不吉
「まぁ…」
ワゴンを押して入室した彼女は、クッキーを食べるトレエを見、眼を丸くする。
「あなたに先を越されてしまいましたね」
ワゴンに乗っている紅茶とクッキーを、トレエが大切そうに食べているクッキーを見て彼女は微笑んだ。
「トレエちゃん、立ち続けは辛いでしょう? 椅子と机を持って来ますから、少し待っててね」
トレエは頷いた。それも、その言葉を待っていたかのように。
「立ち続け〜」から反応していた彼女が頷く早さに、ヨハンは内心吐露する。
「(…ジェシカの言葉には頷くのか)」
彼女なりに気を遣ってくれていたのは分かる。分かるのだがーーー何ともいえない複雑な心境になるヨハン。
その複雑をそのままに、書類に眼を通してはサインを繰り返している間にティータイムの準備は終わったようだ。次にヨハンが顔を上げたのは、ジェシカに声を掛けられてからであった。
「あなた、少し息抜きしましょう」
いつの間に用意したのか。執務室の中央には、机、椅子が三脚用意されていた。
部屋に広がる、甘い紅茶と菓子の香り。どちらも用意したばかりというのが明瞭だ。
「(焼菓子か…悪くない)」
ジェシカとトレエは既に座り、後一人の着席を待っていた。
作りたての焼菓子と紅茶。これらを冷ましてしまうのは、勿体無い。
「構わん」
待っていたかのようにヨハンは席を立ち、空いている椅子に座る。
焼菓子の容れられたバスケットを中央に置き、三方向から囲む形で机を囲んだ三人は、そのままティータイムに入った。
「そのクッキー、似ていると思いませんか?」
寛ぎの時間が訪れてからの第一声は、ジェシカであった。
彼女の視線は、トレエが食べているクッキーに注がれている。
「…君がそうイメージして焼いたんじゃないのか」
ヨハンの言葉に頷いたジェシカは、「似ているでしょう?」と微笑む。
「…オルレアちゃん…?」
妻の言葉に同意したヨハンの声に、トレエが首を傾げる。
同い年の少女だということは知っている彼女。しかし、それ以上のことは知らなかった。
話の内容から、ヨハンとジェシカの娘でないことも分かる。だが彼女のことを語る時の二人は優し気で、まるでとても親しい者について話しているようだった。
自分と同い年の少女。彼女は一体どのような子なのか。トレエの中で、興味が湧いた。
「あちらの写真、見えますか?」
疑問を浮かべる少女の視線は、ジェシカの手に誘動された一点で止まる。
「…写真…あれ、ですか?」
「そうです、その写真です」
菓子が入っていた引き出しがある棚の上。本が並んでいる中に、写真立てが一つ飾られている。
それは、この城で「揚げ物パーティ」をした時に撮影した写真だ。当時パーティに参加していた人物全員が、和やかな雰囲気で残されている。
「(そう言えば…写真を撮ったか)」
ヨハンも同じようにして写真を見る。
ディーが、その左隣にヨハンが、そこに寄り添うようにジェシカが、そのすぐ前にはオルレアが。ヨハンの前、オルレアの隣にはアンナが。オルレアの前には三人の女性が映っている。
少し酒が入ってからの写真であったため、中には頬が少し赤くなっている者も居た。因みに撮影者はジェシカの部下だ。
「中央に写っている女の子が、オルレアちゃん。瞳の色が、桜みたいでしょう?」
「本当…です。……」
トレエの視線は、何故かオルレアから擦れていた。
「…あの人……」
少女の指が示す先にあるのはーーーオルレアの隣。笑顔でピースサインをしているオルレアに対して、ぎこちなさ気なピースサインをしているのはアンナだ。写真だというのに、身体はオルレアに背を向けており、腕組みをしている。
それはまるで、仕方無しに写ってやっているーーーといった具合だ。
しかしよくよく見ると、写真手前側ーーー右手の人差し指と中指を合わせて立ててピースサインのようなものをしていた。
彼女なりのピースサインなのだろうか。中々に独特なものである。
「ジャンヌ様ですね」
「元帥だな。む、そう言えば」
襲撃があったというのに、姿を見せていない。
「街へと繰り出す」、と言った彼女はどこで油を売っているのか。
「…あ、あの人は…」
いざという時に頼りにならない彼女に怒りが沸く。
大体、アンナが居ればもう少し迅速な対処が望めたはずなのだ。だというのに。
「あの人は確か……」
「「…?」」
ヨハンとジェシカの視線が、トレエに注がれる。
少女の表情が、青褪めていた。
「(…ジェシカ)」
「(…はい)」
夫婦は視線を交わす。
只事じゃない。少女の態度が、それを雄弁に語っていた。
「ジャンヌ様が、どうかなさいました?」
ジェシカが続きを促すと、少女は躊躇うかのように口籠る。
何かを言おうとして、それを言うのが憚られているように。視線が迷っていた。
そして次の瞬間、予想だにしない一言を言った。
「街で突然…消えちゃった人です…!!」
震えるような言葉が、静かに溶けていく。
トレエは勇気を持って言ったのだろう。しかしそんな勇気とは裏腹に訪れた静けさに、少女は身を縮こめた。
だが実際のところ、緊張が夫婦の間を駆け巡っていた。
居なくなった、元帥。どうしようもない嫌な予感が、緊張を掻き立てた。
だが、まだそうと決まった訳ではない。もしかしたら、トレエの見間違いかもしれない。
緊張と予感を飲み干し、ヨハンは静かに口を開いた。
「…消えただと?」
ーーーバンッ!!
