弓弦、喚ばれる
瞼を開く。
正面に見えたのは、臙脂色の平面に照明が一つ。
霞んだ視界を瞬きと共に鮮明にし、じっと見詰めるとそれが見慣れたものであることに気付く。
ここは、隊長室だ。散々見慣れているのだから、間違い無い。
ならば背中に感じている、やはり感じ慣れている感触はーーーそうだ、ソファだ。来客用のソファが、こんな寝心地だった。
ということは、自分は隊長室に居るのか。そう状況を判断すると、レオンは身体を起こした。
「…ん~?」
ところで、自分は何故隊長室に居るのだろうか。そんな疑問を抱く。
何となく、ではあるが。自分はこんな所ではなく、別の所へと足を運んでいたような気がする。そして、そこで何かをして何かをされて、それでーーー
「…ん~。何も分からんな~」
思い出そうにも思い出せるものがなく、レオンは想起を放棄した。
何故か身体に違和感があったが、見たところ異変らしきものはない。だが、どうも身体が固まっているような感覚がある。
これはーーーそう、まるで少しの間全く身動きが取れないまま石になっていたようなーーー
「さっぱり分からん!」
気にしたら負けなような気がする。
ソファから飛び起きたレオンは、軽く体操をした。
動く度に身体が音を立てる。やはり、どうにも身体が固まっているようだ。それと、やはり何故か首が痛い。
業務に精を出し過ぎたのだろうか。長々と文章を書いていると、首が固まって痛い思いをすることが稀ではないのだが。しかしそれとは違う痛みのように思える。
これはーーーそう、どちらかというと、外からくる痛みだ。外から鋭い一撃を見舞われた後の痛みのような。
しかし思い出せない。何となく、リィルやディオに心配されていたような記憶があるような気はするが。
謎だらけな自分の現状を把握しようと、レオンが辺りを確認した時だった。
「…ど~して寝ていたんだろうな~…って、どわ~!?」
綺麗にしておいたはずの机が、書類に塗れているのを見付けた。
これまた何故に。確か片付けられる書類は殆ど片付けていたはずなのに。
もしかして、相当な時間を寝て過ごしていたのだろうか。そう思い時計を見るも、記憶にある日付と一日しか変わっていない。
一日でこんなに書類が増えるものなのか。訝しむレオンは、取り敢えず作業椅子に座った。
書類は、机の形に沿って凹の字が逆さまになったように並べられている。レオンが椅子に座ると、ズラリと並べられた書類の山の窪みに置いてあった書置きが眼に飛び込んできた。
「…リィルちゃんの書置だな~」
筆跡から人物を特定出来る程ではないとしても、現状から誰の書置かを判断するのはレオンでも簡単だ。
手に取り、じっくり眼を通してみる。
左から右へ。文を読んでいくと下の行に移り、また左から右へ。
レオンが読んだ書置には、こう書いてあった。
『博士が外出先で菓子ばかり食べてると風の噂に聞きましたので、懲らしめに行ってまいりますわ。机にある書類で今日は終わりですので、しっかりと頑張ってくださいまし。博士と一緒に戻って来ますので、それまではお一人で業務をしてください。他の部隊長は皆様一人でやっておられますので流石に出来ますよね? いつまでも甘えてばかりじゃいきませんわよ。
追伸。業務を済まされていないと、帰ってから思いっ切りブチますわ。ですのでサボることのないように』
「…ぅ、おおぅ…」
それはそれは無慈悲な文だ。レオンは何度も繰り返し読んで書置の内容を確認してから、変わらない現実に打ちのめされた。
書類を捌くだけならまだしも、提出までしなければならない。この提出というのが中々面倒で、要は艦橋にある送信装置で書類をしかるべき場所にまで送らなければならないのだ。
「…ま、マジか~…。これ全部を艦橋にまで…」
よくレオンは『任務』の完遂報告を受けた際に、この隊長机に備え付けてある送信装置から報告書を『組織』に送る。一枚一枚なら同じように送信先を設定して送ることも出来るのだが、それが何十枚と膨れ上がれば話は別だ。やろうと思えば出来るのだが、艦橋の装置は一度で終わるのに対して手間過ぎた。
「…やるしか~、ないか~」
書置を退かして、右側の書類から片付けていくことにする。
「うげ」
するといきなり大当たり。一筆認めねばならないタイプの報告書だ。
基本的に業務は、判を押すかサインをするかのどちらかなのだが、時々このどちらでもない書類があったりするのだ。
「…よりにもよって…これかよ~」
レオンが頭を抱えた書類は、『組織』を介さず直接個人に送る報告書だ。少々私的な内容になるからこそ、細心の注意を払わなければならない。
「…書くとするか~」
後回しにしたくとも、出来るはずもなく。レオンは紙面に万年筆を走らせていく。
「……っ」
首が痛む。
