風音、座る
恥ずかしさと、一抹の申し訳無さと。
嬉しさと、優越感と。
様々な気持ちを乱と混ぜ、風音は佇んでいた。
「あら風音」
弓弦の背後に立つ女性。
彼女の声を聞いた途端に、彼は固まった。
固まったと分かり易い固まり方だ。瞬きもせず、開いた口はそのまま。きっと今頃冷汗でも掻いているのだろう。
「(御背中の流し甲斐がありそうですね)」
胸の高さで抱えた風呂敷を抱きしめながら、風音はそんなことを考えていた。というのも、そんな彼女はこの状況をどうすれば良いのか考えあぐねていたためだ。
だが、まずは挨拶ぐらいしておかなければ。
「少々御無沙汰しておりました。この度、前々より製作をしていました浴槽が無事に完成しましたので、御報告に参上した次第で御座います」
固い。固過ぎる挨拶だ。
だがいつも通りの挨拶でもある。
内心の動揺を抑え込みつつ、風音は一礼をした。
こんな時の一礼は大変有用だ。顔を見られない瞬間を作るだけで、気持ちを整えることが出来るのだから。
「そう。それで一番風呂を一緒に入るために、この人を呼びに来たのね」
いきなり核心を突かれる。
整えた余裕を、一手で突き崩そうとするフィーナの早業だ。
しかしそれで動揺するような風音ではない。
「流石はフィーナリア様。その通りで御座います。完成した浴槽の良さを知っておられるのは、私の他に弓弦様しか居ませんので」
フィーナの名前は全くもってその通りではない。
決してワザとではないのだが、眼に見えて弓弦の顔が強張った。
「…あら、私じゃ役不足なのかしら。装置の起動なら私でも出来るのだけど」
「木材の選別から一緒に作業を進めたのですよ? 完成した浴槽の素晴らしさを、弓弦様なら良く良く御存知のはずですから」
「そう。ねぇあなた。本当に、良く良くご存知なの?」
弓弦、起動。
非常に鈍い音を立てて、顔を背後に向ける。
明らかに悪いことをしようとしていた者の反応だ。そんな反応をされたら、誰でも訝しんでしまう。
「あ、あぁ。一応風呂の国の人間だし…なぁ…は、はは」
「そう。あなたも和な国の出身だったわね。ふぅん」
流れる微妙な空気。
弓弦は全力で焦っているようだが、風音の心は澄んだ水面の如く静まろうとしていた。
落ち着く時間があったから。それとも、他の理由か。そんなことを考えるのは、今でなくとも良い。
笑顔を貼り付けた表情の裏で、風音は俯瞰的に状況を窺うことにした。
「……」
俯瞰的な視点で見る。それは、先の旅行で得た教訓の一つだ。物事一つ取っても、客観的に見詰めてみるだけで新たな発見をすることが出来る。
焦る弓弦、微笑むフィーナ。
ーーーそういえば今日のフィーナは、どことなく余裕を感じさせない言葉を用いている。それはまるで、耳に届いた人物の不安を駆り立てているように。
「あぁ。風呂とか、お刺身とか、有名だったぞ、うん」
「そう。そうね、和の国なら有名よね。ふぅん」
見るとフィーナは面白がっていた。
焦る弓弦を、掌の上で弄んでいるかのように。
これは、あまり面白くない状況だ。
知影が昼食の材料を買いに出掛けたこのタイミングを狙って呼びに来たというのに、時間を稼がれてしまっている。
フィーナにその気はないようだが、結果として時間を浪費させられているこの状況、あまり良しとする訳にはいかない。
ならばと、風音は打って出ることにした。
「フィーナ様。出来れば昼食が完成する頃までには済ませたいのですが」
「あら、そんなこと言っても。もう、一時間もあるかどうかよ?」
「構いません」
そう、構わないのだ。
少しでも、興じる時間があるならば。
「そう。悪かったわね。でも最後に一つだけ、この人に言わせてちょうだい」
居心地悪そうにしていた弓弦が、次の瞬間物凄い速さで動いた。
「ねぇあなた。私、何も、聞いていないのだけど」
「悪いっ」
頭を下げての謝罪。その速さ、亜光速に匹敵する。
フィーナの態度からして、風音は何となくそんなことだろうと思っていたのだ。だから、彼女が悪戯交じりに弄んでいたことに気付けた。
自分はちゃんと事前に報告をしていたのに、この人とという人は。頭を下げた弓弦の後ろで、風音はワザとらしい溜息を吐く。
「事後報告は、頂けないかと」
「…悪い」
謝るしかない弓弦。情けない姿である。
大方、今は知影の眼を掻い潜ることを優先させようとしたのだろう。結局、時間を取られるという全くの逆効果になっているものの。
「ふふ、謝れるのなら良し、よ。はい、これ」
