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風音、満喫する

 湯気が、立ち込めている。

 静かな空間に響くのは、抑えた嬌声と何かが擦れるような音。

 ゴシ、ゴシ、ゴシ。


「…ん」


 ゴシ、ゴシ、ゴシ。


「…ふ…ぅ…」


 ゴシゴシゴシゴシ。


「…ぁ…の…弓弦様…」


 風音は遠慮の込められた声で、露わにしている背中を任せている人物の名を呼んだ。

 小さな声だったが、至近距離ということもあり弓弦の耳に届いたようだ。


「ん?」


 背中に当てられていたタオルが止まる。

 言うべきか言わないべき迷ったが、風音は言うことに。


「少し痛いです…」


 少し既視感のある言葉だった。

 その時は、言う側と言われる側が逆であったか。

 背中を洗う弓弦、洗われる風音。

 あの時と立場が逆であったから、弓弦がどうして力強くタオルを擦り付けていたのか理由が分かる。

 どうせ、考えないようにしていたのだろう。考えないようにして上の空であったから、タオルを握る手に力をこめてしまっていた。


「…っ。すまん」


 過去の経験者だからこそ、現在の経験者の心の動きが分かる。

 人の背中を洗っておいて、何も考えないとは実に良い度胸だ。自惚れている訳ではないが、女としての誇りはある。背中を意識するが故に、今自分がしていることを考えようとしない。途中までは良いが、後半はてんで駄目だ。


