湯煙旅と煙の正体
「…じゃあこれで、自殺じゃないってことが証明出来るんすか?」
仁の結論に耳を傾けていたオルレアは、声の中に喜びを抑えていた。
他殺と言い切ったものの、これまでは何の根拠も無かった。
だが仁の説明は筋が通っており、納得出来るものだ。
わざわざ自殺のために、ここまで手の込んだ真似は出来ない。他殺と考えてしまえば、ここまでの手の込みように説明が出来なくもない。
「いや。まだそうと決められる訳じゃねぇ。今俺が証明したのは、この開けた場所でも、充満させた硫黄で人の殺せる環境が出来ると言うことだけだ。どうやって害者をこの環境の中に留まらせたのか。その疑問が解決してねぇ」
「そんなの、眠らせれば簡単じゃなっすか」
「眠らせたとしてだ。どこでどうやって眠らせて、どうやってこんな人眼の付かない奥にまで害者を移動させたか…それが分からねぇとなァ」
「うぐぐ… ! 推理が全然進まないじゃないっすか!!」
喜びから一転。悔し気に呻くオルレア。
このままでは悪戯に時間が過ぎていくだけ。まだ犯人の「は」の字も見つけ出せていない状況を、どう打開すれば良いのだろうか。
「んな都合の良いように考えられていたら、世の中冤罪だらけだ」
証拠。必要なのは何よりも証拠なのだ。
情報から証拠を見つけ出していかねば、一向に解決することは出来ない。
「あの」
風音が声を上げた。
「…湯河原さんは、この旅籠屋に宿泊されている最中常に、誰も入浴していない時間を狙って入浴されていたと伺いました」
「…それは本当っすか!?」
頷き、小梅から訊いた話を話していく。
湯河原は少々自分勝手な女性だった。八時に朝食を終えて暫くしてから外出し、食事の時間になっても姿を見せず、夜の十九時ぐらいに旅籠屋に戻って来て夜食を食べていた。
夜食を食べたら酒を浴びる程飲んで、風呂場に誰も居なくなる時間を待つ。
それは昨日も、その前も同じことだった。というのも、彼女は今日から数えて三日前から宿泊していたために分かる行動パターンだった。
どうして彼女が、誰も居ない時を見計らって入浴していたのかは分からない。しかし、必ず一人で入浴していた。
そのことに気付いたのは、三日前に小梅が新しい石鹸を入れに風呂場を訪れた時のことだった。
女将達の業務内容に、一日一枠だけ二十二時頃浴場の石鹸詰め替え業務があるのだ。その時間にはもう入浴する利用者が居なくなるのが理由で、三日前は小梅が詰め替え業務に当たっていたらしい。
風呂場で湯河原を見付けた際は驚いたそうだ。誰も居ないと思っていたばかりに、石鹸を取り落としてしまったのだとか。
それは相手も同じだったらしく、暫く固まって眼を見開いていたそうだ。
落ち着いてから話をした際。どうしても一人で入りたい旨を伝えられ、小梅はその願いを聞き入れた。そして入浴したければ、日が変わる前に必ず済ませるよう伝えたのだとか。
「湯河原って言うのか、あの仏さんは。…どうやら嬢ちゃんは、良い情報を持って来たみたいだな。そのボードを見せてくれ」
話を終えた風音は、仁にボードを差し出す。
「あ、ボクも見るっす!」
用紙に眼を通す男に少女も倣う。
二人はそうして、ボードと暫く睨み合っていた。
「面白いことが書いてあるじゃねぇか。おいチビ」
いち早く眼を通し終えたのは仁だった。
上げられた面持ちは口角が上がり、人の悪い笑みになっている。
「何すか。ボクまだ見終わってないんすけど」
「あー、じゃボード持ってろ」
そう言い残すと、仁は浴場の奥に向かった。
程無くして戻って来た彼の手には、何かが握られている。
「それは何ですか?」
「これか? さぁな」
仁は知らない物を持って来たようだ。
何なのだろうか。葉っぱのようだが。
「俺の勘が正しければ、こいつだぜ? 紙に書いてある甘く焦げた臭いの大元ってのは」
「…ッ!?」
一瞬ではあるが、風音は己が耳を疑った。
まさか、この葉っぱが異臭の原因だと。
「おいチビ。この葉っぱに見覚えあるか」
「何すか、今二週目読んでるんすけど…あ、これ……」
木の葉を見詰め、眼を細めるオルレア。
「これは…ふむふむ。甘く焦げたような臭いがするっすね。木の葉に纏わり付いているような感じっす」
香りを嗅いだオルレアの瞳が鋭い光を放った。
これまでの彼女とは打って変わった冷静な瞳。バアゼルに乗っ取られた際の瞳に近いであろうか。
「(ううん。アスクレピオスは知ってるっすか?)」
心の中でアスクレピオスに訊いてみる。
ただの草でない。それは分かるし、一見だけで「薬草である」と考えが脳裏を過ぎった。
『…正確性に欠ける情報で面目無いのだが、私は知っているぞ、主よ。私の記憶違いでなければ『寝蒸草』と言う薬草だ』
