弓弦、面倒臭がる
物事の優劣は、極々些細な差で付けられる。
表と裏、陽と陰。極々些細な差とは、文字通り紙一重の差。戦において攻め手と守り手は、風向き一つ変わるだけで瞬時に変化する。
「(掛かったな…!!)」
弓弦は喜びに気持ちを弾ませるレイアの隣で、意地の悪い笑みを浮かべていた。
この男、レイアの言葉に踊らされているように見えて、その実彼女が店の中に入るよう仕向けていたのだ。
弓弦がこの店を視界に入れてからの出来事は、全てが演技。具体的には、レイアが「マシュマロを買った店」だと話してから。そこから弓弦は、レイアが返してくるであろう言葉を予測して、言葉巧みに彼女を店内に誘ったのだった。
そう、ここまでは全て、想定通り。
後はとある一つの目的を果たすため、レイアを誘導しなければならないーーーらしい。
「(これで、良いのか?)」
らしいというのは、レイアを店内に誘い込んだ理由が弓弦の知るところではないからだ。彼はただ、自らの脳内で声を上げる頼みに耳を傾け、その言う通りにしていた。
『にゃは、その調子にゃ弓弦』
レイアの行動を、全て想像の範疇に留まるものとしたのは声の主ーーークロと、
『良い流れだ。だがまだ、こちらのものではない。用心をしなければな…』
ヴェアルの指示によるものが大きい。
二悪魔による知略の冴えは、人一人程度を容易く肉球の上で踊らせてしまう。レイアを上手く誘導出来たのは、そのためだった。
「ねぇねぇユ~君、あっちのコーナーへ行こうよ」
* * *
ーーーだが、それはあくまで弓弦視点での話。
「(えへへ…ユ~君、良い具合に調子付いてきた。嬉しそうにしてる姿、可愛いなぁ♪)」
レイアは、誘導されていたのではない。誘導、させてあげていたのだ。
先程からほんの僅かな間ではあるものの、弓弦から違和感を感じた彼女は、暫く彼の出方を窺っていた。
弓弦の少し前を歩きながら、彼女はとある場所に彼の誘導を試みていた。
「(そんな可愛い姿を見たら、何かプレゼントを買ってあげたいなぁって、余計に思っちゃうんだよ。お姉ちゃんって、不思議なものだなぁ)」
目的のために必要な仕込みは、店に入る前に終えたがまだ安心は出来ない。
弓弦の様子からして、きっと何か企んでいる。良いことか悪いことか定かではないが、彼女の瞳に映る二つの光が警鐘を撫でていた。
弓弦の身体から仄かに漏れ出している、「氷」と「念動」を表す二色の光。魔法を発動させている気配は無いが、不気味ではある。
「(私は、お菓子は買わないだけ。だから、別の物を買ってあげちゃうんだ♪)」
それはさておき。レイアが弓弦と共に向かっている場所には、彼女が買ってあげたい物が陳列されていた。
「(あ、あの毛糸…触り心地良かった毛糸だ。確かユ~君…編み物用の毛糸を持っていなかったはずだし…。ううん…)」
因みに彼女が買ってあげようとしているのは、ソーイングセットだ。
先日弓弦の部屋に行った時、弓弦の机の隅に書置があったのを彼女は眼にした。
何でも、外出している間にどこかにいってしまったため、買わねばならないとのことだった。
物をどこかに失くしてしまったのは残念だが、せめて見付かる間だけでも使ってくれればーーー
「(ユ~君、他にも何か欲しがってた物無かったっけ。…そう言えばユ~君の机…メモ以外にも置いてあったような気がするんだけど…)」
弟が悪魔の囁きに耳を傾ける一方、姉は想起に苦心し、首を傾げた。
さて、ここで一つ驚くべきことがある。
この思考に費やされた時間は、レイアの提案に弓弦が返答する合間のおよそ、半分にも満たない。
これぞ、姉パワー。早過ぎる思考速度は、第三者からすればその早さのあまり、逆に遅く感じてしまうのだ。
不思議なものである。しかしそれを為してしまうのが、姉パワーなのだ。
姉パワーとは、一体。異世界広しといえども、ここまで弟に甘い姉というものは、そう居ないはずだ。いや、そこら中に居ても困る。
