弓弦、慮る
ーーーいってらっしゃいっ。
追い出されてしまった。
固く閉められた扉を見詰めて、溜息を吐く。
「はぁ…」
何がいけなかったのだろうか。
怒らせてしまったのは取り敢えず分かるんだが…これが幾ら考えても答えが出そうにない。
『すまない主よ。私も見当が付かんのだ』
アスクレピオスはお手上げ。
バアゼルは無言。
フィーに追い出され事件は完全に迷宮入りだ。
これは参ったな。このままですとー、理由も分からないまま同じ間違いをしてしまうかもしれません…なんて、な。
『…主よ、現実逃避は如何なものだろうか』
「…癖なんだ。仕方無いだろう」
その場を和ませたりとか、色々と効果があるんだが。
ほら、人間生きていると現実逃避したくなることもあるってことだ。
『何と、主は疲弊しているのか…?』
「いや、疲弊しているってよりは混乱している…だな」
どうして追い出されたんだか。
状況的に、笑ってはいけないタイミングで笑ってしまったのは分かるんだが、どうしたものか。
「‘ここは一つ、伝家の宝刀ってヤツを抜き放たせてもらうか’」
出来ればあまりしたくない方法なんだが、ここは一つハイエルフ夫婦関係円満のためにやるしかない。
意識を集中させる。
フィーのことを思い浮かべていると、頭の中に聞こえてくる声があった。
『ふふ…負けないわよ』
負けない…? 知影とでも話している…って訳ではないか。もし知影が起きていたら、今頃部屋から飛び出しているはずだからな。
だが、これだと俺を追い出した理由が分からない。もう少しだけ覗いてみるか…。
『だって』
…。
『私だってあの人のこと、大好きなんだもの』
……。
『…好きよ、あなた。半ば追い出しておいて勝手なこと言うけど、早く帰って来てくれると私…凄く嬉しいわ…』
「はぁぁぁぁぁ……」
………ヤバい。フィー、可愛過ぎだろ。
心を覗くのは、こんな感じでとんでもない心の声が聞こえてきてしまう。
普段はあまり自分から想いを話すことのない人が、心の中では赤裸々に呟いていたりする。それが、簡単に聞こえてきてしまうから止められなくなってしまう。だから日頃は覗かないように努めていると言うのに、こんなデレを聞かせられたら病み付きになりかけるだろう。
伝家の宝刀の切れ味は実に素晴らしかった。
はぁ…何だか、とても幸せな気分だ。今すぐ扉を開けて抱きしめてやりたいんだが…。それをすると、また追い出されてしまうだろうな。
「‘一応ほとぼりが冷めるまでは帰らないでおくか…’」
部屋を離れ、通路を歩く。
さっきまでは知影が居た分賑やかだったのだが、今現在周囲は静かだ。知影一人の存在が、いかに賑やかだったのかが分かる。
静かなのも悪くはないが、寂しさは感じてしまう。俺の足は自然と賑やかな方へ向けられていた。
少し歩くと、先程の静けさはどこへやら。一気に賑やかな場所に出た。
食堂だ。今は昼食の時間だから、賑やかなのも当然だろう。
商業区の人や、艦橋のメンバーもチラホラと見掛けるが、特別親しくしている面子は居ない。
そのまま食堂を通り抜けて、通路奥の階段を降りる。
聞こえるのは自分の足音だけだ。因みに、もう一階層分下に降りれば機関装置の駆動音が聞こえてくる。それでも静かであることには変わりないが。
階段を降りた。一度は知影と戻った通路を引き返し、ひたすら奥へと進んで行く。
『VRルーム』の前を通り、更に奥へ。
階段を降りてすぐの『VR1』が、今は使われているのか明かりが点いていた。だが、他の部屋は使われていないらしい。
これも昼時と言う時間のためだろうか。とすると、こんな時間に身体を動かしているのは誰なんだろうな。すでに昼飯を食べているのか、そもそも食べる気すらないのか…。いずれにしても俺には関係無いことだ。
「‘俺も後で昼飯を食べないとな……’」
そんなことを考えていると、通路奥にある倉庫の前へと辿り着いた。
取り敢えず、扉を微かに開いて中を覗いてみる。
「‘風音は今、何をしているんだろうな…?’」
少しだけ見える、中の光景。
まず見えたのは、檜材。少し遅れて風音の姿が見える。
どうやら設計図の通りに木材を並べているらしい。浴槽の底らしきものの原型が見えた。
『…あのままのサイズでは、先程主と想われ人の一人が話していた方法は難しいのではないか?』
「‘そうだな…。確かにそうかもしれない’」
核の大きさは林檎ぐらいの大きさだ。
となると、もう少しだけ深さが欲しい。確か、他の物よりも太めに加工した檜材もあったはずだ。もしもの時の予備として、少々多めに檜を頂戴したのだからな。
「‘じゃ、そうと決まれば早速風音に…’」
風音と浴槽の原型と風音が見える倉庫の中へと入る。
「‘…ん?’」
…浴槽の原型と、風音と風音?
