白眼
扉を開き、中に入る。
中に入ると、机であったり暖炉であったりと、共通して上質であると分かる家具に迎えられた。
現在の『組織』において実質ナンバーワンの立場にある元帥、ジャンヌベルゼ・アンナ・クアシエトールの家は、空腹で頭の回らないトレエは、ソワソワしていた。
「(ご飯…です…♪)」
普段ならば、思いっ切り目上の人物の住まいということで怖じ気付いてしまうだろう。しかし今の彼女に、食事以外のことを考える余裕は無かった。
兎に角、食事にありつける。 空腹の彼女はそれしか考えていなかったのだ。
「(ご飯…です?)」
だがそんな彼女であっても、どうしても気になってしまうものがあった。
「ようこそ…と、言ってもそう大した家でもないが」
気恥ずかしそうに頰を掻くアンナの背後ーーーそう、調理台だ。
これでもかというぐらいに、全てがピカピカに磨かれている。
まるで新品のように磨かれているのが目立つのは、それ以外の所がどこか薄汚れているように見えるためか。
良く良く見ると、微かに埃を被っているようにも見える。
石ころの中に、一際輝く大粒の宝石が混じっているように、その調理台は目立ち過ぎていた。
「調理台が気になるようだな。フッ…そうだろう、そこだけはいつも欠かさずに綺麗にしているからな」
そこだけは。その言葉を聞いた瞬間、トレエは色々と悟った。
元帥、ジャンヌベルゼ・アンナ・クアシエトールはーーー
「…掃除、出来ないんですか?」
不器用なのだと。
「あぁ、その通りだ。掃除をすると、逆に散らかしてしまう。困ったことにな」
苦笑するアンナ。
「アイツが居た時は、毎日綺麗だったがな…」と呟く彼女は、冷蔵庫を開ける。
「食材はこんな感じだ。どうだ」
どうだ、とは何のことだ。
冷蔵庫の中に入っている食材は、生肉、味噌、生では臭みのある野菜等、どれも生では食べられそうもない物ばかりだ。
これは、まさか。
「えっと…これは…?」
「食材だ」
それは分かる。
それで分からないことがあるから訊いているのに。
「生で食べれる物は、全て食べてしまったからな。後は調理しなければ食い物にもならん」
困った表情を浮かべるトレエに、今更なことを言うアンナ。
どうやら、元々ある程度の食材があったのだろう。だが、それを食べてしまったから食べるものが無く、アンナは空腹と戦っていたのだろう。
「え……っと……では調理は……まさか……」
そう。食材がある以上、そもそも調理が出来れば空腹になることはないのだ。
悟りたくなかった事実にトレエは震える。
つまり、そういうことなのか。
ご飯は、己の手で作り出さねばならないとーーー!
「知らなかったのか…? 私は料理が作れない…!」
突き付けられた現実に、トレエの震えが止まらない。
これが絶望か。ご飯にありつけると思っていた矢先に、調理という壁が待ち受けているとは。
「(知らないです…ぅっ)」
全然誇るべきではないことで誇らし気に胸を張るアンナ。
何故こうも誇れるのか。恨み言の一つをくれてやりたかったが、トレエにそんなことが出来るはずもなく。
「…分かり…ました……」
仕方が無く、トレエは調理に取り掛かることに。
「本当か!? 本当に作ってくれるか?」
再び頷く。
幸いにして食材がある。調理自体は可能だ。
本当に、それだけが幸いだ。
満足そうに椅子に座ったアンナを背に、冷蔵庫の前に立った。
「(…ご飯食べたい…ですし)」
扉を開くと適当な食材を取り出し、まずは料理として使えそうか確認する。
念のためだ。腐っている食材があるとは思いたくないが、作った後に腹を下されたら堪ったものではないため、しっかりと確認する。
「(あれ…これ……)」
するとどうしたことか。手に取った食材は、どれもが新鮮だ。何故こうも新鮮なのか、と思える程には新鮮だった。
「フ…定期的にジェシカが買って来てくれるのだ。料理も作ってくれるんだが…こんな日に頼む訳にもいかんからな」
食材選びから、調理に至るまで。
元帥の日常は何というか、言葉にすれば。
「(人任せ…ですね)…そう、ですか」
出で立ちや気配に至るまで、神様のような人ーーーそう思っていたのだが、随分とまぁ自堕落な生活を送っているものである。
