斜陽
夕陽が、更に傾く。
執務室を出てからそれなりの時間が経過しているのにも拘らず、トレエはまだ城の中を彷徨っていた。
いい加減人に聞けば良いものを。しかし、それが恥ずかしさのあまり出来ていないから今に至る訳で。
だがこの時間にまで至れば、トレエでもそれは分かっていた。そして、ようやく自分なりの方法を探し出した。
「…し、失礼します……」
というのは、近くの扉を片っ端から開けていこうといった自棄だ。
人に尋ねた方が早いのだ。それは分かっているが、それでも見知らぬ人に声を掛けるのは少女にとって、ハードルが高かった。
「…違いました。…はぁ」
既にトレエは、数カ所の扉を開けては中をそっと覗き込み、兵達が療養していないことを確認していた。
そして今も、やはり別の部屋であった。トレエは中々辿り着けないもどかしさを抱きながら、静かに閉じて息を吐いていた。
息を吐くと幸せが逃げるーーーとはよくいったものだが、そんなことは関係無い。考えれば考える程、余計に幸せが逃げていくような気がする。
しかし取り敢えず、そんなことを考えている暇があるならばディーを見付け出さなければ。
ーーージジ…。
「っ!?」
そんな折、ノイズが聞こえた。
ビクリと強張った少女の姿に、自然と通行人の視線が注がれる。
「ぅ…っ」
視線に敏感なトレエ。まるで自分が見えないものに射抜かれているような感覚から逃げようと、近くの部屋に入った。
深く考えずに取った行動だ。薄暗くて静かな部屋だったが、この際丁度良い。周囲を一瞥して静寂の確認をすると、隊員服の内ポケットから小型のインカムを取り出して耳に装着した。
『トレエ中尉、聞こえていますか?』
耳元から聞こえてきたのは、落ち着いた男の声。
「…ブローレン大佐、はい」
声の主の名を呼び、トレエは返事をする。
彼女の脳裏に男の姿が浮かぶ。
「ブローレン大佐」と呼ばれた人物は、彼女の上司に当たり、同時にディーの部下に当たる男だ。
その名は、ジェラル・ド・ブローレン。『アークノア』実行部隊副隊長だ。
『ふむ、実に恥かし気な良い返事です。いやぁ、相変わらずの内気振りで結構』
人呼んで、「弄りのジェラル」とも呼ばれる男から通信が入ったのには理由がある。
トレエが今回ディーの外出に同行したのは、通信機器を持ち歩かない彼の代わりに、『アークノア』との連絡係のため。不在の隊長の代わりに今現在の『アークノア』を指揮している副隊長との橋渡し役だ。
今この時も、ここまでの状況を報告する定時連絡のために通信が繋げられたのだ。
『あっはっは。困りますねぇ、定時連絡なんですから何か言ってほしいものです』
この気の抜けたような笑い方も、ジェラルの特徴である。
口では「困る」と言っているが、全然困っているようには聞こえない。
「…ブローレン大佐、あまりからかわないでほしい…です」
『別にからかってなどいません。私は至って真面目ですから』
「…真面目じゃないです」
『そんなことはありませんよ? 今この時も、いつあなたが報告してくれるのかを今か今かと待っていますから』
チクリと皮肉。
この嫌味ったらしくて仕方が無い言い方も、この男の特徴だ。
「…ぅぅ」
因みにトレエの天敵である。
『さて、では前置きはここまでにして報告をお願いします』
何かと嫌味で返されるため、出来れば対面したくも通信したくもない。しかし、定時報告の役割を一任されている以上どうしようもない。
「…はい」
トレエは今日一日の出来事について、自分の言葉で報告した。
今朝『シリュエージュ城』に十人の賊が侵入。賊の狙いは城主ヨハンの命、そして城そのもの。自分とディーでそれを防衛したが、その後ディーによる牢への連行中に、一人だけ逃走を許してしまった。
取り逃がした最後の賊をディーと共に追ったヨハンは、その最中著しく負傷し現在療養中。一見したところではあるが、全身に裂傷及び四肢に熱傷を負って戦闘不能に追いやられている。
ディーの下へは現在向かっている最中だが、両者を連れ帰った元帥の口振りからヨハンと同程度の負傷を負っていることが予想されるーーー等々。
『…成程。それはまた、あまりよろしくない状況ですねぇ』
相槌が挟まれることはなかった。
