レイア、満足する
レイアは、弓弦だけ守る意思を固めた。
女体化した弓弦が男に襲われた結果、男のことがトラウマ化してしまったとは、口が裂けても言う訳にはいかないのだ。この状況下でむざむざと白日の下に晒してしまうぐらいなら、
「(ユ~君に嫌われる方が、遥かにマシだよっ)」
どちらが良いのか悪いのか、良く分からない喩えである。
「(あ…でもユ~君に嫌われるのは辛いかな…。ユ~君にはずっと甘えてほしいから…)」
因みに指針としての意味を持つかは分からないが、レイアにとって弓弦から嫌われることは死活問題だ。
「う~ん…もしかして風音ちゃん…ユ~君の発熱は一大事って考えてる?」
「…一大事、ですか。そうですね…確かにそう考えています。弓弦様程の方が倒れられる熱なんて、只の熱ではありませんでしょうし」
「うう~ん…」
弓弦はそこまで特別な存在だと思われているのか。レイアはお姉ちゃん的に複雑な心境になった。
熱が一大事となっているのは、弓弦より寧ろーーー
『ーーーさっきからごちゃごちゃと、五月蝿いのにゃ』
それは間違い無くクロの方だろう。
いきなりそんなことを話すものだから、思わずレイアは声を出してしまいそうになった。
「温順しくしろ」とバアゼルに諌められて以来、一言も話さなかったクロだったが、どうやら不穏な気配を見せていた。
『…我は暫く、何も口に出していない。「凍劔の儘猫」貴様…頭まで熱に当てられたか』
『頭が…悪い…? それは僕に対する挑戦状か…にゃ? 挑戦状…受け取ったのにゃ…は…ひひ…』
これは、いけない。
『…何? ダンボールの寝床も馬鹿馬鹿しい…? …この『凍劔の儘猫』が、夜にゃべして完成させた最高傑作、ダンボールベッドが馬鹿馬鹿しい…? にゃは…は』
「(う…わぁ……)」
何だか良く分からないが、バアゼルが踏んではならない地雷を踏んでしまったようだ。それも、かなりヤバそうな地雷を。壊れたような、歪過ぎる笑いを浮かべるクロには、流石のレイアも少し引いた。
『ダンボールベッドの…仇ッ!!』
暫くは、バアゼルに任せることにしよう。レイアは、悪魔同士の闘争から意識を逸らした。
「ユ~君はユ~君。風邪を引くし熱も出せば寝込んだりもする。普通の男の子だよ」
どうしようもない嫌な予感に襲われながらも、それは風音との会話には無関係なこと。おくびにも出さないよう注意しつつ、レイアは笑ってみせた。
『ーーーッ!?』
『にゃひひ…にゃひひひひ』
不穏な気配は、濃くなる。
どうにも感じてしまう嫌な予感に、レイアの背筋を悪寒が走った。
「普通の男の子だから、湯冷めで熱を出してしまった。…本当に危険な病気に罹っちゃっていたら、ユリちゃん辺りが気付くんじゃないかな?」
風音は少し考える様子を見せた。
しかしどうやらレイアの言葉に納得したのか、頷いた。
「…それもそうですね。実を申しますと、ハイエルフの風邪と人間の風邪は違うと考えていましたので…些か驚いてしまいました」
「人間も、ハイエルフも、魔法関係を除くと殆ど変わらないよ。…あ、耳とかは違うね。でも、そんな特別扱いされるようなものじゃない。ほんの少しだけ、個性が違うだけなんだから」
見た目が少し違うだけで、特別な存在に見えてしまう。
人の価値観にもよるが、普通とは異なるモノに意識を向け過ぎてしまうのは人の性なのかもしれない。
レイアとしては、「人間とハイエルフの違いなんて細かいところに拘るなぁ」と思っているのだが、他の人からすれば違うのだろう。
違いがあるからこそ、それは個性となる。「特別」とはそんな個性の中で、ほんの少しだけ他と目立っているだけなのだ。
「はい、良く分かりました。ところで…レイアさんは、どこかに外出されようとしていたのですか?」
「え?」
突然の話題転換。
風音の視線は、レイアから少しズレていた。
「見たところ、外出の用意がありますが…」
レイアは振り返り、風音の視線を辿る。
「(あ…)」
するとその先には、小さめのポーチが机の上に置かれていた。
