レオン、壊れる
「うぉぉぉぉりゃぁぁぁッ!!」
振り下ろされた一撃に、大地が泣く。ヒビ割れ、底無しの暗闇が裂け目に生じたかと思うと大気が唸り、密度を増した。
「おらぁぁぁぁぁぁッ!!」
振り上げられた一撃に裂け目が破裂した。逆行する大地の力が裂け目より噴き出し、周囲を粉砕する。
裂け目を中心として広がるクレーターの入口に立つ男は、大剣を肩に担ぎながら高らかに吼えた。
「どうしたどうしたぁッ! その程度なのかッ!?」
碧玉色の瞳が鋭い光を放つ。
無造作に散らされた黒髪とも合わさり、その姿はまるで獣のようだ。
彼の名は本能のレオン・ハーウェル(以降本能と呼称する)という。圧倒的な機動力と破壊力で、戦況で優位に立っている者だ。
「うるせ~ッ!」
言い返すように叫んだのは、出で立ちこそライオンと似ているが、纏っている雰囲気が大きく異なっている。
程良く整えられた黒髪より、赤い雫が滴っている。穏やかな光を放つ碧玉色の瞳は苦しそうに細められ、戦況において不利に立たされているのが分かる。
彼の名は、理性のレオン・ハーウェル(以降理性と省略する)といった。斬撃を、衝撃を全て受け切ることは出来たものの、その肉体には夥しい数の裂傷が走っており、満身創痍を思わせる。
この場に居る二人のレオン・ハーウェル。彼等は今、本体である「ただのレオン・ハーウェル」の行動権を巡って争っている只中であった。
「善意で混浴してくれた女の子に触れるだ~? 冗談キツイって馬鹿野ーーーッ!?」
本能の拳が、理性の鳩尾に刺さる。
骨が折れる音。何かが喉を逆行してきた。
「ごはぁ…っ!?」
理性の口から血が吐き出された。
身体に拳が減り込む感覚が徐々に強まり、激痛が走る。
チカチカと眩む視界の中で、眼前に迫った本能が叫ぶ。
「俺は本気だッ!!」
減り込みが終わると、加えられた衝撃が一瞬にして理性の身体を弾き飛ばす。
空が近くなった。近くなったかと思いきや遠退き、接地の衝撃が背中に走る。
「ぐ…」
激痛が全身を駆け巡り、理性は大剣を手放した。
意識を手放さなかったのがせめてもの幸いか。しかし、戦況が変わる訳ではない。
理性は歯を食い縛って身体を起こすと、剣を掴みながら大きく横に飛び退いた。
「俺は裸の美少女に、触ぁぁぁぁるッ!!!!」
身体を起こす前までの位置を、大剣が貫いた。
一瞬でも遅ければ、理性の身体が柄と切先の間に存在していたであろう。間一髪の回避であった。
「落ち着け本能ッ! そんなことをしたら、隊長として築きあげてきた信頼が地に落ちるんだぞ~ッ!?」
そして、ロリコンと変態の烙印を押され、この先一生後ろ指を指されて生きるのだ。
そんなこと、絶対にさせない。
させる訳にはいかないから、理性は本能に負ける訳にはいかなかった。
「黙~れッ! お前にも分かるだろう! 独身男の飢えってヤツがッ!!」
そんな理性とは裏腹に、本能は実に煩悩に忠実だ。
