弓弦、眺める
ディオの部屋を後にした俺は、少し艦内を歩くことにした。
窓から射し込む夕陽に眼を細めながら歩くのは、まだまだ時間潰しが必要だと感じたからだ。
『…戻らんのか?』
「あぁ」
ディオの部屋を後にした直後、一度は部屋に戻ろうとした。だが扉を開けようとした瞬間、部屋の中から美味しそうな香りがした。
フィーナが夜食を準備しているのだろう。そう考えた俺は、どうせなら準備中よりも完成直後に帰った方が良いとの考えの下、『アークドラグノフ』の廊下を彷徨っていた。
任務に行くには時間が足りないし、レオン、ディオとの手合わせを経た以上、身体を動かしたい訳でもない。十分な運動をしたと自分の中では思っているからだ。じゃあどうするかって話になるんだが、それを訊かれると「散歩する」としか返しようがなかった。
「あ、ユール」
艦橋の方でも見に行こうかと歩いていると、俺の名前を呼ぶ声がした。
初めて会った頃から、ずっとこの呼び方をしてくる奴は一悪魔しか居ない。足を止めて振り返ると、そこには予想通りの存在が立っていた。
「お帰りなの~♪」
丁度通り過ぎたばかりの扉から出て来たシテロは、嬉しそうに紫紺の瞳を細める。
「あぁ、ただいま」
その髪を軽く撫でると、気持ち良さそうな声を上げて頭を預けてくる。
人の姿を取る悪魔龍、以前俺が縫った衣類に包まれた果実の弾力は、今日も今日とて瑞々しい…コホン。
「?」
咳払いが気になったのか、シテロが見上げてきた。
常人離れした美貌に至近距離で見上げられると、どこか気恥ずかしくなるものがあった。
疑問で見上げてくるとなると、まずイヅナの姿が思い浮かぶが、あの子とは、また違うんだよなぁ。主に見下ろした視界の半分を埋め尽くすモノの具合で。…って、何を考えているんだ俺は。
「いや、何でもない。姉さんは?」
「さっきまで外を眺めていたけど、今は出掛けているの」
シテロ越しに部屋を覗いてみると、確かにレイアは居ないようだ。それどころか、居るはずの悪魔達も見当たらない。
アデウスとクロとヴェアルはどこに行ったのだろうか。
「シテロ一人で留守番か?」
「なの。クロとヴェアルは朝から居なくて、アデウスはレイアに付いて行ったの」
クロとヴェアル…。あまり一緒に行動する光景が浮かばないな。
「朝からか? 夕方まで帰って来ないなんてな…」
どこに行っているんだか。
悪さをする訳じゃないから心配してはいないんだが、気にはなる。
「ところでシテロは、何で留守番しているんだ?」
「私? 日向ぼっこしていたの」
日向ぼっこをするにはもう大分陽が傾いているように思えるが、シテロらしい留守番理由だ。
「日向ぼっこ…良いよなぁ」
日向ぼっこ、あれは素晴らしいものだ。
あの静かに時間が流れていく感覚が良い。
陽に当たっていると、心が落ち着くし、暖まるし…それなりに良いことがあったりする。
まぁ…肌には悪いこともあるんだが。そんな時には日焼け止め。スキンケアには欠かせません…って、男の俺が気にするようなことではないかもしれないな、日焼けって。
いや、しかし今は多様性の時代だ。日焼けを気にする男だって居ても良いじゃないか。あぁ、俺以外にも同士は数多く居るはずだ。…なんてことは、今はどうでも良いか。
「そうだ、俺も日向ぼっこするかな」
日向ぼっこは良いものだ。
散歩するのも悪くはないが、時間を忘れて惚けるのも良い時間潰しになりそうだ。
シテロも同意してくれると思っていたんだが、彼女は何故か首を傾げた。
「こんな時間からするの? ユールって不思議さんなの」
「お前に言われたくないっ」
思わず突っ込んでしまった。
最初にしていたのは、シテロだと言うのに。まさか彼女に不思議扱いされる時が来るとは。甚だ遺憾だ。
『ク…ッ』
バアゼルの笑い声が響く。
完全に小馬鹿にされたような笑いに向けた怒りを振り払い、一呼吸置く。
「別に良いだろ? そんな気分なんだから」
シテロの隣を通り抜けて部屋の中へ。
人の部屋に勝手に入る形となったが、別にレイアだったら気にしないだろう。なんといってもレイアだしな。
「…相変わらず、良く片付いているな」
所々に置かれている可愛らしい小物が語るのは、彼女の人となりか。