その直後。部屋の外から慌ただしい音が聞こえ、扉が開け放たれた。
「…伝令ですッッッ!!!!」
息も絶え絶えに入室して来た兵は、中庭の警備兵だったか。彼は面持ちに焦りを浮かべ、遅れたように敬礼する。
兵士は傷だらけだ。身体の至る所に応急処置が施されているのを認め、ヨハンは鋭く兵を見詰める。
「何だ」
「リーシュワ中将が連れていた侵入者が、煙のように消えましたッ!」
「…何」
それは、どういうことだ。
怪訝に眉を顰めるヨハンの脳裏に、自分が焼き尽くした男の姿が浮かぶ。
煙のように分身していたらしいあの男。ディーが捕虜にした男が本物だと思っていたが、まさか。
「リーシュワ中将から! 至急、地下に向かわれたし!! 我は先行する!!! とのことですッッッ!!」
自身が連れていた捕虜が消えたことに危機を感じたディーは、友人の懸念を汲み行動を起こしたということだろうか。
先の件があったので、一時は兵士が本物かどうか疑った。しかし、伝言の内容に疑いの余地は無い。
間違い無い。友人からの伝言だ。
確信すると、ヨハンは指を組んだ。
「分かった。お前は下がり、不測の事態に備えて警戒を厳とする旨を皆に」
「ハッ! 我々は中庭の捕虜を投獄するために動きますッッ!!」
悪くない判断だ。ヨハンは頷き、兵の背中を見送った。
「…どうやら、嫌なことと言うのは続くらしい」
兵の姿が見えなくなると立ち上がり、部屋の隅に置いてある得物を手に取る。
折角の息抜きだったのだが、有事となれば仕方が無い。名残惜しくはあるがーーー
「トレエ・ドゥフト中尉」
護らなければならないものがある。逡巡を振り払うには、それで十分だった。
「ジェシカを、頼む」
少女に短く言い残したヨハンは、机の側を通り抜ける。
微かに瞳を潤ませながら立ち上がった妻を尻眼に、ゆっくり、だが部屋の外へと向かう。
「彼女と共に、部屋の影に隠れていろ」
ジェシカの肩にそっと手を置き、暫し歩みを止める。
表情が見えないヨハンの顔を一瞥し、彼女はそっと瞑目して俯く。
トレエは夫婦の遣り取りをまじまじと見詰め、沈黙していた。
否、沈黙せざるを得なかった。ヨハンとジェシカの間に流れる空気に、彼女は絆を見出していたからだ。
そして、強く決意を漲らせていた。ヨハンの頼みを受け、彼の大切なものを護るーーーと。
「行って来る」
静寂が訪れること数秒。ヨハンは部屋を後にする。
部屋を出るまで重く感じていた足は、扉を潜るや否や、突き動かされるように地を蹴る。
流れる景色に視線を配ることなく、目指す先はただ一点。嫌な予感が漂う城の地下。
「…ッ」
平和の静寂が訪れていたはずの城内は、不穏に包まれている。
城内を覆うのは、不穏の静寂。ヨハンの心の内は、冷たい鉄を当てられたような悪寒を抱いている。
渋面のヨハンの足は城の奥、地下への階段に差し掛かった。
「(やはり…)」
気味が悪い。そんな感覚は、地下への階段を下って行く度に強くなる。
肌を撫でていた空気は、微かに濁っていく。
普段ならば、あまり気に留めないような空気の変化だった。だがそれを感じるということは、どうやら気が立っているのだろう。
ーーーカラン。
「…?」
足下で、何か音がした。
何かが転がっていて、それを蹴った結果転がったことで生じた音だ。
仄暗い暗闇の中、懸命に眼を凝らして見てみると、鈍く光る。
指で摘むようにして見ると、どうやら銃弾のようだ。それと分かる形状をしていた。
「(あの男の銃弾とは違うようだが…)」
ならば、誰のもの。銃弾をズボンのポケットに入れ、先を急ぐヨハンは記憶を手繰る。
