもあった。
幸いなのは、湯船が色付いていることであろうか。もし湯が透明で、双丘の下に沈む滑らかな曲線にまで主張されていたらーーートレエは深々と溜息を吐くのを止められなかっただろう。
あぁ、悩ましい。とても、悩ましい。そして、思うのだ。
いつか、大きくなってみせるーーーと。
「…ぅぅ」
恥ずかしがり屋な少女の顔が、湯に沈む。
桜の香りがした。鮮やかな春の贈り物だ。
「(わぁ…♪)」
眼を閉じると、桜で周囲が満たされた景色が浮かぶ。
鮮やかに咲き誇る花々は、風が吹くと舞うように地面に落ちて桜道を作る。
右も左も桜が並ぶここは、どこだろうか。
どこかで歩いたような気がするし、歩いていないような気もする。トレエは、どこか懐かしさをそこはかとなく感じていた。
「ぶくぶくぶくぶく…」
少しずつ顔を赤くしながら。
「確かに恥ずかしがり屋の印象を受けるな。眼元も隠しているし…」
「そこはそこで、可愛らしいとは思います。少し内気な印象を受けはしますが…」
一方アンナとジェシカは、トレエのヘアスタイルについての話で盛り上がっていた。
本人を間に挟みながら行われる話の副題は、どうすればトレエがもっと可愛く見えるかである。
「いや、眼は見せた方が良い。そっちの方が可愛らしいだろう。それに、今のままでは不潔とも取られん」
トレエの普段の髪型は、伸びた前髪で眼を隠しているスタイルで、後髪は肩の辺りまで伸ばしている。
青の入った灰色という明るい髪色をしているために重い印象を受けはしないものの、とても地味な印象を受けた。
せめて眼ぐらい見せれば清潔感を演出することも出来るのだが。それに、瞳が見えていた方が可愛らしい印象を強めてくれる。アンナは、眼を見せるべきだと主張した。
「不潔だなんて大袈裟な。今のままでも、十分可愛らしいですよ?」
対してジェシカは、今のままが良いとの主張を掲げる。
別に眼が隠れていても良いではないか。時々チラリと覗く、あの瞬間がまた良いのだ。
「眼元は見せた方が良い。そっちの方が可愛いに決まっている」
「隠れていた方が、また良かったりするのではないですか? 見えそうで見えない…それもまた、良しですよ」
「そんな男みたいなことを言うな。焦らされて喜ぶのは男ぐらいなもの。貴殿は彼女を、男を焦らさせるための供物にするのか?」
「まぁ、供物だなんて」
ジェシカはおかしそうに微笑む。
不服そうに眉を顰めるアンナだったが、少し思案してみると微笑みの訳が理解出来た。
供物というのは言い過ぎかもしれない。
「…変な言い方だな。兎も角、男を喜ばせると言うのが気に食わん」
「でもこれまで地味そうに見えた子が、髪型を変えた瞬間注目を集める…あるあるではありませんか?」
「あぁ、確かに。ううむ…」
アンナは唸る。
トレエは、実に可愛らしい少女だ。
前髪を下ろしているからといって、男は寄って来るのだ。
「ジャンヌさん。デビューって言う言葉を知っていますか?」
「デビュー…だと…?」
ジェシカの言葉が、アンナに雷を落とす。
衝撃を受けたアンナに、ジェシカはさらに続けた。
トレエは前髪を下ろしただけでも男を寄せ付ける程の魅力を有している。
さらに、そんな少女が突然髪型を変えたらどうなる? あの幼気な瞳、触ると餅のように滑らかな頬。それらが髪という名のベールを脱いで白日の下に晒されたとしたらーーー最も参考となる例が、「何とかデビュー」という言葉だ。
曰く、これまで地味であったが知る人ぞ知る隠れ美少女が居たとする。そんな少女が突然、少々垢抜けた姿で道を歩くとあら不思議。様々な男が寄って来るというパターンがある。
大体その切っ掛けというのが、それまでずっと仲良くしてくれた顔も性格も良い男の一言なのだ。「お前、地味だよな」から始まる一連の流れだ。
「…!」
湯船に沈みかけていたトレエが、顔を赤くしながらも浮上してきた。
ジェシカの話に強い興味が湧いたようだ。見上げる瞳が輝いている。
「まぁ…♪」
ジェシカの頬にも朱が差している。
こちらの瞳も爛々としていた。
「まぁ…歳頃の少女が好みそうな話か」
やれやれとばかりに息を吐くアンナ、二十歳。彼女は彼女で歳頃の女性である。湯煙に身体を撫でられている三人の中で、彼女だけが唯一冷めた瞳をしていた。
その瞳の冷たさたるや、「下らない」といった言葉が宿っているようだ。
