湯煙旅と湯の華百合の花
立つ泡、泡、泡。
彼方が薄紫色に彩られつつある空の下、亜麻色の髪を泡が覆っていく。
「…あ〜」
可愛らしい呻き声を上げ、されるがままになっているオルレア。あまりに気の抜けた声に、背後で彼女の髪を洗っている風音はクスリと笑みを零した。
「気持ち良いですか?」
「ぼちぼちっす…ぅ……」
付け根辺りを強めに擦ると、犬耳が力無く垂れ下がってきた。
このまま力強く擦り続けたい衝動が起こるが、少々反省しなければならないので自重するしかない。そんなオルレアの髪を洗い流していく風音の頬には、反省の証である紅葉が色付いている。
「犬耳…繊細だから乱暴しちゃ駄目っすよ……」
「畏まりました」
仰せのままにするしかない。
折角頭を洗わせてくれているというのに、また機嫌を損ねてしまうのは避けなければ。
「(…まさか平手打ちされるとは思いませんでしたけど)」
涙眼からの無言ビンタによって出来た紅葉がヒリヒリする。
思い起こされる、ビンタの瞬間。
突然現れた隼によって注意を削がれてしまったのが運の尽き。一瞬の突きを突いて脱出した少女は、女風呂に突如現れた雄鳥をビンタで制裁し、間を置いて風音にも制裁を加えた。
スナップの利いた痛い一撃だった。
少なくとも隼を彼方に飛ばしてしまう程には。
まさかのビンタだ。女である自分が、一応男である彼女にされるとは思わず、むざむざと回避出来なかったのが痛い。もっとも避けたところで少女が拗ねる未来が容易に想像出来るのだが。
誠心誠意の謝罪で何とか許してもらい、今に至るのだがーーー髪や身体を洗わせてくれるとは一体、何故なのだろうか。
誘っているーーーはずはない。
何故その考えに至るのか、風音は自分でも分からなかった。
「(…飢えているのでしょうか。我ながらはしたないものです)」
オルレアの身体を、心を無にして洗っていく。
背中を、胸を、足を。
「ぅ、えへ…擽ったいっす」
「……」
ーーーこれは、何かの修行なのだろうか。いや、拷問かもしれない。
あざとい。実にあざとい言葉を言うものだ。風音は自らの煩悩を滅する。
「何処か痒い所は御座いませんか?」
「んー、背中っすかねぇ。背中の真ん中辺りが痒いかもっす」
オルレアは背中の辺りを指差す。
「畏まりました」と、石鹸の染み込んだタオルでその部分を擦った。
「如何でしょうか?」
背中を流すなんて、殆ど初めての経験だ。
女将といえば、「お背中をお流しいたします」と宿泊客の背中を洗う業務があると誤解する者も多いが、少なくとも風音にとっては未だ未経験のことだった。
自分が女将であった時は、清掃や食事の片付け等で一々宿泊客の入浴まで手が回らないし、もっと前。両親が健在であった時も、物心付いてから家族で入浴したことは数える程しかなかった。
誰かの背中を洗う。知識としては理解していても、力加減や擦り方の要領が掴めない。これで良いのだろうか、という不安があった。
「ん…そこそこ…」
母や父の背中を洗っていれば、こんな不安は無かったのかもしれない。
もう経験することのない思い出に、口元が寂し気に緩もうとしていたその時だ。
「…はぅ…っ♡」
別の意味で口元が緩んだ。
「っ」
考えないようにしていたが、いやが上にも考えさせられてしまう。誘っているようにしか思えないのだ。
何だその声は。どうしてそうも艶やかな声を出すのか。タオルに加える力が強くなっていく。
「んにゃぁぁっ!?!?」
何だ、その声は。
「やり過ぎっす! 痛いっす!! どうしたんすか急に!?」
背中を摩るオルレア。
涙眼の彼女の背中は赤くなっており、悲惨なことになっていた。
「大変失礼致しましたっ!!」
煩悩に囚われるあまり、とんでもないことをしてしまった。
不慣れと言い訳をするのは逃げなので、咄嗟に彼女は平伏した。
許されようとは思っていないが、それがせめてもの誠意だった。
「良いっすよ。驚いちゃったっすけど。…それじゃあ、交代っすね」
風音が顔を上げると、仕方が無いとばかりに笑みを浮かべたオルレアが場所を空けていた。
彼女の身体を覆っていた泡が流され、美しい肉体が見える。
見惚れてしまうと同時に、愛でたくなってしまう美しさだ。伸びようとする手を押さえながら、表面上は何事も無いようにシャワーの前の椅子に腰掛ける。
「じゃあ洗っちゃうっすね」
背中にタオルが当てられる。
優しい肌触りのタオルだった。程良い強さで背中を擦られ、気持ちが良い。ここまで滑らかだと、相当強く擦らないと痛くなるはずもない。つまり相当な力でオルレアの背中を擦ってしまったのだ。風音は反省に視線を横に向けた。