「丁寧に扱って下さい。これでも一応乙女の背中なのですから」


「…あ、あぁ」


 意識させる。

 今洗っているのは、覗くうなじ艶やかな乙女の背中なのだと。そして恥ずかしがる弓弦を目一杯揶揄ってやるのだ。そうでないと、混浴の機会が台無しだ。


「丁寧に…丁寧に…」


 呪文のように繰り返しながら、弓弦は再びタオルを当ててくる。

 今度は丁度良い力加減だ。風音は眼を閉じると、感触に身を委ねる。

 閉じた視界の中で、タオルが擦れる音が聞こえる。弓弦の息遣いも微かに聞こえた。


「(気持ち良い……)」


 タオルの感触が、背中を撫でる息遣いが、心地良い。

 そして、居心地良い。誰にも邪魔されず、ただ一人の存在だけを感じていられる空間が。

 それは全て、満たされていく感覚だ。風音という存在を全て満たしていく感覚。

 ずっと、続いてくれないだろうか。そんなことをふと、風音は思ってしまった。

 無論それは、この状況がずっと続く訳ではないと分かっているから思ってしまうのだ。何せ背中を洗うのに、そう時間が掛かる訳ではないのだから。


「どこか痒い所はあるか?」


 その問いを風音は待っていた。

 向けられた問いに、彼女は迷わずある一点を告げる。


「この辺りを御願い致します」


 彼女が指示したのは、丁度脇の、それも比較的前側辺りだった。

 僅かに脇を上げて見せると、弓弦が固まるのが分かった。


「…あぁ」


「丁寧に御願い致しますね」


 女性の脇というものは、中々に男心を刺激する部位の一つだ。そこに煩悩を燃やす男が居ることを、風音は知識として知っていた。

 弓弦は決して、欲情し易い部類の男ではないことも知っているが、そこに関してはやってみなければ分からない部分もある。


「あぁ…」


 少しの沈黙を置いて、弓弦はタオルを背中から脇へと滑らせた。

 脇を拭いてもらうことはこれまでなかったので、風音としては新鮮な感覚を抱いた。

 痒い所に手が届いたような、気持ちの良い感覚。

 弓弦は相当丁寧にやってくれているようだった。脇の形に合うように滑るタオルは、さながらマッサージだ。擽ったくならないのが、何とも良い。


「(ではそろそろ…)」


 十分に楽しんでから、風音はとある行動へと移ることにした。

 タオルの動きに合わせて呼吸を徐々にワザと乱しつつ、脱力させた身体から悩まし気な吐息でも吐こうと声音を絞り出す。


「風音の脇って綺麗だよな」


 ーーー絞り出そうとしたところで、背後からとんでもない言葉が聞こえてきた。


「ふぁああん…っっ」


 完全なる不意打ちであった。

 動揺が全身を駆け巡り、結果とんでもない声が出た。


「か、風音っ!?」


 弓弦の声が裏返った。

 今の声は、誰の口から出たのか。想像を絶した音に思考が追い付かなかったのだ。


「!?!?!?」


 声の主である風音もまた、思考が追い付かなかった。

 今のは、自分の声なのか。今のは本当に自分の声なのか。自分の口から出たと分かっているはずなのに、どうしても認めたくない。

 ただ、本当にとんでもない声が出たのは確かだ。吐息交じりで、ひたすらに艶やかな悩まし過ぎる声音。

 それはまるで、求めていたものが、一度に満たされたかのような声音。喩えるならば、女の本能が満たされた時に発する声音。

 顔が熱くなり始めるのを風音は覚えた。

 湯煙に当てられたからではない。自分が頬を染めていることがはっきりと分かるような熱さだ。


「~~っ!!」


 駄目だ。どうにかして誤魔化そうとしても、何も言葉が思い浮かばない。

 もし何か言ってしまったら、またあの声音が、吐息交じりに出てしまうのではないかとの恐れが口を噤ませる。

 熱い。兎に角熱い。風音は熱さを抑えられないかと、顔を手で覆うが熱さが収まるはずもない。


「だ、大丈夫か…?」


 首を横に振る。

 全然大丈夫ではない。大惨事だ。

 風音は、この場に鏡が無くて良かったと心の底から思った。

 こんな顔、絶対に見せられない。そして自分も見たくない見せたくない。だから鏡が無くて良かった。本当に良かった。


「そう…か。何かすまなかったな…。ちょっとアレな発言だった」


 声から、困惑している気配が分かる。

 風音はその言葉に対し、何度も小さく首を横に振った。

 確かにアレな発言だったかもしれない。でも、決して謝られることではない。

 これはいわば、風音自身の自爆だ。弓弦をドギマギさせてやろうとした結果、自分の方がドギマギしてしまっているので何とも無様なものだ。


「…いえ…そんな……」


 自爆に関しては思うところがあるとのの、良い言葉が聞けたことには満足する風音。

 何だかんだ、弓弦は背中を意識してくれていたのだ。それだけで、もう十分。

 取り敢えず今は、心を落ち着けるための猶予を作らなければ。どうにかなってしまいそうだ。


「…あ、後は自分で…」


 色々な意味で一杯一杯な風音は声を振り絞り、弓弦からタオルを受け取った。


「どうぞ…先に入っておきますので…」


 そして手早く身体を洗い終えると、弓弦にタオルを渡して自らは湯に浸かった。


「…ふぅ…」


 浴槽の隅へと移動した風音は、足を伸ばして息を吐く。

 身体の内から力が湧いてくるような湯だ。見た目こそ透明な湯だが、『魔法具』由来のためか不思議な効能があるようだ。

 そう、体力気力全回復で戦闘不能からも立ち直ってしまいそうな感覚だ。

 我ながら良い風呂を作ったものだと、感慨に浸る。

 間違い無く、多くの人に満足してもらえるような風呂になった。会心の出来だ。


「(良い湯です…)」


 疲れが癒されていく。

 その心地良さは、ともすれば微睡んでしまいそうだった。


「お…良い湯だ」


 風音が風呂を堪能していると、程無くして弓弦が入って来た。

 あまり離れて入浴するのもどうかと思ったのか、彼は風音の少し離れた隣に腰を下ろした。


「さしずめ、魔法の温泉ってところだな。魔力(マナ)も回復していくみたいだ…。これは良い」


 弓弦も満足してくれているようで、何よりだった。

 何か声掛けでもしようと、弓弦を見る風音。


「…!!」


 だが、何よりでは済まないものを見てしまい少しの間固まった。


「…ん?」


 風呂の湯は、透き通らんばかりの無色だ。