迅速に謝ったのが幸いして、フィーナは満足したようだ。
満足そうに頷いた彼女は、弓弦に包みを渡した。
「お風呂入ることが分かっていたのなら、着替えの用意ぐらいしておきなさい。世話が焼ける人なんだから」
中身を確認した訳ではないが、口振りから弓弦の着替えということが分かる。
フィーナがやけに満足気味なのは、所謂妻らしいことが出来たためだろう。包みは風音の側からは壁に隠れて見えなかった物だが、どうやら最初から持っていたようだ。
「…ありがとな」
「ふふ、どういたしまして。ほら、知影が来る前に」
「あぁ。行くぞ風音」
そろそろ、いつ知影が帰って来てもおかしくない状況だ。
弓弦は言うが否や、足を艦首方法へと向ける。
このまま下階を目指そうとすると、買い出し帰りの知影と鉢合わせする可能性が高いと踏んだためだろう。
実際は半々の可能性ーーーといってはいけない。
結局は一か八かの賭けなのだが、弓弦は迷わず艦首方面からの迂回ルートを選んだ。その決断力を、もっと別のことに活かしてみてはどうなのだろうかーーーとは、風音が内心思ったことである。
風音は一礼の後に、弓弦に続く。
「風音、ちょっと待って」
背後から声が聞こえた。
「何でしょう?」
足を止めた風音が身体ごと振り返ると、フィーナが歩み寄って来た。
「何だ?」
ついでに弓弦も戻って来ようとしたのだが、彼女はそれを手で制した。
「少し女の話があるから。悪いけど耳を塞いでなさい」と言われ、彼は踵を返した。
弓弦がある程度離れ、犬耳を塞いだのを確認すると、フィーナは若干の戸惑いを隠し切れていない様子で口を開いた。
「…凄く、言い難いのだけど」
最初は、風呂敷を見てるのかと思ったが、違うらしい。
風音の主の一人でもある彼女の視線は、風呂敷の隣に向けられていた。
「…そこ、二本ぐらい白髪が生えているわよ」
「…えっ!?」
その言葉に風音は驚き、後ろで一つ結びにして肩から前に流した自らの髪を凝視する。
「…あ、あります…ね……」
確かに、二本あった。
見付けたくなかった、見たくなかったものが、二本も。
窓から差し込む光と、艦内照明の二つに照らされ、黒く艶やかに輝く髪の中に、白いのが二本も。
「…根の詰め過ぎよ。外出先でも色々あったみたいだし…自分の身体の扱い方、もう少し考えてみてはどうかしら」
「…はい」
風音は心からの衝撃を受けていた。
まだ自分は、取るに足らぬ少女の年頃だというのに。十八歳なのに。こんな、二百歳も離れている人に生えていないものが生えているなんて。
精神を直に、数発殴られたような衝撃に見舞われフラつく彼女だったが、それを支えたのはフィーナだった。
心の隅で出来れば支えてほしいと思っていた弓弦は、通路の奥だ。背中を向け、着替えが入った包みを頭に乗せて、両手で犬耳を塞いでいる。
少し残念で、それ以上に和む姿だ。
「今回のこれはサービス、浴槽を作ってくれたあなたに対しての、私からのお礼。その疲れ、あの人に癒してもらうことね」
首だけ後ろに向けていた身体は、フィーナによって身体ごと後ろに向けられる。
背中を押された。トンと、優しく伝わった衝撃に、一歩風音の足が出る。
「…言っておくけど、これは今回限りのお礼よ。勘違いしないようにね」
それだけ言うと、フィーナは手を軽く振って部屋に戻って行った。
今回限り。ここまでの仕事振りがあったからこそ、二人切りでの混浴が認められたのだろう。そして恐らく、旅館での混浴は黙認ということなのだろう。何となくではあるが、そんな気がする風音だった。
「御待たせ致しました」
取り敢えず、今は知影が戻るより先に浴槽の下へと向かわなければならない。
声を掛けたものの、反応する気配が無かったので正面に回ると、弓弦は犬耳栓を止めた。
「じゃあ、行くか」
フィーナとの会話を聞かれていなかったことに安堵しつつ、風音は白髪を切る決意を固める。
そのまま二人は知影に注意をしながら、艦の地下へと向かった。
「おぉ…」
浴槽の下へ着くと、弓弦が感嘆の息を発した。
扉一枚を潜った先の空間では、中心に大きな檜の浴槽が静かに、その務めの訪れを待っていた。
「…風呂だけと思っていたが、ちゃんと身体を流せるスペースもあるんだな」
弓弦が注目したのは、浴槽の隣にあるワンサイズ小さい浴槽であった。
浴槽というと、少し語弊があるかもしれない。浴槽から仕切りの板を隔てた箱は、彼の言う通り洗い場だ。隣の湯船を満たす湯を用いて身体を流すことが出来るよう、洗い場の底には「もう一つの排湯口」が穿たれていた。
