弓弦、安心する
蠢めく服。
暫く様子を見ていたが、我慢ならない。
フィーを起こしてしまうかもしれない。そんな気遣いをしていられない程、知影の行動は眼に余るものがあった。
判決、有罪。制裁決定。執行猶予無し。
俺は、固めた拳に力を込める。
全力ーーーとは言えないが、痛いと思える程度には力の込められた一撃が、鉄拳制裁が、
「ふんッ!」
振り下ろされた。
「あぐっ」
クリティカルヒット。
硬い感覚が拳から伝わってくると、膨らみは潰れた。
「ぅぅぅ…」
涙眼を浮かべる膨らみの正体が、布団の中で拗ねている。
「服が伸びるだろうっ」と抗議するも、変態に悪びれた様子は見受けられなかった。それどころか、今度は恐るべき手段に出てしまう。
『…!?』
頭の中で、絶句する気配を感じた。
俺と同じ予測に至ったらしいバアゼルの気配だった。
あの蝙蝠悪魔は、意外にも常識のある存在だ。絶句するのも当然かもしれない。
さて、予測出来たら、阻止に動かないとな。
「じゃあこーーー」
突拍子の無い行動を勿論させる訳にはいかず、手を伸ばして変態の額を掴んだ。
「うぁぐ」
利き腕ではないが、握力は十分。抵抗を無駄な足掻きとし、知影の首から上を、無理矢理布団の上へとサルベージする。
「痛たたたたたたぁっ!?!?」
『ぬぁっ!?』
サルベージ完了。
アスクレピオスを驚かせてしまうぐらい騒がしくなったが仕方無し。
『ぬぁぁぁぁぁぁ!? 私の羽が直火にぃぃぃっ!?!?』
…。仕方、無し。
『ふぅぅっ、ふぅぅっ!! あ、危うく焼き鳥になるところであった…。あ、主よ! 驚かさないでもらいたい!!』
「(悪い悪い。つい知影の方に意識を向け過ぎてな)」
悲鳴混じりなアスクレピオスに、心の中で謝罪する。
焼き鳥になったら大変なことだ。下手したら部屋が火事になるし、うん。
『主よ、気にされるのはそこなのかっ。もっと他に気にすべきところがあるのではないだろうかっ』
そこはそこで気にはなる。
だがもっと気になるのは、強まる背中の感触と小さな寝言。
『あ、主よぉぉぉ…あんまりだぁっ』
知影の「痛い」に反応したのか、とんでもない寝言が聞こえてきた。
「‘…痛いの…も…すき……’」
俺は思わず身を強張らせて、腕に力を込めてしまった。
「ぐえ」
知影から伝わる手応えが強まり、呻き声が聞こえた。
フィーめ、なんてタイミングで寝言を言うんだ。 アイツがマゾ体質なのは知っているが…と、言い訳は無意味か。ここは素直に謝っておくべきだな。
「あ、悪い。(ついでにアスクレピオスも)」
知影を解放する。
流石に悪いことをしてしまった。無言での全力抗議への謝罪として、頭を撫でることに。
アスクレピオスもどうやら許してくれたのか、調理に戻ったようだ。
「よーしよし…」
知影の髪を撫でると、窓から入ってくる風に乗って髪から彼女の香りが香ってきた。
『…おぉ、良い香りではないか』
それに混じるように、味噌の香りも。
少し意識して香りを嗅いでみたが、異臭はしない。アスクレピオスはどうやらレシピ通りに調理を行えているようだ。
…そうだな、もうそろそろ味噌の香りが強くなるはず。匂いで勘付かれる前に予防策を行わなけらばならないと、ベッドの周りの空間を包み込むような範囲で“エアーフィルター”を発動させた。これで、魔法の範囲より外の空気は入ってこないはずだ。
味噌の香りが薄れたことを確認すると、知影の唸り声に気付く。
「…弓弦、また力が強くなったよね」
唸りながら彼女は、片手で頭を押さえている。
相当痛むようだ。冗談ではない様子が伝わってくる。 わざとらしく涙を流さない辺り、本気だ。
「頭の骨にヒビでも入ったらどうするのさ。…私もやり過ぎちゃうから人のこと言えないけど…あいたたた」
