湯煙旅と宵闇の悲鳴
微睡みの中、人は願いを夢として見る。
深い眠り、浅い眠りを繰り返し、やがて朝日と共に意識を覚醒させる。
良き夢、悪しき夢かは時と場合によって異なる。ただこの時は、良い夢を見ていたような気がしてならなかった。
意識は微睡みの中。身体を休ませ、熟睡していた二人の耳朶を、強く打ったものがあった。
ーーーうわぁぁぁぁぁぁっ!?!?
悲鳴が聞こえた。
男の悲鳴。それも、かなり驚いた様子の声。
「「っ!?」」
ガバッと身体を起こしたのは、二人同時だ。
オルレアは寝惚け眼を擦るが、風音は起きたばかりとは思えない程に視線を鋭くする。
「…何かあったみたいですね」
伸ばした手は咄嗟に、枕元に置いておいた簪を握り締めていた。
灯りの無い部屋を睥睨する。
危険の気配は無い。攻撃動作の構えを解くと、風音は布団から出た。
「そうっすねぇ…ふぁぁ」
俊敏な動きをした風音とは正反対の動きをするオルレア。身体を起こしたは良いもの、布団に倒れ込んだ。
「眠いっすぅぅ……」
天井を見上げながらの一言。
手を伸ばしてみるも、重力に負けた。どうやら暫く格闘するつもりのようだ。
風音は身形を整えてから、襖に手を掛ける。
薙刀も持って行こうかと考えたが、流石にそこまで用心する必要は無いと判断した。魔物が街を襲撃しているーーーにしては、街が静かだからだ。
「オルレア様、少し様子を見て参りますね」
「ぅ~、分かったっすぅ……」
部屋を出ると、歩速を速め、喧騒の聞こえる方へと急ぐ。
角を曲がり、直進し、また角を曲がり、直進する。
人が集まっているのが見えた。
従業員が集まり、どよめいている。
「何事で御座いますか?」
答え難そうにする従業員達。
すると一人進み出て来た。
愛花だ。一礼の後に、「少々トラブルが発生致しましたので、今はお部屋にお戻り願います」と言われてしまう。
ここから先は通行止ということらしい。何が起こったのかは見せなくないようだった。
どうしたものか。もう少し情報収集がしたかったのだが。風音が頬に手を当てると、彼女の隣に立つ者が居た。
「ここは戻った方が良いぜ」
仁だった。
彼も騒ぎを聞き付けて起きて来たようだ。
「どうやら、只事じゃなさそうだ」
番台へと場所を移した。
「一体、何があったのでしょう?」
「さぁな。浴場で何かあったらしいってのは耳に入ったが……」
去り際に見えた光景。女湯の暖簾から小梅と男が出て来ていた。
どちらもその面持ちは青く、まるで何かを否定しているかのように暗く沈んでいた。
「…女湯だったな。声を上げたのはあの男って訳だ」
「清掃の方…でしょうね、恐らく」
「あぁ、だろうな。…何を見付けたのやら」
仁はチラリと時計を見る。
二時半。声がしてから三十分程経過している。
二時に声を聞いたと記憶しているのは、その時間に丁度ここの浴槽についてメモに書いていたからだった。
こんな時間のトラブルと言ったら湯関係のトラブルかもしれない。
湯の温度が上がらなかったり、色がおかしくなってしまったり。よくあるものではないか、これまで宿泊した旅籠屋で時折あることだった。
直接被害を被る旅籠屋側の人間にとっては悪夢のような出来事だが、宿泊サービスを受ける側の人間としては、直接の害が無い以上そこまで気にする必要は無いものである。
「部屋に戻ろうぜ」、と言い出そうとしたところで、影が変な動きをした。
変な動きをしたよりは、視界に入ってきたが正しいだろう。錯覚かと思い、振り返ると、そこには誰も居なかった。
「少々御待ち下さいませ」
風音は出入口から旅籠屋の外へと出て行った。
何をするのかと思っていると、その姿が上に消えた。
「おいおい……」
まさか、屋根の上にでも登ったのだろうか。風音の身の熟しに驚く仁。
「御待たせ致しました」
驚いている内に、彼女は帰って来た。
待たせるも何も、ほんの数分の出来事だ。険しい面持ちに何かを感じ取り、声音を低くする。
