異郷の空へ
まるで、俺の決意を待っていたかのようだった。
「…っ」
眼の前に現れたのは、扉。
光が淡く輝く、純白の扉。
恐らく未来へと繋がっている扉だと、そう直感した。
「…そう言うこと…か」
何が切っ掛けだったのかは分からない。
だが…きっと別れの時なのだろう。
「きゃっ!?」
扉が開くと同時に、フィーが家の隅まで弾き飛ばされる。
俺の意思が拒んだのか…それとも、世界が拒んだのか。
少なくとも、俺に衝撃は訪れなかった。
「帰れ」、「彼女は置いて行け」…そう言うことなのだろう。
「なぁフィー。ずっと…話しそびれていたことがあるんだ」
俺は話した。
自分が夢を見たのは、『アデウス』と言う悪魔によってこの世界に跳ばされ眼覚める前であったことを。
眼覚めたら、今から二百年後の未来だったこと──自分はそこから時間を遡って来た人間であることを。
そして悪魔との戦いで、一緒にこの世界に跳ばされたはずの仲間達を探さなければならないことを──手短に、でも全て話した。
「…分かっていたわ。…分かっていましたっ! だけどっ!!」
「俺は…帰らなければならない」
俺は扉の中へと、足を踏み入れた。
「お別れだ…な」
それは、フィーに背中を向けることを意味している。
だが帰るべき場所がある以上、帰らなけれはならない。
自分の中で、己を強く納得させた。
「あんまりですッ! まだ私っ、あなたに何も返せてないっ! 何もッッ!!」
…そうか、彼女は彼女で恩を感じてくれたのか。
そんな大層なこと、した訳じゃないのにな。
俺は飯の恩を返しただけ。そこまで気負う必要は無いのに…。
「…君は俺じゃない、君だけのご主人様を見付けてくれ。…俺にその資格は無いからな……」
だが恩を感じたのなら、せめて好きなように生きてほしい。
…俺には、帰らなければならない理由がある。
無責任だ。
あぁ、無責任だとも。
「そんな! 私はっ!!」
無責任ですまないが、
「ご主人様ぁっ!!」
迷ってはいけない。
涙混じりの声を背に、扉の先──光の道を一歩、また一歩。
「ようやく逢えたのに! ようやくそう思えたのに! お願いよユヅル、私を一人にしな──」
見えない障壁があるのか、激しく何かを打ち付ける音に混じって嗚咽が聞こえる。
「(これで…良かったのだろうか)」
後ろ髪を引かれる感覚だ。しかし、足は止めない。
「(本当に…これで……)」
遠去かる声から逃げつつ、歩き続ける。
「……ッ」
少し先に、扉が見えた。
出口だろう。そこを通ってしまったら…もう彼女とはお別れだ。
──。
もう言葉すら明確に聞き取れない、フィー。
彼女は過去の人物──言い換えるならば、俺が飛ばされた異世界の時間軸では既に、故人となっていてもおかしくない人物なのだ。
──せめて、最後に一目。
「……ッ」
名残惜しさが、顔を振り返らせた。
──!
