弓弦、震える
食事を終えて、暫くして。
イヅナを部屋へと送ってからシャワーを浴びて。
いつしか時計の針が零時を回った頃に、俺はベッドの中に潜り込んだ。
眼を閉じて深く息を吸うと、優しいシャンプーの香りが身体の中に入ってきた。
少し前に俺はシャワー浴びた訳だが、香ってくるシャンプーは、俺が使った物であってそうではない。と言うのも、香ってくるものはまるで、俺が使っているシャンプーと同じ物とは思えない程、優しくて素敵な香りだったからだ。
それが両側から香ってくるここは、まるで香りの温室だ。四肢を投げ出して、ベッドに沈み込んでいるだけなのに癒されていく感覚がする。
「…すぅ…」
近くから聞こえてくるのはフィーの寝息。ついさっきまでは眼を覚ましていたんだが、気が付くと夢の世界に旅立っていた。
気持ち良さそうに寝息を立てているものだから、俺まで夢の世界に連れて行かれそうだ。
だが、俺にはまだ眠る訳にはいかなかった。別に眠気と戦っている訳じゃないんだが、兎に角眠りたくなかったんだ。
「…むふ」
ーーー何故なら、眼の前に怪しい顔をした知影が居たのだから。
「…その気持ち悪い笑い方は止めてくれ」
深々と溜息を吐いてから、止めるように言ってみる。
こんな笑い方をされておちおちと寝ていられるか? いや、絶対に無理だ。死んでも無理だ。無茶ならまだしも、無理なら無理なんだ。無理であるから無理でしかない。兎に角、無理だ。
寝ている間に何をされるのか…全く予想出来ないことが、途轍も無く恐ろしい。
だと言うのに。
「すぅ…‘すき…’」
反対側で寝ているフィーは容赦の無い眠気を送ってくれる。
服を微かに引っ張られ、顔を埋めようと擦り寄せてくるものだから、声が近い。息が近い。とても眠くなる。
嗚呼、物事は常に表裏一体。この状況は天国さながらで、それでいて地獄だ。寝たら危険なのに、寝かせようとしてくるこの状況、どうしろと言うのか。
気持ち良く寝ているのを起こす訳にはいかないし、かと言って放置していると俺が危ない。
「‘…すき…よ…’」
だからと言って、動くことが出来る訳でもなかったりする。
何故ならフィー側にある俺の右半身は、当然のようにフィーに拘束されているからだ。
いや、拘束と言う拘束ではない…か。胸に右腕を挟まれているだけだし、足は動くのだから。それに、腕は挟まれているだけなのだから抜けば良いんだが、それをすると起こしてしまいそうだ。だから、抜く訳にはいかない。弁明するのなら、決して柔らかい胸を堪能している訳ではないということだ。
…ん、色々と踏まえると、これは立派な拘束か。いやはや、参った参った。
「…?」
実に悩ましい拘束と戦っていると、少し離れている位置に感じていた魔力がこちら側に向かって来た。
風属性を示す、緑色の魔力だ。宙を滑るように、窓から部屋へ、部屋から俺の中に入って来た。
「(アスクレピオスか、どうした?)」
戻って来たのは、風音の下に留まったままのアスクレピオスだった。
『…主よ、心なしか喜んでいるように思えるのだが』
頭の中に響いた声は、どこか訝し気だ。
喜んでいる…と言うことは、この拘束に対して俺が考えていることに対してのコメントか。
誠に遺憾とはこのことを言うんだろうな。
「(俺が喜んでいる? まさか。ありがた迷惑だ。それより、何でこんな時間に戻って来たんだ?)」
『おぉ、そうだった』
思い出したかのような声の神鳥は、報告のために戻ったのだと話す。
別にそこまでしてくれなくても良いのだが、律儀な神鳥だ。
『私の見たところによると、製作は順調に進んでいる。主の想われ人の士気は依然として高く、現状は維持されたままの推移が見込まれる』
報告を受け取り、思案する。
気力が高いのは良い。
疲労があるのは当然として、気になるのは他のことだ。
「(そうか。順調そうで何よりなんだが…)」
知影が不思議そうな眼をしている。