「ううん! お出掛けはしないよ。ちょっと、物の整理をしてたんだ」
ポーチの中には、お出掛け用の用意が入っている。
飲み物、弁当、お手拭き等々。中に入っている物はさながらピクニックに行く用意だ。
これはドジを踏んだと思うレイアだ。せめてもの救いは、ポーチの中身が見えていないことか。
「そうなのですか。失礼致しました。あら…?」
少々苦しい言い訳であったが、風音はそれを信じたようだ。
ポーチに関しては、深く追求されたらボロが出てしまいそうだったので、信じてくれて良かった。
しかしながら、安堵が出来ない状況とは、何故か続くもの。少し離れた所から足音が聞こえた瞬間、レイアは思わず変な声を出してしまいそうになる。
何となくだが足音で分かってしまう。今は出来れば話したくない女性が、近くに来ている。
更に更に。
『ニャヒ、ニャヒヒヒヒ…!!』
レイアは身体から徐々に力が抜けていくのを感じていた。
どうやらバアゼルが踏み抜いた地雷が、盛大に大爆発したようで、クロが激怒して暴れまわっているようだ。それも意識が覚束無いがために、魔法を多用して。それも、中々強力な魔法をだ。
『ぐぅぅぅ…ッ!!』
対するバアゼルは、何やら負傷している様子。どうやらクロを抑え込もうと奮闘しているのか、苦しそうな声が聞こえた。
「(ふ、二人共…仲良くしないと駄目だよ…?)」
『ニャヒィィッ!!』
『ぐぅぅぅ…!!!! 熱るだけで格も血迷うとはな、儘猫めッ!! 誰が箱壊しだッ!!』
「(ゼル、止められそう? と言うか止めてくれると…私的に嬉しいなぁ…って)」
『ニャッヒヒヒヒ!!』
『鎮まれ空け猫ォォォッ!!』
悪魔同士による激戦に、人の言葉は届かない。
自分の中で暴れられるのは勘弁願いたいのだが、どうにも止められそうにない。そして、虚脱感も止められそうにない。
「(ちょっと…私、ユ~君よりも魔力少ないんだけど。…あんま張り切らないでほしい…ね…っ)」
視界が少し眩んだ。
表情に出たかもしれない。焦りが焦りを呼び、レイアの落ち着きを崩していく。
「あらあら」
疲労に耐え切れず、視界が床へと落ちていた。
風音の声で我に返ったレイアが顔を上げると、幸運なことに自分を見ていた視線は横に逸れていた。
それが意味するのは、風音の視線の先に人が立っているということ。
「彼女」がすぐそこに居るのだと、開かれた扉の隅で見えた金糸が知らせていた。
「(…っ!!)」
レイアは意思を震わせた。
気力。最大限に振り絞る。
そうだ、弓弦の頼れる姉として、みっともない姿を見せるものか。
姉は、頼られるもの。「まっかせておきなさい」と、下の子の前で誇らしく胸を張るものなのだ。
自分は、お姉ちゃん。
そう、レイアお姉ちゃんなのだ。
姐貴でも、姐さんでも、姐御、姐様でも、姉様でも、姉上でもなくてーーー姉様からは、ちょっと胸にときめくものがあるものの、弓弦のお姉ちゃんなのだ。
弟のペットぐらい手懐けられなくて、どうすると。
「(ねぇ、バル)」
レイア側からは死角になっている場所に立っているであろう人物と、風音が話している。
何を話しているのかは聞こえない。否、聞こうとしていない。ほんの僅かな間ではあるが、風音の気が逸れているこの刹那に全てを片付けなければならないのだから。
この時、レイアの内でお姉ちゃんパワーが弾けた。
弾けるばかりのお姉ちゃんパワーは、玲瓏な響きを持つ声に乗せられて悪魔の耳朶に届いたようだ。
「(蜜柑パフェ)」
そしてレイアは、お姉ちゃんパワーを解き放った。
溢れんばかりのお姉ちゃんパワーが創り出す、必殺の一撃ーーー
「(今日は美味しい蜜柑パフェ、作ろうと思っていたんだけどな)」
ーーー必殺、お姉ちゃん手製パフェ(弓弦はこれで堕ちる)。
「(このままじゃ私、疲れて寝ちゃうかも)」
ちょっとしたお願いなら、弓弦はこれで釣られてくれるのだ。それは「必殺」の呼称を頭に付けても良い程、確実に効果を発揮してくれる。
「(クロのことで面倒をお願いしてるからって、折角作ろうと思っていたんだけど…困っちゃった)」
