弓弦、固まる
それから、数日が過ぎた。
各々の日常に精を出していた面々は、約束された安息の時間を満喫し、笑い、日々を過ごしていた。
そしてーーー
「‘…ん?’」
ある日の朝のことだった。
季節が関係無い狭間の世界では、急に暑くなったり、寒くなったりする。最近は底冷えする日が続いたものだからと、隊員服の下にいつもよりも一枚着込んでいるのだが、それでも寒い。そんな一段と冷える朝のことだった。
今日はどうしたものか。一日の予定をボンヤリと考えながら、弓弦は頬杖を突いている。
椅子に腰掛ける彼が見詰めるのは、紅茶が置かれた卓上。フィーナが淹れた紅茶は朝冷えの中の癒しだ。香りの良い茶葉から作られた泉は、見て良し、嗅いで良し、啜って良し。実に美味な泉だ。
弓弦は泉を堪能すると、傍にあるクッキーを口に運んだ。
彼が口に運んだクッキーは、紅葉の形をしている。こちらは隣室に住む彼の姉代わりが、昨日焼き上げてくれたものだ。バターの風味が紅茶と上手い具合に噛み合っている。噛み合う様は、泉に紅葉が浮かぶ秋の風景を思わせる。
「美味い」。弓弦は美味い物を美味いと言う男だ。素直な感想を言われて喜ぶであろう姉代わりは、この部屋には居ない。居るのは、二人の女性。
一人は、不思議そうにクッキーを食べている。もう一人は、紅茶を啜りながら、犬耳の毛を逆立てている。
一つの机を囲み、思い思いの時間を過ごしていた三人。その中でふと、何かに気付いたように声を上げたのは弓弦であった。
『ユール、どうしたの?』
頭の中で声が響いた。
弓弦の上げた声は、本当に小さな声だったので、知影やフィーナの耳に届いていない。だがいかに小さな声でも、彼の中に住まう存在の下には届く。シテロが訊いてきたのはそのためだ。
「(帰って来たみたいだ)」
思案する気配。
帰って来る。その言葉にピンと来るものがあったシテロは、困ったように唸る。
今度は弓弦が訊こうとするのだが、それよりも早く声が聞こえた。
『今帰還したぞ、主よ』
戻って来たのは、アスクレピオス。
その帰還は、弓弦にある事実を伝えた。
「(…どうやら、出来たみたいだな)」
『その通り。僭越ながら申し上げる。ささ、早く足を向けるべきだ』
早く足を向けたいのはあった。だが、このタイミングで向かっても良いのだろうかと疑問があった。
行くべきか、待つべきか。少しの間悩む弓弦だったが、後者を選んだ。
「(…いや。待とうと思う。完成は、自分の口から伝えたいだろうしな)」
アスクレピオスは、「完成」の報告を伝えに来てくれた。その気遣いは嬉しいが、弓弦自身としても、本人の口から報告を受けたい気持ちがあった。
『…では、私の早とちりだった…と言うことなのか』
そう言われればその通りになる。
しかしその通りになると、折角の好意を無下にしてしまうので、肯定も否定もしなかった。
「(ま、見守りご苦労な)」
弓弦は代わりに、労いの言葉を答えとする。
浴槽の製作中、製作者の身に何があっても良いようにずっと見守り続けてくれたのだ。労いの言葉一つでも掛けておかなければ、流石に可哀想だった。
『おぉぉ…実に勿体無き言葉を…』
感極まった様子が伝わってくる。
こうも喜ばれるとは思わず苦笑した弓弦は、意識を内から外へと向けた。