どこかで、誰かが、似たような銃弾を使っていたような気がする。それは記憶の海に埋もれて久しいが、確かに見た覚えがあった。
想起に費やす思考はそのままに、ヨハンは階段を急ぐ。
階段を下り終えると、そこは記憶に強く残る場所であった。
「(扉は開いている。…閉じてないと言うことは、誰かが通ったか)」
小さな円形状に広がった空間。
そこは、かつての自分が繋がれていた牢獄。
己の勝手な偽善に囚われ、心の内に巣食う激情に身を任せて友と、少女とーーーそして間接的ではあるが妻にまで得物を向けてしまった獄中だ。
もしあの時、自分が少女の手を取らなかったら。きっと、今のようにはならなかったはずだ。
そんな思い出の空間に、ディーの姿は無い。
どうやら、もう少し先に進んでいるらしい。ヨハンは友の姿を求め、奥へと伸びる一本道を走る。
普段ならば、ただ暗澹とした闇が続く道。しかし今は微かだが、闇の中に「気配」を感じる。
間違い無い。どうしようもなく寒い予感が、この先ーーー地の底に満ちている。
気を引き締め、得物を握り締めるヨハンの耳に、音が聞こえた。
何の音だ。耳を傾けるヨハンの視界の裏に、音が光景となる。
激しい何かの音。打つかり合い、鬩ぎ合い、争い合うようなーーーそんな嵐の音であり、
「…何ッッ!?」
戦闘の音だった。
「ーーーディーッ!!」
大きな広場に出た。先程ヨハンが銃弾を拾った空間を第一次防衛ラインとするならば。ここは、この地下の最深部にある広場の手前にある空間であり、最深部に安置されている『装置』の第二次防衛ライン。ここを突破されれば、後は『装置』を目前とした最終防衛ラインしかない。
そこで非常事態に起動する防衛装置が起動するよう設定したのは、先の大元帥暗殺騒動収束後。ヨハンが少々因縁のある男の下へと足を運んだ日の夜だ。
しかし、どうやらそれを突破されている。そう思い知らされたのは、視界の先でディーが何者かと一戦交えているのを眼にした時。
「ーーーッ!」
ヨハンは躊躇わず地を蹴り、得物を構えた。
ディーの棍と衝突する何かを下から弾き、踏み込んでは前へ、前へと槍を操る。
薙ぎ払い、両手で回転させてからの刺突、薙ぎ払い、刺突刺突刺突、振り上げから勢いを活かして後転。槍を地に突き刺して、力を込める。
「ぬぅぅんッ!!」
地が抉られ、土塊となって前方を襲う。不意を突く追い打ちとしては効果的だが、後始末は大変だ。
「ヨハン! 待〜ってたんだな!!」
距離を取ったヨハンはディーと並び、眼前を見据える。
チラリと横眼でディーの状況を確認すると、彼は肩で息をしながら腕の付け根から出血していた。
鋭い傷だ。鋭い物質で切り裂かれたと判断して相違無い。
「(…ディーをここまで消耗させるか…ッ!!)」
ヨハンは己の得物を振るった時の手応えを思い出す。
ディーとの間に割って入り、不意打ちの連撃を見舞った。しかし、ダメージを与えた手応えではない。どちらかというと、全て弾かれたような感覚だった。
ヨハンは手加減した訳ではない。全力で得物を振るい、仕留めに掛かった。しかし、結果は不発だ。
間違い無く手練れだ。もし自分の到着が遅れていれば、ディーの生命は散っていたかもしれない。友の命を救えたことに安堵しつつも、気は引き締める。
「いや〜、参った。危うく死ぬところだった…と言うか、死に掛けている…か。腕が震えているんだな」
抉られた地面の数々が、先頭の激しさを物語っている。
物凄い力の衝突が連続したのだろう。闘気とも呼べる残滓が、宙に漂っているように思えた。
「そのようだな。この短時間で随分とやり込められたものだ」
「い〜や。良く保った…そ〜う言ってもらいたいぐらいだね」
「ほぅ。随分と弱気な発言だな」