「ツヤッツヤのプルップルッ! モッチモチで悩ましい感触がそこにあるんだぞッ!? 全身隈無く触れてみるのが男ってもんだ~ッ!!」
「嫌がる女に無理矢理するのが男かッ! 前、弓弦にも止められただろうがッ!!」
理性を突き動かすのは、敗北の記憶。
つい最近のこと。彼は本能に敗北し、弓弦を策略に嵌めることで混浴出来る状況を作ってしまったのだ。
だから今回ばかりは負けられない。
今回は、本当に、冗談では済まされないのだ。
気力が、理性の身体を地に立たせる。
「嫌がる? 冗談を言ってくれるな~…」
拳を力強く握り締める本能。次の瞬間、とんでもないことを言い放った。
「最初は嫌がっていても、その内嫌がらないようになるんだッ!」
理性は地を蹴っていた。
「お前と言う存在が俺の一部であることが途轍も無く腹立たしいッ!!」
この男の好きにさせる訳にいかない。二歩目で最高速になると、勢いそのままに大剣を突き出した。
捨て身での【スピードスラスト】だ。もし当たらなければそれまで、だが著しく負傷した身体では、『加速剣』の初歩の技を放つのが精一杯だった。
「それは俺の台詞だ~ッ!!」
対して、煩悩を原動力として動く本能はまだ余力を残している状態。数瞬遅れたにも拘らず、同じ技で迎撃を図った。
理性と本能。二人の【スピードスラスト】が、雄叫びを上げた。
切先が、触れ合う。
「「ッ!!」」
空気が呑み込まれ、衝撃が広がり、足元が捲れ上がる。
轟き渡るのは怒号。
双方からの速度は闘気を帯びて、喰らい喰らわれ、互いに鬩ぎ合う。
「湯当たり美少女肌ぁぁぁぁッ!」
「させるかこん畜生がぁぁぁぁぁッ!!」
両者よりも先に、大地が悲鳴を上げる。
衝撃に耐え切れぬまま、二つ目のクレーターが完成し、両者は重力の戒めから解き放たれた。
衝突が続くものの、速度がいつまでも保たれる訳ではない。時の流れるまま、風の吹き行くままに応じて次第に天秤が傾き始めた。
「エッロぉぉぉぉぉぉッ!!」
優位に立つのは、やはり本能。
獣のように猛り狂う刃の前に、理性は呑み込まれようとしていた。
「ぐ…ッッ!!」
速度が落ちた方が、敗北する。
分かってはいても、どうにもならないものがある。
気概で負ける気はない。だがどうしても、速さが足りない。
衝突が、止む。
一方の闘気は輝きを翳らせ、停滞していた気流に押し流された。
理性は歯噛みした。また、負けるのかーーーと。
ふと過る、自分の部下の顔。
折角波風の立たないように配慮をしてくれたというのに。自分は彼からの信頼に続き、善意さえも無下にしてしまった。
「煩悩はッ! 無限大だぁぁぁぁッ!!!!」
そして理性は、再び本能の前に敗北した。
「(弓弦…すまん…)
* * *
その時。レオンの中に聞こえてくる声があった。
ーーー手を伸ばせば触れられそうな、美少女が居ます。どうしますかーーー?
「ぐ…」
どうするか? そんなの、決まっている。
「…?」
この、美少女にーーー
「ふぇ?」
触れてーーー
「うぉぉぉぉぉぉッッ!!!!」
本能に従うッ!!