遠くに見える、涙で崩れた美女の顔。
待ち受けている表情が分かっていたのに、振り返ってしまった。
途端、一度は振り切ったはずの迷いが手を伸ばしてくる。
「…これは彼女にとってあんまりな仕打ちではないのか」
今になって、ふと思う。
何故フィーは、無謀な戦いに挑んだのか。
復讐以外の理由があるとすれば、もしかしたら──孤独に耐えかねて死に場所を探していたのではないのだろうか。
だからバアゼルとの相討ちを選んだのだとしたら…いや、それは俺の驕りかもしれない。
俺一人が彼女の前から消えたところで、大して何も変わるはずがないのだ。
「いや待て、変わるはずがない…?」
俺一人が介入したところで、歴史の流れは変わらないとしたら。
──もし、もしだ。
歴史の修正力と言うものがあるのだとしたら彼女は……。
「…まさか」
彼女が復讐を糧に生きてきたかどうかは、俺に分からない。
だが孤独を恐れた彼女にとって、復讐が終われば孤独しか残らない。
──俺は、とんでもないことをしようとしているのではないだろうか。
「……」
…俺には、知影さんが居てくれた。
母さんも、父さんも、姉さん達も、友人も喪ってしまったが、彼女の存在を感じていたから心が折れなかった。
フィーの心が孤独を乗り越えるかどうかは分からない。
だがその影には、孤独に折れるリスクがある。
折れた心が目指すのは…破滅だ。
「くそ…ッ!」
──未来はまだ訪れてない。
しかし未来に戻れば、フィーを傷つけ置き去りにしたと言う過去が、一度は決まってしまう。
歴史の修正力があるとするならば、彼女に待ち受けるのは──逃れようの無い歴史。
引鉄となるのは──異物の排除後。
「(この扉は…そう言うことか…!)」
異物を排除した歴史が、歪みを修正する。
恐ろしい予想に、俺は踵を返していた。
「(悪い…皆…っ)」
過去側の扉が、音を立てた。
俺の勝手を許さないとばかりに、閉じていく。
「間に合えぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇッ!!」
もう、迷えない。
ただひたすらに、駆け出す。
「あぁ……っ!」
未来に背を向け、目指すは過去。
迷いを振り払うように、一目散にフィーの下を目指す。
扉が、閉じた。
「ぉぉぉぉおおおおおおおッッ!!!!」
──俺が駆け抜けた後に、軋むような音を立てて。
「ユヅル…っ」
一度は遠去けた彼女が、眼の前に。
俺を全身で受け止めたフィーは、華奢な腕をすぐさま背中に回してきた。
もう放したくないと言わんばかりの力が込められているのか、腕は震えていた。
「ははは…笑ってくれ。散々悩んでおいて、君を泣かせておいて…戻って来てしまった」
「~~っ!!!!」
視界の端に見えていた光が、収まっていく。
後ろで扉が消滅したのだろう。
「(帰る手段…消えてしまったな)」
ま、仕方が無い。
その内何とかなると、今は置いておく。
「ぅぅっ、ぐす…っ。そんなこと、ありません…っ!」
フィーは泣き顔を見せないようにしているのか、胸に顔を埋めたままだ。
衣服に微かな染みを感じながら、彼女の好きにさせる。
「ごめんな……」
震える肩を優しく抱きしめながら、彼女の髪を梳く。
…この「ごめん」は…フィーだけに宛てたものじゃあ、ない。
届くはずもないが、『アークドラグノフ』の乗組員や知影さんにも向けたものだ。
色々な人に、申し訳無い行動をしている自覚はあった。
ただひたすらな我儘行動だ。
…いつか、報いがくるかもしれないな。
「…もっと、強く抱いてください…っ」
言われた通り、抱きしめる力を強める。
いや…言われなくても力を強めていたかもしれない。
そうしないといけない気がしていたのだから。
「…これで良いか?」
フィーは、微かに顔を縦に振った。
そのままの体勢で、暫く時が流れていく。
身を寄せ合っているから分かっていた彼女の震えは、次第に治まっていった。
「…フィー?」
やがて落ち着きを取り戻していった彼女に声を掛けると、
「……すぅ」
寝ていた。
右胸に響く彼女の鼓動と、首元を擽る彼女の髪と、温かな吐息。
役得なものである。
「…部屋で寝かせるか」
安心感が、彼女を眠りに就かせたのだろうか。
深々と吐かれている吐息に、安堵が宿っているように思えた。
視線を下げると僅かに窺える表情は、幸せそうに安らかなもの。
徐々に弱まっていった腕から抜け出して、俺はゆっくりと彼女を抱き上げた。
「よっと」
相変わらず、羽のような軽さだ。
起こさないように、静かに運んでいき──ベッドに寝かせた。
「‘…いかないで……ユヅル……’」
うわ言を話す彼女の髪を、そっと撫でながら瞳を閉じる。
「‘……あぁ。行かないから……’」
フィリアーナ・エル・オープストと、二百年前に生きる。
これが俺の選択の、結果と答え。
この先に何が待ち受けるのか。想像も出来ないが、選んだからには成し遂げなければならない。
「…。敬語も良いが、こっちの口調も中々萌えるものがあるんだよなぁ…はは」
…どうしてこうなったんだろうか?