「そ〜りゃ、ねぇ。何せ…」
軽口を叩き合いながら、呼吸を合わせる。
その最中も、前方への警戒は怠らない。土塊の中からゆらりと立ち上がる「敵」を睨み、ヨハンもディーも魔法の詠唱を行っていた。
「…相手が、相手だ」
二人同時に突き出した手から、魔法陣が展開する。
『来れ炎蛇焼け、焦がせ!』『どっか〜ん!』
ヨハンの魔方陣から炎蛇が身をくねらせながら飛び出し、ディーの魔方陣からは圧縮された風が弾丸となり放たれる。
“フレイムイーター”と“エアバズーカー”。それぞれ、火と風属性の中級魔法だ。炎蛇は風弾と並行して宙を滑り、土塊越しに敵を燃やす。僅かに遅れて着弾した風弾は、捻り切るように標的を穿った後に吹き飛ばす。
「ハァッ!」
ーーーと、思っていたヨハンの予想は、白銀の一閃と共に斬り裂かれた。
「何…っ!?」
「…ま、そ〜だよね」
揺らめく影が、光を向ける。
闇を裂く光の数は、二つ。
聞こえたのは、女の声。
ーーーそう、暫くの間聞き慣れていた声。
「(まさか…!?)」
ディーをここまでやり込めたのは、ジェシカを人質に取った憎き男かと思っていた。しかし直前に聞こえた声が、振るわれた一閃の冴えが、ヨハンの中にある最悪の予想が的中していることを示している。
「(相手が…相手)」
ディーの言葉を、苦々しく嚙み締める。
中将相手にここまで出来る相手ーーーそんなの、数える程しか居ない。恐らくヨハンとて、一人で相手取ればただでは済まない。一歩間違えれば、その瞬間追い込まれてしまうだろう。
それだけの相手だった。今、対峙している「敵」は。
「…いい加減、諦めろ」
薄暗闇から、「敵」が向かって来る。
鳶色の髪はディーとの戦いで乱れたのだろうか、毛先が傷んでいる。
鳶色の瞳は鋭い光を放ち、こちら側に敵意を向けていた。
肩が大きく上下しているのは、ディーとの戦いで消耗しているためなのだろうか。微かに震えた声は、何らかの感情を強く宿している。
「敵」の正体を冷静に確認し、ヨハンは得物を構える。
「敵」の名は、ジャンヌベルゼ・アンナ・クアシエトール。『剣聖の乙女』と称される女性の姿が、「敵」としてこの空間に存在していた。
「ふ、副隊長ーっ!?」
「ぅぅ……」
「ちょっと、えぇっ!? 副隊長っ!?」
「…すぅ……」
「副隊長っ、そんな、廊下で寝ないでくださいっ!!」
「……?」
「副隊長、おーい、副隊長!」
「…っく」
「(駄目だこの人、眼が死んでる…っ)」
「…ほ…」
「…。ほ?」
「…ほあ…」
「…ほあ?」
「ホアチャッ!」
「ぶぐぅっ!? (なっ、なんだこの動き!? 無茶苦茶で先が読めないっ。副隊長どうして急に…)」
「アッチャァッ!!」
「ほぶぐっ!? (なっ、にっ、二度も殴られ…)」
「っく…ッアッチャァァッ!!!!」
「ぐぶぉくぅっ!? (み、鳩尾…)ガク」
「…っく…。これぞ…酔拳……うっぷ」
「…ガク」
「…。これは、何なのかしら」
「…酒臭い。ちょっと…もぅ。セティ? 帰るわよ」
「…ぅ…?」
「…完全に酔ってるわね。彼も…このまま放ってはおけないわね …さぁ、どうしようかしら」
「…ん」
「…? …あぁ、おんぶね? ふふ、はいはい。でも、ううん…取り敢えずは、この子を私の部屋に……」
「じゃあ、予告よ。『死を覚悟した時、生物は命を賭することがある。死を覚悟した時、生物は死を受け止めようとすることがある。死を覚悟した時、生物は生死の選択を迫られるーーー次回、死力』…死力…ね。実力の差があり過ぎるのに死力を尽くしても…どうにもならないことは…ある。だけど…戦う前から諦めてちゃ、駄目ね。そしてやられっ放しって言うのも…駄目よね……」