さっきまでしていた何かしら考えているような眼をしなくなり、少し落ち着ける。
「(何か困っているようなことはあったか?)」
『ある』
即答だった。
どうやら、俺の下に戻って来たのは報告のためだけじゃないらしい。
続きを促すように言うと、神鳥は嘴を開いた。
『少し腹部を摩っていたのだ。主よ、私はそれを、空腹によるものだと考えたのだが如何だろうか』
「(空腹…か)」
きっと、リィルと一緒に食べたのが最後だな。空腹も考えられなくはないが、腹痛を起こしていることも考えられる。
…一旦様子を見に行くべきか? いや、あまり頻繁に行っても、風音は快く思ってくれないかもしれない。
だが空腹だとしたら見過ごせないな。疲労も怖いが、空腹も怖い。
となると、俺がすることは決まった…か。
「(アスクレピオス、少し手伝ってくれ)」
了承の声が聞こえると、俺はすぐに指示を出す。
自分が動くべきかと考えたし、動こうとも思ったのだが、
「…すぅ」
フィーの拘束は、それなりの力技じゃないと抜け出せそうにない。無理矢理脱出して、起こしてしまうのも可哀想だしな。
それに。
「……」
何かを察したのか、反対側の知影も似たような拘束をしてきた。
人の腕を挟んで、さながら抱き枕のようにして身体を預けてきた彼女は、「離さない」と表情に浮かべている。
両側からの拘束を受けたら流石にどうしようもない。なら、頼れるのはアスクレピオスかバアゼルになる。
きっとバアゼルは、今から俺がする頼みを引き受けてくれなさそうなので、頼れるのはアスクレピオスだけだ。
『それで主よ、私は何をすれば良いのだ』
「(味噌汁作ってくれ)」
『承…は?』
「(俺の代わりに)」
これは、バアゼルに頼めるはずがない。いや、アイツが味噌汁を作っている姿なんて想像付かない。うん、絶対に引き受けてくれない頼みだ。
バアゼル以外にも、頼もうと思えば頼めるんだが…。
『すぴー』
戻って来たシテロは夕陽を見て以来お休み中。クロとヴェアルはどこかから帰って来たみたいだが、レイアの所だし。アデウスもレイアの所に居る。
やっぱりここは、アスクレピオスに頼むしかないだろう。
『…大変恐縮なのだが。主よ、今一度伺う。私に…何を頼まれるつもりか』
「(俺の代わりに味噌汁作ってくれ)」
『…わ、私が、味噌汁っ?! 主よ、私を味噌汁の具にするおつもりかっ!?』
どうしてそうなる。
「(いやいやいやいやいや。味噌汁、作ってくれ。レシピは引き出しの中の本に書いてあるから。分かるか?)」
少し、間があった。
「…ん」
瞳を閉じた知影が不穏な動きを見せ始める。
何故だ。瞳を閉じて身動ぎしたとも受け取れるはずなのに、こうも不安になるのは。
『ぴぇあっ!?』
間を置いて、アスクレピオスは仰天したように素っ頓狂な声を上げた。
信じられないように『味噌汁』と呟くのを繰り返し、明らかに混乱している様子。
「…ふふ」
知影は怪しい様子。
『あ、ああ主よ! 何故私のような者に料理を作れと仰るのか!?』
「(いや、風音が空腹なんだろ? それに疲れてるだろうし差し入れの一つでもあげないとな)」
『何故味噌汁なのかッ!?』
「(疲れた身体には、味噌汁が良いって良く言うだろう?)」
味噌が、塩分が、染みるんだよ。
疲れた身体を癒す最高の手料理、味噌汁。
味噌汁はそう、胃袋を救うんだ。
『…主よ。主は実に聡明だ。私は今日程、主の考えが理解出来ないと思ったことはない』
「(それは褒めているのか貶しているのか、どっちなんだ…)」
どっちの意味でも取れる意味合いで言ったのだろう。アスクレピオスが明言することはなかった。
ただ引き受けた以上、途中で投げ出すのは神鳥の名が泣くらしく、腹を決めたようだった。
「…ん」
知影も何かの覚悟を決めた様子だ。顔を俺の腕に近付けると、
「…ちゅ」
口付けをし始めた。
暫くは大人しくなりそうなので、このまま無視。