更にこの必殺技は、対バアゼルにおいても断トツの勝率を誇っている。
『…何だと?』
これは昨日も使った手だ。
バアゼルに頼み事をする時は、まず「蜜柑」と口にすべし。さすればバアゼルは、頼み事を聞くか聞かまいか真剣に悩むようになる。
「蜜柑」と名の付くものに、バアゼルは滅法弱い。そしてどのような状況であっても、「蜜柑」という単語を聞き逃すことはない。これを利用しない手は無いのだ。
『娘、其の程度で疲弊し切るとは何と惰弱な。我が此の阿呆を抑え込む迄の間、暫しの時すら持ち堪える事も出来ぬと云うか』
食い付いた。
随分と小馬鹿にされたものだが、レイアは確かな手応えを感じていた。
この悪魔、既に焦りを見せているーーーと。
「(出来ないの。ね? 今すぐ抑え込めない?)」
悪魔なのに、どうしてこんなにも「蜜柑」に弱いのか。微笑ましくは思うが、今は格好の弱点だ。
『出来るのならば、している。娘よ、我の心遣い、よもや感じていないとは云うまいな?』
「(感じてるよ。感じてるからこそ、思うの。ゼルなら、もっと何とか出来るって。そこを、どうにかしてくれない? …蜜柑パフェ、食べたいでしょ?)」
かなり無茶振りなお願いだ。自分には見当も付かないが、きっとバアゼルなら何とかしてくれるという期待を言葉の端々に込める。そして、「蜜柑」を物質にするのは忘れない。
『娘貴様…我を脅迫する心算か。我が其れに従うとでも? 此の『支配の王者』も甘く見られたものだな』
「(作ってほしかったら、クロを何とかすること。じゃないと…)」
次の言葉を耳に入れたら最後、バアゼルはこの要求を断れない。
レイアには確信があった。自分が弓弦のためなら大体色々なことが出来るように、バアゼルは「蜜柑」のためなら重い腰を軽くするのだ。
「(ぜったいに、蜜柑パフェは作りませんっ♪)」
『刹那に捻り潰してくれるわ儘猫めェッ!!』
言葉一つでコロリと動かされる悪魔。実にチョロいものである。
程無くして、
『ぎにゃぁぁぁぁぁぁぁッ!?』
クロの悲鳴が聞こえた。すると、身体が心なしか軽くなる。
どうやらクロの暴走が鎮められ、彼による馬鹿みたいな魔力の消費が無くなったようだ。
「(えへへ…流石、バル。そう言うところ、好きだよ)」
『…悪魔め』
一体どうやってクロを鎮めたのか。方法は定かではないが、バアゼルは微かに息を乱していた。
「(蜜柑パフェ、蜜柑盛り盛りにしてあげるね)」
『……其の様な言葉には躍らされんぞ』
そう言いながらも、バアゼルの声音にはどこか嬉しさが滲んでいるようだ。それはレイアの思い込みかもしれないが、彼女としては蝙蝠悪魔に喜んでもらえるような配慮をしたつもりだった。
「(うんうん、分かったよ。…さぁて)」
そんなことはさておきとばかりに、レイアは意識を内から外へと向けた。
すると、風音が話している内容が自然と耳に入ってきた。
「…よろしいのですか?」
「私の出る幕じゃないわ」
具体的にどんなことを話していたのかは分からないが、何かをしようとしてくれていたようだ。
「(…ふぅん。フ~ちゃん…そかそか)」
少ない会話の中から色々と察するレイア。
これも、お姉ちゃんパワーの成せる技だ。あっという間に納得した彼女は、得意気な笑みを浮かべて部屋から顔を出す。
「フ~ちゃん♪」
金糸の持ち主は、やはりフィーナだった。
居ることは分かっていたのだが、ようやく顔を見せる機会を得られた。
「きゃっ!?」
普通に部屋から飛び出ただけなのだが、フィーナは大層驚いたようだ。そんな彼女を見てかクスリと笑った風音に物言いだそうな視線を向けると、咳払いを一つする。
「い、いきなり出て来ないで! 驚いたじゃない…」
出て来るとは思っていなかった。そう言わんばかりのフィーナに、少し出し抜いた感を覚えるレイア。
体内で魔力が暴れられている姿を、「視られ」たくなかったのはレイアの本音だ。だから、彼女の来訪に際し自らを奮い立たせた。