「‘んん?’」
気の所為だろうか。部屋の中に二人程風音が見えているような気がする。
これは、実におかしな光景だ。人が二人も同時に見えるはずがないのに。
だが、確かに、二人も見える。木材を運んでいる風音と、書物を読んでいる風音が。
「‘…俺、疲れているのか?’」
漫画じゃないんだから、人が分身なんてする訳がないだろうに。
いや、魔法か? 分身する魔法具でも使っているのか? …だが魔法が使われている感覚はしない。それどころか、あの二人の風音はどちらも質量を持っているように思える。
「‘…ま、ここで考えていても始まらない…か’」
扉を開けて、倉庫の中に入る。
空間の中に入って分かったことだが、風音の数は一人になっている。やはり扉の外で見えていたのは、幻覚だったようだ。
作業に集中していたためか、俺に気付く様子を見せていなかった風音だが、声を掛けると顔を上げた。
「弓弦様…。知影さんは何方に?」
俺の背後を探るような視線。それは知影を探しているのが分かる視線…それは、知影の提案を拒んでしまったのを悪いと思っているためだろうか。
「今頃は部屋で寝ているだろう。フィーに一服盛られたみたいだからな」
「まぁ…。睡眠薬に縁がありますね」
風音は驚いたように、少しだけ眼を丸めて微笑んだ。
どこか控えめな笑みだ。心なしか無理をした笑みに見えるのは、疲れがあるためか。
「…そう、だな」
嫌な縁だ。その所為で俺まで飲まされたんだとしたら尚更に。
「ところで弓弦様。此方へは如何様な目的があって参られたので御座いますか?」
「別に用が無いからって、来ちゃいけない理由にはならないだろう?」
「それはそうですが。弓弦様のことです、何か御用があるのですよね?」
「…まぁ、それはな」
ま、お見通しだろうな。
別に目的が無くても風音の顔ぐらい見に来るだろうが…今回は目的あっての行動だ。
「知影の提案…本当に飲まないのか?」
「はい。私は自分の力で成し遂げてみせますよ」
強い意志だ。「どうしても」って言葉が今にも聞こえてきそうだ。
言葉以上に、瞳も語っている。こうも主張されると、「やらせてあげたい」と言った気持ちにさせられる。
その意志を否定したくはない。だが、今のやり方で作業を進めていても非効率だし何より疲れが溜まってしまう。
これは今の風音を見たら確信出来る。何だかんだコイツも、今朝方したのは睡眠じゃなくて仮眠だ。当然昨日からの疲れを持ち越していることになる。今、眼に見えた疲労は少なくとも、睡眠時間の不足に起因しているのだろう。その内倒れてしまわないか心配だ。
ここは、どうしてもら疲労を軽く出来るように改善方法を提案しなければ。
「なら、俺の提案だったら飲んでくれるか?」
「…弓弦様の?」
頬に手を当てて、風音は首を傾げる。
すぐに断られたらそれまでと思っていたが、どうやら悩んでいるらしい。
これは、案外押せば折れてくれるかもしれないな。
「ま、一応は聞いてくれ」
自分の考えを風音に伝えていく。
内容としては知影の案の発展型であると前置きした上で、分かり易いよう心掛けて。
「…確かに、それでしたら穴を作るのは容易かと思いますけど」
「あぁ。単に底の厚い浴槽を作るだけで済むからな。どうだ?」
この提案を飲んでくれるだろうか。
正直なところ、飲み込んでくれないと困ってしまう。
「…困りましたね……」
風音の返答を待つ。
決めるのは彼女だ。俺はただ、提案するだけなのだから。
「…火と水の核に対応した属性の魔力を込めることによって、湯を沸かす…。湯を抜く時には水のコアラにバナナを込めるだけ…ですか」
湯を沸かすにはどうすれば良いのか。
片付けはどうするのか…方法は勿論教えた。言い間違いは、そっとしておく。
…にしても、コアラにバナナ…か。横文字に弱いのは直らないな。ま、ちょっとした愛嬌か。