『…引き出しの中にあるレシピで、味噌汁を作れば良いのだな。委細承知した』
魔力が俺の身体から離れていく。それはゆっくりと俺の机の前にまで向かうと、隼の形を模した。
『主よ、この机の引き出しで間違い無いか』
「(あぁ。一番上の引き出しを開けてくれ。多分すぐに分かるはずだ)」
アスクレピオスは引き出しを羽で開くと、これまた羽で器用に本を取り出した。
『主よ、これか?』
「(あぁ。一番最初のページに書いてあるはずだ)」
器用に嘴で本を開いたアスクレピオスは、じっくりと凝視して頷くと、こちらを見てくる。
『…素晴らしい手順書だ。絵は鮮やか、調理法から材料、成分までの明記。食事者の摂食の様子を描写した随筆の部分も微笑ましい。…成程、調理の完成系は、絵の通りなのだな。流石は主だ』
そこまで言われると照れるものがあった。それを誤魔化そうと頬を掻きたかったが、両手が塞がっていることに気付いて断念する。
柔らかいものに包まれている感覚に、柔らかいものがひたすら押し当てられている感覚。深く考えたくないので、強く自制心を働き掛けながら、意識をアスクレピオスに向けさせる。
『ふむ…ふむ。しかし主よ、材料は何処に?』
「(冷蔵庫の中に全部揃っているはずだ)』
首を回して台所の位置を確認した神鳥は、次に窓が開いていることを確認すると翼を広げた。
窓を背にし、台所に向かって動かされる翼に乗って巻き起こるのは、風。
風はレシピ帳を持ち上げると、宙を滑らせるように台所の上へと運んだ。
それを見届けたアスクレピオスも、台所の前へと移動した。
再びレシピ帳を凝視して何度か頷くと、冷蔵庫へと向かった。
『ふむ』
一番下の野菜室を開いたのが音でわかった。
「ちゅ…ちゅ…ん…?」
知影が物音に気付いた。ひたすらな口付けを止めて、物音の正体を確かめようとする。
「どうした?」
開かれた冷蔵庫からは微かな光が漏れている。
風音への差し入れを作ろうとしていることを気付かれたら面倒だ。ここは、注意の対象を俺へと戻させなければ。
「…気の所為かな」
話し掛けると、自然と知影の注意は逸れた。
そして、
「…ん…ちゅ」
また口付け地獄。
何がしたいんだコイツは。いつになったら止めて寝落ちしてくれるのやら。
リップ音が耳を支配してくる中、頭の中に声が響いた。
『…主よ。これで、良いのだろうか』
そうこうしている間に、アスクレピオスは材料を取り出し終えたらしい。
「(どれ…)」
念のために頭を持ち上げて確認してみることにする。
台の上で一列に並べたられた材料の数々は、間違い無くレシピ通りの品々だった。
「(あぁ、間違い無い。後はレシピ通りに調理を進めてくれ)」
『承知した。鳥たるこの身には至難の技かもしれぬが、これも主のため。このアスクレピオス、全力で事に当たらせてもらおう』
「(頼もしい返事だ)」
これなら取り敢えずは任せられるだろう。安心して頭を枕に沈ませると、
「ん…?」
頭を持ち上げていたのに気付いたのか、知影の顔が上がる。
マズい。知影のことだ、台の上に並べられた食材を一見でもすればすぐに味噌汁の材料だと気付くだろう。味噌があるし。
そしたら知影のことだ。味噌汁から風音への差し入れを連想し、何かしら良からぬ考えを巡らすとも限らない。それでもし、「お腹空いたから味噌汁を飲みたい」なんて言われたら、俺はコイツに味噌汁を飲ませなければならない。味噌汁は、欲しがる者全ての胃袋を少しでも満たさなければならないからだ。
『……』
それでもし、だ。幸せそうな顔をして「おかわり」なんて言われた時に、俺はその願いを断れるだろうか? …いや、考えるまでもなく無理だな。自分で作った料理を幸せそうな顔して食べてくれる人に、「もう無いから」と、あるはずの味噌汁を差し出さないなんてことを…俺はしたくないしな。は、ははは。
『…とんだ好事家だな、貴様は』
呆れたらしいバアゼルの声が聞こえた。
確かに、物好きな考え方ではある。
