幻夢
『シリュエージュ城』の通路を歩く、小さな背中。
右も、左も、見上げる程に高い壁に、視線を下げれば似たような通路に迷い、けれども歩いて、目的の場所を探す。
「…ディー隊長」
探し人の名を呟き、キョロキョロとそれらしき場所を探す。
確かーーー負傷した兵達と共にベッドで休んでいるはず。ならば、どこかの休憩室もしくは療養室に居るはず。
それは分かっている。分かっているのだが、扉の多さにどの部屋か分からなくなる。
こんな時、一つ一つ扉を開けて中を確かめる程の度胸があれば良かったのだが。トレエは最初の扉の確認で心が折れた。
最初に開けた扉はーーー確か、厨房だったか。気持ちを固めて開けてみたというのに、開けた瞬間のあの、中に居る人々に注視される感覚! 臆病なトレエはすっかり怯えてしまった。
「…どこ…ですか…?」
城の通路を歩いて、早数分。
同じ所を歩いているような気もするし、違う所を歩いているような気もする。
取り敢えずは一階を歩いているのだが、果たしてこんな状況でディーの発見が可能なのか。傍目から見れば、中々に困難な状況だ。
「ぅぅ…」
擦れ違う人々に声を掛けようとした。だが、その勇気が圧倒的に足りない。声を掛けようとしても、すぐに臆してしまう。
扉に手を掛けようとしても、やはり勇気が足りない。取っ手に触れるのが精一杯な少女は、それ以上何も出来ない。
「…困っちゃった…です」
一体、ディーはどこに居るのだろうか。
トレエは緑と鮮やかな花々が綺麗な中庭で立ち尽くしていた。
見上げた空は、橙色の夕焼け景色。
どこか懐かしさを思わせる空を見上げていると、時間を忘れてしまいそうだった。
「…………」
夕焼けの、空。
いつか手を繋いで歩いた、気がする懐かしいような空。
トレエの瞳を染めていく夕陽が、彼女の中にある「何か」を揺さ振る。
ーーー羨ましいです。…そんな勇気…私には無い…です。
声が、ふと脳裏に聞こえた。
どこか、自分に似た声。でも、少し違う声。
声に続いて、思い出される情景があった。
夕焼けの道。見慣れない街。
店が並ぶ道を抜けて、近くに川が走る舗装された道を誰かが誰かと歩いている。
ーーーそう大層なものじゃないわよ。ただ、いつまでもウジウジしてたらみっともないって話よ。
隣を歩く誰かは、どうやら女性のようだ。
一体誰なのだろうか。どこかで会ったことがあるような、ないような。分からないが、時折脳裏に浮かぶ人物の一人であることは分かる。
ーーー…。
そう、時折だ。トレエ・ドゥフトは時折、不思議な映像を見ることがある。
それは夢の形であったり、ふとした時に意識を奪う幻のようなものだ。
共通点は、ある。いつも、「誰か」の視点で映像が流れていること。そして見知らぬ場所で、見知らぬ誰かと話しているのだ。
映像の中心に必ず居る人物ーーートレエはそれを、「夢の人」と呼称していた。夢の中に必ず出てくるから、「夢の人」。随分と安直なネーミングである。
さて、そんな「夢の人」はどこに向かっているのだろうか。女性が手を繋ぐ誰かと、仲良さそうに並んで歩いているのは分かるのだが。
ーーーうう。
女性を見上げていた視界が俯く。
ウジウジしているとの女性の言葉が図星なのか、押し黙ったのだろうか。
夕焼け景色の、見慣れない街並み。
自分ではない自分が見ている景色。どこかの世界の、懐かしいような景色を視界の隅に映し、夢の人が呻く。
それを見かねたのか、女性が小さな溜息を吐いた。
ーーーどうしても無理なら、仮面でも被ってみたら?
ーーー仮面…です?
ーーーそ、仮面♪
上機嫌に指を立てる女性。
良いことを思い付いたように上機嫌な仕草だ。
ーーー自分じゃない自分に、代わりに勇気出してもらえば良いのよ。
ーーー自分じゃない、自分。
ーーー演じるのよ! 昔から人形遊びとかそう言うの、好きだったでしょ?
ーーー演じる…。
ーーーはっちゃけちゃえば良いの、はっちゃけちゃえば。自分の殻、破っちゃいなさい!