だがそれもそうかもしれない。ジェシカの言葉が作り出す世界観を、しっかり理解している彼女であるが、理解しているからこそ冷静にならざるを得ない心境になっているのだ。
「(臆面もせずに、地味…だと? フン…生意気な奴が。斬り刻まれたいのか)」
ジェシカの言葉から、映像のように想像が出来ているアンナ。
女性という存在は大体、想像力豊かなのである。
対照的な二人の反応を見、ジェシカは話を続ける。
「ふふ♪ 楽しくなってきました」
ーーーその過程でちょっとした喧嘩別れになり、カチンときた少女が一念発起して髪型を変える。すると注目を集めたり、知らない男に声を掛けられるようにはなったが、肝心の喧嘩した男は寄って来ない。それどころか、距離を置かれているような気がする。
遠巻きに視線を注がれていたから、声を掛けようとすれば逃げて行く。不意を突いて声を掛ければ、「わ、悪い! 今少し忙しいんだっ!」と大急ぎでどこかへ行く。
「そんな日が暫く続いた頃。とうとう痺れを切らした少女が、男を捕まえるのです」
「ねぇ、どうして避けるの?」
ジェシカとアンナの視線が、間の少女へと向けられる。
湯煙が幻を見せているのだろうか。
前髪を横に流して露わになった熱の篭った瞳で、トレエが役に入り込んでいる。
悲しみと怒りのない交ぜになった表情や声音は、ジェシカの話に出て来る登場人物の魂が彼女に宿ったようだ。
ジェシカが視線でアンナに訊く。「どうされますか?」と。折角なので、彼女の熱演に付き合うのも良いかもしれない。
「いや…」
しかしながら、アンナは演技を得意としていない。首を横に振ると、ジェシカは小さく頷いた。
「は? 別に避けてねぇし」
そして始まる、小さな劇。
ジェシカは男役を演じるようだ。
「避けてるじゃん!!」
「避けてねぇって言っているだろ!」
「じゃあどうして声を掛けてくれないの!」
湯煙劇場で繰り広げられる、架空の男女の遣り取り。
互いに、中々の熱演振りだ。楽しそうに、しかし表情や身振りは別の人物の魂が宿っているように、本人達らしくない。
「っ、それは…」
糾弾とも表現出来るトレエの訴えが浴場に木霊し、湯煙の中に消えていく。
ジェシカは苦虫を噛み潰した表情で、押し黙った。
「(なんでそこで押し黙るんだ、斬り刻まれたいのか…!)」
悪くない演技だとは思いつつ、アンナの中で情けない男に対する怒りが煮えていく。
何故そこで黙る。というか、何故避けるのだ。あぁ、苛々する。男なら、こうーーーもっと。
「(って何を考えているんだ私は…ッ!)」
内心で叫ぶも、二人の遣り取りを冷静な姿勢で耳を傾ける。
彼女の動揺が高まっていく中、二人は劇の世界観を浴場の中で形作っていくのであった。
「…ぅぅぅぅ…。私は…何と言うことをしてしまったのだ…。ディオ殿が…ディオ殿が……」
ーーーおぱ、おぱおぱおっぱいぱい!
「夢巨乳病に罹ってしまった…っっ」
ーーーおっぱぁぁあぁあいっっ!!
「ぁぅ…合掌っ。や、やはりこの扉の先で何かがあると…男は夢巨乳病になるのか…っ。…何と、何と恐ろしい病なのだ夢乳病…ッ。私に治せるのか…? この奇病を…。無理…と言ってしまいたい。だが、私は医者として…病める人を治療するという使命がある。だから…何としても治さねばならない」
「…幸いにして、ディオ殿の尊い犠牲が私にヒントを与えてくれた。夢乳病…。ディオ殿がこうも早く発症したことを踏まえると…考えられるのは、発症者に何かしらされた結果の発症か。ふむ…とするとだ。夢乳病には、病原菌が存在すると考えるべきか。発症者の体内に病原があり、それが体内に侵入した結果、発症する…こんなところだろう。感染様式は分からないが、対処は病原へのアプローチが妥当か…」
「…恐らく発症前と発症後で、血液に何かしらの違いがあるはずだ。それが分かれば、自ずと対処法が分かるはず…! く…そうなると、ディオ殿をあちらに行かせてしまったのが悔やまれる。発症する可能性のある者で、こちらの部屋で拘束し易い男は……」
「…。弓弦はいつ来るのだろうか。結界を張り直すと言っていた時間は過ぎたのだが……うむ、早く来てほしいぞ」
「待つ間に予告でもするか。『青い春はまだ続く。終わらぬ奇劇に心が揺れる。青い春はまだ続く。終わらぬ奇劇に心が震える。青い春がそして終わる。春の後で巡りくるは、静かな夜ーーー次回、静夜』…弓弦、早く来てくれ…。私は、お前の血が欲しい……」
「…ハッ!? こ、この言い方…まるで…こここ、ここ告白みたいじゃないかっ!?!?」