「何があった」
風音は眼を伏せ、口を噤んだ。
まるで起こっていた何かを自分の内で再確認するかのように。
やがて深く息を吐くと、伏せていた視線を上げた。
面倒事が起こったか。
仁はそんな予感に身構えた。
「…浴場で人が倒れていました。恐らく…死んでいたかと」
「…そいつは。息してないのを直接確かめたのか?」
風音は首を振った。
左右だ。直接確かめた訳ではないらしい。
ならば死んでいないかもしれない。だが確信があるようだった。静かな瞳が物語っている。
「…伝染病の類やもしれません」
「伝染病? 嬢ちゃん、何故そう考えた」
大きな話になり始めた。
伝染病となれば、最悪すぐにでもこの街を発たねばならなくなる。
もっともそう易々と死に至るような伝染病が発生する訳ではないはず。仁は続きを促した。
「…うう伏せのまま浴場に浮かんでいました。…その太腿の辺りが不思議な色に変色していて…どうしましょう…っ」
皮膚に変色が現れていた。
「死斑」と呼ばれるそれが出現しているということは、死んでいると断定されても仕方が無いものだ。
しかし気になるのは死斑の色だった。
風音は死斑の色から伝染病の可能性を示唆しているらしいが、果たしてそんな伝染病があっただろうか。
「…そりゃ確かに死斑にしちゃあ妙な色だな。するってぇと…緑褐色、ってヤツか。…ん、緑褐色?」
緑褐色の死斑。
伝染病としては聞いたことがないが、別事として聞き覚えがあった。
一体何だったか。
「…ま、少なくとも疫病の類じゃないだろう。そこんところは俺が保証する」
今すぐには出そうにない。
何かキッカケがあれば思い出せるとは思った。だがそれより先にするべきことがあると考えた。
答えの出ない問いよりも、答えの出せる問いに見切りを付けねば。安全の保証だけしておけば、眼の前の女性を安心させることが出来る。ぶっきら棒な男の細やかな配慮だった。
「…俵山様が仰るのでしたら、そうなのでしょうね。ですがどうあれ、人が死んだことには変わりありません」
「…そうだな」
ここを切り盛りしている女将の顔が過る。
どんな理由があろうと、この旅籠屋で人が死んだことには変わりないのだ。
つまりそれは、ここの看板に泥が付くことを意味している。泥がいかに少量であっても、付いてしまった泥を払拭するには時を要した。
温泉もサービスも良いが、それだけに残念でならない。
「見廻組はいつ到着するのでしょうか」
「さぁな。…だが」
付けられる泥の香りがそうさせたのか。
入口に人の気配を感じ始めていた。
聞こえるのは、どよめき。漏らしたくない曰く付きの情報程、良く出回ってしまうものである。
しかしこうもすぐに人が集まるとは。情報の流出が早いようには思えた。
「騒ぎを聞き付けてすぐに来るんじゃねぇか? こんな時間だが、奴等は一日中仕事なんだからなァ」
人の数が増えていく。
どの程度集まっただろうか。夜半にも拘らず、どよめきが大きくなる。
耳触りの良い言葉ではない。声が耳障りだ。
「俵山様?」
仁はズシズシと、肩を怒らせて群衆の前に出て行った。
訝しんだ風音の視線の先で、彼は追い払うように手を振った。
「…おらっ、帰れ帰れ。しっしっ」
数を減らしていく群衆。
屈強で強面な男の登場に慄いたためか、逃げるようにして離れて行った。
「ふぁ…ぁ…眠いっす……」
出て行った仁の代わりとばかりに、少女が起きて来た。
まだ眦を擦っており、眠そうだ。
「あらあらオルレア様、御目覚めで御座いますか?」
「ん…何か物騒なことになってるし、寝てる訳にはいかないっす…眠い」
眼を離した隙に眠ってしまいそうだ。少女の足下は少々覚束無い。
物騒なことになってから、布団と格闘し過ぎな気はするが。
「むにゃ…それで、浴場で人が変な風に死んでいるって聞いたんすけど。何か分かったんすか?」