ならば、レイアのいう姉パワーとは、「姉」の皮を被った別なパワーなのかもしれない。強いて表現するなら、レイアパワーが妥当なのかもしれない。非常に彼女以外にとってはもつでも良い話なのだが。
ただ一ついえることがある。レイアの言う「姉パワー」というものは、気力でどうにかなる、細かいことはどうでも良いという側面を持っているということだ。要約しよう、深く考えたら負けなのであった。
* * *
悪魔達の言葉に耳を傾ける弓弦。
しかし勿論、言う通りにするだけで終わる彼ではない。悪魔達に目的があるように、弓弦にもこの店で済ませねばならぬ大切な用事があった。
「分かった」
そしてそれは、レイアが提案している方向に陳列されていた。
奇しくも、姉の提案は弟の希望に沿うものであった。
「うんうん、いつ来ても豊富な品揃えだねぇ」
「そうだな。どこで品物を揃えてるんだか、聞きたいぐらいには揃ってるし」
その名も家庭用品コーナー。名の通り、家庭用品がズラリと充実しているコーナーである。
弓弦がじっくり眺めたのは、そのコーナーの一角にある裁縫道具の棚。上から下、順に視線を向けていく。
彼の目的は、ここでとある道具を買うことにあったのだ。
「お、あった」
彼が手に取ったのは、二枚の布。ハンカチより少し大きいくらいの布だ。
青と白、二色の布地をじっくり見詰め、彼は力強く頷く。
これだ、この布地を求めていた。後は色合いなのだがーーー
「(もう少し薄い青の方が良いか? いや、あまり薄過ぎてもそれはそれで、合わないかもしれないしなぁ…)」
薄い青色か、紺に近い濃い青か。布を凝視したまま、弓弦は唸る。
彼の脳裏には、青と白のコントラストが美しく織り成された手芸品が、一つ浮かんでいる。
さらに追加するのならば、その手芸品が自然を思わせる緑を一つに束ね、麗しさを醸し出す光景までも彼は浮かべていた。
『師匠は何を悩んでいるのだ』
『分からぬ。だがどうやら主は、今現在何かを企んでいる氷の者と念動の者に、何やら吹き込まれたらしい』
アデウスとアスクレピオスの会話を聞き流しながら、ようやく選び終えた藍色の布を手に取る。
「布? ユ~君、何か作るの?」
レイアが興味深そうに布を眺める。
「あぁ、ちょっとな」
まじまじと布を見詰めていた彼女の瞳が、悪戯を思い付いた子どものような光を宿す。
「へ~…」
『良いアプローチだにゃ。レイアから、買ってあげたくても買ってあげられないオーラが漂っているのにゃ』
『フ…戦いは二手三手、先を押さえた者が勝つ。弓弦の方が、上手だったな』
勝ち誇っている声音な悪魔達。
ここまでの出来事は、やはり全て肉球の上だ。いち早くレイアがソーイングセットへと視線を向けたことに気付き、仕掛けた策が成ったと確信した。彼女が何かしら弓弦に物を買い与えようとしていることは、性格を踏まえる以上、自明の理。
そのためこちらの誘導に従った上で
、自分の有利な戦場へと誘おうとすることも容易に予想出来た。
悪魔達の策略。その恐るべき理由は、ここからワンステップ進んだところに存在する。
「(…何か、姉さんの視線がいつもと違う気がするんだが)」
生温かいような視線だ。
視線に射抜かれる弓弦としては、妙に落ち着かない心地にさせられる。
早く買いたい。正直、普通にレイアとの買物を楽しみたいのだが。
『にゃはは、それはプレゼント作戦が大成功しているからにゃ♪ 幾ら彼女でも、人へのプレゼントに自分がお金を出そうとする程、無神経じゃにゃいのにゃ!』
『賢しい者こそ、初歩的な策に裏を見出そうとする。感覚の鋭さは、諸刃の剣さ…』
悪魔達が、笑う。
弟に何か買ってあげたくなる姉心を笑顔で弄ぶのは、正しく悪魔の所業だ。
『…贈り物に斯様な由来が有ると知れば、此奴は如何思うだろうな』
バアゼルが、悪魔の所業を皮肉る。