フォローを入れられるとは思わなかった。何故だろうか。こんな痛ましい知影の姿を見ていると、とても惨めな気持ちになってくる。
それを押し隠そうとして髪を撫でていると、頭を押さえていた手が俺の手を掴んだ。
「…でもさ、ゴツゴツはしてないんだよね」
知影は人の手を眼の高さにまで持っていくと、それをしげしげと見詰める。
大切そうに触れ、両手で愛おしそうに撫でると、頰に押し当てる。
うっとりとした表情は、まるで陶酔しているかのようだ。陶酔対象が俺の手なのでこそばゆく感じる…と言うか、恥ずかしい。
「華奢じゃないけど、武骨じゃない。凄く、私好みの手。…ううん、弓弦の手だから私好みになるのかな。ふふふ」
知影は頬擦りをした手の甲に、自らの唇を押し当ててきた。
腕の次は手か。今日の知影は実にキス魔のようだ。
「…何を言い出すんだ急に。手フェチじゃあるまいし」
揶揄い半分で言ってみる。
コイツは手フェチなんかじゃない。手フェチと言うよりは寧ろ…いや、これより先は俺がナルシストになってしまう気がする。止めておこう。
「いやぁさぁ? これがいつも私の中を掻き回してくれ出る訳だし、愛しくもなりますよ」
「な…っ!?」
フェチどころの話ではなかった。想像の斜めをいく返答に小さくむせる。
唾液が変なところに入りかけているみたいだ。必死に咳をしてどうにか事無きを得たが、どっと疲れてしまったらしい。ハリセンを振り被る気力さえ起きなかった。
布団が心地良い。
変に力むのを止めたためか、それとも、一定のリズムで右側から伝わってくる刺激の所為か。咳き込んだ拍子に上がった視界の端で見えたものを確認すると、そっと叩くような刺激はフィーによるものだった。
トン、トン、トンと。急にこんなことをし出したのは、むせた俺を寝惚けながらでも気遣っているのだろうか。
このまま沈み込んで眠りたい気持ちさえ出てきたが、まだ眠る訳にはいかない。そして決して背中トントンに安心している訳でもない。
「あ、照れた? 照れちゃった?」
そんな俺の様子が別なものに映ったのか、知影が得意気になる。
腹が立つ、この笑顔。今すぐデコピンしてやりたいが、さっきやり過ぎてしまった手前、我慢する。
だが手に意識を向けたからこそ、気付かなくてはならなかったことを気付けたのが幸いだった。
「…誰が照れるか。そしてさり気無く人の手を下に持っていくな」
「ちぇ」
バレたか。そう言わんとばかりの舌打ちが聞こえた。
本当に危なかった。うつらうつらとしかけた瞬間に、指先が繊維と肌の間を潜っている。
今もし寝ていたら、今頃俺の手は知影の下着の中。俺が意図しないところで知影の思い通りが現実となりそうだった。
知影に誘われそうだった手を脱出させ、自由の下に晒す。
自分の身体を自由に動かせる。普通なら当たり前のことだが、だからこそ素晴らしい。普通って、素晴らしい。
「…まったく」
人で実践せずに妄想で済ませておけば良いのに。知影め、恐ろしい奴だ。
「…何でそんな、しょうがなさそうな顔をしているのさ」
ずいっと顔を近付けてくる知影。
俺の左右対称になるオッドアイに映っている男の顔は、諦めたような表情をしている。彼女はどうやら、その表情が気に食わないようだ。
「‘ふ…ふ…’」
こちらは良い夢を見ているらしいフィー。トントンをするのに満足したらしい。顔を見なくとも、嬉しそうに微笑んでいる様子が眼に浮かんだ。
さっきから寝言が増え始めている辺り、今は眠りが浅い状態なのかもしれない。ファンタジー感満載な容姿のくせに、下手な和の国民以上に味噌汁好きなコイツが、味噌の香りで起きないと良いんだが…。
一応念のため、何かしら手立てを考えないといけないか。
「そりゃあ、しょうがない奴を見ているからな」
それにしても、知影との距離が近い。どちらかが少し唇を尖らせてしまえば、相手の口に触れてしまいそうな距離だ。