筆を置いて首を摩ると、摩った部分が少し熱いように感じた。
少しだけ強く触ってみると更に痛み、レオンは顔を顰める。
これは、腫れている。
いつの間に痛めたのか。分からないが、意識を失っている間に痛めてしまったのかもしれないと、レオンは考えた。
「…後でユリちゃんに薬出してもらうか~」
ああでもない、こうでもない。椅子の位置を、なるべく首に負担が掛からないように調整する。
ある程度書類を捌いて艦橋で送信してから、その帰りで医療室にでも寄るか。レオンはどうにか痛みを解そうと首を回してから、再び万年筆を握った。
* * *
甘い香りが広がっている。
昼下がりのレイアの部屋では、大きく分類して二つの空間が形成されている。
片や、歓喜に満ちている机の窓側。片や、通夜のような机の扉側。二つの空間で起こっている出来事は、とても対照的だった。
「…ク…! 此の時を、如何程心待ちにしたことか! ク、クク…ッ!」
歓喜に満ちた空間は、バアゼルを中心として形成されている。蝙蝠の姿を取る悪魔は、眼の前に置かれたデザートに興奮し切っていた。
蜜柑のムースに蜜柑のシャーベットに蜜柑のスコーンに蜜柑ダイスチョコに蜜柑ブラウニーに蜜柑ジャムが段のように積み上げられているパフェは、段の最上段でとぐろを巻く蜜柑粒の混じったホイップクリームの周りを、蜜柑の一粒が花びらのように交互に重なって天を仰いでいる。
蜜柑に始まり、蜜柑に終わるを体現しているそのパフェの名は、『ゼルのための蜜柑交響曲』だ。全長50cm、パフェ容器の口の最大幅は、30cmの大きさを誇る威容は、蜜柑好きには堪らない、しかし蜜柑嫌いには下手物以外の何物でもない蜜柑パフェだ。人間ならば糖分過剰摂取待った無し。セイシュウがこのパフェを完食した場面があろうがものなら、リィルが卒倒してしまいそうだ。
「…!」
その巨大さであるが故、コウモリの姿では食べるのに不便だと判断したバアゼル。瞑目して一旦自身の姿を魔力に戻し、次の瞬間和装に身を包んだ老齢の男へと変身した。
静かに手を合わせるバアゼル。蜜柑への礼儀は欠かさない。
「!!」
バアゼルが素早く右手を振り抜くと、パフェの前に置かれたスプーンが彼の手に握られていた。
それはまるで居合切りのようだ。眼にも留まらぬ速さで握ったスプーンを掬い易いように持ち変えると、バアゼルは徐に蜜柑に蜜柑ホイップを絡めて口に運ぶ。緩急のついた手の動きは、まるで踊り子の舞踏のように見る者を惹き付けた。
スプーンに食い付き、口から少しずつ引き出す刹那。バアゼルは永遠を感じた。
口の中に広がる蜜柑、蜜柑、蜜柑。身に広がる幸福、幸福、幸福。
その味わいは、バアゼルが求めていたものだった。
「…美味だ」
普段通りならば鋭い眼光が、優しいものへと変わった。
この味こそ、蜜柑だ。蜜柑の味わいが、十分に引き出されている。
「娘、感謝する。此れも又、我の求めていた味が一つだ…!」
机の反対側に座るレイアに、心の底からの謝辞を述べる。
レイアは嬉しそうに笑って返した。
「えへへ」
手作りのものを褒められたら、誰でも嬉しさを覚える。
恥じらいさえ窺える控えめな笑顔だったが、バアゼルから自身の隣へと視線を移すと、笑顔は別なものへと変わった。
「じゃあ、お話ししてもらおっか」
バアゼルも意識を眼前の天国へと集中させた。
至高のデザート。これは、集中して堪能しなければ罪だ。
対岸の火事は、対岸で燃え上がれば良いし、勝手に鎮まれば良い。
「…美味だ」
バアゼルは語彙を失ったかのように、その後も小さく「美味」を繰り返し呟いた。
「…どうしてか、言って、くれるかな?」
自分の世界に入ったバアゼルを他所に、レイアは温度の変わった笑顔を見せて訥々と口を開く。
「ね…? ヴェル」
彼女が見下ろす先にお座りしている金毛の狼は、圧に屈したように項垂れた。
* * *
気が付くと、俺は見知った他の場所に居た。
少し離れた所に人の気配を感じる、辺りを見ても炬燵などは無い。それにそもそも確か…炬燵でシテロと一緒に寝た以上、こんな周りに暗闇しかない場所なんて、一つしかない。
自分の精神空間の次は、『ソロンの魔術辞典』の中ということ…か。忙しいな、我ながら。
「おい、居るんだろう?」
離れた所で感じる人の気配に呼び掛ける。
このタイミングで呼ばれたのは幸いだ。俺の内にある疑問…これを解決するために必要な鍵を持っているであろう奴が、ここには居る。
そう、「アイツ」には、訊かなければならないことがあるんだ。そして「アイツ」もきっと、言うことがあるがために俺を呼んだはず。
声が暗闇に響く。
吸い込まれてしまいそうな暗闇だ。ついでに言うなら、眠たくなりそうな暗闇だ。
そんな暗闇の中に、足音が響いた。そして、俺の前に姿を見せる。