ふと、机の上に置かれた折紙が眼に入った。
何とも器用な形状をしている。どこかで見たことがあるような気がしたが、思い出せそうにはなかった。
「私もお供するの」
開いている窓の前に立つと、後を付いて来たシテロが隣に腰を下ろした。
日向ぼっこする気満々だ。夕陽に顔を向けて、眩しそうに眼を閉じている。
「こんな時間から日向ぼっこするなんて、シテロは不思議さんだな」
少し言い返してみた。
シテロが不思議さんなのは今に始まったことではないが、ちょっとした皮肉だ。
だがシテロはゆっくりと首を横に振り、「違うの」と否定した。
「こんな時だから日向ぼっこするの。お日様とユール、二つのぽかぽかを感じられる今だから」
「な…っ」
何てことを言うんだ、この天然悪魔は。
不覚ながら、少し胸の奥に来るものがあった。
いや違う、これはアレだ、上眼遣いパワーだ、うん。
「…これじゃ、意地悪言った俺が悪者だな…」
腰を下ろしてシテロと肩を並べる。
夕陽が眩しい。茜色の光が世界を包んでいるみたいだ。
「…意地悪言ったの?」
視線を隣に移すと、まん丸な瞳が俺を映していた。
どうやら、言った言葉が皮肉だと気付かれていないらしい。だったら、「意地悪」だと教える必要も無くなるな。
「さぁて、な」
視線を夕陽に戻すと、「む~」と聞こえた。
シテロにとっては、これこそが意地悪になるのかもしれない。何が意地悪なのかを教えない意地悪…結局、俺が意地悪をしていることだけが変わらない。
「ユールが意地悪なの。教えてくれても良いのに」
「別にわざわざ言うことでもないさ。な?」
「…む~」
視線を注がれながら、夕陽に注意を向ける。
少しずつ、少しずつ落ちていく夕陽。雲の向こう側を徐に下り、少しずつ水平線に近付いていく。通り過ぎた空には紫のカーテンが掛けられた。
肌に感じる風が冷たくなりはじめると、シテロが静かに鼻を鳴らした。
彼女の着ている服は、俺が着ている隊員服とは違い、防寒性能を有していないため寒いのかもしれない。俺ですら冷たさを感じる状況なのだから。
一つ、寒さを和らげるために出来るであろう行為を思い付いた。
だが一つ疑問がある。彼女が悪魔龍で、悪魔龍が人肌レベルでの冷感を持っているかどうかだ。
例えば、氷の悪魔であるクロなら暑さで溶けることは考えられるんだが、彼女は地の悪魔…。俺の中では、地と寒さとを結び付けることが出来なかった。だとしたら、さっき鼻を鳴らしたのは、寒さによるものではないのかもしれない。
果たして、龍である彼女が寒さを感じるのか? と言う疑問よりは、人間の姿である彼女は寒さを感じないのか? …との疑問の方が、否定が容易だ。
『…貴様は莫迦か』
考えを深めていく最中、呆れ果てたようなバアゼルの声が聞こえた。
俺のどこか馬鹿だと言うのか。こっちは真面目に考えていると言うのに。
『我は、ヒトに斯様な言葉があると記憶している。案ずるより産むが易し…とな」
「…!」
それもそうか。シテロが本当に寒がっているのかどうかを考えるより、直接彼女に訊いてみた方が早いに違い無い。
「寒いか?」
「…少し…?」
とても迅速な回答を頂戴した。
寒いのかどうかで、あれだけ悩んでいたのが馬鹿馬鹿しくなってくる程だ。
寒いのならば、やることは一つだ。
「龍の姿に戻ってみたらどうだ?」
顔は外に向けたまま、さり気無く提案してみる。
小龍の姿に戻れば寒さを感じ難くなるかもしれないし、何より俺が服の中に入れることが出来る。服の中に入れたシテロはちょっとしたカイロになるから、二人温まって一石二鳥だ。
「…戻らない。このまま日向ぼっこするの」
だがシテロは首を横に振った。
半分程沈んだ夕陽を捉えながら、それでいてもっと別の何かを見ているような、どこか焦点の無い光を瞳に湛えたまま。
何を見ているのだろうか。少なくともそれは、小龍の姿では見られないもののようだ。
戻らないのならば、それはそれで構わない。しかし言った側から小さくくしゃみをされたら、構わないといけなくなる。
「…冷えるんだろ?」
夕焼けの風は、徐々に夜の風に変わり始めている。
陽の光を外れた風が身を撫でると、どうしても身体が表面から冷えていく。