この時、トレエの中でアンナの株が絶賛急転直下中であったのだが、やはり恐れ多いという気持ちと生来の内気さが故に言葉にはしない。
「何だ、失望でもしたか?」
しかし、声音と雰囲気には出ていた。
「ぇっ」
アンナの予期せぬ言葉に手が止まる。
言葉に出してしまってから分かる、自分の失態。固まってしまったトレエは、背後から凄まじい重圧を浴びせられている感覚に陥った。
怒らせてしまっただろうか。怒らせてしまったのなら、この後どうなるのだろうか。
震える心を落ち着けて、アンナの次の言葉を待ちつつ手を動かす。
「(ぅぅぅ…)」
それでも手は震える。兎に角震える。
右へ左へブルブルと。包丁をこのまま振るっていれば指を切ってしまいそうだ。
それでも指を切らないように、丁寧に野菜を切っていく。
普段から料理を作っていて良かったと思うトレエだ。少々形が不均一になりつつあるが、指を切らないだけマシだ。
「ははは! 図星か、分かり易い! 清々しいまでの動揺っ振りだ!」
怯え切った様子を上機嫌に笑い飛ばすアンナ。
その笑いすら、トレエには恐ろし過ぎた。
「大方、私を超人的な存在だとでも考えていたのだろう! 期待に添えなくて悪いが、これが私だ。剣を握るしか大した能も無くてな」
株を下げたのは事実だが、そこまでは思っていない。
どうにか弁明をしたかったが、上手い言葉が出て来ない。
「フ…私は超人ではない。元帥とは呼ばれているが、剣と鎧を置けば、ただの女だ。そう驚いてくれるな」
そんな彼女を見兼ねたのか、アンナの声音が優しさを帯びる。
「これでも一応二十歳なのでな。年端もいかない少女めが、と揶揄されることもある。貴殿とそう変わらないのだぞ、これでも」
「二十歳…なんですか…!?」
それはトレエにとって、驚愕の事実であった。
若くて美しい人ーーーそんなことを思いはしたが、ここまで若いとは。自身と五つしか変わらないという事実が、彼女に声を上げさせた。
「あぁ、ピッチピチの二十歳と言うヤツだ。生娘も良いところだぞ、私は」
「…凄いです。…私とそんなに変わらないのに」
五つしか変わらない女性。
五つしか変わらないのに、『組織』の頂点に居るのだ。一体それまでに、どれ程の苦労をしてきたのだろうか。
「フッ…そう、そんなに変わらんのだ。貴殿も、私も。だからそんなに畏まらないでくれ」
変わっていないはずがない。
中尉と元帥、その立場は雲泥の差といっても良い。
畏まる必要が無いと言われても難し過ぎた。
「ぇ…で、でも……」
どうしてそんなことを言うのか。アンナの真意が分からない。
「良いんだ。貴殿は畏まらなくて良い。貴殿に畏まられると…オルレアに、私の部下に畏まられている感じがしてな、私もどうして良いか分からなくなるんだ」
トレエは思わず包丁を置き、既に切り終えた肉をフライパンに並べてから振り返った。
まさかそんな言葉を掛けられるとは思わなかったのだ。
そして同時に、こんなことを思った。
「(また…)オルレア…ですか?」
ここに来て、何度その名を聞いただろうか。
自分と同い年の少女。ジェシカから、ヨハンからも聞いた名だった。
アンナの部下であるらしい少女の名前なので、上司の口から出るのは当然ではあったが。
「(そんなに似てるの…ですか?)」
ここまで気さくに話し掛けてくれるのは、部下である少女の姿を自分に重ねているためであろうか。
一度ヨハンの執務室で写真を見ているが、思い返すとどこが似ているのかと疑問になる。
もっとも自分のことなので、自分には見えず、人には見えている側面はあるのかもしれないが。
「あぁいや、そう気分を害さないでくれ。背格好が似ているんだ。サイズ感が殆ど同じに見えるし、そこに立っていると…なおさらな」
「身長は、ほぼ同じだと思う」と、アンナ。その話の流れで、身長が153cmであることを聞かされる。
「そうなん…ですね」
ついでに体重についても教えてくれた。
何故身長と体重について知っているのだろうか。幾ら上司とはいえ、正確な値として知っていることに疑問が浮かぶ。
「(…どうして)」
浮かんだ疑問は、それだけではなかった。
「(どうして私より…軽いんですか……?)」
写真で見た限りだ。写真の、さらに服の上から見ただけだ。だが。