「…弓弦様の仰ることは分かりました。ですが、私に火の力はあっても、水の力まではありません。杖を使うことが可能なのは理解出来たのですが、水の力についてはどうすれば良いのでしょうか?」
「…分からないのか?」
すぐに察しが付くとばかり思っていたので、少し意外だった。
艦内で水の魔法を使えるのは、フィーとイヅナと、俺の三人だけだ。風音のことだから、すぐに俺のことを浮かべると思っていたんだが、流石に自意識過剰だったか。
『ク…驕るからそうなる』
はいはい。驕った俺が悪かった。
「…!! い、いえ! …大変良く理解致しました…っ」
じーっと注視してみると、風音は動揺した様子だった。
…内心揶揄っているだけと思っていたが、これも違ったのか。よっぽど自分の力だけでやらなければと言う思いが強かったんだろう。実に風音らしい。
「どうせ材料集めを手伝ったんだ。手伝えるんだったら、手伝いたいんだが…駄目か?」
是非とも手伝いたかった。
風呂が入れるって良いことだしな。命の洗濯は身体にも心にも大変素晴らしいものだ。昔から姉さん達に風呂洗いさせられていたから、自分が用意した風呂を、人に気持ち良く入ってもらえるのは好きだしな。
「ですが」
だが、風音に首を振られてしまう。
「毎回弓弦様の御手を煩わせる訳には参りません。ここは一つ、どうか私に水魔法の手解きをして頂けませんか?」
水魔法…な。
してやれたら良いんだが」
「風音は火属性魔法に覚醒しているんだ。知っているとは思うが、本来人が覚醒出来る魔法属性は一種類だけ。残念だが無理だ」
全て自分の力でやりたい。それが分からない訳ではないし、蔑ろにする訳でもないんだが、不可能なことを可能とするのは難しい。
突き放すように言い放つのは、風音の身体を慮ってのことだ。あまり無理をしていたら絶対に疲労困憊で倒れてしまう。そんな光景が目に浮かぶようだ。
それに俺は風音に、一人で全てを背負ってほしくない。彼女が何かを背負おうとするのなら、無理矢理にでも半分背負ってやる。…そう、決めているのだから。
「どうしても無理なのですね? 弓弦様…」
「あぁ。少なくとも、無理を否定する根拠が無い」
「…はい、承知致しました」
残念そうに肩を落とされると、申し訳無くなってくる。
しかし無理はものは無理。そうキッパリ言った方が良い場合も時としてはあるのだ。
「…毎回俺の手を煩わす必要は無い、と言ったが。別に俺じゃなくても良いだろう? 少なくともこの艦には後二人の適任が居るはずだ。フィーと、イヅナがな。三人の交代制にすれば、一人当たりの担当日は減ると思う」
「それは…」
俯向く風音。
意地悪な言い方だったな。風音の気持ちが分かっていて、こんな言い方だ。
だが、弁明するのならば。俺は風音の口から直接聞きたかった。分り切った答えであっても、「察しろ」と言われても、直接聞きたかったんだ。
「嫌に御座います」
「嫌なら、どうする?」
着物の裾にシワが寄る。
「ズルい」と、風音の眼が語っていた。一人で全てやろうとしている風音にとって、多くの人物の助力を得なければならない状況程苦痛なものはない。
だったら、たった一人の助力を得るぐらいで手を打つのが丁度良いじゃないか。
「…いけず」
突然の衝撃に、少しだけ仰け反った。
風音が身体を預けてきた…そう気付いたのは、少し遅れてからだった。
抱き着かれるとまでは思っていなかったので、足に力を込めて踏ん張り、何とか受け止め切るも、心の動揺は抑えられない。
半ば自分から促したようなものなのに、このザマ…。自分のことながら情けなくて困ってしまう。
力が強まった。
吐息を、鼓動を近くに感じる。吐息は熱く、鼓動は早くて…呼吸は切なそうだった…のかまでは流石に分からない。
だが風音の身体を熱く感じたのは…どうしてだ?