「わっ!? た、隊長さん…?」
レオンは本能に従うがまま、美少女の両肩を握っていた。
大きく見開いた美少女の瞳が、驚きに染まっている。
何をするの。疑問と、怯えの感情を向けられるが、レオンは止まらない。
「え…ちょっといや、かなり痛いっすっ。隊長さん、隊長さん今、何をしているのか分かってるっすかっ!?」
「うぉぉぉぉぉぉッッ!!!!」
これが、煩悩に負けてしまった男の姿である。
美少女の声は、既に届いていない。
野獣と化した男の眼光に見据えられ、美少女はただ身を竦めるばかりだ。
唇が震え、首を何度も小さく振る美少女は「駄目」と何度も繰り返した。
「うぉぉぉぉぉぉッッ!!」
駄目と言われて引き下がっては男が廃る。
場面が場面なら素晴らしい心掛けだ。そう、まるで主人公のように。
しかし場面が場面なのでどう見ても変態による事案発生状態である。
「きゃぁぁぁぁっっ!!」
美少女は、悲鳴を上げて獣を突き飛ばした。
火事場の馬鹿力とでもいうのだろうか。獣は不意を突かれて浴槽の外に、突き出された。
「はぁっ…はぁ…っ。もう…お触り禁止どころの話じゃないっすよ! 隊長さん!!」
「…?」
「こんな場だけど! もうちょっと弁えてほしいっす! 襲うなんて、あり得ないっすぅっ!!」
美少女は眦に涙を溜めて、指を組み合わせた。
首を傾げた獣に言葉を重ねる美少女。涙ながらに請う姿は、ひたすらに悲痛なものだ。
「隊長さんはこんなことする人じゃないっすよね? 隊長さんは強くて優しくて、部下のことを第一に考えてくれるような素敵な人…そうっすよね?」
美少女の訴えに、獣が止まる。
獣の本来あるべき姿ーーーレオンは、彼女が語った通りの人物だ。
「…ぅ…」
獣が動き出す。
緩やかに、一歩ずつ確かに浴槽へと近付く獣は、静かに美少女を見詰める。
「…れ、レオンさん…!」
美少女は、獣の本来の名を呼んだ。呼べば、元に戻ってくれるような気がしたからだ。
見詰め合う、美少女と野獣。
その時、野獣が動いた。
「オ~~ルレ~~アちゃ~んッッ!!」
事実は小説よりも奇なり。物事は、何事も上手くいくとは限らない。
名前を呼んでしまったことが災いして、中途半端に人間味を帯び、それでいて間違い無くキモい獣男が誕生した。
獣男は再び美少女を襲おうと飛び掛かった。
「かっわいっこちゃ~~んッ!!!!」
湯飛沫が上がる。
眼の前に立つ男は、何度も美少女の名を呼ぶ。その恐ろしい姿に、美少女は腰を抜かしてしまった。
「ぁ…ぁぁ…」
口をパクパクと開き、何度も後ろに下がろうとするも下がれない。
浴槽の壁が、腰を抜かしている美少女の逃げ道を塞いでいた。
だが獣は、そんなことお構い無しに迫って来た。
据わった瞳ではない。何かの意思を帯びた鋭い瞳で、一歩、また一歩と。
ーーーハラリ。
その腰から一枚の布が落ちた。
悲しき習性か。落ちた布に一瞬眼を奪われた美少女が次いで眼にしたモノは、彼女に向けて伸ばされた煩悩だ。
「い…」
獣の本性が、露骨に姿を現している。
「うぉぉぉんッ! 俺は人型な秋の恵みだぁぁッ!!」
一度見てしまったら最後。頭から離れない。心の内から生じるのは、たった一つの感情ーーー恐怖。
「秋の恵みがぁ、天を突くぅッ!!」
視界が眩む。胸が、息が苦しい。
美少女の眦から、感情の雫が堰を切ったのはその時だった。
「いやぁぁーーーーーーァァアアッ!!!!」
悲鳴を上げ、滂沱の如く涙を流し、恐怖を口にする。
迫り来るものの全てが、恐怖だった。
美少女は助けを求める思考すら奪われ、否定の言葉を連呼する。
「いやだいやだいやだいやだいやだ」懸命に否定するも、獣は止まらない。
獣が、とうとう美少女のタオルに手を掛けた。
抵抗虚しく、否。抵抗と呼べるものさえ出来なかった。露わになった美少女の裸体に、獣が鼻息を荒くした。
「もぇぇ…もえぇぇ…うぉぉぉんッ!!」
