穏やかなる日々、そして
──昨晩。
フィーはどこかへと散歩に向かった。
それも不意にだ。何かを思い出したかのように、そそくさと月夜が照らす森の中へと消えてしまった。
当然俺は一人になってしまったのだが、別に一人が嫌だと言う訳じゃない。寧ろ、この時に限っては一人の方が好都合だ。
「さてと」
俺はフィーの小屋を後にした。
森に消えた彼女の背を見送り、大して何も考えずに小屋に戻り、ふと思い至って再び外出したのが現在だ。
夜風の心地良い世界。見慣れない異世界の空。
しかしこの世界の本来の住人でなくとも分かる、平穏の気配。
日常を飛び出してまだそれ程時間が経ってはいないが、初めて勝ち取れた勝利に一息吐く。
俺だって男の子だ。自らの手で平和を勝ち取れたことに心躍らない訳がない。
だが高揚感の後には、不思議と疲労が現れるもの。身体が疲労を訴えていた。
本当なら、汗を掻いたし、身体を清めたいところなんだが…夜の森を彷徨うには気力が足りない。ついでに言うなら気合も気迫も振り絞れない。
そんな身体状態の中でも、どうしても確認しなければならない物があった。
「確かこの辺りに…」
草むらを掻き分けて探しているのは、戦いの前に隠しておいたフィーの帽子だ。
二百年後の世界からこの時代を訪れるための導となった大切な物。役目を終えたのなら、本人に返すのが筋と言うものだろう。
もっともこの時代から伝わった物である以上、この時代に全く同じ物があるのだが。フィーが被っていたのがそうだ。
今は夢の中だとか、なぁなぁで済んではいるが…そう遠くない内に、俺が二百年後から来たことをフィーに話さなくてはならない。彼女自身、疑問に思っているような素振りをしているからだ。
そして俺が探している帽子は、俺が未来人と言う何よりの証明になる。未来人、異邦人、さて次に付くのは何人か。
あ、日本人か。
「…見付けた」
そんなことを考えていると、草むらの中に帽子を見付けた。
草を払って眼の高さにまで持ち上げると、込み上げてきたのは達成感。
「ちゃんと…守れたんだよな……」
自然と笑っていた。
銃剣に装填されていた弾もそれなりに使用し、半ば死にそうになりながらも、目的は達成出来た。
思わぬ寄り道になってしまったが、きっと知影やユリ、レオンも許してくれるだろう。
…。
「今頃…どうしているだろうな……」
どこに居るかも分からない仲間達。
どこかの街で合流しているだろうか。俺を探してくれているだろうか。
だがそもそも、いつの時代に居るんだろうな。問題はそこからだ。
この時代に居るのか。それとも、俺が元居た時代に居るのだろうか。普通に考えるなら──後者だろう。
つまり二百年後に三人は跳ばされてくる。だから今頃どうしているのか、と言う問いは微妙におかしなものだ。
そもそも三人はまだ、この世界に跳ばされていない。生すら受けていない。
それが意味するのは……。
「俺が二百年生きないと、再会は叶わないってことか」
かなり難しい問題だ。
一難去ってまた一難とは良く言ったもの。行きは良い良い帰りは怖い、家に帰るまでが遠足ってヤツだ。
次の課題は、二百年後に戻る方法だろう。
「この帽子が、何かの切っ掛けになってくれると嬉しいんだがなぁ」
いっそのこと、この時代に跳んだ時の状況を再現するべきだろうか。
夜に帽子を持って、森の奥にある広間へ行けば──
「…?」
そんなことを考えていると、ふと視界が明るくなった。
「(まさか…!?)」
発光源は、手元の帽子。
俺が視界に入れるのを待っていたかのように、輝きを増した。
淡く、それでいて優しい光。
輝きが収まり始めていくと同時に、手に感じていた重みが薄れていく。
そして、
「あ…」
光の消滅と共に、帽子は消えていた。