まるで熱があるみたいで…心配だ。
「…分かりました。その時が来ましたら弓弦様に…御願いします」
少し寒く感じたのは、熱が離れたためか。
頭を深々と下げた風音の表情は分からないが、声が上擦っているのが聞き取れる。
照れているのだろうか。いや、まさかな。
「では…弓弦様の御提案の通りに製作してみようかと思います…」
「…良いのか?」
自分で言っておいて、虫の良い話だとは思うが、本当に良いのだろうか。
「弓弦様の温情、察せぬ程空けでは御座いませんので」
「そう…か」
温情なんて、そんな大層なものじゃない。
結局のところ、俺の我儘だ。風音に無理をさせたくないと言う、俺の。
聞いてくれたのは嬉しいが、本当に良いのだろうか。
「では! 作業に戻らせて頂きますので!!」
風音はそれ以上の会話を認めないとばかりに、俺に背を向けた。
スタスタと作業に戻る彼女の顔は、異様な程の覇気に満ち溢れている。どこか疲れている様子は見えるが、それを感じさせないとばかりに勢いのある動きだ。…底の部分の木材を厚い木材に取り替えているな。どうやら、俺の提案の通りに動いてくれているみたいだ。
これで風音の負担が少しでも減ってくれると良いんだが…。いつまでも俺がここに居ると気が散ってしまうかもしれない。ここは一旦退散して隙を見て様子を見に来るべきかもしれない。
『…主よ…本当に任せ切りで良いのか?』
気は引ける。完全な力仕事を任せ切りにしようとしているからだ。
しかし、可能な限り一人の力で成し遂げたいと言う風音の想いに、これ以上の横槍は入れたくない。俺なりに彼女のことを思っての行動ではあったが、当の本人からしてみれば横槍に他ならないからだ。
「…彼女が許してくれた範囲で、俺のやれることは殆ど終わった。だったら後はもう、彼女の望むがまま、好きにやらせるしかないだろう?」
アスクレピオスの疑問に答えたのは、倉庫の扉を閉めてからだった。
「気になるようだったら、気の済むまで様子を見ておけば良いじゃないか」と伝えると、俺の中から魔力が離れて行った。
これで、もし風音の身に何かあってもアスクレピオスが伝えに来てくれるだろう。一応の保険もバッチリと用意出来たな。
『…貴様は其処まで深慮していたのか?』
『VR5』の前を通りがかった所では、バアゼルに質問された。
確かめるような問いだ。一応自分の中で答えは出ているのだが、確認のためにしているような…そんな質問だ。
「…まさか、偶然の重なりだ。お前のことだ、どうせ深く考えていたとか言っても信じないだろう?」
『…クッ。然もありなん』
…バアゼルの奴め、人を馬鹿にして。その内無理にでも拘束して、眼の前で段ボール一杯の蜜柑を他の悪魔と協力しながら平らげてやる…!!
「あっ!」
「キュウ?」
「兎さんだ〜♪ 待って〜」
「キュウ!」
「捕まえたっ! えへへ〜兎さ〜ん…よ〜しよ〜し♡ ぎゅ〜♡」
「キュウ?」
「はぅあ〜♪ どことなく弓弦の匂いがするような兎さん、可愛いよ〜ぅ♡ か〜わ〜い〜い〜♡」
「キュウ!」
「きゃ〜♪ 見上げないで〜♡ 照れちゃ〜う♪」
「キュ〜ウ〜♡」
「あぅぁ〜♡ すきぃ♡ 可愛すぎるよ〜ぅっ!!」
「キュっ」
「へ? 兎さんどうしたの? そんなに見詰めて」
「キュ!」
「きゃっ!」
「キュ〜ぅ♡」
「あぅっ、駄目だよ〜♡ 私の唇はあげる人が決まってるんだから〜♡ だから兎さんでもあげられな〜い♡」
「キュ?」
「え、誰にあげるって? …え、えぇと…ぁぅ…そんな…恥ずかしくて言えないよぅ…ぁぅぅ」
「キュ!」
「ぁぅぁぅぁ……」
「キュ」
「恥ずかしい…ぁぅぅ」
「…キュ!」
「そんな! 謝らなくても良いよ!」
「…キュ!!」
「え、お詫びにご飯を沢山食べさせてくれるって? やったぁ♡」
「キュ〜ウ〜♡」
「わ、わわっ、あうあっ、一杯ご飯が降ってきた♪ わーい♪」
「キュ」
「ありがとう! お品書きかぁ…どれどれ。『仮想空間の中で剣を振るっていたディオは、昼食のために訓練を終えた。食堂に向かった彼は、途中で呼び止めた弓弦にある戦いを仕掛ける。交わる視線、伸びる腕。静止した食堂の中で、今、戦いの火蓋が切って落とされるーーー次回、ディオ、燃える』…ぁぅ、もう…食べられん…ぞ…!」