左側には木製の壁。右に視線を移すと浴槽があるが、奥は岩に遮られて見えない。
独特な形状の浴槽には見習うべき点があるが、修正点として考えられる点もあった。岩裏の隠しスペースは特にーーー
「風音の背中…綺麗っすねぇ」
オルレアの言葉に少し驚く。
あまり言われたことのない言葉だ。
「…そうで御座いますか?」
「うん。透き通ってて…モチモチしてそうっす」
そこまで肌に気を遣っている訳でもないため、実感が湧かなかった。
しかしオルレアは本当に凄いと思っているらしく、
「…もっち」
洗うのを止めて風音の背中を触り始めた。
「もっちもっち」
「っ!? (ゆ、弓弦様っ!?)」
何度も何度も手で触られた。
少女が「もっち」と可愛らしく言いながら触るものだから動揺しないはずがない。
「は〜…羨ましいっすぅ。ボクもこれだけ肌が綺麗だったらなぁ……」
風音は弓弦の姿を思い浮かべる。
「綺麗で御座いますよ?」
間違い無い。弓弦は肌が綺麗な方だ。そうであるがために端整な顔立ちが映え、女性受けが良い。
これは彼に好意を抱く女性ならば、誰もが思いそうだ。
「そうっすか? 本当に?」
「はい」
むにょっ。
「こんなんでもっすか?」
背中に柔らかく温かな感覚が。
「え、えぇっ?!」
オルレアは風音に身体を密着させるという謎の行動を取った。
抱き着くように手を回されたのも驚くべきことなのだが、いきなり積極的な行動を取られて変な声が出た。
この感覚は、いつもなら硬い感覚だった。だから時として鼓動が早まったり、時として信じられないぐらいに心が静まったのだ。
しかし今はどうなのだろうか。
背中から伝わる感覚は、柔らかい。
形を変えたかのように質量が伝わるのは、アレだ。先程揉みしだき続けたためか、心なしかより柔らかくなっているように思える。
これは、凶器だ。眼前の鏡が湯気で曇っていることが、救いだった。
「良いなぁ…ボクの肌、こんなんだし。風音に比べると見劣りするっす……」
「そうですか? 十分殿方を喜ばせられるだけの魅力があるかと」
声を上擦らせないだけ上出来だ。微妙に答えになっていないものの。
だがしかし、その通りだ。この質量、この弾力。これに責められた男は天上の楽園へと誘われるに違い無い。
自分が男性だったのならば、今ここで襲ってしまいたかったのに。
「殿方…っ!? ふぇっ!?」
背中の感覚が離れた。
「ぼぼ、ボク男性受けを狙っている訳じゃないっすよっ」
受けることは請け合いだ。
こんな十五歳。放って置かれる訳がない。
世界が世界ならば、廃校予定の学校を救えるぐらいに男性受けが良過ぎる。あざと過ぎる。
もし彼女が無防備に寝ていれば、犯罪とかお構い無しに多くの男性陣が万歳して彼女の隣へ大怪盗ダイブを敢行しそうだ。
「はいはい、そうで御座いますね」
どうにか、いつもの調子が戻ってきた。
「ぅぅ…何か流された気がするっす」
流さねば、殺られていた。拗ねながらタオルを当ててくるオルレアに風音は笑みを返した。
「前はどうするっすか?」
背中を洗い終わったようだ。タオル片手のオルレアが首を傾げる。
背中は洗ってもらったものの、前どうするべきか。
自分は前も洗ったが、逆はーーー
「そうですね…。自分で洗おうと思います」
次の機会。そう、背中を洗ってくれている人物が「男」の時に洗ってもらうとしよう。揶揄い半分で。
恥じらう姿を見ながら洗ってもらえるのならば、気分転換が出来るのだ。
「分かったっす。じゃあボク、先に出てるっすね」
オルレアのことだ。彼女の中の人は完全に開き直っている状態なので、身体を洗うのに恥じらいも何も無いだろう。しかしそれでは、逆に洗われる側である風音自身が羞恥心を覚えてしまいそうだった。
相手が恥ずかしがらねば意味が無い。自分にそう言い聞かせると、背中越しに短く、「承知致しました」と返した。
「……」
鏡に映る少女の姿が引戸の奥に消えると、浴場をシャワーの音が支配する。
「(…この後、どうしましょうか)」
オルレアから受け取ったタオルを身体に当てる。力を入れて擦っていくと、擦った跡に泡が立った。
「(夕食の後。それから……御酒は……)」
弓弦ならば、「飲む」と言うだろう。だがオルレアは、飲めるのだろうか。
年齢的には中々に厳しいものがある。十五歳の飲酒など補導ものだ。
だが、
『かじゃねぇ♡ 飲んれますか〜?』
『かじゃね♪ かじゃねぇっ♡』
『すりすり…わんわん♡』
そんなオルレア(※実在の人物とは異なる可能性があります)を見てみたかった。
これまで酒を共に飲んだ記憶は、風音の中に“は”無いのだから。共に飲んで、潰して、甘えさせる。