温もりを名残として残し、役目を終えたかのように──。
* * *
そう、そうなのだ。
実はもう、帽子は存在しない。俺の眼の前で消滅したのだ。
フィーの小屋に戻り、彼女が戻って来るのを待つ間考えていたんだが──何となく有り得そうなのは一つだけ。
あの古びた帽子が存在する未来に、変化が起きたのだ。
変化が起きたから、古びた帽子の存在が消えた。つまり、俺が古びた帽子を手に出来ないような状況になったのだ。
それが意味するのは何か。帽子の場所が変わり、俺の手の届かない所にあるのか。それとも…。
そこから先は、あまり考えたくない。
「…♪」
嫌な予感で背筋を凍らせていた俺の腕の中で、フィーはまだ戻って来ない。
見下ろすのも何なので、同じように座り込んでみたらこの有様だ。あまりに自然と腕の中に入ってきたので、今の状況になっている。
眩いばかりの金髪が俺の頬を撫で、女の子特有の甘い香りが…。
「(ん? 何だこの感じ…どこか懐かしいような…?)」
いや、それよりもっと大切なのが、あった。
あぁ、気付いてしまった。これまで視界の端に留める程度で、留めたとしても、それが自然なものとして見逃していたモノに。
気付かなければ良かったのかもしれない。だが気付いてしまったからにはもう遅い。
俺の視線は、フィーのとある一点で釘付けになっていた。
「犬…耳?」
犬耳だ、彼女には犬耳が生えていたのだ!
確かにバアゼルとの戦いの時も気になっていたし、時々視界に入ってはいた。
だが気にしなかった。あまりに自然過ぎたために。
しかし、気付いてしまった。
まさか、こんな立派な可愛らしい犬耳が生えているとは思わなかった。
「ひゃっ!?」
ふむ…。触ってみたが本物だ、本物の犬耳がそこにある…! ハイエルフの耳は犬耳だったのか…? いや、まさかこんなエルフが本当にいたのか。犬耳っ子萌えである。
「こ、この柔らかな手触り…」
堪らない…っ!
指が勝手に、フィーの犬耳を揉み解している!
「ご、ご主人様!? や、止めて下さ…ひゃっ…!! あ…そ、そこは…弱いの…にぃっ!!」
俺の本能が命じていた。
何でこんなに綺麗に手に収まるのか? いや収まるべくして収まるのだ。
何故触るのか? そこに犬耳があるからだ。我触る故に我有り。ビバ犬耳! ビバ犬耳っ子!!
「ぁ…もぅ…らめぇ…」
フィーの身体から力が抜け、そのま凭れ掛かってくる。
犬耳も合わさり、実に愛らしい様子だ。
俺はそれを可能な限り優しく、抱くように受け止めると──
「…フッ」
素晴らしきかな、丁度触り易い位置にフィーの犬耳が。
「やっ…そんなすぐに…あぅっ!!」
──コホン、犬耳。それはコスプレ道具の一種である。
現代においては猫耳、うさ耳と並ぶメジャーなコスチュームプレイングの一つであるが、同時にマイナーな物でもある。何故なら前述の二つに比べて着用者が若干ではあるが少ないからだ──つまり、着用者を選ぶということである。
故に犬耳っ娘はその希少さから一種の奇跡…いや! 芸術と言えるべき存在なのだ。
確かに他の耳も素晴らしいだろう…猫耳が愛くるしさ、うさ耳が麗しさを表すとするのなら犬耳は気高さを表していると言っても良い…! そう! 他の獣耳が輝いているからこそ! 本来それに隠れてしまう犬耳に健気で力強い神々しさを放たせるのだ…ッ(※個人の意見です)。
高貴なハイエルフであるフィー。そんな彼女が犬耳を…。つまり彼女の犬耳は、素晴らしく高貴な犬耳なのだ。これは愛でなくてはならない。
そう俺の内なる衝動が叫んでいるのだ…ッ。
「はははははッ♪」
俺のことを変態と言うか? あぁ、そのような侮辱も蔑視も嘲笑も甘んじて受けよう! 犬耳にはそれだけの価値があるのだッ!!
