レオン、焦れる
深夜の『アークドラグノフ』を、一人歩く。
足取りは徐に、しかし着実に目指す先を近付けている。本人が望もうと、望ままいと、臨ませようと、歩を進めさせている。
一歩毎に、身体が揺れた。
右へ、左へと。重い足取りに振り回されるように、揺れている。
薄暗闇の中で見れば、それは霊に取り憑かれているかのように虚ろな印象を抱かせる。
「あ~…」
しかしながら、その印象は正解だ。
弓弦は死んだような顔をしていたのだから。
吐息が、諦めに満ちている。
光の無い据わった瞳も、諦めの決意をしている。悩んだ挙句に、やはりこうするしかないと諦めた苦渋の決意を宿していた。
「…はぁ」
弓弦は扉の前に立つと、もう一度溜息を吐いた。
溜まりに溜まった悩みを吐き出して、兎に角吐き出して。気持ちを入れ替えてこれからに臨めるように。
扉の先にあるのは、地獄の入口ーーーもとい、隊長室だ。
「…よし」
今宵、地獄への門が開かれた。
「…来たか~」
門の先では、男が指を組んで椅子に座していた。
明かりの落とされた室内を薄暗闇としているのは、窓より差し込む月光。それを背後にしている男は、異様な威圧感を放っているように思えた。
他者が見れば。男の様子は全く異なったものに見えただろう。しかし、弓弦には圧倒的ともいえる程の威圧感を、間違い無く覚えていたのだ。
「(ひぃぃぃ…)」
弓弦は、本気で怯えていた。
内心の吐露に答える者は居ないのは、彼にとって幸か不幸か。本来ならば言葉の一つや二つを掛けてくれそうな存在は、今も彼の姉代わりの下から戻って来ていない。
「(…皆に何をさせているんだよ、姉さん……)」
それは、心の底からの問いである。
あの姉代わりは、時々とんでもない気遣いをしてくれるが、今回もそうなのであろうか。醜態を晒そうとしている自分が笑い者にされないよう、気を回してくれたのか。
だとしても、だとしなくても、取り敢えずは色々と恨みたくなる弓弦。しかし恨み節は誰の耳にも届くことはない。
だが恨み節を愚痴りながらも、それを表情に出すわけにはいかない。「弓弦」は関係者ではあるが、当事者ではないのだから。
自分はあくまで、仲介人。男と、とある人物を繋ぐ架け橋でしかないのだ。
故に、あくまで冷静に。単なる関係者として振る舞う。
「準備は…出来ているよな~?」
「あぁ。先に入っていてくれ、だそうだ」
「よっしゃ~!」
喜びに席を立つ男に向けて、弓弦の眉が顰められる。
この男は。呆れに、僅かな嫌悪感が込められるのは何故か。
「(あれ…俺、嫌悪しているのか…?)」
弓弦は男のことが嫌いではない。
レオンに関してはそれどころか、信頼の出来る上官だと思っているはずなのに。何だ、この湧き上がり、蟠るものは。
「(…いや、気の所為だ)」
きっと、今は心が荒んでいるのだろう。
そう考えることにして、弓弦は小さく頭を振った。この状況では、心が荒 荒むのも止むなしかもしれない。
「浴槽は下の倉庫に出来たんだったよな~?」
ワクワクと。レオンは小脇にタオルと着替えを抱えている。
これは、本当に楽しみにしている反応だ。
「あぁ。(あぁ…)」
遠い眼をしそうになるのを堪え、弓弦は道を譲った。
出来れば譲りたくはないのだが、どんな形であれ勝負に負けてしまったのだから仕方が無い。
ただ弓弦の中には、次回以降レオンにおかしな挙動が見られたら、物理ではなく魔法で殺しに掛かろうといった殺意が生まれていた。
こんなことは、二度とあってはならないのだ。だから、今回限りだと強く自分に言い聞かせてこの場に立っている。
意気揚々と風呂の下へと向かうレオンを見送ると、弓弦は拳を強く握り締めた。
「…何も…起こりませんように……」
隊長室の扉を内側から閉じると、弓弦は小さく詠唱の言葉を呟く。
闇の中に光が生じた。
生じた光は二種の光。二つの魔法が発動した証。
彼の姿は、魔法陣の中に消えた。
そこに広がるのは、四角い湯景色。
湯煙が辺りを白く染めている。扉一つに隔てられたというだけなのに、そこはまるで別世界だ。
「ふ…」
湿度が高い。それは、温かいと分かる。
まさか、こんなところで。まさか、堪能出来る機会に巡り会えるとは。
眼を擦り、一度確かめ、それをもう一度繰り返す。そして確認し終えると。
「風呂だ~~~~~~~~っっ!!!!」
レオンは風呂に飛び込んだ。
一瞬にして脱衣し、水泳のスタートが如く入湯した様子は、かの大怪盗の孫を思わせる。
「おおおおお! 風呂だ! マジで風呂だ! あったけぇ! 風音ちゃん凄過ぎだろ~っ!?!?」