しかし結局情けない姿を見せてしまったために、レイアが恥ずかしがって部屋から出て来ないと考えていたフィーナは、彼女の登場を予期していなかったのだろう。だからレイアとしてはそれを逆手に取った形だ。
「んー? だってフ~ちゃんが可愛いことを考えているなぁって思ってさ」
レイアが読んだフィーナの行動は彼女の予期だけではない。彼女が取ろうかと迷っていた行為もまた、見当を付けていた。
これでもし誤魔化すようなことをしたら、付けていた見当はその通りとなる。
「…何のことかしら」
フィーナはギクっとばかりに一瞬固まると、どこか気不味そうに視線を横に向けた。
見当通りの反応だ。
「言ってあげよっ「言わないで!」…ありゃ」
折角なので当ててみようかと思うレイアだったが、フィーナの早口で制される。
可愛い反応である。そんな反応を見たためか、風音が意味深な笑みを浮かべたのが横眼で見えた。
「…私には良く分かりませんが、接吻しなくて良かったですね♪」
良く分かっているだろう。そう誰もが思ってしまいそうな話し方に、固まったのはフィーナ。
少し遅れて再起動すると、顔が赤かった。
「っ!? か、風音あなたっ」
フィーナは、クロの暴走によって大きく乱れていたレイアの魔力を整えようとしていたらしい。
乱れた魔力を整えるためには、「ハイエルフ同士が肉体的に相手と繋がる」方法以外に無いのが何とも面白いこと。弓弦の内に宿る悪魔が増えた際に、フィーナと弓弦が口付けをしているのはこのためだ。
無論肉体的に接触しなければならないというのは、一方の身体の内部にもう一方が触れるということだ。ハイエルフによって方法は多々あるのだが、最もオーソドックスなのがキスをすること。勿論、深い方。
中々顔を見せないと思っていたら、するかしないかで迷っていたのだ。
動揺と恥ずかしさのためか、フィーナの声は震えていた。
「もぅっ! 知らないわよ!!」
そして爆発。
恥ずかしさが極限にまで達したフィーナは、レイアと風音の間を引き裂くようにして通ると、そのまま足早に部屋に帰った。
「あらあら、うふふ。では私も」
風音が後を追った。
満足そうな笑顔だ。常々思うことではあるが、中々良い性格をしている風音だ。
「えへへ」
恥ずかしがるフィーナという良いものが見れたレイアは、嬉しそうに自室に戻って行った。
「…あー。そうなんだよな。魔力を整えるのって普段じゃ何気無く出来ているが、一旦暴れさせてしまうと自分じゃどうにもならなかったりするんだよなぁ。こう、抑え込もうとしても溢れ出してくる感じは力が湧いてくるとは違う感じで…身体の中で何かが暴れまわっているような感じがして。力に呑み込まれていく感覚が凄く気持ち悪いんだ」
「だから、意外とハイエルフの身体も不便だなって思うんだよなぁ。そりゃ強力な魔法が沢山使えるとか、良い面もあるんだが…魔力が穢れている所だと、居るだけで死にかけたりするしな。前々章でカザイと一緒に潜った洞窟なんか、息を吸うのも辛かった。…あんな洞窟、もう二度と行きたくないんだが、どうせその内似たような場所に行ったりするんだろうな。はぁ…」
「ま、瘴気とかは防御策がある分マシか。魔力の暴走は、最悪周りに被害が及ぶし…それに、暴走したら周り頼りになってしまう。現状、フィー任せだよな…不可抗力の、不可抗力のキスをしないと命が危ないし、うん」
「…フィーの奴、レイアとキスをしようか迷っていたのか。もう少し、バアゼルが張り切らなければな。流石にヤバいと思ったフィーが迷いを振り払っていたと思うんだが。兎に角、何事も無いみたいだし何よりだ」
「さて予告だ。『シテロは考えていた。いつも自分に多くのことをしてくれる弓弦に、何が出来るのかと。悩み続ける彼女を更に悩ませたのは、弓弦の頼みだった。忘れたかったのは男、感じたいのは女。切なる頼みに応えたい気持ちが彼女を後押しする。ありのままの姿にありのままの想いを乗せて、彼女はーーー次回、シテロ、抱く』…フィーとレイアのキス…深い意味は無いが興味本位で少し、見てみたい気持ちはあったな。面白そうだ…って言ったら、二人に怒られそうだ」