すると、眼の前に座るフィーナと眼が会った。
弓弦と同じように、魔力を視ることが出来る彼女も、アスクレピオスの帰還を察知していたのだ。
「どうしたの?」
報告をそのまま伝えるべきだろうか。弓弦はチラと頭の中で考えてから止めることにした。
浴槽完成後の約束のこともある。やましい気持ちがある訳ではないが、ここに知影が居ることを考えると面倒事を避けるべきかもしれない。話せば分かってくれるとは思うが、何かしらの妨害をしてくるとも限らないからだ。
「…暫く寒い日が続くってさ。散歩から帰って来た奴が教えてくれていたんだ」
「…倒置法なのは何故かしら」
別に気にすることではないはずだが、どうやら女の勘でも働いていらしい。察しが良いのが非常に困る。
「さぁて、な。…それよりも、どうして犬耳を逆立てているんだ?」
こんな時は、気を逸らしに掛かるのが一番である。
弓弦はワザとらしいとは思いつつも、先程からずっと気になっていたことを訊いてみることに。
「…別に、良いじゃない」
犬耳が力無く倒れる。
気は逸らせたようだが、気落ちさせてしまったように思える。
何を気落ちしているのか。弓弦は良く分からなかったが、知影は何かしらの見当が付いているようで、「そうだよねぇ」と摘んだクッキーをぶらつかせる。
「まさかクッキーを差し入られた次の日にお菓子の材料が切れるなんてさ。レイアさん、相変わらずタイミング良いよねぇ」
「あぁ…」
材料を切らすという失敗を悔やんでいたから、フィーナは犬耳を逆立てていた。
弓弦が納得する傍で、フィーナは納得しなかったのか再び犬耳を逆立てた。
「知影、それ以上な余計なことを言わなくて良いの」
室内を漂う魔力が、微かにではあるが活性化し始めた。
知影が言葉を続けようとしたのを制した声は、容赦の無い響きを含んでいる。
それ以上言ったら、タダじゃおかない。実力行使の前触れが知影の口を噤ませた。
知影が何を言おうとしたのか。それを弓弦が知る由は無い。
「弓弦〜…フィーナが怖いよぅ」
「はいはい」
抱き付こうとしてくる知影の腕を潜り抜け、弓弦は席を立った。
「あっ、冷たい」と拗ねる知影の声を聞かなかったことにしたのは、これ以上フィーナの機嫌を悪くしないようにとの配慮であった。
抱き付きが空を切った知影は、椅子を滑り、豪快に顔面からダイブした。
「うぼぁっ」
人間カーリングは少しだけ床を滑り、脱力するとピクリとも動かなくなる。
顔面から盛大に行ったものだから少し心配になったーーーかと思いきや、全く心配にならない。出てくるのはひたすらな呆れの感情だった。
「…勢いの付け過ぎだ」
「全く…ね」
知影は暫くすると、床の上で悶え出した。
朝の一時が流れ、やがて昼前となった。
フィーナがいつも通り、菜園に勤しんでいる姿を弓弦は見詰めている。
「な〜に作ろっかな〜…」
その後ろでは、知影が冷蔵庫と睨み合いを続けている。
昼の時間とはつまり、昼食の時間。今日の食事当番は知影だ。
「…ねぇ弓弦」
「何だ?」
何を作るべきか悩んだ時は、人に意見を求めれば良い。
今冷蔵庫にある材料で、何が作れるのだろうか。弓弦はフィーナから視線を外して背後を顧みた。
冷蔵庫の中を見ると色々と材料があるようだがーーー?