湯飛沫が上がる。上がる。上がる。
浴槽の真ん中で燥ぐ様子は、さながら子どものようだ。
散々燥ぐこと数分。彼は浴槽の端に両腕を置いていた。どうやら、燥ぎ疲れたようだ。
「いや~…とうとうこの艦に浴槽が出来たか~。は~」
レオンは部屋を見回す。
倉庫の奥の、何も無かった空きスペース。それが今や、立派な入浴スペースとなっている。
えらいことになったもんだ。レオンは感慨に浸る。
戦艦に、風呂。これを完成させるまでに一体、どれ程の手間を掛けたのだろうか。
具体的な制作方法ここ分からないが、兎に角大変だったであろうことは、レオンにとっても想像に難くなかった。
これは、堪能しなければ。自分の身体に眼を落とした。
だが、彼は弾かれたように顔を上げることになる。
「(…お~?)」
扉の音が聞こえた。
誰かが入って来る音だ。
問題は、それが誰なのかーーーだが。
「(弓弦の奴は美少女だって言っていたがな~)」
色々あって浴槽を二時間貸し切っているレオンは、固唾を飲んで湯煙の中で眼を凝らす。
現れるであろう、美少女。彼女の「偏差値」によって、二時間貸切風呂の価値が大きく変わるのだ。
さて、いかなる美少女が現れるのか。
ポイントは、美「少」女ということだ。少なくとも、歳のいっている女性ではない。かといって、年端のいかない幼女を寄越されてもそれはそれで問題だ。レオンでもその辺りの道徳心は持っているのである。
「お」
ぴちゃん。足音が聞こえた。
仄かに明るい照明に照らされ、湯煙の中から待ち人が来たる。
「……!!」
見えた。
健康そうな爪先に続く、スラリと長い足。膝上数シーマールまで下された白いタオルを上に辿っていくと、後ろに引っ張られているのか微かに身体の線が露わになっているところに眼がいった。
「…っ」
華奢な手が、タオルを下へと引っ張る。
良い、実に。その仕草が堪らない。
レオンが視線を、細そうなウェストから更に上へと上っていくと、待っていましたとばかりな前への膨らみが見えた。
中々のものをお持ちのようだ。
「(お~)」
腕が膨らみをタオルの上から隠す。
あぁ、良い。良いですよ。
レオンは年甲斐も無く胸の高鳴りを感じた。
そして、いざ首から上へ。
首の後ろに亜麻色の髪が見えた。
更に上へ。
艶やかな唇。円らな桜色の瞳。
「(おお~っ!!)」
超絶、弩級の美少女だ。爪先から頭までを一瞬の間で観察し、レオンは確信した。
「…たっ、隊長さん…そんなに見られると恥ずかしいっす…」
「(声も良いッ!!)」
美少女は自らを、「オルレア・ダルク」と名乗ると、恥ずかしそうに笑顔を見せた。
花も恥じらう美少女だ。レオンは再確信した。
「…入って良いっすか?」
「お~! 勿論だ~!」
レオンは、もう浮かれていた。
想像以上の美少女なのだ。まさか、こんな娘と混浴出来る日が来るなんて。
「失礼しま…わぁ♪ 温かい…♪」
美少女は湯船に足を入れると、徐に肩まで浸かった。
隊長権限の素晴らしさを実感していたが、咎める何かがありはした。
少し考えるために時間を使ったものの、思考を振り払った。
悲しいことだが、そこで考えを放棄してしまうのがレオンがレオンである所以だ。
「ボクのこと、覚えてるっすか?」
「ん~? 俺と~…嬢ちゃんがか~?」
レオンは記憶を手繰る。
こんな美少女、会ったら中々忘れられないと思うのだが。どこかで会ったことがあるのだろうか。
もし本当に会っていたのならば、きっと他にインパクトのある出来事があったとしか考えられない。
「そうっすよ~? 会ったことあるっす。ボク、隊長さんのこと良く覚えてますもん」
「ん、ん~…」
困った。向こうは完全にこっちのことを知っているというのに、こっちは覚えが無い。
レオンは腕組みをすると、浴槽の反対側で湯に浸かっている美少女をまじまじと見た。
亜麻色の髪、桜の瞳、幼さがある顔立ち。じっくり見詰めてみると、覚えがあるような、無いような。不思議な感覚になる。
「そんなに見詰められると、照れちゃうっすよ~」
「(う~ん?)」
ーーーいや、見覚えがある。
ハッキリと見た訳ではないが、この美少女を見たことは、間違い無くある。
それに美少女の名にも、聞き覚えが。
「…お嬢ちゃんは、『組織』の隊員だよな~?」
ーーーそういえば、階級は何なのだろうか。突然湧いてきた疑問を、レオンは打つけてみることに。
「そうっすよ~?」
「階級は何だ~?」
「階級っすか? 少将っす」
「は~、少将なのか~」
そうか、少将なのか。若いのに、大したもんだ。
ーーーん? 少将?