静かにトレエの報告に耳を傾けていたジェラルは、沈黙の後に口を開く。
『一つ質問ですが。最後の一人…捕獲は?』
最後の一人、そういえばどうなったのであろうか。
倒したとも殺したとも、逃がしたとも元帥は言っていなかった。
故にトレエは首を横に振った。
「…分かりま…せん」
『おやおやそれは困りましたね。もし逃げられているとなれば、中々の危機的状況ですが』
ジェラルは嘆息すると、言葉を続ける。
『仕方ありません。トレエ、隊長との合流を急いでください。今は何より、情報が欲しい』
しかしその頼みは、トレエにとって困難を極めるものであった。
まさか、このまま通信をしながらディーを探せというのか。未だディーを見付けられていない少女を、鬼畜攻めをされてる気分にさせた。
「…分かってます」
『まさかとは思いますが…。元々隊長を探していたのが、まだ見付かっていないなんてことは…ありませんよねぇ?』
「…ぅ」
カマだ。そして図星である。
言葉に詰まってしまい、しまったと思うも時遅し。間髪入れずに、分かっていたとばかりに溜息が吐かれた。
『おやおやこれは、困りましたね。私としてはすぐに合流してほしいのですが、これではいつになることやら』
嫌味アンド嫌味。
その通りであるため、トレエは何も言い返せなかった。
「…ぅぅ」
『まぁ、良いでしょう。では見付かり次第ただちに連絡をお願いしまーーー』
だがその時、
「さ~っきから声がするかと思えば」
声が聞こえた。
聞き覚えのある声。所々間延びしたようなこの声は。
「ドゥ~フト中尉だったか~」
探していたディーのものであった。
「ディー隊長…っ」
視線を向けた部屋の奥で、身体を起こす一人の男が居た。
トレエの感極まったような声音に眉を上げたディーは、数度の素早い瞬きの後に納得したように苦笑する。
『おや、見付けていたのでしたら最初から言ってください。危うく勘違いからあなたを弄ってしまいそうでした』
「‘…勘違いしなくても弄ります……’」
『おや? 何か言いましたかトレエ?』
「…ふん…です」
手招きに応じて彼の下へと歩み寄ると、トレエは耳に着けていたインカムを手渡した。
『あらららら』
隊員服のポケットから取り出したハンカチで、目一杯ゴシゴシと拭ってから。
「そ~んなに気にしなくても良いんだな、中尉」
ディーに気を遣ったというよりは、ジェラルへの仕返しである。
マイク部分を布で擦ると伝わる相手方への音。それは筆舌し難い雑音となるのだ。
「…ディー隊長こそ、気にしないで…です」
「ん~。っ、そ~かい」
ディーは微かに顔を顰め、インカムを耳に装着する。
痛みが走ったのだろうか。部屋の明かりに照らされた老兵の身体は、首の下が包帯だらけだった。
「大丈夫…です?」
マミーみたい、と思ったのはここだけの話である。
「ん~。ま~…手~痛くやられたからなんだな。…で~、ジェラル。あ~まりドゥフト中尉を虐めるんじゃないぞ」
頷く少女。
彼女にとってマミー、もといディー隊長は、副隊長からの防波堤でもあった。
もう少し言ってあげてください。そんなことを眼差しに込めてディーを見詰める少女だったが、苦笑で返され小さく呻く。
『あは、虐めてなんかいませんよ。それどころか小さな彼女に大きな仕返しを受けていたところです。やれやれ』
「そ~うかい。で」
ジェラルの通話相手は、この時トレエからディーに変わる。
調子の良さが窺えた声は冷静な声音へと変わり、仕切り直しを告げる。
『えぇ。何か…只事ではない何かがあったようですね』
その声音からは、どこか心配を感じさせられた。
ディーは短く息を吐くと、どう話したものかと考える。
ジェラルは恐らく、現状の理解に努めている。彼が今現在考えているであろうことを予想し、適切な答えを返す。
「…【リスクX】を名乗る男が現れたが、元帥嬢ちゃんとヨハンとで撃退した。援軍の必要は無いんだな」
『援軍の件は承りました。ですが【リスクX】を名乗る男ですか、予想はしていましたが、相当に深刻な状況でしたね。二つ名は』
ディーは記憶を手繰る。
自身は、無念ではあるが戦闘が終わるまで気を失っていた。しかしアンナにここまで運ばれる最中、おおよその状況は説明してもらい、理解していた。