「何作ろうかなって続けて言うとさ、ループするよね」
なにつくろうかなにつくろかなにつくろうかなにつくろうか。
「…。は?」
とてもどうでも良い疑問であった。
なにつくろうかなにつくろうかなにつくろうかーーーそれが、何か。
弓弦は思わず平坦な声で返してしまう。
「そうだ、今日のお昼は肉巻き豆腐にくまきどうふにくまきどうふにしよう」
何の脈絡も無く出てきた昼食の名称。
何故肉巻き豆腐なのか。大方名前を繰り返すことが出来る料理の中から適当に選んでみただけなのだろうが、天才の考えることはしばしば理解に困ってしまう。
弓弦は冷蔵庫をもう一度見た。
肉はある。肉無くして、何で豆腐を巻くのか。
しかし豆腐は無い。豆腐を欠いて、何を肉で巻くのか。それは既に、肉巻き豆腐ではない。
なのに肉巻き豆腐を提案した。
なのに冷蔵庫に豆腐は無い。
「はぁ。お好きにしろって感じだが…豆腐は買いにでも行くのか?」
「…あ。豆腐無いね」
どうやら、豆腐の不在に気が付いていなかったようだ。
知影は少し考え込む姿勢を見せーーーたかに思えたが、
「良し、取りに行こう」
「待て、何故取りに行く」
買いに行くのでないのか。そもそもどこに取り行くと言うのか。それは買いに行くのとどう違うのか。
間髪入れずに弓弦の鋭いツッコミが炸裂した。
「あん♡ ふふふ、突っ込まれたぁ♪」
どうやらわざとボケてみせたらしい。
弓弦が深い溜息を吐いてみせると、知影は満足そうに身をくねらせた。
ハリセンで叩いた方が良かっただろうか。考えてみたが、すぐに首を振る。
「じゃあ弓弦の、あつ〜い一発を注いでもらった訳だし! とぅ〜ふを買いに行ってきまーす♪」
どうせ、こんな感じで言葉が返ってくるのだから。
トートバッグを肩に掛けて敬礼する知影に対し、弓弦はもう一度溜息を吐いた。
「隊員証良し、服装良し。発車進行レッツエンドゴー♪」
隊員証を確認し、自らが着用している衣服を確認する知影。
適当に組み合わせただけだろうに、そこは美少女にカテゴライズされる彼女だ。物の見事に着こなしていて、一応可愛らしく映る。
『…主は実に想われている。あのような美しき者に揃いの服を着てもらえる…。それもまた男の本懐の一つではないか?』
アスクレピオスには、その光景が微笑ましく見えているようだ。
ペアルック。確かに好きな相手にされると嬉しい服装だ。お揃いの服を着て時を過ごすことを幸せと感じる恋人達も居る。居るには居るのだが。
ウキウキ気分な知影が通った扉を見詰め、弓弦は机に向き合った。
視線の先ではフィーナが茶葉を見詰めている。収穫出来るか出来ないかを慎重に見極めているようだ。
豊富な地の魔力ーーー自然な大地の恵みを隅から隅にまで注がれた新茶葉は、彼女の手によって紅茶葉へと発酵を遂げるのだろう。
『…アスクレピオス、違うの。あれはペアルックじゃなくて、ユールックなの』
アスクレピオスに続いて、シテロの声が聞こえる。
ユールック。ユール、+、ルック。
新たな造語、誕生の瞬間であった。
『ユール…ック?』
『知影はいつもユールの服を着るの。頭から、爪先までユール尽くし…だから、ユールックなの』
『ははは! アシュテロよ、それは流石にないだろう。彼女は麗しき女子。主を思うがあまり、同じ衣類を一式揃えているのだろう』
『む〜。全然麗しくなんかないの』
何も知らないって、幸せ。
会話を聞きながら、弓弦はそう思った。
アスクレピオスはそれなりに知影のことを知ったはずだが、まだ幻想を抱いているのだろう。
いつかは現実を突き付けられるとも知らずにーーー。
「…幻想の中で夢は微睡む…。いつかは覚めるからこそ、一時の輝きがあると言える」
その時、 ベッド側の壁から声が聞こえた。
弓弦が首を巡らすと、壁を擦り抜けるようにして狼が姿を見せていた。
「終わるからこそ瞬く輝き…なぁ。で、ヴェアル、どうしてこっちに来た」