犬耳よ…嗚呼犬耳っ子よ…っ、何故そなたは、かくも気高いのか…何故そなたはかくも、心を揺さぶるのか。俺には分からない…答えは眼の前の犬耳を愛でた先にある…ような気がする……
だから俺は…俺はッ!!
「…ってそんな訳あるかぁぁぁっ!!」
「いやっ…!」
何かの道に目覚めかけたが、際どい所で踏み止まる。
今さらながら羞恥心で思わずフィーナを突き放しかけたが、彼女はしがみ付くように抱き付いていて離れない。
「ご主人様ぁ…今の…今の…凄かった…」
惑わされては駄目なのだ。
嗚呼、フィーが可愛い。
だが駄目だ、冷静になれ。これを知影さんや近所の奥様方が見ていると考え、心を無にするよう努める。
──やはり不思議と冷や汗が止まらないのは何故なのか。
「そ、そうだ! この世界の文字を教えてくれないかっ!!」
こんな時は話題転換。
無理矢理でも、転換しようとすることに意味がある。
「…っ、分かりました」
フィーは上眼遣いで頷くと、本棚がある部屋へと消えた。
去り際の瞳は、それはそれは悲しそうで──。
「(ぐ…っ)」
何でそんな、寂しそうな眼で見るんだ…っ!?
い、犬耳が俺を誘って……っ、駄目だ、惑わされるな、俺ッ!!
「…このような場合に有用な魔法があるので使いますね」
数冊の本を取って来たフィーは、瞳を閉じると詠唱を始めた。
「『汝の心』…‘駄目よフィーナ、それは夜までお預け…♪’」
何か聞こえたような気がするが、俺には何も聞こえていない。
全く聞こえていない。彼女が昨日唱えていた魔法の詠唱なんて、聞こえてないからな。
フィーは小さな咳払いの後に、まるで気持ちを切り替えるように深呼吸をした。
「’ふぅ…『言葉を解すは言葉のみ』…はい。もう読めますよ」
自分の中に何かが入っていくような感覚の後、言われた通りにする。
手に取ったのは適当な本だ。手に取って読んでみる。
最初に言おうとしていた詠唱に聞き覚えがあるような気がしたし、その後の呟きの言い方が可愛い…じゃない、この際色々と無視だ。
我が心、水面の如し。
冷静に…そう、努めて心穏やかに本を手にする。
「おぉ…っ」
そして驚きに声を上げた。
以前に読んだ時はまるで分からなかったのだが、今は分かる。俺にも、分かるぞ。
日本語の文献を読んでるみたいに、スラスラと内容が頭に入ってくる。
この魔法があれば様々な外国語も直ぐに覚えることが出来る…ついでに英語のテストも百点間違い無しだ。
「“アカシックルーン”と言う魔法です。この魔法は、文字を対象者が読めるように変換する効果を有しています」
読めるように文字を変換する。
そうか、そんな便利な魔法もあるのか。
「勉強するのも大切だけど、こんな抜け道もあります。なので必要な時には是非私を頼ってください」
「いや、頼られてくれるのも嬉しいんだが…。…難しいか」
そう言えば、ユリが言っていたな。
人間は一人につき一つの属性しか魔法を扱えないって。
「…そうですね。この魔法は凄く便利ではありますが、ご主人様には使えません。基本的に人間が一属性の魔法しか使うことが出来ないことも理由なのですが…。ご主人様は何故……か……え?」
言葉の途中で何かに驚いた様子を見せたフィー。
眼を瞬かせること数度。擦って見詰めてまた擦る。
おかしな様子に、俺は思わず首を傾げた。
「…何だ?」
「…ご主人様、今私が使った魔法を使ってみてくださいませんか?」
そして無茶を振られる。
彼女が使った魔法が何の属性かは分からないが、先程までの口振りからして俺には使えない属性のはず。
人間は一属性しか魔法を使えないのではなかったのか?