「(…『寝蒸草?』)」
言葉からして効果が分かりそうな名称だ。
『特徴的なのは、燻した際に発する煙の甘く焦げた臭い。発生した直後の煙には強い眠気を催させる効果があるらしい。…私も昔、ある晴れた朝に突然主達から嗅がされてだな。次に眼を開けた時は夜に変わっていて…周りを見ても主達は居らず、配達物も消えていて…。どうすれば良いのかと途方に暮れたものだ』
「(それは…強力っすね)」
神鳥を一瞬で昏睡させてしまうまでの効果。
彼の主達ーーーあの風の双子が用いたということは、双子に入れ知恵であろう天然悪魔龍の存在があるのかもしれない。
いずれにせよ、名前からしてもこの葉っぱは眠らせる効果があってもおかしくない。
「これは『寝蒸草』っす。発生した直後の煙で、人を一瞬で眠らせられる草っすよ」
「…!!」
風音は眼を見開く。
それは、本当のことなのだろうか。もしその通りだとしたら。
「チビの予想はビンゴ…だな。確かに嗅いでみると臭いはするし、こんな甘ったるいのを嗅いでいると欠伸をしちまいそうだ」
「では…!」
「こいつは睡眠薬。害者は自分から奥の方で入浴するみたいだし。座っていたところをこいつで眠らせて、風呂の栓を抜く。自分で動けなくさせてから岩に塩酸ぶっかけておけば、後は勝手に死んでくれるって訳だろうよ」
確実に殺せてしまうのだ。
それも、自ら直接手を下すまでもなく。
「他殺…いけるっすね!」と。オルレアが表情を明るくする。
彼女だけではない。もう一人、不敵に笑みを浮かべる人物が居た。
「クス…ッ」
風音であった。
自らが手を下すまでもない。それが意味することはつまり、これまでの自分の推理が間違っていることを意味しているためだ。
これまで考えてきたことの殆どの意味が薄れてしまうものの、どうせ行き詰まっていたのだ。考え直すのには良いタイミングであった。
「どうしたんすか? 急に笑って」
オルレアはそんな彼女の様子を不思議に思ったようだ。
風音は小さく首を振ると、「良いことがあったのですよ」と微笑む。
「(だとしたら…一体誰に出来たのでしょうか)」
そして同時に考え始める。
誰に出来たのか。一人一人考えていく。
気の遠くなるような方法だが、順に潰していかねば答えは導き出せない。
犯行時刻は置いておいて。まずは誰が考えられるのか。犯人が行った行動から考えていく。
「(…まず、犯人は)」
恐らく湯河原の性格を把握していた。
湯河原が一人で、それも奥の方で入浴するということを知っていた可能性が高い。
ここで選択肢から消えるのは、仁だ。
被害者を知っている素振りは無く、完全に初対面の様子だった。それに男である以上、知りようがない。
そして次に、浴場の状態を知っていた。
女湯が一人で入られる状況を知ることの出来た人物|であるはず。
『寝蒸草』は眼の前で燻したとは考え難いため、予め燻していたのだろう。その方が説明が付く。
これは何を意味するのだろうか。
ここから分かるのは、犯人は女湯に入ってもおかしくない人物ということだ。
つまり、女湯に入ることが難しい男性従業員には不可能だ。
「(…犯人は女性)」
断言出来る。
もう少し絞るには、何から考えていけば良いだろうか。
多くの容疑者を、一度に絞ることの出来る考え方。
「…風音、何か難しい顔してるっすねぇ」
気が付くと、オルレアが顔を覗き込んできていた。
「どんなことを考えているんすか?」
顔が近い。
背伸びをしているのだろうか。風音が眼を瞬かせると、彼女は少しふらついて離れた。
「…誰に犯行が出来たのか、について考えています」
「誰に犯行が出来たか…ねぇ。ううん、難しいっす」
考え込むオルレア。
こういっては何だが、あまり頼りになる感じはしなかった。
首を傾げ、「うーん」と、唸る仕草は可愛いのだが。今必要なのは可愛さよりも、冷静な推理が出来る洞察力だった。
「誰に犯行を出来たのか…か。ま、男には難しいだろうなァ」
「何故っすか?」
「あん? 覗きなら兎も角、どこで誰が見ているか分からないってのに、人殺すために堂々と女湯に入る男が居るか?」
「女装すれば良いじゃないっすか。完璧な女装ならバレないと思うっすよ」
「例えばボクとか」は、言わない。
完璧な女装ならば人から判別されることはないだろうが。
しかし仁は首を振った。
「相手は遊女。女の裏の顔を知っている奴だ。女装ぐらいでそう簡単に騙せるもんじゃないな」
「騙せたら、どうするんすか」
「ボクみたいに」、とは言わない。
だが仁は首を振る。
「まだロクに容疑者を絞れていない状態でそんな考えをするな。大概の奴を疑わないといけなくなるぜ?」