灯りがないというのに足から首までが見え、灯りがないからなのか首から上は見えない。
その人物の名を呼ぶために、俺は口を開いた。
「…ロソン」
首から上が見えない人物の名を呼び、向こうが返事するよりも先に疑問を打つけた。
「あれは、どう言うことなんだ」
あれ…つまり、今の俺の状況。
男のことを見たり、考えただけで背筋をザラザラとした冷たいもので舐められたような感覚を覚えてしまう。
抗い難いあの感覚は、言葉にするなら「恐怖」と呼べるもの。お蔭様で、男嫌いの男と言う矛盾した状態になってしまった。
「どう言うことも何も、ペナルティだよ」
「は?」
さも当然のように言われて面食らう。
どうせ変に誤魔化しながら、人を弄ぶような言動をしてくるものだと思ったから意外だった。
「だからペナルティだよ、罰ゲーム。言ったでしょ? キュンキュンさせた回数が五回未満だと強制的に罰ゲームだってね」
…聞き覚えがある話だな。確か…『アークドラグノフ』に戻って来る途中に、ここで変な道具を渡されたんだったか。
「…こいつか?」
「そ。『キュンキュンチェッカー君』~。チャッチャラチャッチャ、チャ~チャ~チャ~ン♪」
取り出したハート型のストップウォッチを見る。
カウントは、「9」と表示されていた。
「…この数だけ、俺は誰かをときめかせたと言うことか」
「そう言うこと♪ 君がそれを受け取ってから二日が経過したけど、ときめかせた回数は一昨日が五回、昨日が四回ってところかな。チャッチャラチャッチャ、チャ~チャ~チャ~ン♪ 罰ゲームはっせ~い…に、なったんだね」
ときめかせた回数、一日五回未満で罰ゲーム…か。正直、大して気に留めずに忘れていたな。実際、気に留める必要が無いと思ったからなんだが…。
「今回の罰ゲームは、うん。君の考えている通り…チャッチャラチャッチャ、チャ~チャ~チャ~ン♪ 男のクセに男性恐怖症になる~、でした」
俺が男性恐怖症になったのは、罰ゲームの所為ってことか。
…いや、罰ゲームじゃなくとも、あんな経験…男嫌いになっても仕方が無いだろう。幾ら女日照りで我を忘れたからと言っても…善意で混浴してくれた幼気な少女を、普通襲うか? 男として、マジで、最低過ぎる。故意でなくとも、取り敢えず天罰下っていれば良い。
もし俺が本当に女だったら、せんぱ…アンナに心から同調しそうだ。二人で不埒男撲滅運動とか…やりそうだな。
「罰ゲームなのは分かったが。…何か、罰ゲームにしては、えげつなくないか?」
「今回は初回と言うことで、チャッチャラチャッチャ、チャ~チャ~チャ~ン♪ 初回拡大特別罰ゲ~ム~…。だったのです!」
「は?」
ロソンはとても楽しそうに声高々に言ってのけてくれたがそんな初回拡大、要らない。全然嬉しくない。
「ほらあるじゃん? チャッチャラチャッチャ、チャ~チャ~チャ~ン♪ 初回特別拡大放送~とか、チャッチャラチャッチャ、チャ~チャ~チャ~ン♪ 最終回特別拡大放送~とか。最初と最後季節の節目ぐらいは、少し豪華にいきたいものだよねぇ」
「豪華の対象を盛大に間違えているだろう…。豪華の無駄遣いだろうが」
時々あったよな。金の無駄遣いにしか思えない番組。
…懐かしいなぁ。
「ま、ま。そんな訳で。割とキツめな罰ゲームなのは今回と最終回限りだから。次回からは、チャッチャラチャッチャ、チャ~チャ~チャ~ン♪ もうちょっと軽めのヤツ~、になるよ」
…。つまりは、いつ来るかも分からない最終回とやらは、また今回みたいなヤツが待っているんだな。
そう考えると、罰ゲームを回避するため積極的に誰かをときめかせないといけないのか…。
そんなこと、俺に出来るのか? いや、やるしかないんだろうな。
となると…ここで問題なってくるのは、罰ゲームそのものだな。良し。
「…具体的に、どんな罰ゲームがあるんだ?」
俺は、前回訊きそびれてしまった質問を打つけることにした。
「…ねぇ風音」
「はい、何でしょうセティ」
「…右手の小指のところ…どこかで打つけた?」
「いえ…どこにも打つけてませんが…」
「でも…赤くなってる」
「…光の加減ではないですか?」
「…そうなんだ」
「クス…心配して下さってありがとう御座います。では、予告を御願い致します」
「…今日、予告を言うのが早い気がする」
「いえ、こんなものですよ」
「…コク。『弓弦は過去の全てを知り、また未来の一部を知る者ロソンと対峙する。彼女は語る、自らの知識を。明かされたのは弓弦の歴史。過去の一ページ。弓弦自身ですら忘れ去ろうとしていた過去が明かされた時、そしてロソンが握る真実を垣間見た刹那、弓弦は何を思うのかーーー次回、ロソン、触れられる』…はい、おしまい」
「クス、良く出来ました。ではまた」