俺が使えるのは転移が出来る属性系統(フィー曰く、空間属性)だと思っていたが…。
「私の魔法は解除しますので」
フィーが魔法を解除したのか、書物の文字は読めなくなっていた。
達筆だと分かるが、見慣れない文字に疑問符が飛び交っている。
達筆ではあるが、決して画伯的な比喩ではない。文字だと分かるが、俺が知っている言語とは似ても似つかなかった。
「…分かった」
フィーの詠唱を思い出しながら、術の詠唱を始める。
『言葉を解すは言葉のみ…』
一語一句同じ詠唱を終えると、視界が微かに光る。
「なっ!?」
書物の文字が、俺も良く知る文字に変化している。
魔法が、発動したのだ。
まさか俺の魔法は、フィーと同じものか?
いや…だが。それは他ならないフィー自身が否定していた。
「どう言うことなんだ?」
フィーは思案した後、思い至ったように頷いた。
「ご主人様は恐らくですが、『一度その身に受けた術を、自らの魔法として取り込むことが出来る』のではないでしょうか? 少なくともご主人様は先程まで、この魔法は使えなかったはずです」
「魔法を…取り込む?」
「ですが私の魔法がご主人様に向けて発動した直後、幻属性初級魔法…“アカシックルーン”が使えるようになった。…あ、忘れていたわ。少し待っていてください」
フィーは、パタパタと音を立てて奥の部屋に消えると、暫くして一冊の本を持って来た。
「…魔法属性大全」
分厚く、厚さと同じぐらいに胡散臭い本だ。
「もぅ。私達ハイエルフの書物ですから胡散臭くはないですよ? ご主人様?」
クスリと噴き出すフィーの苦笑。
だが俺の背筋には、一瞬冷たいものが走った。
俺が考えていたことを、正に的中させてしまったのだから。
「っ!?」
まさか…フィーも知影さんと同じで人の心を覗くことが出来るのか?
「‘どのページだったかしら’…あ、ここです」
それとも俺が単に分かり易すぎる男なのか…どうかは分からなかった。
眼は口程に物を言うとは、このことかもしれない。
それはさておき、フィーが手を止めたページを後ろから覗き込むと興味深い記述があった。
「吸収か…どこか他の属性とは少し書き方が違うような気がするな」
「幻…氷…火…風…光…だとすれば空間も…? だけど支配は…あぁ、私ね」
──この本によると、どうやらこうらしい。
『吸収属性。その身に受けた魔法を吸収して自分の中に取り込み、それを媒介にすることで魔力回路を形成し、自らもその魔法を使えるようにする』。…と言う何ともチートじみた魔法属性だ。
もっとも一回魔法を受けなければならないという危険が付く分、トータルイーブンと言った所か。
青魔…いや、何でもない。
「ご主人様の魔法属性はおそらくですが…いえ、もうほぼほぼ確定かしら? …この吸収属性でしょう。確認のため風魔法、“ベントゥスアニマ”と言う魔法の詠唱を、私の後に続いて唱えてください」
フィーは瞳を閉じると、胸の前で両手を近付けた。
髪が微かに持ち上がり、柔らかな風が集い始める。
「『勇ある者に風の加護を』…はい」
腕の広がりと同時に、風も広がった。
直後、彼女の足が床を離れている。
ついでに言うなら、若草色のワンピースの裾が風に当てられ翻っていた。
白い足の見え隠れから眼を逸しつつも、復唱することに。
「…勇ある者に風の…加護を、はい?」
フィーの魔法は発動していた。
どこからともなく吹いてきた風が彼女を包み込み、身体を宙に持ち上げたのに対し、俺の魔法は発動しなかった。
「はい、まで言わなくても良いですからね?」
そんな気はしていたよ。
「…次は私がご主人様に今の魔法を掛けますから、その後にもう一度詠唱してください」
「…分かった」
フィーが再び詠唱を始めた。
もしこれで俺が魔法を発動することが出来たのなら、俺の魔法属性は吸収で確定なのだろう。
「…いくわよ」
紡がれる魔力に従い淡い光を帯びていくフィーの姿は、幻想的だ。
絵画の向こうに居るような人物が、俺の眼の前に居るのだ。
様になる人物が、様になる行動をしている。何とも贅沢な光景に見惚れながら発動を待っていると、