めでたしめでたしで終わってしまうような感じだ…が、ま、悪い気はしないか…。
* * *
誰も居ない空間に一人、現れた人物が居た。
否。居た──より“在った”が正しいであろうか。
その者が在るのか、在ったのか──その者がいつの時間枠に存在を持ち得ているのかは、定かではない。
「ほっほ…。あやつ、やりおったわ」
その者は、日が昇ろうとしている遥か彼方を見やると破顔した。
夜明けの光だ。
世界が、あるべき光を取り戻しているのだ。
「歴史が流れておる。大きく大きく…うねっておる」
胸に手を当て、瞑目する。
まるで自らに言い聞かせるような声音は、誰に向けたものなのか。
「うねりは波紋を呑み込み、大河に招き入れる。大きな歴史の流れじゃ。…大筋は、変わらない」
風が吹いた。
持ち上げられた木の葉が舞うと、渦と化した。
皺だらけの体躯は包まれ、誰の眼にも映らなくなる。
「…分かっておる。矢は放たれたのじゃ…。まさかあのまま留まるとは思わなんだが、面白いのぅ…ほっほ」
木の葉が飛び去ると、その者は別の存在へと変わっていた。
黄金色の髪に、瞳は人ならざる紅色を湛えている。
見た眼若く、麗しい──先程とはまるで別人のように姿を変えるとその者は片眼を閉じた。
「さて、逃げるが勝ちじゃ♪」
見詰める先。
具体的には悪魔の石像があった位置が、水面のように大きく揺らいだ時。
──次に会える日を、楽しみにしてるぞ…。
その者は既に姿を消していた。
* * *
夢を、見ていた。
何故だか、ずっと浸っていたい優しい夢。
どこか知らない場所なのに、どこか知っているような気がして。知っている人に似た、小さな子どもの頭を撫でていた。
小さな子ども。けれども、眼線はあまり変わらない。
少し高いくらいの眼線で、何事か言葉を掛けていた。
──よし、よし。
幼さが残る声だった。
いつか聞いたような声。昔は聞き慣れていた声。
視界に見える手は、知っている手よりも小さく華奢で。
これは…何の夢かしら?
──君は、良い子ね。
この子の名前は何だったかしら。
艶のある髪、あどけない顔立ち。
笑うと凄く可愛くて、ずっと見ていたくなる。
「…君は…誰?」
…ねぇ。どうして、こんなにも。
──ん!
愛おしいの…?
* * *
「旅に…出たいと?」
フィーナは、眼をぱちくりさせた。
「あぁ、折角だしな。帰る方法が無いのだったらもう、骨を埋めるつもりでこの時代を満喫しないと」
起きてから、すぐの出来事であった。
ベッドに腰掛けた弓弦が、「旅に出たい」といの一番に言い出すものだから面食らってしまった。
「(…もう少し、この島で暮らしたかったのだけど)」
この時代に留まってくれた弓弦。
思えば彼は、毎日のように外出していた。
新しい発見があると話してくれたし、発見の中にはフィーナも気付かなかったものがあったりした。逆に、気付いてほしくないものもあったりした。
彼からすれば、何もかも新鮮だったのだ。だから、色んなものに気付けてしまう。
それ程に、発見のある毎日。そうさせるのは、好奇心。
広い世界を知りたいとなるのも、最早必然だ。
彼の言葉に頷き、フィーナは顎に手を当てた。
「(…でも、私の心が同調してる。この人の瞳に映る世界を一緒に見たいと)」
何よりも自分を選んでくれた彼のために、何かしてあげたい。
心の奥に湧いた思いを飲み込んで、フィーナは人差し指を立てた。
「それでしたら一つ…試してみたいものがあるのですが」
得意気な彼女に、弓弦は怪訝気だ。
「試す? 試すって何をだ?」
「ふふ、少しだけ待っていてください♪」
そう言うと彼女は寝室を出て行く。
暫くして戻ってきた彼女は帽子は被っていない。なので嬉しそうな様子が犬耳に現れている。
その手には、杖が握られていた。
淡い水色に輝く白い杖だ。ベッドに置かれると、冷たい衝撃が肌に伝わった。
ただの杖でないことは、見ただけで分かる。