オルレアは、アスクレピオスから聞いたらしい。どうやら風音が出て行ってから暫くして、現状の偵察をアスクレピオスに任せて情報を入手したようだ。
どこまで知っているのか分からなかったため、風音は部屋を出てからのことを語る。すると、
「うーん…事件の香りがするっすねぇ」
オルレアは腕組みをして悩み始めた。
時折瞑目してフラつくのは、どう考えても眠気と戦っているようにしか見えなかった。
風音はいつでも抱き留められるように意識を向けつつ、外に出たまま戻って来ない男の背中を見る。
どうやら、まだ人が集まっているらしい。
「帰らねぇ馬鹿は、この仁兄さんがみっちり教育的指導をしてやるぜ…? そこの姉ちゃんからなァ」
「うん、事案の香りもするっすねぇ……」
疑わしい言葉が聞こえたが、聞かなかったことにした。
しかしその言葉が効いたのか、とうとう人集りは捌けた。
「やっと帰りやがった」と、男は頭を掻きながら戻って来た。
身構えるオルレア。
また無視されて堪るものか。鬼気迫る表情ーーーと呼ぶよりは、ムクれた表情で男の前に立ちはだかった。
「お、何だ何だ。チビがこんな時間に起きていて良いのか?」
眼の前に立たれては、無視する訳にはいかない。
少女は勝者の笑みを浮かべた。随分と子ども染みている彼女に、風音は小さく噴き出した。
構ってちゃんーーーのつもりはないのだろうが、オルレアの行動は構ってほしいが故の反抗態度に見えて仕方が無かった。
「チビじゃないから起きてても大丈夫なんですぅ。い~っ、だ!」
「ふーん。大人しく寝んねしていないと背が伸びねぇがなァ」
「ボクは今のサイズで満足しているっす。どうっすか、この身体の比率♪ 女らしいっすよね!」
ボディラインを強調した姿勢を取るオルレア。
女らしい身体の比率。風音は何となく自分の身体を見下ろした。
身体付きなら負けてはいない。少し自信がついたような気がした。
「あっそ」
一蹴。
「さて嬢ちゃん、部屋に戻ろうぜ。俺達が出て行ったところで追い返されるのがオチだ。死んだ奴のことは気になるが、他所者は他所者らしく、夜は寝床に入るぞ」
「…はぁ」
「何なら一緒に寝ても良いんだぜ?」
オルレアの肩が震えている。
一蹴された悔しさが、恨みとなって滲み出ていた。
「それは…御断りさせて頂きます」
仮に応じたらどんな反応をするのか気になったが、丁重に断る。
「風音には手を出させないっすよ!」
待ってましたとばかりに仁王立ちするオルレア。仁と風音の間に立った。
「冗談だって。そう張り切るな、チビ助」
「うるさいっす。風音には指一本触れさせないっすよ」
その言葉を、どうして別の時に言ってくれないのか。
嬉しような悲しいような、風音は複雑になった。
「あー、はいはい」
「全く、冗談じゃないっすよ。こんな時に不謹慎なっ」
オルレアは風音の前に立ち、その場を動こうとしない。
どうしたものか。仁は頭を掻きながら溜息を吐いた。
こちらを睨む少女の気迫は今には噛み付かんばかりだ。相手にしない選択肢もあるのだが、言われたままというのは性に合わなかった。
「嬢ちゃんには…ってことは。これなら良いってことだよなァ?」
風音が言葉の意味を察したのか苦笑する。
少女を見下ろし人差し指を立てる。
仁はそのまま、オルレアの額にグリグリと捩じ込んだ。
「ぅぁっ」
少女の表情が固まる。
まるで自分が何をされているのか理解出来ていないように、暫くされるがままに額を突かれる。
「~~っ!?」
やがて頬に朱が差し始め、眼が見開かれた。
少し既視感があり、風音は二人の遣り取りを見ていた。
仁の未来が見えたような気がした。あぁ、自分もこんなことをしていたのか。側から見るとおかしなもの。しかし、それにしても、オルレアが可愛い。可愛らしい少女が手首を後ろに返した。
「ばかっ!」
「あでっ」
ーーーもはやお約束の域に達しつつあった。