『ベントゥスアニマ』
再びどこからともなく吹いた風が、今度は俺の身体を包み込んで重力から解放した。
それと同時に、何かが身体の中に入っていくような奇妙な感覚を覚える。
「…そうか」
成程、この感覚がラーニングの感覚と言う訳か。
不思議と力が漲る感覚そのままに、詠唱を始める。
『…勇ある者に風の加護を』
集ってきた風が、俺の足を持ち上げた。
身体がとても軽い感覚だ。今なら、空も飛べるような気がする。
そして実感した。今度は、確かに魔法が発動したのだ。
「本当に…使えるようになったな……」
俺は自分の魔法属性を確信した。
我ながら、中々のポテンシャルを秘めている属性に思える。
「吸収属性…ふふ、凄いです。人間なのに沢山の魔法が使えるなんて、私もペットとして誇らしいですよ♪」
フィーは上機嫌のようだ。両手を組、妙にうるうるとした瞳で見詰めてくる。
感動しているのだろうか。まるで自分のことのように喜んでいるフィーの姿は…何と言うか、とても愛らしく思えた。
「…はは」
──が、どうしてペットと言う? 女の子だろうが。
他人の思考は、分からないことばかりだ。
* * *
──それから数日が経った。
俺が未来から来たと言うことを話せないまま、穏やかな時間をフィーと過ごした。
訊かれなかった…と言うことも理由ではあるが、何より彼女との時間が楽しかったのだ。
言おう言おうと思っても、気が付いたら夜も更けていた。明日言おうと思っても、あっと言う間に時間は流れて気付けば夜。そんな繰り返しだ。
…まぁ、そんな時間の中でも色々あったんだが。その殆どはまた追々…と言うか別の話だな。
因みに、一つ魔法を覚えた。
“アカシックボックス”と言う…何だ、四次元なポケット的な魔法だ。
『出でよ不可視の箱』と言う詠唱のこの魔法。実は俺が寝言で言っていたのをフィーが教えてくれて、使えるようになったヤツだ。
魔法陣を出現させて、そこから俺が願った物を取り出せる魔法。流石に見たことがない物は出せないが、何故か俺が知っている物が出せたりする。その中には、『アークドラグノフ』に置いてきた下着などもあったりした。
出すことが出来るのなら、収納することも出来る。
いつでも必要な物をしまっておける、あまりにも便利過ぎる効果もある魔法なのだ。
フィーナ曰く、「ここではない、どこかの世界と繋げる効果が」だそうだが、詳しくは分からない。
いつか、詳しく調べてみる必要がありそうだ。
「(本当…何やってるんだかな)」
今は散歩の帰り道。
何も無いように思えた島だが、暮らしてみると発見の数々に満ちていた。
鮮やかな花々や、泉も見付けたな。動物は…そうだ、鳥や兎が居た。
きっと俺の中で、この島を楽しもうと言う気持ちが固まったのだろう。
いや、固めるしかなかったのかもしれない。
未来から来たことを話すと、今の生活が終わってしまうような気がしたから。
だが同時に、予感があった。
自分が与えられているのは、猶予に過ぎない。きっといつか、未来に戻らなければならない。
俺が居るべき時代があるとするなら、未来だ。時間旅行も悪魔討伐も、あくまで寄り道でしかない。
レオン、ユリ、知影さん。三人がこの世界のどこかの時間軸で、それぞれがきっと、逸れた仲間を探しているのだ。
俺も、それに加わらなければならない。それが当然だ。
このまま過去の住人になることも不可能ではない。だが過去に生きて、仲間達に「はいさよなら」は、あまりにも都合が良過ぎる。
だからきっと…いつか別れの時が訪れたら──俺は帰らなければならない。
だがそれは、「今」ではない。
だから別れの時に直面するまでと、中々打ち明ける勇気を振り絞れず──結局、この時間を謳歌している。
とまぁ、言ってしまえば言い訳である。
何をしようと、俺がフィーに自分のことを話さない理由にはならないのに。
我ながら強欲で、怠惰なものだとは思った。
それでも、どうしても言えなかった。
「(…帰るか)」
時間の流れは、少しずつ未来へと進んでいる。