女性の言葉を反芻し、「夢の人」は俯きながら考え込む。
言葉にするのは簡単、されど実践するのは難しい。殻を破るといわれても、一体どうすれば殻が破れるのか見当も付かない。
ーーー難しい…です。
俯いた視界が上がらない。
言えそうで言えない。喉元まで出掛かっているとは思うのだが、すぐに胸の内に戻ってしまう。
ーーー出来るわよ。
ーーー…難しい…です。
ーーー出来るって。
ーーー難しい…です…。
励ます女性に、否定する夢の人。二人の押し問答は、住宅街の中に足を踏み入れるまで続いた。
だが、そんな遣り取りがいつまでも続く訳ではない。やがて女性は焦れたように後ろ髪を掻き乱す。
ーーーそんなことばっか言ってたら、いつまで経っても出来ないし、断れるものも断れないわよ。大体ね! ちゃんと断れないとオッケーってことになるの! 無理なら無理って言う勇気、出しなさいよ!
どうやら夢の人の態度に、我慢ならなくなったようだ。
語気を強めて少女の勇気に問い掛ける女性であったが、夢の人は煮え切らない態度のままだ。
ーーーうう。
ーーーあ、でもそれはそれで、私にとっては好都合か。じゃあ家に帰り次第、………が初めて彼氏作ったって報告しないといけないわね。
突如として消える、映像の中の声。
それは決まって、誰かの名前が言われているであろう時に起こる現象である。
最初は、どうして聞こえなくなってしまうのかと疑問に思うこともあった。しかし何度も見る内に、聞く内に、意図的といえるまでに人の名前が出てこないことに気付いてからは驚く程腑に落ちた。
ーーーそれにしても、中々の言い草でだ。
ーーー…まだ作ってないです。…ぅぅ。
ーーー家族会の開催だわ。家族会! これは盛り上がるわねー。………、どう思うのやら。
「……!」
家族会。それはつまり、まだ決まっていないことを「誠」とし、「嘘」を大々的に晒し上げるということを意味する。
やはり音が遠退き、誰がどう思うのかまでは分からなかったのだが、
ーーーっ!
夢の人が息を飲んだことから、その人物が赤の他人ではないことが分かる。
恐らくーーー夢の人にとって何らかの大切な意味を有している人物。いうなれば、本当の想い人であったりするのだろうか。そしてその想い人は、女性にとっても何かしら思うところのある人物と考えて違い無い。
女性の言葉に、トレエの中で沸々とした怒りが煮え滾っていく。
この映像を見ると、あまりの腹立たしさにいつも怒りが湧いてくる。
そしてそれは、夢の人も同じであった。
ーーーうっさいわね、誰に向かって口を聞いてるのよ。
突然声音が、雰囲気が、一変した。
夢の人が、仮面を被ったのだ。怒りのあまり、我を隠して。
ーーーおお。
女性の瞳が面白そうに笑った。
ーーー家族会、やれるものならやってみなさいよ! お望み通~りその瞬間言ってやるわ、私の好きは人は~って!
ーーーおおお。
ーーーさぁそしたら、……………はどう言ってくれるかしらね? 私のカミングアウトに心打たれるんじゃないかしら? だって……………だし。そしたら両想い。アンタが幾ら頑張っても無駄な足掻きってもん…何よ?
ーーーやれば出来るじゃない。それ…私を演じたんでしょ? 違う?
肩を掴まれたと思ったら、興奮気味に揺さ振られる。
女性は微笑むように表情を崩し、視界の上に手を伸ばしてくる。
撫でられている。そんな気がした。
ーーーべ、別にそんなつもり無いわよ。
夢の人と、この女性ははどのような関係なのだろうか。
親友のように仲の良い存在。トレエはずっとそう考えているのだが。どうにも心に引っ掛かりを覚える。
ーーーふふ…ま、そんだけ言えれば大丈夫よ。嫌なら嫌、困るなら困る、無理なら無理って、ちゃんと断ってくる。バッサリ切り捨てるのも相手のためだから…っと、そら!」
女性によって、クルリと身体の向きを変えられる。
細く続く川。その上に架かる橋。
何か見知らぬ物体が、右へ左へと疎らに通る橋の中間地点に誰かが立っている。
押される背中。トンッと踏み出した一歩が前へ行く。
ーーー……。
振り返ると、女性が親指を立てた。
ーーー行って来な。答えは決まってるでしょ?