しかし弓弦の視線は、ピコピコと動いている彼女の耳に釘付けだ。
「…凄そうな杖だな」
数テンポ遅れて、杖に気付くのだった。
「ご主人様は、今から二百年後の未来に戻りたいんでしたよね? これは…時間移動のようなことが出来る道具です」
「…そんな物があったのか」
弓弦は脱帽する。
もう元の時代への帰還は諦めていた反動からか、驚きは静かなものだった。
驚くあまり、驚きを失う。驚く余裕すら与えさせない程の、最早固まるしかない驚きようであった。
「名を、『時氷の杖』と言います。魔法の道具ですね」
「時氷の…杖?」
「はい。この杖を媒介にして、この家を時間と空間の戒めから氷魔法で切り離そうと思います」
「切り離す…? コールドスリープか! だがそんなことが出来るのか?」
眼を輝かせる彼に対して、フィーナの笑みにはどこか寂しさが宿っていた。
「(本当は…このまま使わずにいたかったのだけど)」
仕方が無い。
こんなに素敵で優しい人を独り占めしたかったのだが、分かってしまうのだ。
彼を必要としている人達が居ることに。
「どうでしょうか…? 私でも魔力が足りるかどうか…」
彼の思いに応えたい。
これまで受けた恩を返す絶好の機会を、逃さない手は無い。
それに、見慣れた時代よりも進んだ時代──二百年後の世界。
純粋な興味もあった。
その結果この時代に戻れなくても、何があっても、後悔しない理由もある。
だから、「やろう」と思えた。
「なら俺の魔力も使ってくれ。多少は足しになるだろう?」
フィーナは首を左右に振る。
「人間の魔力とハイエルフの魔力は、違います。他種族の魔力はその身に入れると言うことは、下手をしなくても死に至る危険な行為…。同種族でもありがちなことですし例外もありますが、そんな危険なことをご主人様にさせられません」
「…じゃあもし、魔力が足りなくなったらどうするんだ?」
弓弦の脳裏に、バアゼルとの戦いが思い出された。
魔力の殆どを使い切った彼女は、命の存続すら危ぶまれる程に衰弱していた。
また、寂し気な笑いを彼女は浮かべた。
「(まさか…)」
嫌な予感が背中を走る。
フィーナの言葉を待ちながら、弓弦は妙な動悸を感じていた。
一体何を言い出すのか。場合によっては制止をするために警戒を強めた。
そしてフィーナは、
「さぁ?」
今度は楽しそうな、茶目っ気ある笑みを浮かべた。
「なっ!?」
不意の衝撃に、ベッドから転げ落ちる。
強打した腰を摩りながら立ち上がり、彼女に対して抗議の視線を向けようとすると、
「──」
立ち上がったフィーナが杖を両手に、既に詠唱を始めていた。
すると杖が眩い光を放ち、周囲の温度が急激に冷えていく。
それはまるで、絶対零度の降臨。
息を吸うだけで、身体の奥から凍っていく感覚だ。
「…っ」
同時に、正面に立つフィーナの顔色も悪くなっていく。
それはまるで、杖に命を吸い取られているようだ。
最初は魔力によるものなのか。髪を靡かせる彼女の姿に見惚れていた弓弦も、呆気に取られた傍観を止めて杖の前に立った。
「──」
フィーナの詠唱は止まらない。
それどころか、迸る冷気が弓弦の熱を奪っていく。
指先の感覚がもう無い。冷たさを通り越して、最早痛い。
霜が、どんどん身体を覆っていく。
世界が、白く染まっていく。
徐々に動かなくなっていく身体に歯軋りしながら、
「こんのッ!」
杖に触れた。
「ご主人様っ!? 駄目で──ッ!?」
フィーナの制止を呑み込む、音の奔流。
杖の輝きが増すと、窓の外が氷に覆われた。
同時に二人の身体が、足から氷に覆われていく。
「(…お、おい大丈夫なのか…!?)」
凄まじい衝撃に嬲られていた。
氷漬けとなった下半身は、既に床と身体を縫い止めている。
もう止められない。強まる輝きから連想されたのは──魔法の暴走。
フィーナは、今どうなっている。
動きの鈍った首を動かすと、途端に鼻がムズムズと。