この間のことなんだが。以前お婆さんに訊いた通り、調査団らしき一団がここを訪れた。
海の彼方に船が見えた時。思わず「SOS」と書きたくなる衝動が起こったのだが、生憎草原の上に書くことは出来なかった。
一つ補足したいのは、決してこの島から出て行きたいと言う訳ではないこと。あくまで、衝動だ。人生で一度はやってみたいことを叶えられるかもしれない──そんな機会を前に生じただけの。
そんな第一異国人との交流であったが、時間としては束の間…と言う表現が正しい。
人間の船を見るやいなや、フィーの機嫌が傾いたからだ。
何でも、あまり言葉を交わしたくないのだとか。
それもそうかもしれない。悪魔との戦いが終わってから姿を見せたのだ。もし悪魔を討てていなければ、彼女は見殺しにされていたのだから。
しかし人間にも人間の理由がある。国が協働して調査団を派遣するには、それなりの時間が掛かるのだ。少なくとも、一日やそっとで派遣出来るものじゃない。
どちらの事情も分かるだけに、俺はフィーを家に残すことにした。
「調査」と言う彼等の名目を叶えるだけなら、俺でも出来る。
必要な情報を教え、激闘があった場所に案内するだけなのだ。森に迷わなければ、簡単な話だ。
補足しておくと、迷うこともなく無事に案内は終わった。
質問の内容は…そうだな。悪魔を倒せたかどうか…や、俺が何者か…と言ったヤツはされたな。
悪魔は倒したと伝えたし、俺については適当にはぐらかした。
別に人間であることを伝えても良かったのだが、断定してしまうと余計に突っ込まれる可能性があったからだ。
俺については、どうせ適当に脚色される。
気を遣ったのは、フィーに関する質問だ。
悪魔は居ない。倒したから。ならば、倒したのはどのような存在なのか。俺とフィーだ。
俺は眼の前に居る。ならばフィーはどこなのか──そんな質問への返答は、今は療養していると言う形にした。
そしてこうも話した。今後、出来ればこの島には立ち寄らないでほしいと。
フィーは、人間に嫌悪感を抱いている。
少なくとも人間と関わるには、まだまだ時間が要る。
彼女の決心が付くまでは、可能な限りそっとさせてあげるのが一番だ。
でもいつか、彼女が温かな人々に囲まれて生きていければ──彼女は一人じゃなくなる…はず。
それぞれの国に帰る調査団を見送りながら、そんなことを考えていた。
とどのつまり、勝手な俺の判断だ。
フィーに言ったら、怒られるだろうか。
「あ♪ お帰りなさいませご主人様」
それが今日帰った時の、ちょっとしたお楽しみだった。
「…ん、あぁ。ただいま」
扉を開けると振り返ったフィーに、返事をする。
悪魔を倒してから続く二人生活。所謂同棲と言うヤツだな。
二人で生活していれば、当然色々なことがあったりする訳で。本当にここ数日の間にも色々なことがあったんだ。重ねて言う程のことでもないんだが。
まぁToL〇VEる的展開も結構あったりして数度ビンタを食らっり…一度ベッドで寝た切りになったような記憶があるが、それでも彼女と二人、穏やかな毎日を送っていた。
「ご主人様」とか呼ぶクセに、意外と容赦が無いのはご愛嬌。
でもその方が、少なくともひたすら慕われるのよりは良かったりする。
…俺はマゾじゃないからな。
「ご主人様も帰って来たことだし、そろそろご飯を作りましょうか」
夕食の支度を始めたフィーを横眼に、椅子に腰掛ける。
ここは二百年前の世界だ。どうすれば、元の時代に戻れるのか──考える時間が出来ると、そんなことを考えてしまう。
このまま待っていれば、元の時代に戻れるのだろうか。
それとも、まだこの時代でやるべきことがあるのだろうか。
悩みは尽きない。
「ご主人様…?」
眼を瞬かせると、フィーの心配そうな表情が近くにあった。
「…フィー」
仮に元の時代に戻る術が見付かったとして、俺が戻ったらフィーはどうするのだろうか。
残るのならば、それが彼女の決断だ。俺から何も言うことはない。
付いて行くと言うだろうか。それとも、残ると言うだろうか。
仮に付いて行くと言ったら、どうする?