「…で、こっちの排湯口と、湯船側の排湯口は大方床下で繋がっている…と」
それは、彼女が是非とも気付いてほしかった工夫だった。浴槽を完成させただけでは、湯船に浸かれても身体は洗えない。だからもう一つ、洗い場用の浴槽を造れば良いと考えたのだ。
「と、原理的には分かるんだが、どうやって二つの排湯口を繋げたんだ? まさか本当に、床に穴を開けて管を通したのか?」
「クスッ、企業秘密です♪」
殆ど見抜かれてしまっているからこそ、風音は疑問に答えなかった。
どうせなら一つか二つぐらい秘密にしておいた方が、凄さも増すというものだ。
「成程な。凄いじゃないか! 完璧だな!」
「御喜び頂き、何よりで御座います♪」
賞賛の言葉が、とても心地良い。
この言葉が聞けただけで、少し疲れが癒されたようだ。
「さて、じゃあ湯船を作るとするか」
「はい♪」
弓弦は浴槽の中心部に向けて、手を伸ばす。
高まる気持ちそのままに、風音は弓弦に倣う。
「「……」」
部屋を、青く強い光が満たす。
程無くして、浴槽に水が溜まり始めた。
「…こんなもんか」
水位は秒刻みで増し、やがて浴槽の八分目程を満たすと、弓弦は手を下げた。
「……」
しかし、浴槽に溜まったのは水。
水はいつまで経っても、水にしかならなかった。
「……」
風音は表情を曇らせた。
思うように魔力が扱えず、弓弦を待たせてしまっている。
職人気質である風音は、細々とした作業を苦手としている訳ではないのだが、細かい魔力の扱いとなると途端に不器用さを発揮してしまう。
攻撃に用いる際とは勝手が違うことは分かっている。分かっているのだが、どうにもならない。
「…っ」
手が震える。
きっと、疲れているのだろう。それか、片手じゃ駄目なのかもしれない。
ならばと、風音はそっともう片方の手を伸ばそうとした。
「はは」
次の瞬間、浴槽を赤い光が満たした。
震える手。そこへ笑い声と共に一回り大きな手が重ねられていた。
「慣れない間は、俺も手伝った方が良いな」
浴槽から湯気が立つ。
あっという間に風呂の完成だった。
「…そうで御座いますね」
弓弦としては、優しくしたつもりなのだろう。
だが風音としては、妙ではあるが小馬鹿にされたような気がした。
するとどうだろうか。何か、色々とヤケを起こしたくなってきた風音だ。
昼食まで時間が無いのもある。
風音は少々投げ遣りな気持ちで、衣服に手を掛けた。
「おいっ!?」
弓弦に背中を向けると、するりと帯を抜いた。
風音は振り向きざまに前身頃で身体を隠しながら、抜いた帯をそのまま弓弦に向かって投げ付ける。
「おわっ」
そして弓弦の視界を一時的に奪った隙に、洗い場の中に身体を入れた。
色々な気持ちを、今は抑え込めて。取り敢えずはこのご褒美タイムを満喫しよう。
そう、弓弦を戸惑わせて、遊んでやるのだ。
「弓弦様。それでは御願いしますね♪」
弓弦が決心したように衣服に手を掛けた。
風音は瞳を細めると、それをマジマジと見詰めてみることにした。
「…どうしてそんな眼で見る」
「…さぁ? どうしてでしょう?」
照れるのを隠そうとしている弓弦の様子を見ていると。不思議と心が、身体が、温かくなるのを風音は覚えていた。
「もうっ…隊長は…ほんっと失礼な人ですわね。人が折角優しさを見せてあげていると言うのに、酷いですわっ。まったく…! 私を何だと思っていますのっ!?」
「はぁ…ほんっっと~にっ、仕方の無い人ですわ。次に持って行く書類はこれと…これと…それと、これですわね。…ほんっっと~にっ、書類が無くなりませんわねぇ…。日に日に増えていきますし…」
「…でも仕方ありませんわね。大元帥の行方が知れない今、唯一の血縁者である隊長に累が及ぶのは言わば、当然のこと…。隊長は…良く頑張られている方ですわ」
「…問題は…山積みですわね」
「……」
「…予告ですわ。『弓弦は無心に徹しようとしていた。湯の空間という特別な環境で、互いに裸身を晒している状況で、波紋の消えた水面のように心を鎮めていた。対する風音は策を講じていた。静まり返った水面に、一石を投じ波打たせようとしていた。背中を向ける風音。背後に立つ弓弦。薄暗闇に零れたのは消え入るような嬌声。今、風音の身体に弓弦が擦り付けるーーー次回、風音、満喫する』…な、何ですのこの予告っ!? はっ、破廉恥ですわっ、変態ですわぁぁぁっ!!!!」