とても、頼もしい姿だった。
信頼している。そんな声援が今にも聞こえてきそうで。
もし、ここで足を止めたままでも。きっと彼女は、夢の人が本心を伝えられるように働き掛けるのだろう。
眩く、そして温かく、弱って折れそうになる気持ちを励ますように優しさで照らしてくれるのだろう。
ーーー行きます…!
頼もしさに照らされて、夢の人は歩いて行く。
向かうのは、橋の上。伝えるのは、せめてもの誠意。
夢の人はもう、迷っていなかった。
「…はっ!?」
視界が、唐突に現実へと戻った。
夕焼けの街並みだったものは空へと変わり、身体が思うように動く。
「…また不思議な夢だった…です」
トレエは何事も無かったかのように、再び歩き始める。
不思議な映像。それは時折彼女の視界に割って入り、現実を奪ってくる。
その種類は様々だ。今日のように「夢の人」の視点で繰り広げられることもあるが、何も見えず、ただ純白の景色だけが広がっていることもある。
そんな時に聞こえてくるのは、決まって啓示的な声だ。彼女に道を示すような言葉を好き勝手に言って、言い終わると現実が帰ってくる。
その内容も様々であるのだが、声の主に関しては夢の人当人であると彼女は認識している。きっと自分と夢の人には、何か言葉では表し難い繋がりが存在しており、その繋がりを通じて映像ならば記憶、言葉だけなら伝言といったものを伝えてくれるのだろう。
時と場所を選ばない夢の人だが、あまり無下にすることは出来ないトレエ。というのも、彼女は夢の人の言葉に何度と無く命を助けられてきたからだ。
袖の中の得物も、元々短剣一本で戦っていたのが変化したものだ。今の戦い方に初めて変えた時、驚く程に自分が戦い易かったのを覚えている。
『お守りにワイヤーを忍ばせておくと良いでしょう』。突然視界が眩しくなり、初めてそんな声が聞こえきた時は耳を疑ったものだ。
神様の啓示か。そう思える程の信仰心があればまだ違ったのだが、トレエは当初その言葉に決して耳を傾けなかった。
そしたら暫くして。『本当にお願いですからワイヤーを持ち歩いてください』と声が聞こえた。
トレエは勿論聞かなかったことにした。
そしたら、更に暫くして。『お願いだからワイヤーを縄みたいに持ち歩いてぇぇぇ…』と、ある日聞こえた。
その声の、何と切々としたものか。「眼覚めなさい、眼覚めるのです」等といった、いかにもな声とはどう考えても結び付かなかった。
だから気紛れに、トレエは声に従った。
懐にワイヤーを忍ばせ、隊員としての生活を送る日々に違和感はあったが、様々な工夫をして持ち歩こうとしてみたのを覚えている。
まず、お腹に巻き付けるようにして持ち歩けば、「太った?」と聞かれた。トレエは答えず、静かに睨み返してその場を去った。
次に、下着と服の合間に隠せば、さり気無い視線に晒されて恥ずかしい目にあった。トレエは俯いて、すぐに自室に戻った。
結局、そのままではどうしても目立ってしまうので、ワイヤーを半分に切断して腕に巻き付けてみた。
「お守り」。そう言われていたため、任務に足を運ぶ時は忘れずに持参するようにした。
そうしてとある魔物と戦う羽目になった時、トレエは「お守り」の意味を深く実感した。というのも、その相手が『スライム』であったためだ。
得物を捕食しようと、粘液や身体を伸ばして捕まえようとしてくる『スライム』。少女にとって、粘液塗れの身体に触れられることが一体、如何程の恐怖であったのか。
「っぷ…」
ーーーあれは、今でも忘れられない。忘れられるはずもない。
当時、他の隊員の供として討伐任務に当たった際の討伐対象が、『スライ厶』だった。
一瞬の不意を突かれてしまい、不覚にもトレエは拘束されてしまった。
仲間が救出してくれようとしたが、他の『スライム』に囲まれてしまい身動きが取れない状況に。
そんな中、トレエを拘束した『スライム』はこれ幸いとばかりに捕食体制に。
絶体絶命の状況だった。自分の力で何とか出来なければ、待ち受けるのは死。
死にたくない。だから、トレエは懸命に抵抗した。何とかしようと、辛うじて動かせる手首を動かした。