「ひ…っ」
嗚呼。もう駄目。もうーーー無理。
美少女の内で、何かが微塵に砕かれてしまった。
「(せんぱい…っ)」
壊れたモノが、救いを求める。
こわい。けものーーーこわい。
たいちょうさんーーーこわい。
ーーーおとこのひと、こわい。
ーーーたすけてよ、せんぱい。
おとこのひとにおそわれそう。
おとこのひとはーーーてきだ。
美少女はこの時、彼女の「先輩」が何故男を嫌うのかを完全に理解した。
だが理解しても、この状況がどうにかなる訳ではない。
「は…はだかなんだな……うぉぉぉぉッ!!」
獣男の手が、美少女に伸びた。
こわい。こわいよ、たすけて。
たすけて、だれか。おねがい。
「…っ」
獣男の手が自分に触れそうになった瞬間。美少女は身体が膨らみそうな程、大きく息を吸った。そして、叫んだ。
「たすけてぇぇぇぇぇぇぇッ!!!!」
湯飛沫が上がった。
自分と、獣男の間に何かが飛び込んで来た。
「にゃぁぁぁッ!? 止めてくれにゃぁぁッ!?」
声が聞こえた。
上がった湯飛沫は、突如として固まったように落下し、波紋をーーー作らなかった。
「ひゃ…っ」
悪寒を感じた。
何故だろうか。空気が変わっている。
自分の身体を包んでいるのは、湯と、湯気とーーー冷気。
気の所為だろうか。自分の少し前方から、湯が凍っているようなーーー?
伸ばされていたはずの手は、氷柱を垂らして途中で動きを止めていた。
「うぉぉぉぉっ!?!?」
獣男が、驚愕の声を発している。
見ると、湯面だったものから伸びた鎖が、獣男の両手を縛っていた。
突然の出来事に美少女が眼を白黒させていると、先程とは別の声が聞こえた。
ーーー大丈夫? 怖かったね…よしよし。
とても、安心するような声でーーー美少女は意識が急激に遠くなるのを感じた。
ーーー私の中で、おやすみ…。
視界が暗くなる。
背中に湯とは別の温もりを感じていると、獣男の声が聞こえた。
ーーーはっ!? と言うか俺は~…何を~?
ーーー何をしていたんだろうね、本当に。もっと早くに止めるべきだった。
ーーーな…っ!? ま、待て! これにはきっと、深い訳が~…!
どうやら、正気に戻ったらしい。
レオンの焦っているような声がきこえた。
微睡みの中に沈んでいきながら。美少女は、ポツリと呟いた。
もう少し早くに、戻ってほしかったーーーと。
ーーー深い訳…かぁ。うん、それがあっただろうから…一回目は許した。二回目は…ギリギリで踏み止まってくれるって、待ってた。でも…その結果が…これ。…私久々に、本気で…おこかも。
ーーーま、待ってくれ! 待ってくれぇっ!! 俺は正直…何があったか覚えてない…んだが…っ。
ーーーねぇ。覚悟、出来てるよね…?
美少女の意識は、そこで完全に途切れた。
「あ、あの男…と、とととうとうとう、とうとうやりましたわねぇっ!? 幼気な少女に手を出して…と、取り返しの付かないことをぉっ!?」
「こ、これはいけませんわっ。ぜんっぜん健全なストーリーじゃありませんもの! どこかで修正を図らないと…あ、最後の最後でどなたかが阻止に入ってますね。これは…猫…でして? まぁ…喋っているみたいですわ。喋る猫…存在しましたのね。てっきりお伽話の向こう側の生物とばかり思っていましたのに」
「となると、湯を凍らせたのは猫さんなのですわね。凄まじい氷魔法の使い手ですわ。それとも…秘密の道具…でも使っているのでしょうか。謎は深まるばかりですわ」
「兎に角、隊長の暴走が止まったようで何よりですわね。では予告ですわ。『ユリは怯えていた。怯えの対象は、やはり突然の物音。胸に抱く守り神を抱き締めて、彼女が向かうのは部屋の扉だった。高まる恐怖、潰れるくまさん。果たして、くまさんは無事で居られるのかーーー次回、ユリ、飛び出す』…さて、それではここまで予告のことを忘れて、私も本編に戻らないと…」