今日の知影はキス魔である以上、人為的トラブルの対処法も考えなければならない。
「しょうがないって、どこがしょうがないのさ」
…はぁ。どうして両手に花状態で寝ているだけなのに、こうも頭をフル回転させないといけないんだかな。頭痛くなってきた…。
「どこがって訊かれたら、どこもしょうがないってしか答えようがないな」
「どこもって…そんな、どこもしょうがなくないよ。そんな抽象的な理由で嘲笑するなんて、人権の損害だよ」
「じゃあ具体的に言ってやる。まず、自分の姿を良く見てみろ」
知影は自分の身体を暫く見る。
何かを確認するように暫く見て一人頷くと、顔を上げた。
「普通じゃん。下着で寝ることの何が悪いのさ。世の中にはね、裸で寝ている人だって居るんだよ? それどころか、家の中では全裸な人だって居る。普通だよ普通」
「それは、知っているさ。だがな、普段は一応人の寝間着を着て寝ている奴が、今日に限ってわざわざ下着姿で寝ることは普通に含まれるか? いや、普通じゃないだろう」
「たまには好きな人の温もりを肌で、直に感じたくて下着姿になることの、どこがおかしいのさ。普通だよ普通。全ては愛の成せる技だよ」
マジか。普通、最低だな。
「…その発想をひたすら貫こうとしてくるから、俺はしょうがないと思えてしまうんだが」
『貴様の頭の中も大概だな』
差された水をサラリと受け流す。
誰の頭が大概だ。誰の頭が。俺は至って常識的な思考をしていると言うのに。
しょうがない思考をしている奴って言うのは、事に及ぶ訳でも正真正銘の下着族でもないのに下着姿になっている知影のことだ。
「愛の成せる技だよ。分からないかなぁ」
「分かるのは、お前が照れてるってことぐらいだな」
「照れてない照れてない。あのね、私が今更こんなことで照れると思ってるの?」
極めて平坦なトーンで話す知影。
「ふぅん」と返してはみたが、それ以上言葉を重ねることが出来なかった。
普段とは違う、抑揚の無い声音。かつての日常でのコイツの声音が、時々記憶の海に埋もれそうになる記憶を思い起こさせてくれる。
「…照れてないから」
『学校のプリンセス』…。色々呼び名はあった。その中には仰々しいと分類されるようなものさえあったが、俺の中ではこの呼び方で定着していた。
コイツにも、こんな時期が、あったんだなぁ…って。
はぁ…あの頃のお淑やかさが懐かしくなる。今とは色んな意味で大違いだったし…なぁ。
と、そんなことより。コイツが風邪を引く前に服を着るよう言わなければ。
「ま、取り敢えず服を着ーーー」
ーーーだが、ふと思い留まらなければならないような気がした。
自分の中で響いた制止の声が言葉を飲み込ませる。
待て、服を着るためにはどうしなければならなかったか。まず服を用意して、着るためには…?
「なくて良い…か」
そう、身体を起こさなければならない。
知影が脱いだ服は布団の中にある。まずこれが第一の壁なのだが、これを知影に回収させようとすると、人が布団の中に入ったのを良いことに何されるか分からない。かと言って知影自身に回収させようとすると、布団の中で何をしてくるか分からない。
例え無事に回収したとしても、服の着用と言う第二の壁が立ちはだかる。味噌汁の調理を隠し通さねばならない以上、あくまで寝たまま着替えてもらわないといけないんだが、わざわざ横になったまま着替ろと言うのはおかしいし、俺が着させると言うのも難しい。
だったら、そのまま寝かせた方が良いのではないのか。知影も俺も、このままの体勢の方が状況を停滞させ易い。そして、この判断に至った。
「えっ、良いの!?」
知影は驚いたようだった。
どうやら服を着せられる、あるいは着させられるとでも思っていたのだろう。心底驚いた声音は、珍しく彼女の意表を突くことが出来た証。
…ま、たまには良い…よな?