オルレアは涙眼で、仁にビンタを見舞うと逃げ出した。
「全くもう、全くもうっ、信じらんないっす! もうっ!!」
二人の下を離れた少女の姿は、夜空が見える中庭にあった。
良く手入れされた和の庭園。砂が銀色に光を放っているのは月光の反射か。
縁側に腰を下ろし、中庭を眺める彼女の脳内は豪快に笑う男の顔が浮かんでいた。
「もうほんっと、あり得ないっす! 額グリグリとかあり得ないっすぅっ!! ぅぅ…最低っすあの男…ぅぅぅぅ…っ!!」
頭を抱え、唸る。
今にも豪快な笑い声が聞こえてきそうだ。
笑い方が頭に響く訳ではないが、あの男の顔を思い出すと寒気がした。どうやら、決して相容れない存在らしい。
警鐘が引っ切り無しに鳴り響いているのだから、もう間違い無かった。
『主よ』
警鐘に混じり、アスクレピオスの声が聞こえた。
大方この景色に感動したのだろう。そう思っていただけに、次の言葉が意外だった。
『気付いているだろうか』
「…何がっすか?」
『主の隣に人が居るのだが……』
「え」
隣を見る。
「あ…っ」
まさか居るとは思わなかった。だが視界に入れてみると、確かに居る。
臙脂色の衣装に身を包んだ女性ーーー城崎 小梅は、初見の折よりも皺の増えた相好を徐に崩すのだった。
「(弓弦の部屋…か。何か、出会った頃に比べて入り難くなっちゃったよね…)」
「適当な椅子に座ってなさい。もう少ししたらセティも帰って来ると思うわ」
「は、はい。(うぅ…緊張する……)」
「……」
「(オープスト大佐は何を作ってるんだろう。え、ジャガイモをラップで包んで何をするんだろう。あ、レンジに入れた。ジャガバター…かな? ん、まな板の上にあるあれは…レタス、かな。瑞々しそうだ)」
「……」
「(あの鍋…何を茹でてるんだろう。あ、取り出した。あれは…パァスタ!? パァスタを茹でてたんだ! まさかパァスタだなんて…え、じゃあ今日の夜ご飯はパァスタっ。わぁ…僕の大好物だよっっ。何かツイてる気がするって、落ち着こう…。一人で内心盛り上がって、一体僕は何をしているんだろう)」
「……」
「(僕を見た? …って言う訳じゃないか。何を見たんだろう)」
「‘マズイわね……’」
「(…。あ、時間か。…もうすぐ十八時だから…って、まさか十八時に間に合わせようとしているのかな。え、でももうそんなに時間は無いし…厳しくないかな)」
「っ」
「(あ、レンジが鳴った。…って、えぇっ!? ジャガイモってあんな簡単に皮剥けるの!? …す、凄い技を見てしまった気がする)」
「…あっ、いけないっ」
「(…? いきなり別の鍋を火に掛け始めた。何か忘れてたのかな。ん…この香りは…まさかっ!?)」
「‘間に合うかしら…。いいえ、間に合わせるしかないわね…っ’」
「(まさか、ぼ、ボロネーゼっ!?!? よりにもよってボロネーゼだなんて…あ、あぁぁぁ…っ!! ぅ、ぅぅ…ま、待ち切れないっ!) あのっ」
「何かしら?」
「僕にも手伝えることありませんかっ!?」
「無いわ。強いて言うならば、そこで大人しく待っていなさい」
「う…(だ、だよね…)」
「…。なら、このサラダを机まで運んで。手を洗ってから」
「は、はい!」
「ちゃんと一分は洗うのよ。爪の中まで」
「わ、分かりましたっ」
「‘…オープスト大佐って凄い家庭的だなぁ。あのジャガイモの剥き方って時短技ってヤツだよね…。主婦が板に付いてるって言うか…。前に料理を振舞ってくれた時も美味しかったし、きっと美味しいんだろうなぁ…ボロネーゼとか、ボロネーゼとか…。と、何か知影さん居ないし、代わりに予告をしないと…。『オルレアっす。納得がいかないことって、どうやって納得させれば良いんすかね? 無理矢理自分を納得させる? 納得出来ないことを納得出来るまでに追求していく? …ボクは、勿論ーーー次回、湯煙旅と凸と凹』…ボロネーゼ…はぁ…城で昔食べたあの味…忘れられないんだよねぇ……」