現れた悪魔は、隣室で暮らす女性に預かってもらっていた存在だ。
これまでは言葉を交わすのみで、戻って来ないまま今日に至っている。
「彼女が呼んでいるのでな、仲間を迎えに来た」
「…レイアが?」
随分と突然だ。そして、珍しい。
だが、彼女のことだから何かしらの用事があるのだろう。
「お呼びとあらば馳せ参じよう」
程無くしてアスクレピオスが顕現した。
次に、バアゼルとシテロが顕現するが、シテロは何故か弓弦の頭の上に乗る。
小龍の姿で顕現した彼女は、少ない体重を弓弦に預けて脱力した。
「どうした?」
「…何でもないの…けど」
少しの間続きを待ってみることに。
妙に歯切れの悪いシテロの言葉に、何故か弓弦も言いようの無い不安を覚えてしまう。
それは何となく、第六感に近いものがあったが、確かに不安な心地になったのだ。
もしかしたら、シテロもそれを感じているのかもしれない。そして、感覚的なものであるがために言葉にしようがない。そんな気がした。
「…往くぞ、『萠地の然龍』」
バアゼルに促され、シテロは渋々と付いて行く。
壁の中に吸い込まれて悪魔達は部屋を移るのだった。
「幽霊かよ…」
そんな悪魔達の姿を見た感想だ。
確かに壁を通り抜ければすぐにレイアの部屋ではあるが、扉を通って行かないのは移動効率重視のためなのか。
「……」
弓弦は立ち上がると、悪魔達が消えた壁の前に立った。
「実はこの先には異空間が広がっていたりして…」
壁に触れてみる。
「…は、ないか」
手が壁に吸い込まれていくような不思議な感覚は無く、残念なような、嬉しいような。肩を落として、椅子に戻ることに。
「…ん?」
しかしその途中、控えめではあるが、扉を叩く音が聞こえた。
椅子に座ろうとしたところで聞こえたので、中々に落ち着きが無い弓弦だ。扉を開けて来訪者の姿を確認すると。
「……弓弦様」
眼が合った瞬間、彼女は俯いた。
そこにいつもの余裕は一切見受けられない。
恥じらいに塗れた姿は、女性と喩えるよりは少女の姿。一眼姿を見ただけで調子を崩されてしまった弓弦は、心を落ち着かせるために小さく息を吐いた。
「…行「御時間よろしいでしょうかっ」…」
焦れたらしい風音の言葉が重なり、再び沈黙が訪れる。
どうやら彼女は相当余裕が無いらしい。それがおかしくて、弓弦は小さく噴き出してしまう。
「…行くか」
そういえばと、弓弦は少し前に噴き出したことでフィーナを怒らせてしまったことを思い出す。
結局どうして怒ってしまったのか分からず終いとなったがーーー。
「あら風音」
ーーーそんなことを考えていたら、本人が登場した。
噂をすれば影。噂をしてしまったからフィーナ。
弓弦は背中に封級氷属性魔法を受けたように固まるのであった。
「お~ぅぅぅっ。寒いな~!」
「えぇ、寒いですわね。はいこれ、あげますわ」
「おいおい、こんな時間から早速追加書類か~? って…え」
「…何ですの? そんなヒキガエルが潰れたような声を出されて」
「いや、だってな~。追加書類かと思いきや、コーヒーを置くもんだから何事かと思うだろうごぅっ!?」
「ブチますわよ」
「既に鉄拳が振り下ろされてるんだが~?」
「ブチますわよ」
「わ、悪かったったって~! コーヒー、ありがとな~」
「分かれば良いのですわ、分かれば。では分かったついでに、次回予告もお願いしますわ」
「お、お~?」
「はい、読んでくださいまし」
「…‘おっかないな~…’。『遂に完成した艦内風呂。様々な気持ちが綯い交ぜとなった風音は、506号室の前で立ち往生していた。意を決して一歩を踏み出した彼女。それを迎える弓弦。 背後に立った人物は、何を思うのかーーー次回、風音、座る』…終わったぞ~」
「後程、本当に追加書類を持って来ますので。どうぞお待ちくださいまし」
「…結局…書類は増えるんだな~」