「は、ハックション!?」
緊張感を突き破る、くしゃみ。
人生最後の行動かもしれないのに、何とも情けない行動だ。
このまま固まったら、さぞ変な表情の氷像が完成するだろう。
そんなことを考えながら鼻を啜る。
「ぅ゛…っ!?」
しかし別の意味で彼は固まってしまった。
「…ぁ…ぁぁ…っ♪」
何という偶然であろうか。
手で塞がれることなくクシャミをしてしまった結果、彼の唾が少しだけ、フィーナの顔に掛かってしまった。
一体何故なのか。台風の中心に居るような状態のためか。
どうやら唾液は凍ることなくフィーナの顔に届いてしまったようだ。
あるまじき行為に顔を青褪めさせる弓弦。
しかし彼女は──
「ありがとうございます…ふふっ♪ 私、今なら何でも出来そうな気がします…ッ!!」
このあるまじき台詞である。
他に使う場所はなかったのであろうか? 首を傾げずにはいられない。もう首も動かせないが。
複雑な心境の弓弦を他所に、テンションマックス状態の彼女は、込めている魔力の量を増加させていく。
「(馬鹿…ッ! そんなに魔力を込めたら…!)」
次の瞬間、弓弦は見た。
「な…」
先程とは違い、フィーナの頬は赤く染まっていた。
嬉しそうに緩んでいる淡い桃色の唇はそれはもう──何と言うか、場違いも甚だしいぐらいに頗る健康そうであった。
「(ははっ…)」
不思議と、安心してしまった。
もしこれが人生の最後であったとしても、悪くない最後だ。
──だが、
「(俺も…負けてられない──ッ!!)」
ここで死力を尽くさなければ、悪くない最後を悪くしてしまう。
故に、全霊を尽くす。
「…これで…っ、はぁぁぁぁぁぁっ!!」
フィーナの声に合わせ、弓弦も全身の力を振り絞った。
どうやれば魔力を込められるのか。理論的なことは不明だが、そこは都合良く根性論だ。
届けと願えば届く。
悪魔との戦いの中で、そう言うものだと知ったから。
「(この魔法…成功させてやるッ!!)」
だから、強く願う。
「仕上げだなっ、うぉぉぉぉぉぉっ!!」
二人の魔力が込められていく杖が徐々に宙へと持ち上がっていく。
そして魔法が発動する。
余波が弓弦とフィーナの意識を掻き消し氷の中へ。
杖が、砕け散った──ッ!!
* * *
眠りに就くって、こんな感じなのか。
凍った後のことは良く覚えていないが、こうやって何度も夢に包まれているような感覚を抱いた気がする。…何度目か、までは覚えていないが。
「何か…頭がボーッとするな……」
知影さん、ユリ、レオン…。
この眠りの先で、皆は待っていてくれているのだろうか。
もし居なかったら寂し過ぎるが、不思議とそんな懸念は無い。
きっと…どこかに居る。そんな確信があった。
さぁ…皆に再会したら、どんなことを話そうか。
取り敢えず、悪魔討伐の件を報告しなきゃだな。
それと…場合によっては「彼女」のことも。
「…経緯はどうあれ二百年付き合わせたんだ。…その責任は、取らないとな……」
俺には責任がある。
だから…フィーが望む限り、傍に居よう。
わざわざ俺のために、ここまでのことをしてくれたんだ。
だったらその恩に報いるのが…俺の生き方だ。
「恩には、恩を……」
──そうだろ? 姉さん達…。
* * *
夢のような、現のような。
冷たい冷たい揺り籠の中。
だけども心は、心はこんなにも…温かくて──。
「…もう、どれぐらい寝たのかしら」
変わらない景色。
氷だらけの景色。
魔法の範囲は、私の小屋にした。
きっと外から見ると、綺麗な氷の中に小屋が入っている形。
「幻想的だ…」って、彼は言うのかもしれない。意外とロマンチストなところがあるみたいだから。
そう…彼。ユヅル。
彼も夢を見ているのかしら。だとしたら、どんな夢?
…そう言えば、夢を覗くことが出来る道具があったわね。どこに片付けたかしら。機会があったらこっそり覗く…なんてことも良いわよね?