クロとヴェアルの脳内に浮かぶ作戦ーーープレゼント作戦。作戦内容は、いかにしてレイアの思い通りにさせないか、このキーワードが軸となっている。
レイアの思い通りになるということ。それはつまり、レイアが弓弦に物を買い与えることを意味する。
これを防ぐには、レイアが物を買い与えられない状況を作り出す他無いのだ。
じゃあどうするか。一つは、弓弦に断らせること。もう一つは、買うタイミングを奪うことだ。
前者は弓弦の本心からでないと、彼が寝負けする可能性がある。それを憂慮した悪魔達は、後者を選択した。
買うタイミングを奪う。つまり、レイアの買物を妨害しつつ、弓弦の買物を済ませるという選択肢だ。
換言しよう。女性へのプレゼントを買うという行為には、男のプライドが関わる。代わりに女が金を出すなど、プライドを貶す行為なのだ。というか、女性へのプレゼントを女に買わせるとは情けないにも程がある。恥を知れ。馬に蹴られて三途の川に飛んで逝けば良いのだ。
女性のために弟が買物をする。ならば、姉は弟のプライドを貶める訳にはいかない。そんなレイアの思いを、悪魔達は利用したのだ。
『すぴー』
プレゼントの相手に選ばれたのは、人間体になると女性の姿を取るアシュテロ。
作戦が彼女に知られると、プレゼントを断られるかもしれないので中々に際どい行為なのだが、絶賛爆睡中なため放置されている。
「(…いっそのこと、シテロが起きてくれた方が良いような気がしてくるんだが…)」
『クッ…然もありなん』
当事者クロル、ヴェアル。事情を知らぬアスクレピオス、アデウス。逆に事情を知る弓弦、バアゼル。被害者アシュテロ。複数の勢力に分裂した弓弦の内部は、混沌の様相を呈していた。
「(はぁ…)」
弓弦は溜息を押し殺し、レイアに視線を移す。
「じゃあこれ、買って来る」
感じていた視線の気配は霧散した。
弓弦の眼に映るレイアは、いつものように微笑ましそうな視線を向けてくる。
「うん。ねぇユ~君、他に何か欲しい物…」
嗚呼。今自分は、彼女に酷いことをしている。そんな罪悪感を覚えながらも、弓弦は会計に向かう。
「あ…」
何故そんな寂しそうな声を出すのか、後ろ髪を引かれる思いだった。
『…弓弦、分かってるかにゃ』
悪魔の囁きが頭に響く。
途中で情に負けては、全てが無駄になる。事前に厳命されていたため、弓弦は渋々従う。
「(…はいはい)」
会計を済ませ、袋片手にレイアの下へと戻る。
面倒臭い。それが弓弦の本音だ。
こうまでして、一体彼女に何をしようというのか。彼の中には疑問ばかりが浮かんだ。
「(副隊長との合体技…か。まさかこんなことになるなんてな。でも、良い機会だ)」
「(交差斬り…。副隊長と僕の合体技…折角の機会を貰えたんだ。ここで上手く見せて…本編に逆輸入してもらわないと…!!)」
「…準備おっけー」
「いくよ、副隊長! はぁぁぁぁぁッ!!」
「ッ!!」
「はぁぁぁぁぁッ!!」
「ッ!!」
「うぉぉぉぉぉッ!!」
「…っ!!」
「うっ!? (び、微妙に僕の方が速過ぎる!? ヤバい、副隊長の剣が、ささ…!?)」
「ぐぅぅっ!?!?」
「…あ」
「は、はは…。(胸の辺りにブッスリいった…。現実だったら即死だろうねぇ…)」
「…ごめん」
「良いよ良いよ! 現実じゃないからね! それに…僕が先走り過ぎたね」
「…コク。先走り過ぎ。ただでさえ擦れ擦れで擦れ違うからそれなりのミスで大惨事になる。以後要注意」
「そうだね。次こそは成功出来るように頑張ろう!」
「…力まないように注意。…また同じ失敗を繰り返すから」
「…が、頑張ります…」
「…。じゃあまずは、イメージトレーニング」
「…は、はい」
「…私は予告。『姉と弟の戦いは、弟の勝利で一まずの終わりを迎えた。姉が悔しさを噛み締める一方で、面倒臭がる弟の頭の中に悪魔猫の声が響く。猫語。笑い声。悪魔は何を語るのかーーー次回、レイア、送り出される』…。レイア…危ない?」