美味しいシチュエーションだ。ベロンベロンに酩酊して甘えてくるオルレアを愛でる。
口元の弛みが抑えられない。鏡に映る自分は、何ともいえない表情をしていた。
「(見せられたものではありませんね)」
一応背後をそれとなく見てみる。
こう考えている時程、当人が近くに立っているというのは良くある話で。
「(…居ません、か)」
浴場は風音一人だ。
そろそろ誰か他の人物が入って来ても良さそうなのだが、夕食直前に慌しく入浴する者は居ないのだろう。
お蔭様で貸切気分を味わえたのだから、そのことには感謝しなければならない。
「(…弓弦様と御一緒したのは、何時のことだったか…)」
思えば「弓弦」と共に入浴したのは、転移事故の時以来だ。
魔法によって肉体が幼児退行してしまった彼を抱いた時、「十字架」の重みに耐えていた心が不思議な程穏やかになったのを、今でも覚えている。彼も居る、彼も支えてくれる。そんなフレーズが、心のどこかに確かに存在していた。
だから自分は、今のままで居られるのだ。自分の弱さに屈さず、皆の下で、彼の下で微笑むことが出来ている。
風音はそんな思い出に浸りながら、シャワーで泡を洗い落として立ち上がった。
「あら?」
石灯籠の火が消えた。
風も吹いていないというのに。
「(…どうしましょうか)」
空では茜色が消え、紫苑色が全体を染めていた。
一つぐらい灯籠が消えたところで、浴場全体が暗くなることはない。だが消えた灯籠付近が暗くなるのは必然で、他の利用客が足を滑らせる可能性も十分あった。
風音は、その可能性を見逃すことは出来なかった。
魔法を使えば灯籠に火を灯すことも出来る。ならば、すべきことは一つだった。
『灯りなさい』
指先を灯籠に向けて念じる。
風音はハイエルフではない。人間であるが故に元々魔法の扱いに特別長けている訳ではないが、要領は良い方だ。
弓弦がどのように魔力に働きかけていたのか、彼の姿を脳裏に思い描きながら、意識を集中させた。
「…あ……」
ーーーしかし、灯籠に火が灯ることはなかった。
それどころか、魔力が身体から放たれた感覚も無い。
例えるならば、子どもが創作物の登場人物の真似で剣技な魔法の名をカッコ良く言っている光景。それが今の風音の行動を表すのに的確な表現だろうか。
「…(は、旅籠屋の方に伝えるだけにしておきましょうか)」
浴場に誰も居なくて良かった。そして、慣れないことはすべきではない。
そう実感し、顔を赤らめる風音なのであった。
「‘さてはてはてさて。仕切り直しと言うことで。場所も色々その他諸々、ちょっとリセットしてからのディオ×セティ♪ 場所は勿論商業区ぅで、ゴーゴーレッツゴーラブコメ♪ いぇい♡」
「…あ、ルクセント君」
「(服かぁ…どうしようかなぁ、本当)」
「…おーい」
「(…色々考えてみたけど、やっぱり弓弦を頼ってみないと答えが出そうにないや。早く帰って来ないかな…弓弦)」
「‘あーあ。まだ自分の世界に入っちゃってる。どうしよっかなぁ。取り敢えずセティ、ディオ君の眼を覚まさせてあげてっ’」
「…コク。………ッ!」
「うぐぅっ!?」
「‘決まったぁ♪ ディオ君の胸元にコークスクリュー・ブロー♪ 捻り効いてたねぇ♪ これだったらディオ君も眼を覚ますはず…!’」
「…ほぉぁたっ」
「‘え’」
「ガフッ…!?」
「‘捻り過ぎっ。と言うかディオ君とんでもない表情しているよ…え、十字? 十字な斬しちゃったの? いつセティは復讐心に囚われちゃったの??’」
「ぅ…い、いきなり何ですか副隊長……」
「…道の真ん中で立っていたから。通行人の邪魔にならないようにツボを突いた」
「‘理不尽っ。そんなんで秘孔突かれちゃ堪んないよっ’」
「…因みにこのツボを突かれた人は、無性にサラダバーが食べたくなる」
「‘健全っ、暗殺拳じゃなくて良かったぁ。…まぁ、実際にあんな秘孔があったら怖いもんね。うんうん’」
「…う、た、確かに…? 心なしか、食堂でサラダが食べたくなってきた…っ?」
「…じゃあ、行こう」
「えっ、わっ。副隊長っ、引っ張らないでくださいぃっ」
「‘え、えぇ…セティ、手を引いてっちゃった。最後の最後でラブコメ要素出されても…途中までの流れで台無しだよ…。…ま、いっか。じゃあ予告いきまーす♪ 『天部 風音で御座います。弓弦様は時折、可愛いとは何かについて思案されることがあるそうです。可愛い…愛らしさとは一体何なのでしょうか。…オルレア様の御姿を見ていると、私まで思案させられますーーー次回、湯煙旅の風呂上がり』…さっ、私も早く起きかけなきゃっ’」