いつか…そう、いつかやってみよう。
彼のこと、もっと知りたいから。
…良いわよね? だって…二百年も一緒に過ごした仲になるのだもの。こんな関係、滅多に築けるものじゃない。
初めて、心を許そうと思った人間──ユヅル。
この繋がりを、大切にしたいから。
「…でも、もう少し…かしら?」
来たるべき眼覚めの日を待ちながら、そっと意識を閉じる。
二百年、変わらず傍に感じているこの温もり。
きっと…私は一生忘れない。
* * *
激しい倦怠感は、瞼を岩とした。
しかしどうにも眼覚めなければならない予感に、弓弦は眼を開ける。
「ん…」
いつの間にか抱き寄せていたようだ。
間近に見えるフィーナの顔に驚いていると、彼女の瞼も上がった。
まるで、女神の眼覚めだ。
ただ瞼を開けただけなのに、巨匠による名画のように美しい。
「‘ふぅ…久々に動けたわね……’」
弓弦は手元に視線を落とした。
「(不思議と…身体は動くな)」
長い間氷漬けになっていたのにも拘らず、身体の熱は以前のままであった。
「ん…んんっと。何か長い間ぐっすり寝ていた気分だな…っつつ、肩が少し凝ってるかもしれないな…」
「あ♪」
どうして横になりながら凍らなかったのだろうか。
腰まで痛くなっていないのが不思議だった。
「おぉ…冷た」
「では肩を揉みましょうか」
ひんやりとしたベッドに腰を下ろした彼の肩に、背後から伸ばされた彼女の手が触れる。
「ふふ、相当凝ってますね?」
絶妙な力加減で揉まれるので、これが中々気持ちが良い。
ちょっとした幸福感に浸りながら、彼女に身体を預ける。
「っ、ふぅ…そりゃあ、な? …で、あれから何年経ったんだ?」
「魔法が失敗していなければ、丁度二百年ですよ。こうしていると実感はありませんが」
「そうか…良し、交代するか」
「え? あ、いや私は………お願いします」
フィーナの視界に映る、弓弦の両手。
ワキワキと、ワキワキと。
「ふっふっふ、任せろ任せろ」
滑らかに、ワキワキと。
「……」
ここまで上機嫌な弓弦を、フィーナは初めて見た。
「ほら、背中を向けてくれ」
それぞれ身体の向きを反対に。
深呼吸してから彼女の肩に手を伸ばす。
「ん……っ!? ご、ご主…」
触れられた。
途端、背中に電流が走る。
「あ…っ♪」
決して、久々に動いたための腰痛ではない。
快感の電流であった。
「ははっ! どうだ、他に揉んでほしい所はないか?」
「あっ…じゃ、んーっ!? も…っ、もう少し首の方をお願いし…ますっ」
一揉みする度にフィーナの口から、艶っぽい言葉が息と共に出てくる。
「…っ」
身体に力が入れられないのか、彼女の身体が揺れる。
フワフワとした感覚だった。
「こう見えてな、マッサージは結構自信があるんだ。それにフィーの凝っている場所ってさ…何か分かり易いんだよ」
絶妙な力加減だ。
弱過ぎず、強過ぎず──正に神の手付きだ。
攻めてほしいところを攻めてくれる。
「…例えばこことか」
それはフィーナにとって、
「ひゃうっ」
正に、
「こことか」
「あふ…」
天にも昇ってしまいそうな至福の時だった。
「後は…ここだな」
至福は止まらない。
「わふ…っ」
そして、
「そして最後に…」
「〜っ!?」
フィニッシュ。
「──きゃぅぅぅんんっっ♡」
弓弦のマッサージ技術には、ちょっとした理由がある。
天性のものもあるのだが、しっかりとした訓練の賜物でもあった。
訓練とは、即ち姉達からの仕込みだ。
勉強程々、運動神経上の上、炊事洗濯掃除にお手の物。並みの男には出来ないであろうスペックの数々は、天然なら凄まじいがあくまで努力の結晶。
橘家四姉妹と呼ばれる存在に、様々なことを仕込まれている結果──今日の弓弦は爆誕したのである。
どれぐらい仕込まれているかというと、挙げ始めると枚挙に暇がない程だ。