「(どうして私より…)」
だが。
だが、それにしてもーーー大きい、そして引き締まっているように見える。
「(スタイルが良いんですか…ぁっ)」
純粋な乙女の疑問がそこにあった。
「どうした、何だかショックを受けているみたいだが」
「いえっ、何でも…ないです」
そんな疑問を言うのも、どうかと思った。なので心の動揺冷めやらぬままに調理を再開する。
今度の動揺は、怯えというより静かな怒りによるもの。手は震えなかったため、危な気なく調理は進んでいった。
「そうか? それなら…まぁ、良いが」
席を立つ音がした。
一瞬、こちらに来るのかもーーーと思ったが、足音は遠くなる。
「…?」
どこへ行ったのか気になったが、調理に集中する。
そうこうしている間に、一品が完成していた。
手軽に作れることを追求したため、切った野菜を特製のタレで簡単に炒めた品となった。
「あ…」
そういえば、お皿を用意してなかった。
食器棚を遠眼に確認したトレエは、使用する食器の目星を付ける。
「(あれと…あれと…)」
そして調理中の食材を確認した。
ーーー皿を取りに行く時間と合わせて、少し離れても大丈夫そうだ。
トレエは手早く食器を用意した。そして用意し終えた皿に、一品目を盛り付けた。
それが終わると、火の通った肉を盛り付けて別の野菜と和えた。
これで二品。少し残した肉はまた、別の料理のために他の皿へ移した。
三品目は、残った肉に、野菜にも掛けた特製ダレをさらに調味したタレを掛けたものにした。
「ふぅ」
計三品。一丁上がりである。
先程までアンナが向かっていた机に料理を並べると、今度は自分の分を並べようとしてーーー悩む。
「ぅぅ…」
自分はどこで食べたら良いのだろう。
お腹は空いていたし、一人分作るのも二人分作るのも手間は変わらないために作ってはみたが、問題はどこで食べるかだ。
室内には、アンナが座っていたものと合わせて二脚の椅子がある。
とすると、アンナの他に料理を置ける場所は限定されてくるのだが、少女はどうしても己の臆病からの掣肘を受けずにはいられなかった。
「(どう…しましょう)」
だが、直前に畏まる必要性が存在しないことを伝えられたため、この場合は遠慮することの方が失礼かもしれない。
「(こう…しましょう)」
トレエは悩みを彼方へと送り、アンナの正面に自らの食事を並べた。
「ほぉ、手際が良いな」
丁度アンナが戻って来た。
眼を輝かせながら席に座った彼女は、自分の対面にも料理が並べられているのを見て満足そうだ。
「失礼…します」
トレエもアンナに倣い、椅子に腰掛けた。
「あぁ。じゃあ食べるとしよう」
そうして二人で手を合わせ、食事が始まった。
「お、美味い」
箸を器用に使って食事を食べるアンナは、口々に料理を褒めていった。
最早褒めちぎりの領域に片足を入れているといって良い程だ。そこまで言われると、やはり恥ずかしくなってくる。
「(ぅぅ)…はぐっ」
だが空腹なので、食べるものは食べていく。
自分で作った料理とはいえ、味は悪くない。トレエはアンナよりも少し遅れる形で食事を平らげていった。
「美味かった。あぁ、美味かったぞ」
ーーーそして食事後。アンナが満足気に笑うのを背に、トレエは食器を洗っていた。
「…ふふ」
流しの片付け中、あまりに美味しそうに食べてくれるものだから、ついつい嬉しくなってしまった。
小さく零した少女の笑みは、水に流されていく。アンナに聞こえなかったのは、トレエにとって幸いか。
「終わったか?」
拭いた皿を片付けると、アンナがそんなことを訊いてきた。
終わったのなんて、見れば分かる。もっともこの場合、次の話に移る前の合図であるのだろう。
「…はい、です」
トレエはアンナの方を向いて頷いた。
「…え?」
そして、固まった。
「ん? 私だって、机ぐらい拭けるさ」
机の上に、何かが置いてある。
籠だ。籠が、二つ。
「(…そうじゃない…です…っ)」
トレエが固まった理由は、籠の内容物にあった。
可愛らしい薄い生地が見える。山の上の方には、服が見えた。
何だ、何なんだそれは。トレエは首をふるふると振り、籠に視線をじっと据えた。
「これか?」
恐らく先程、席を立った時に用意していたのだろう。