「あ」


 風音の石化に気付いた弓弦は、対処が完全に遅れていたものの、原因を隠す。


「…透明な湯ってのも困りものだな」


 何とも気不味い雰囲気に。

 今の状況について、揶揄うことで上手に立ちたい風音であったが調子を乱され続けているので出来る訳もなく。


「…そう…ですね」


 ただ頬を染めたまま相槌を打つことしか出来なかった。

 こんなはずではなかったのに。乱された調子は中々戻りそうにない。

 この状況を持ち直すにはどうすれば良いのか。弓弦を照れさせて、照れた弓弦を「あらあらうふふ」と弄ぶには。考えていくと、何とか一つだけ方法を思い付いた。

 その方法を効果的にするためにはどうすれば良いのか。風音は自分の中で考えを導き出してから、意を決した。


「弓弦様は…立派ですよね」


 何を、とは言わない。

 この状況で、立派が指し示すものは万国共通だ。


「…立派か?」


「えぇ、立派で御座います」


 少しだけ調子が戻ってきた風音。

 我がことながら、調子を上げる方法としては如何なものか。


「…立派…かぁ?」


「えぇ、素敵で御座いますよ♪」


「…人並みじゃないか?」


 「良く分からないが」と、弓弦は続ける。

 中々に下世話な話だ。普段なら話に乗ってくれないし、自分からも振り難い話だが、それが出来るのは混浴という環境のためか。


「他の方とは見比べられないのですか? 殿方は良くそうされると伺ったことがありますが」


「気にしたことはないな。あんまジロジロ見る訳にもいかんし…覚えている限りでは、機会もあまり無かったしな」


「…和の国の方でしたら、裸の殿方と一緒になる機会はそう少ないとは思えませんが」


「…俺が居た国では、基本的ではあるんだが、一家に一据え浴槽があったんだ。わざわざ銭湯に行く必要は無かったし…それに…」


 あまり訊ける機会の無い弓弦の故郷の話に耳を傾けていた風音。

 彼について、自分が知らないことを沢山知りたいという彼女の好奇心は、言い淀みの先を追求した。


「それに?」


 一家に一据えの浴槽がある世界。弓弦が育った世界。

 風音は一度行ってみたいと思いながらも、続きを促した。


「…家で入らないと、母さんや姉さんに怒られたんだよ」


 「他所で入ると、襲われるかもしれないから」。弓弦はそう言い聞かされながら育てられたと語る。

 止むを得ない状況なら情状酌量の余地があったそうだが、それ以外なら説教をされたのだとか。


「まぁ、それは…。弓弦様は大切にされていたのですね」


「過保護だったんだよ。もーんの、凄くな…」


 弓弦の遠い眼が、何かを物語っている。


「ま、昔も今も、何だかんだ周りから大切に扱われているか」


 少々妖しい響きが漂う説教について、少し気になる風音。だが何故か、触れてはいけないような予感を察知したので、追求は止めておくことにした。

 風音は弓弦の言葉に、「私もその内の一人です」と同意する。


「ですので弓弦様の身に危害を加える者には、制裁を加えることもやぶさがではありません」


「それは怖いな。例えばどんな制裁を加えるんだ?」


「そこは御想像に御任せします。うふふ」


 選択肢が数種類浮かんだ。

 一言でいえば、あんなことやこんなことなのだが、そんなこともするかもしれない。共通するのは、とても痛々しい内容であることだ。

 もし弓弦がこの時、心を覗いていたのなら苦笑いを浮かべるだろう。その自信が風音にはあった。


「まぁ…程々にな」


「はい♪」


 勿論、程々にする訳がない。

 言葉とは裏腹に。否、言葉からも分かり易い本心だ。


「大切にされているのですから、当然弓弦様自身もどうか御自愛下さいね」


「…ん、まぁ…善処する」


 返ってきたのは微妙な返答。

 弓弦としては、善処したくても出来ないというのが本音なのかもしれない。

 だからといって、伝えた言葉が無駄になる訳ではない。言葉に秘められた想いは彼の内に残るのだ。


「クス…ッ」


 微妙な返答は、彼なりの誠意なのだ。

 それが分かっているから、風音は満足そうに微笑んだ。


「…そろそろ出るか」


 しかし、その言葉に表情を曇らせた。

 出来ればもう浸かっていたかったが、出ると言われてしまったのなら仕方が無い。

 風音も浴槽を出ることにした。


「逆上せられたのですか?」


「…昼ご飯の時間だろう。忘れたのか?」


 そういえば、そうだった。

 混浴は、昼ご飯の時間まで。分かっていたはずなのに、忘れていた。


「…失礼致しました」


 頑張りが報われた時間が終わる。

 折角の機会を、思った以上に活かせられず終わる。

 弓弦を追うように浴槽を離れる風音の足取りは、重かった。


「……」


 というのも、弓弦の後面全てをじっくりと眺めるために、ワザと距離を置いていたのだ。


「…?」


 視線に気付いたらしい弓弦が振り向くも、既に風音の姿は彼の隣にあった。

 首を傾げた弓弦に「どうされましたか?」と訊くと、「気の所為だろ」との返事が。


「…うふふ」


 どうやらバレずに済んだようだ。

 胸を撫で下ろした風音は笑みを浮かべながら、弓弦の裸な姿を脳裏に焼き付けるのであった。

「ふぅ…。書類も山となっていれば重いですわね。この量を捌けるようになったのですから、とんでもない進歩ですわ。人って…成長しますのね」




「最近は判を押すだけの書類が減ってきていますし…。業務代行も難しくなってきますし、業務量は増えるばかりですわね…。何とかしないと、いよいよ隊長の手が追い付かなくてこの先どん詰まり…なんてことが…ありでもしたら大変ですわ…」




「…最悪弓弦君に、多くの協力をお願いするなんてこともしないといけませんわね。でも…それも中々難しいことだったり…」




「…はぁ…予告ですわ。『起こることには始まりがあり、理由がある。弓弦と風音を送り出すこととなってしまっていたことにも、理由があった。弓弦と風音をむざむざと送り出してしまった知影は、抗議とばかりに口を荒げていたーーー次回、弓弦、動く』…はぁ、困りましたわぁ…」




「…どうすれば、弓弦君に業務を…」

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