洗練された彼の手技は彼女の弱い所を的確に攻め、その身体を蹂躙していったのだった。
「こんなところだな。どうだった?」
「…天国…っ。天国でしたぁ…っ」
うっとりとした表情の彼女は、恍惚としていた。
火照った身体を幸せそうに揺れさせると、そのまま後ろに倒れてきた。
「…そうか」
「はい…♪」
──それから暫くして。
まだ身体を預けてくる彼女の行動に終始照れながら、弓弦は「そろそろ行くか」と提案した。
照れているのを誤魔化すためでもあった。
しかし、眼の前に待ち受けている旅立ちに心躍らせているためでもあった。
「えぇ、行きましょう♪」
彼女も頭上にある弓弦の顔を見詰めて、笑顔で頷いた。
「人を探すのなら、まずはここから南の王国に行こうと思います。人と物の交わる流通の街です。ここから一番近い王都ですし…どう…ですか?」
「へぇ…南の国か、南国か。悪くないじゃないか」
「はいっ! ふふっ、きっとお仲間の皆さんも見付かると思いますよ♪」
「準備して来ます!」と言い残し、フィーは部屋を出て行った。
物音と足音の二重奏は、出立の準備をいそいそと整えているようだ。
「まさか、二人で旅をすることになるとはなぁ…」
正直なところ、一人旅は心細いもの。
美女との二人旅になるだけで、時を遡った甲斐があった。
その代償か何であるのかは別として、何があっても彼女を守ろうと心に誓い──弓弦は窓の外を見た。
「お待たせしました!」
そうしている間に、フィーナの準備が終わったらしい。
濃緑のマントを羽織っている以外に変化が見られないが、何かしらの備えはしたのだろう。
「良し…!」
弓弦は頷き、立ち上がった。
フィーナと共に外に出ると、大きく息を吸った。
「ふふ…どんな香りがしましたか?」
魔法で扉を施錠したフィーナが、クスリと笑いながら隣に並んだ。
「旅の香りだ」
「ふふっ…そうですね。…良い風」
潮混じりの風が、一面に香っていた。
「…だが、どうやって南の国に行くつもりだ?」
フィーナは片眼を瞑った。
「飛んで、ですよ」
陸路でも海路でも駄目なら、空路がある。
そのための手段は、持ち合わせていた。
「“ベントゥスアニマ”…か!」
「せ〜いかいです♪ 向かい風なので、風に流されないよう注意しましょうね」
「…何か、先生みたいだな」
どちらがという訳でもなく、手が繋がれた。
「じゃ…行こうか!」
「えぇ!」
交わした視線を、南へ。
澄み渡っている青空、厚みのある白い雲。
水平線の彼方に、まだ大陸の形は見えない。
辺り一面に、広大な世界が広がっていた。
二人静かに息を整え、言葉を紡いだ。
『『勇ある者に、風の加護を!!』』
二人は“ベントゥスアニマ”を唱え、風の向こう側へと旅立つのであった。
「へぇ…二人順調に愛を育んでいっているねー」
「何だ~、ディオ。嫉妬か~?」
「…そんなところです。これだから主人公は良いですよねー、何もしなくても女の子にチヤホヤされて、好意を持たれて、イチャコライチャコラ…っ」
「…お、お~お~、大丈夫だ~。お前さんにもいつかそういう人間が現れるはずだ~」
「いつかっていつですか? 僕は今求めているんです! 可愛い恋人をッ!! いつかじゃない、今なんですよ!! 僕は今ッ、今なんですよ!!」
「そ、そ~か~…ま~、頑張れよ~」
「え、ちょっと待ってくださいよ! 僕に恋人が出来るのは具体的に何話なのですかーっ!! …え? 追いたければこれを読めと…? 嫌で……分かったよ、読めば良いんだよね、読めばっ!! 『違和感を正すため、二百年前のお伽話について調べを進める知影達。彼女達はそこで思いもしなかった、意外な人物が関わっていることを知らされる。微かに交わり、離れる二つの道。二人の賢人とは一体、どのような人物なのか──次回、異変』…心の強さが、道を開くってね? ふぅ、これで良しと。隊長〜〜っ、待ってくださーい!!」