「元帥嬢ちゃんが言うには、『幻憶の導き手』と名乗っていたそうだ。アムイ…と、侵入者達には呼ばれていた」
『『幻憶の導き手』…確か、以前話に出た『革新派』と結託している悪魔の一柱ですね。成程、アムイと言うのですか。隊員記録にあるかもしれません。少し調べてみます』
キーボードを叩く音が、小さく聞こえる。
少しして、固い声が聞こえる。
『…ありました。アムイ、確かに『革新派』の隊員の一人ですね。ですが名前以外の情ほ……?』
口籠るジェラル。
彼が言葉を濁すとは珍しいことだった。
そしてそんな時に限って、不吉は当たる。
「ど~した」
『隊員記録の一番下に『ノイズ』が生じています。どうやらここに、何かが隠れていそうですね』
『ノイズ』。言葉としてはありがちなものだが、この場合の『ノイズ』は少々単語の重みが変わってくる。
『組織』のネットワークが接続している情報機関は、『太古の記録書』だ。そこにノイズが生じているということは、機械の手ではなく「誰か」の手によって情報の根幹に関わる部分が修正されていることを意味する。
一応誤字等の簡単な修正ならば起こらないのだ。故に『ノイズ』の出現は、何かしらの異常事態があった場合のみ生じる。
例えば、生きていたはずの人間が歴史の中で殺されていたりすると生じる。要はタイムパラドックスが起こると生じたりする。
だから滅多に出現するものではない、というか出現していることが一大事。だが出現してしまうと、これが中々心臓に悪い。本当に一部分だけが切り取られたようにノイズ表示されていたりする。
異常事態の重要な目標であるのだが、一部分であるため、また一時的なバグのようなものであるために意識しないと見付けることは出来ない。出来ないが、一度発見して気になってしまうと気になって仕方が無くなる。そこに、強烈な違和感を催すためだ。
「解析を頼むんだな」
キーボードを叩く音が聞こえる。
『えぇ、ですが暫く時間が掛かりそうです。少々お待ちを』
ジェラルの言葉に頷き、ディーは傍で佇む少女に意識を移す。
一言も話さないでいるのは、重要な話に口を挟むべきではないと考えているためか。だが視線が合うと、彼女はおずおずと口を開いた。
「…何か…あったのですか?」
「ん~、ちょいとね。ただ…っ、痛たたた…」
アンナに斬られた部分が痛んで顔を顰めたディーの背中を、そっとトレエが支えた。
そのまま横になるのを手伝ったトレエが、気遣わし気な声を上げる。
「…大丈夫…ですか?」
随分と容赦無く斬り刻んでくれたことに文句の一つでも言ってやりたいが、この荒っぽい治療処置を行ってくれたのは彼女なのでそれは難しい。
そもそも、彼女は幻に惑わされていただけなのだ。恨むのは微妙に筋違いである。
「回復魔法を掛けてもらっているからね。明日には歩けよるようになっているとさ」
「わぁ…それは凄いです」
回復魔法は、対象者の生命力に働き掛けて治癒を促進させるもの。その効果は、魔法の治癒力と対象の生命力の影響を受ける。
つまり回復が早ければ早いほど、二つの影響が強く働いていることを意味していた。
「元帥嬢ちゃんの魔法が凄いんだな。こ~の老いぼれの身体だけじゃ、そ~うも回復しないって」
徐に持ち上げた手の手の感覚を確かめる。
この個室で横になったばかりの頃よりかは、身体の回復が進んでいる。だがまともに動ける程ではない。
「…でも、ディー隊長の生命力が無ければきっと……」
「は~、嬉しいことを言ってくれるんだな。だけどま~…最近は若い隊員に抜かれることも増えたし、年の瀬には勝てんね」
「…そんなことは……」
『たかだか一人や二人に負けただけでしょう。気にしても仕方がありません』
殆ど同時の慰めに苦笑する。
まさかトレエだけではなく、ジェラルにも言葉を掛けられるとは。どうやら二人共、案じてくれているのだろう。
確かに気にしても仕方が無かったりする。アンナ、そして鎌を持った優しい笑みの女性は、常人外れた実力を有していた。勝てなかったとしても、相手が悪かっただけだ。
ーーーだがこれは、きっと己の実力を見詰め直す良い機会かもしれない。ディーはそう考えていた。
そして同時に、己の実力を高める機会であるとも。
「あ~りがたいね。で、報告を」
それは追々考えるとして。