だが自分の作った料理が喜ばれるって、実に素敵な話だ。
「どうした?」
顔を上げた知影の顔を、まっすぐ見詰める。
首を傾げられた。何かおかしいと、そう思われているのだろう。
『ふむ…出汁を取り出している最中に具材を…。これが所謂時短技と名されるものか…ふむふむ』
アスクレピオスのクッキングは、まだまだ準備段階。
参ったな、どう誤魔化すべきか。
『…火加減はこれで…。これは沸騰するよりも先に取り出さねばならぬのだな。ふむふむ…。さて、風よ! 私の望むがままに具材を切れ!』
「…何かさ、寒くない?」
…寒い? あぁ、そうか。アスクレピオスの奴、風を吹かせたもんな。
夜の風は冷たく感じてしまう。頬を撫でてくるのなら尚更だ。
「…そうか?」
知影はまだ少し疑問に思いながらも頷く。
『…ふむ、この白い豆腐は小さな箱状に切れば良いのだな。最後に投入すると書いてあるが…切断は纏めて済ませておけば、後の手間も省けると言うものだな。…風よ!』
「うん、寒い。弓弦も寒いよね」
心配しているのだろうか。もぞもぞと身動ぎしたのは、もっと俺に密着しようとしているのかもしれない。
『…ぬぅ。この火…火力は弱いと言えど、熱く感じる。翼の先が触れないように気を付けねば…』
アスクレピオスは暑いらしいが、知影は寒くて仕方が無いようだ。
俺の腕を固定するのを中断した知影は尚ももぞもぞと動き、やがて布団の中へと入っていった。
「よいしょ」
そして、布団の中へと入っていた首から上の代わりに出てきたのは、布。
「…おい」
それは服だった。知影が今着ていたはずの。
寒いのに脱ぐ。訳が分からない。
「よいしょ」
制止の声を発したが、知影が止まることはない。変わらずもぞもぞと動く彼女の動向に注意することに。
『しかし…やはり火力が弱いように感じる。主の想われ人、そして主を待たせているこの状況。あまり良いものではないか。…少し、強めるとどうだろうか』
アスクレピオスは火力の動向に注目してるらしい。
直接見ている訳ではないが、きっと今頃食い入るように鍋を見ているのだろう。簡単に想像が出来た。
「っ!?」
その直後に感じる一瞬の冷気。
突然腹部を擽られたような感覚が、背中を這う。
まさか。堪らず解放されている左手で布団の中を確認すると、自分の服が膨れているのが見えた。
とても窮屈な感覚だ。生暖かく、擽ったい風が引っ切り無しに臍の辺りを吹き付けている。
「……」
俺は無言で拳を握り固めると、そのまま膨れた部分に向けて振り下ろすのだった。
「…お前も、長いこと私と共に居てくれるな。良し…今手当してやるから…」
「…粗末に扱っていた覚えはないのだがな…。寧ろ部屋にずっと置いてあったはず。…やはり、時の流れが解れさせたのだろうか」
「お前を縫ったのが、確か十の頃。…そうか、思えば私も十九歳…。もうすぐ…二十歳になるか。うむ、ここだけの話だが二十代になるのだぞ? 年重ねを折角逃れてきたというのに、とうとう私も二十歳……二十代か…ぬぅぅ」
「良し、完成。…と言う訳で予告だ! 『出来事は同時進行だった。アスクレピオスが味噌汁と格闘している最中、弓弦は葛藤の中に苛まれていた。知影の自分に対する集中力は、周囲を憚らない。だから味噌汁調理に気付かれていないのに、注意を着衣に向けてしまっては、気付かれてしまう恐れがある。着衣、脱衣のまま。悩める男は優柔不断。弓弦は知影に衣服を着させることが出来るのかーーー次回、弓弦、安心する』…お前は十歳か。良いなぁ十歳…ようやくの十代だ…くっ。私が二十代になることは、そもそもこの連続予告さえ無ければ言わずに済んだものを。隠せたかもしれないのに…くそっ、予告めぇ…っ!!」
「…予告なんか、こうしてやる! 予告退散ぬいぐるみパンチ! パンチっ! ぱぁんちっ!!」
「…っは!? いかん…ついウトウトしてしまった…!! うむ、ウトウトしてしまった!」
「…あ。腕が……」