「は? 少将っ!? お嬢ちゃん、少将なのか~っ!?」
それは、レオンと同じ階級の名であった。
「ふふ~ん♪ そうっすよ~? これでもボク、偉いんすから」
『組織』の中でも、極限られた人物しかなることの出来ない階級。その地位に該当する者は、大抵が一部隊の長だ。
驚きに声を上げたレオンの脳裏に、とある光景が過る。
ーーーそう、確か以前己のことを少将と声を上擦らせていた誰かを見た光景だ。
あれは、そう。忘れるはずもない。確か、『ヨハン・ピースハート大将』がこの艦に初めて来た時のことだ。
あの場には他に彼の妻である『ジェシカ・ピースハート』と、レオンの恩師でもある『ディー・リーシュワ中将』も居た。
あの日この艦を訪れた者は他にも居る。『ジャンヌベルゼ・アンナ・クアシエトール元帥』と、もう一人ーーー
「そうか! 嬢ちゃん確か、元帥直属の部下の!」
元帥と一緒に姿を見せた少女が、居た。
確か彼女の名が、この美少女の名と同じだったーーーはず。
「そうで~すっ♪ えへ…隊長さん、覚えていてくれたんすね? 嬉しいっす♪」
半ば勘のようなものだったが、どうやら正解だったようだ。
美少女は嬉しそうに笑い、「近くに寄っても良いっすか?」と素敵なことを言ってくれる。
勿論断るレオンではない。彼が頷くと、美少女がレオンから人一人分離れた所にまで寄って来た。
レオンとしてはもう少し寄って来ても良かったが、それを口に出すことはなかった。というのも、それを口を出すと完全にセクハラになってしまうからだ。
肉体派レオン。セクハラを考えるだけの理性は、流石にまだ残っている。
「(…アンナちゃんの逆鱗に触れたらマズいしな~)」
名前を思い出したのを切っ掛けとして、美少女との初対面時のことが少し思い出せてきた。美少女に関するその日の出来事で、何となく印象に残っている光景のというのが、美少女に対する元帥の態度だった。
元帥には一人直属の部下が居り、両者は血を分けた家族以上の絆で結ばれていると聞かされたことがあるレオン。部下と言葉を交わしている時の元帥は成程、確かに強い絆で結ばれているような遣り取りをしていたーーーような気がする。
もし彼女に何か危害を加えるようなことがあれば、自分の命に関わる事件が起こる。そのことを強く戒め、レオンは心を引き締めた。
「気持ち良いお風呂っすよねぇ。招待してくれた橘少将には感謝しなくっちゃ。そう思わないっすか?」
「そうだな~…。弓弦には、本当に感謝しなければならないな~。(弓弦~…お前さんは一体、どれだけの別嬪さんと仲良しになっているんだ~?)」
美少女の口から、男の名が出た。
確かに、レオンとしても彼に感謝しなければならない状況だ。何せ、この状況を設定してくれたのは彼なのだから。
毎度毎度思うことなのだが、弓弦という男は天性の女たらしなのだ。常に女性が側にいる状況を羨ましいと思う男は、そこら中に居るであろう。もっとも彼が潜り抜けてきた佳境のことを鑑みると、羨ましいとは思い難くなるかもしれないが。
レオンとてそんな男の一人だ。自分の部下に当たる男のことが羨ましくなってくるが、かといってそれまでの過程を体験してみようとは思わない。自分なら死ぬかもしれないと、そんな予感がするからであった。
「そうっすよね、そうっすよね♪ 感謝の気持ちは大事っすよ? 今回にしたって、たまたまボクが居たけど…彼、かなり困っていたみたいだから、あまり無理なお願いをしてはいけないっすからね?」
美少女の言う通りだった。だがその一方で、もう一回ぐらいなら無理なお願いでも聞き入れてくれそうな気がするレオン。同意する一方で、内心では別のことを考えていた。
男の欲望は、果てしないのだ。
「(…ごくり)」
この時。レオンの中では、欲望と理性が戦っていた。
手を伸ばせば触れられそうな、美少女が居ます。どうしますかーーー?
「(…ぐ……)」
欲望と、理性の戦い。
それはもう、激闘だった。
「なっ!? こ、これは、とんでもっ、とんでもない話ですわっ!? みみみ、三十路を一人寂しく歩いている童貞男が、と、年端もいかない少女と混浴ぅっ!? じ、事案発生ですわっ、ですわぁっ!?」
「ゆゆゆ弓弦君もなんてことをなさっていますのっ!? れ、レオン君に少女を紹介するなんてっ!? 幾ら何でも、それは倫理的に大問題ですわっ!? な、なんてことを…っ」
「三十路の童貞に少女を送って…ひ、酷いことになっても私、知りませんわっ。この結果が、ど、どうなっても…っ」
「予告ですわっ!? 『どこかの世界、どこかの場所では激闘が繰り広げられていた。存在には、必ず相容れないモノがある。激闘を繰り広げる者達は、互いが共に相容れないと剣を振るっていた。猛るは獣、守るは理、果たして勝者はーーー次回、レオン、壊れる』…ところで」
「混浴している少女…少し成長し過ぎているような気がしますけど…特に、胸とか…。きっと、気の所為ですわね! おほほっ、おほほのほっ!!!!