すると、偶然にも解れたワイヤーがスライムに巻き付いて、軟体を滑るように切断したのだ。
「お守り」のお蔭で危機を免れ、窮地を脱した後は何事も無く任務を終えることが出来た。しかしドロドロして、冷たくて、あまりに気味が悪い感触は耐え難いものだった。
その感触は最早、辱めの領域。もしあのまま身体を好きにされていたらーーーそんなことを思い出してしまったトレエは、通路の隅で身震いすることに。
「…はぁ、です。ディー隊長…どこですか…?」
気持ちを切り替えて、また歩き始める。
城の中を歩くトレエは、まだディーの姿を見付けられない。
あっちへフラフラ、こっちへフラフラ。一階部分を彷徨う少女の姿は、ともすれば迷子のようだ。
「…困りました」
いっそのこと、誰かに聞くべきだろうか。少女は思案する。
きっとそれが正しいのだろうが、どうしても恥ずかしくて声を掛けられない。
「…ぅぅ」
ーーーだが、いつまでもそんな訳にはいかない。
声を掛けられないままであったために、暫く立ち往生してしまった。このままでは、ディーに会えない可能性も考えなければならない。
それではマズい。トレエは今回、ディーと彼が指揮する戦艦『アークノア』との連絡役としてこの地に赴いているというのに。
「…困ったのです」
人に声を掛けられないまま、少女は迷子を続ける。
実をいうと、今右手にある扉の先が目当ての場所だった。しかし彼女がそれに気付くはずもなく、城を彷徨い続けるのだった。
「ふっ…ディオ殿、私を欺こうとしたみたいだが、一手甘かったな」
「(結局…起きているのがバレちゃったよ。まさか、息の仕方が変わってしまっただけで見破られるなんて…。僕、隠し事の才能無いなぁ)」
「…先程の話、しっかりと聞いていたな? 流行病のことだ」
「…えっと……一応聞いてはいましたけど」
「うむ、良いだろう。ではディオ殿に一つ、頼みがある」
「(うーん…クアシエトール大佐って…これが普段だよね。やっぱりさっきのは聞き間違い…かな。)…僕に出来ることって、あるんですか?」
「うむ。男であるディオ殿にしか出来ないと思うぞ」
「僕にしか…出来ないこと?」
「そうだ。察しが付くとは思うが、そこにある扉の先の患者達を見て来てほしい」
「(…やっぱりクアシエトール大佐…怖いんだ)…分かりました。けど、何を見て来れば良いんですか?」
「そうだな…。まずはちょっとした確認だ。男が近付いても危険が無いかどうかを…な」
「(成程…って、え。じゃあもし大丈夫だったら、これ…使いっ走りにされるんじゃ…。で、でも…クアシエトール大佐困っているだろうし…なぁ)…は、はい。分かりました」
「うむ、では、よろしく頼むぞ。危険時に脱出出来るよう、扉は半開きにしておくから」
「…はい!」
「(で、入ってみたけど…。チラ)」
「……」
「(クアシエトール大佐…そんなに震えているのなら、わざわざ覗かなくても良い気が…。ま、僕は僕で覗くだけだし。部屋の奥まで行って…あ、隊長だ)」
「ディオ殿ォッ!!」
「へ?」
「ゔ…」
「…た、隊長?」
「お…」
「…お? (嫌な予感…っ)」
「おっぱぁあぁっっっ!!!!」
「うわぁぁこっちきたぁぁぁぁッ!?!?」
「きゃぁぁっ!?!?」
「クアシエトール大佐しめないでぇぇぇっっ!!!! …あ」
「…ゔぇぇぇ……」
「……た、たーーーッ!?」
「ぅ…ぁぅ、しまった、扉を閉めてしまった。…ディオ…殿…は…?」
ーーーぎゃああああああああ゛っっっっ!?!?!?」
「ひぃぃぃぃぃっ!?!? ぁぅぁぅ、ぁぅ…や、やっぱり男も危険…なのか…っっ」
「ぁぁすまないディオ殿…お前の犠牲は…わ、わすれない…ぞ、ぞ……」
「あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛っっっ!?!?!?」
「ひぃぃっ!?!? 南無南無南無南無南無……」
「……。ディオ殿…。せめてこの予告で送ろう…。『時は流れる、彷徨う間に。時は流れる、悩む合間に。時は流れ、そして陽が暮れるーーー次回、斜陽』…ディオ殿…すまぬ……」