大概に日向ぼっことは言えない環境下だ。シテロの奴、何もそこまで日向ぼっこに拘る必要が無いはずなんだが…。
「なら、こうするの」
衣擦れの音が聞こえた。
少し遅れて、隣に熱を感じる。
隣に向けた視界では、淡い緑色の髪が風を孕んでフワリと靡いた。
シテロが身を寄せてきたのだと分かった。
『ほぅ…』
確かに、この方法もあったか。
やられるまで思考が辿り着かなかったが、良いアイデアだ。
シテロに触れている部分が温かい。
彼女から伝わってくる温もりが、寒さを感じさせなくしてくる。
「…いつまで日向ぼっこ、しようか」
夕焼けは、いよいよ完全に沈みつつある。
代わりに空を照らすのは月。
静かな光が、雲の間を抜けて空に溶けている。
シテロの温もりがそうさせているのか。彼女に向けた言葉は、俺が思ったよりも優しい響きを持っていた。
我ながら、らしい言葉じゃないな。「日向ぼっこをするつもりなんだ?」ぐらいの言葉で普段は言うはずなんだがなぁ。温もりの所為だとしたら、温もり恐るべしだ。
「…もう少しだけ、お陽様が全て沈むまで、このまま日向ぼっこしていたいの」
いつも通りの囁くような声音。
だが心なしか、静かな強い意志を感じたような気がする。
それがどうしてかは分からない。俺の勘違いかもしれない。だが、
「…ぼー」
シテロは、夕陽の先に何かを見ているようだ。
…本当、何を見ているんだろうな。
「(バアゼル、分かるか?)」
心の中でバアゼルに訊いてみる。
同じ悪魔なら何か分かるかもしれない。そう思ったんだが、返事は無かった。
答えを知らないのだろうか。いや、教える気が無いのかもしれない。ま、いずれにしても俺に答えを知る術は無い…か。
鶴ならぬ、隼の声も聞こえない。アスクレピオスは風音の下に行ったまま帰って来ないからだ。
「(…まぁ、良いか)」
俺はそのまま、陽が暮れる様子をシテロと眺めていた。
お互い一言も話すことはなく、互いの体温を感じながらただ黙々と落ちていく夕陽を眺めていると、「あぁ、俺…老けたな」って思う。
シテロはシテロで、悪魔として何百年も生きているだろうし、俺も一応二百年は生きていることになってるからな。うん、やっぱり…老けたな。はぁ。
嗚呼…高校生やってたあの日常が懐かしいなぁ。
勉強して、部活で竹刀振って、友人と話したり…最終的には青春して…はぁ、懐かしい。
はぁ…懐かしいなぁぁぁぁ…っ。高校生活、出来るものならもう一度やり直してみたい。と言うか、やり直したいっ。…なんて、何か虚しくなってきた。
何か、感傷的になってきたな。これも夕陽の所為…だろうか。
「ただいま~」
因みにすぐに帰って来るものだと思っていたレイアが帰って来たのは、完全に陽が落ちてからだったりする。
「あ、ユ~君来てたんだ♪ 折角来てくれたのに留守にしていてごめんね~」
今にも頭を撫でてきそうなレイアを警戒していると、遅れて入室して来た蟷螂の姿が眼に入る。
レイアの後を追うようにして入って来た足取りは緩慢で、俺と同じようにして振り返ったシテロが眼を丸くし、瞬きを増やしていた。
彼女もどうやら、俺と同じ違和感に着目したらしい。しかしそれも当然かもしれない。
「…き、キシャア…」
妙に落ち着きを見せないアデウスは、あまりにも印象的だった。
「と言う訳での甲板だ。うむ…夕陽が実に眩しい。さて弓弦は…居ない…か」
「むぅ…夕陽を見ようとここに居そうな気がしていたのだが。甲板にも居ないのか…。はぁ…」
「…私はもしや、呪われているのだろうか。何故こうも弓弦を見付けて、話すことが出来ないんだ…」
「…嗚呼。夕陽の…何と美しいことか。探しに探して…探し疲れて荒んでしまった私の心が癒されていくようだ…」
「…あぁぁぁぁぁ……」
「…予告だ。『少女はお供と共に帰艦した。部隊の副隊長として数々の戦いを潜り抜けてきた少女にはしかし、恐れるものがあった。人の原初の感情である快と不快。不快より分化する恐れ。少女の恐れは、その理由をして少女らしいものであった。躊躇い、溜息。扉の先で待ち受ける、少女の恐れるものとはーーー次回、セリスティーナ、迷う』」
「…夕陽と弓弦の…馬鹿者ぉぉぉ……」
「む…どちらも、ゆが共通しているではないか。ぐ…」
「ゆの馬鹿者ぉぉぉ……」