トレエの眼には、籠の中身が着替えであるように映っている。
確かに着替えなのだろう。白いタオルも用意されていることから、シャワーの用意と取れる。
しかし、何故二人分用意してあるのか。問題はそこなのだ。
「私と貴殿の風呂の用意だ」
「え」
「飯を食べた。なら次は風呂だろう? 貴殿もどうだ」
「(どう…じゃないです)」
訳が分からない。というか、少し慣れ慣れし過ぎ、もとい踏み込み過ぎではないだろうか。
初対面でないとはいえ、同性だとはいえ、こうもグイグイこられると困ってしまう。
断るかどうかは別として、少し考える時間が欲しかった。
だが、眼を輝かせているアンナが実に眩し過ぎる。彼女の言葉に逆らえないトレエに、拒否権は無かった。
「…分かり…ました」
拒否権は無いが、全くの嫌ではない。コクリと頷いたトレエは、バッとアンナに手を握られて瞬きを増やす。
「ならついでだ」
「え」
まだ、何かあるのか。
トレエの中で、このついでに対して妙な胸騒ぎがした。
少女の脳裏を掠めた予想は、きっと間違っていない。
ご飯、風呂ーーーときたら。
「今夜、家に泊まって行くと良い!」
次にくるのは、泊まりのお誘いということで。
「えーーーーーーーーーーーーー」
眩しいばかりのアンナに照らされたトレエは、真っ白になった。
「久々ね。こうして二人で歩くの」
「…そうか? そう…かもしれないな。二人で出掛けると言うことも、最近はあまり無かったし。…寂しかったか?」
「当たり前のことを訊かないで。分かっているのなら」
「ぐ」
「まぁ、良いけどね。ご主人様はお忙しい方、いつも誰かの先約入り。ご主人様が人気者で、ホント嬉しい限りよ」
「…何だよ、嫉妬か?」
「あぁ、嫉妬じゃないのよ? これは…そう、色々と頑張りなさいって叱咤ね?」
「自分で疑問に思ってどうするんだ」
「だって…ううん、別に。何でもないわよ」
「そう言うのって、フィーに限らず何かしらあるんだけど」
「いきなり乙女の秘密に突っ込むなんて、無粋の極みよ。ちゃんとムードを作りなさい」
「…二十の意味に聞こえるな」
「そうね。無粋であって、不粋。粋が無くて、粋の反対。言うなれば、二重の極みよ」
「それはそれで、別の意味に聞こえるんだが」
「要はムドーを大切にしなさいってことよ。ご主人様」
「そうか。だったら敢然と立ち向かってみせないとな」
「あら、勇ましい。けどそんなに意気込まれると、私としても身構えちゃうのだけど」
「はは…。身構えるなよ」
「ちょっと…そんな眼で見ないで…。ここ…人が通るのよ? それを…こんな…‘壁際に追い詰めて……’」
「ん…?」
「…駄目、よ?」
「身構えるからだろ。そう言うの…崩してやりたくなる」
「だって…っ。…期待しちゃうから」
「……」
「……駄目?」
「……」
「……ねぇ、良いでしょ?」
「…さぁて、な」
「…焦らさないでよ」
「勝手に期待して、焦らされてるだけだろ。ここ、人が通るぞ」
「…そんなこと…ないわよ」
「…。予告言った後でな」
「…ん」
「『切り落とされるは一息の一幕。湯船に浸り、心も浸る。切り落とされるは劇の一幕。湯煙に包まれ、見えるは幻想。切り落とされるは彼女の一部分。戯れの中に、青き春が描かれるーーー次回、奇劇』…じゃあ」
「……」
「…「ほらっ」きゃうんっ!? …ちょ、ちょっと! いきなりデコピンって何なの!? しかも…手、加減…っっ」
「ん? 言っただろ? 身構えているのを見ると、崩してやりたくなるって」
「言ってたけどっ! これは…あんまりよ……っ!! いっっったぁ…っ」
「…悪い。手加減したつもりだったが」
「してない! 全然! 凄く痛良いのだけど!」
「…良いのかい」
「…本音が出ました。だけど、な、に、か? 意地悪ご主人様」
「別に」
「……」
「…何らよ、ひっはっれ…」
「…いけないことを言うのは、この口かしら…!」
「…さぁれ、な?」
「いいえ、この耳ね。この犬耳が悪いのね!? …弄んであげる」
「んな゛ぁっ!? つ、抓るなっ!?」
「…ふふ♡ 今日は私が主導権握るから…覚悟してくださいね。あなた…っ!!」
「…耳触る時は、いつも主導権だろう…がぁぁんっ!?!?」