ジェラルの言葉掛けは、自らが行っていた作業が終了したことを裏で語っていた。
『えぇ。ノイズを解析すると、他の項目へのリンクと思わしき『魔法文字』の羅列が』
『魔法文字』。それは魔法陣を構成する文字群のこと。
『妖精』と呼ばれる種族は、この『魔法文字』を読み取って魔法の属性や種類を判別するというがーーー
『やはりリンクですね。しかし、この項目は…!』
「何の項目だ?」
『大当たりです。リンク先は、『幻憶の導き手』でした。それにどうやら…以前の閲覧では見るのことの出来なかった情報まで開示されてるようです』
以前の閲覧。
当たり前のようにジェラルが言うが、一瞬何のことか分からないディーだ。
しかし、確かに見た記憶はある。だがいつ見たのだったか。
今にも道を踏み外そうとしている友を助けに行った時には、既に閲覧して悪魔についての知識があった。ならばその前か。
「……?」
ふと、トレエの顔が眼に入った。
インカムを着けていない彼女にジェラルの声は届いていない。そのため、完全に会話に付いていけずキョトンとしていた。
「…あぁ、そ~う言えばドゥフト中尉が指揮訓練に行~った時か」
もうそれなりに前のことになるだろうか。
とある部隊に所属する隊員の指揮訓練のために編成された一個中隊に、トレエも参加していたのだ。
その訓練終了時に彼女から、「不思議な幻」を見た他の隊員が混乱状態に陥る事態が生じたと報告があったのだ。
幸いトレエ本人は混乱しなかったそうだが、「不思議な幻」というのが気になったディーは『装置』を検索し、そして『幻憶の導き手』という悪魔の存在に行き当たった。
『えぇ。その時は、二つ名と属性、どのような魔法を用いるのか…そんな記述しかありませんでした。ですからこの情報には驚きですね』
喜びや驚きーーーと呼ぶよりは、あまりにも固過ぎる声音。
ディーの沈黙を受け、ジェラルは静かに言葉を続ける。
『公式に討伐記録があります。…それも、かなり古い』
そして、予想の範疇を超えた事実を口にするのだった。
ーーーあ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛っっっ!?!?!?
「‘…ッ!? な、ななななな…何てことなの…ッ! あの子まさか…彼を犠牲にするなんて、それでも医療者!? 研究者の間違いなんじゃなくてっ!? あ、あり得ないわ…’」
「‘み、見なかったことに…しないと…。あぁでも…声が…悲鳴が脳裏を離れない…。どうすれば…っ’」
「‘…そ、そうだわ! こう言う時は部屋に戻って、チョーカーに鎖を付けて…あの人のことを想いながら一人遊びを……’ハッ!?」
「おーいユリ」
「待ちなさいッ!」
「居むぐぅっ!?」
「‘ここから先は駄目よ。絶対に駄目’」
「は?」
「‘良いからこっちに来て’」
「ちょ…ぅぉっ!?」
「どうしたんだ、いきなり…」
「どうしたもこうしたも…駄目なものは駄目よ、あなた」
「…すまん、意味が分からん」
「……お願い、入らないで。あなたの身が危険に晒されるわ」
「…どう言うことだ」
「……」
「…だが、そろそろ防音結界を張り直しに行かないとな。効果が切れるとユリが困るだろうし」
「(…どうりで悲鳴が聞こえてきた訳ね。でも…)それをされると、私が困るのよ。心から。お願いっ」
「……一体、何がお前を怖がらせているんだ」
「それは…男性恐怖症よ」
「…?」
「お願いします、ご主人様。医務室を…ユリをそっとしておいてください、私…何でもしますから…」
「ん?」
「…何でもされたいです…わん」
「……」
「…わ…わん……」
「なぁ、フィー」
「…はい」
「…楽しいか?」
「えぇ、凄く♪」
「……お前は相変わらず、ドMだな」
「最高の褒め言葉よ、あなた。お前呼びも含めて。妻扱いをひしひし感じるわ」
「……。で、何でもされたい…か。んじゃ、命令だ」
「はい♪」
「予告、頼むな」
「…わん。『人には抗えない衝動がある。時としてそれは、人の原動力となる。人には抗えない衝動がある。時てしてそれは、人を争わせる。人には抗えない衝動がある。時としてそれは、人を狂わせるーーー次回、空腹』…衝…動……?」
「今だッ!」
「しま……っ!?」