『ク…仕様の無い実に大概な奴め』
「(さぁて、な)」
物事は表裏一体。そう、ケースバイケースだ。
今回は、そう。仕方が無い。
「気が向いただけだ。ほら、身体を冷やさないように」
知影の意識を固定することによって、動きを封じるためにはこれしか思い付かない。
コイツの思い通りになっているようは気がしないでもないが、今は耐えよう。
「ふふふふふ。弓弦がデレたぁ♡」
遠慮を不必要とした知影が、身体を寄せてきた。
身体の感触が分かる具合密着した知影は、この上無く幸せそうな笑顔を浮かべて船を漕ぎ始める。
「…すぅ」
そしてあっと言う間に寝入ってしまった。
これには本当に驚かされたが、僥倖だった。
珍しく素直に可愛らしいと思えたので、思いのままに髪を撫でていると。
『主よ、そろそろどうだろうか?』
更に幸いとばかりに喜ばしい言葉が頭の中で響いてきた。
味見のためと器に注ぎ(とても器用だ)、アスクレピオスが持って来た味噌汁を起こした顔で何とか飲んでみる。
意外なことだが、しっかり出来ている。これなら、迷わず許可を出せた。
「(あぁ。後はそれを風音の下に運んでくれよ? 運び手さん)」
Goサインを出すと、アスクレピオスは力強く頷いて翼を広げた。
魔力が放出される。すると、窓から入って来た風が完成した味噌汁が入った鍋を持ち上げ、外へと誘った。
『では、行って参る。また報告があれば帰還しよう、主よ』
「(頼む)」
風が吹き抜けた。
神鳥の姿は空気に溶けるようにして消え、部屋に静寂が訪れた。
そう言えばと思い、調理台を見てみると、何ともう片付けられている。
アスクレピオスはどうやら、片付けをしながら、俺の手が空くのを待ってくれていたのだろう。今日は、実に頼もしい神鳥だった。
「‘あら…?’」
風音のことはアスクレピオスに任せて、自分は身体を休めようかと思っていると、フィーが身動ぎした。
「‘私のだい…きな…味噌の香りがいっぱい…ここは…天国ね…すぅ’」
そして何事かを言って寝ていった。
今日のフィーには癒されるなぁ…。
…と、それはさておきこれにてアスクレピオスの三十分クッキング、無事に終了だ。
「(…さ…寝るか…)」
二人の花に挟まれながら。俺は眼を閉じると眠気のままに意識を手放した。
「……風?」
「…。鍋? 斯様な所に鍋とは何故…?」
「…開けてみましょうか、開けるべきなのでしょうか、開けてしまってもよろしいのでしょうか…? …ですが、先程までここには鍋など無かったと直感するこの感覚…間違いありません。開けてみましょう」
「……あらまぁ。味噌汁では御座いませんか。器まで…。これはどうも、御丁寧に」
「斯様なことをされるのは御一人しかいらっしゃいませんね。…弓弦様~! 居られるのですか~?」
「…返事がありません、何も聞こえません、気配もありません…。魔法…先程の風で送られてきた物…なのでしょうね…」
「…些か不本意ではありますが、折角頂戴した物を粗末にする訳にも参りません。…では戴きます」
「…ふぅ。温かいものが身体の芯に染みていきます…。疲れた時には味噌汁を…そんな、あの御方の優しさが聞こえてくる様です。さて、予告と参りましょう。『その日、知影の中ではとあるブームが訪れていた。気の向くまま床を滑るままに昼食のメニューを決めた知影に呆れる弓弦であったが、彼は後に呆れられることとなった。呆れる者、恥じらう者、背後に立つは、笑顔の者。知影が外出し、悪魔達もまた出払った後に部屋の扉を叩いた者はーーー次回、弓弦、固まる』クス…では、御代わりを…」
「…。これは本当に、弓弦様の味噌汁なのでしょうか。美味…ではあるのですが。まるで、別の方がレシピ通りに作られたもの…の様に思えますが……。いえ、きっと勘違いですね。では残りの作業を頑張ると致しましょう」
「…この調子ですと、次回が始まる頃には完成してそうですね…♪」