「ううん…確かにそうっすね。でも、どう考えていけば容疑者を減らせるんすかねぇ」
悩ましい問題だ。
絞ることの出来る要素を探していかなければ。
「容疑者の減らし方…なァ」
『主よ、犯人として考えられない人物を外していけば良いのではないだろうか』
「(あ…それもそうっすね)」
犯人として考えられない人物を考える。
つまりは信じたい人物を容疑者から外していく。それならオルレアでも簡単なことだった。
「今容疑者として考えられているのは誰っすか?」
仁が挙げていく容疑者の名前。
風音の推理が書かれたメモを参考にしているのか、勤務表に書かれている従業員の名は殆ど挙げられなかった。
『…何故名を挙げないのだろうか。時間が根拠となっているあのメモでは、今一つ信憑性に乏しいように思える』
『……。時間が根拠では、な』
『…? 支配の者よ、何が言いたい?』
『根拠があるが為に、時間が出る。そう言う事よ』
『申し訳無い。何を言っているのか分からないのだが…』
頭の中で謎の会話が繰り広げられていたが、オルレアは仁の話に集中していた。
被疑者として挙げられた従業員の名は、実に五人に上った。
これでも削った方らしい。
どうして削れたのかというと、やはり二人一組での行動をしていたため。残った数人は、単独行動が可能な時間があったために、被疑者となっていた。
その中で勤務をしていたのは二人。残り三人は休憩中だったらしい。
「なら小梅さんは絶対にないっす」
その内一人の人物を、オルレアは断固として否定した。
「そいつはどうして、断定出来る。被害者が浴場に行く光景を目撃したことも、時間も。そいつなら全て誤魔化せる立場にあると思うぜ」
「信じたい人を信じて何が悪いんすか」
食って掛かる少女。
小梅を信じるか、信じないか。
確かに小梅なら、被害者を殺しておいて時間を偽るなんて造作も無いことだ。
旅籠屋を切り盛りする立場にあるだけあって、頭も切れるはずだし、何より従業員の勤務範囲を全て把握している。
彼女に手渡された見取り図、勤務表の用紙。これを書いたのが彼女ならば、これを偽るのも簡単なはずだ。
偽りの情報に踊らされているのだとしたら。それは恐ろしいことだった。
「私も、オルレア様の言葉には賛成です。信じたいから信じる…素敵なことでは御座いませんか」
もっともそれは、本当に犯人ならばの話ではある。
小梅を信じたい気持ちは風音も同じだった。
彼女は嘘を言っていなかった。そんな確信があるのは、同業者としての第六感か。
「嬢ちゃんまで…」
仁は頭を掻いた。
多勢に無勢。疑ってかかるのは大切かもしれないが、信じることもまた大切。
「…んじゃ四人だ。ここから絞るぞ」
達筆な字が並ぶメモの下に、乱雑な字が書かれていく。
特に眼を引かされたのは、グリグリと丸で囲まれた部分。
「この仁兄さんが考えるに、大事なのはこいつだ」
そこには、「二十三時~零時」と書いてあった。
「…知影」
「…ワタシナニモイッテマセン」
「…誰が、Mなの?」
「な、ナニモイッテマセン」
「……」
「…だって、弓弦に叩かれている時気持ちよさそうにしてるじゃんっ」
「アレは叩かれている訳じゃないわ。…そう、スキンシップよ」
「ほら、Mだ」
「スキンシップって言っているじゃない」
「だから、Mでしょ?」
「スキンシップと暴力を一緒にしないでほしいわね。なら、いつもハリセンで叩かれているあなたはどうなのよ」
「え〜? だって私はどっちでもイケる口ですので〜? と言う訳でフィーナはMだね」
「…Mじゃない。スキンシップが好きなだけよ。だって当然でしょう? 私とあの人は「それがMでしょ?」そう言う! 「ふもっ!?」…間柄なんだから」
「…うわー、勝手な? 夫婦妄想?」
「知影…?」
「…ごめんなさい」
「ウザキャラは嫌われるわよ?」
「私ウザくないっ」
「そう、ふふ」
「何その笑みっ」
「さぁて、ね? ふふ」
「……」
「ふふ」
「刺すよ」
「出来るものならやってみなさい? 毎晩失敗してた癖に」
「…何のことかなぁ? そんな読者の皆々様が知らないようなことは知らないなぁ」
「あら、図星?」
「べっつに」
「ふーん。ふふ」
「…。はいはい予告予告。予告しないとなぁ! ふんっ。『弓弦だ。一応、今の旅には同行していない側の人間だな。うん。それにしても風音も、オルレアも大変そうだな。他所の世界で事件に巻き込まれて、その解決をしないといけないなんて。誰が、事件の捜査なんて引き受けたんだか、どうしてこうなったんだろうなぁ。困ったもんだーーー次回、湯煙旅と硬直』…わー♡ 弓弦の予告文だ♪ 弓弦すきー、すきすきすきー♪ ふふふふふっ、弓弦弓弦弓弦弓弦(以下略)」
「…。本当、困ったものね」