「いや、何でもないよ」
──俺は彼女の運命を変えた。
自分の望む通りに運命を変えるなど自分勝手にも程がある…だが、後悔はしていない。
…懸念事項も一つだけ、確かにある。彼女が命を落とさなかったと言うことは、先の戦いで命を落とすと言う未来を殺したのだ。
殺された未来がもしかしたら──と言うのを考えてしまう辺り、我ながら何と言うか…ロマンチストだ。
だがそれは置いといても、俺は一人の笑顔を守れたのだ。それだけで、満足だ。
それに弓弦は言わば歴史の異分子。これ以上過去に関わるべきではないと思うし…果たして彼女が俺に付いて行くことで、歴史にどのような影響が出るのか…。そう言うのは考えたら、キリがない。
「……私も付いて行きます」
雰囲気から察したのか、フィーが服の裾を引っ張ってくる。
決意に満ちた表情だった。
「…駄目だ」
「それは命令…ですか…?」
縋るような瞳。
「命令」なら、彼女は渋々応じてくれるだろう。
だがそうでなければ、彼女はどうやっても付いて行こうとする。
それは男なら光栄なことだろう。美女からの頼みなのだ。
正直、断りたくない。
ともすれば、「一緒に付いて来てくれ」と言ってしまいそうだ。
だが──。
「……」
躊躇いがあった。
「……っ」
葛藤が、あった。
「…命令だ」
だがそれでも、彼女を連れて行く訳にはいかない。
アデウスにバアゼル…そんな危険な存在と戦うことになるよりも、この世界で暮らした方がきっと安全だろう。
「……分かりました」
フィーの手が袖を離れ、着けたばかりのエプロンに触れた。
白地のエプロンに皺が作られたのは、溢れそうな思いを受け止めているようだった。
何か、言葉を掛けなければ。
だが何を言えば良いのか、分からずに彼女から眼を逸らした。
そんな時のこと。
「っ、何だ!?」
眼の前で光が爆ぜた。
眼も眩むような眩い光だ。堪らず、眼を閉じた。
瞼を貫くような光の収まりと共に、瞼を開くと。
「…!」
「これは…っ!?」
それは、扉だった。
「光の扉だってさ」
「光の扉か」
「ねぇねぇユリちゃん、扉出してよ」
「む…?」
「ねぇねぇユリえも〜ん、出してよ出して〜」
「…知影殿、残念だがそんなことは出来んぞ」
「…光魔法使いなのに出せないの?」
「…光の扉を作り出す魔法は無かったと記憶しているが……」
「…出来ないんだ」
「…何故そこまで落胆する」
「いやだってさー、ふと思ったんだ。どこにでも行けるドアみたいなのがあれば、弓弦の所に行けるんじゃないかって。ただの扉じゃなくて、光〜ってなったのは…勘? 直感的インスピレーション」
「ふ…むぅ。すまない、分からんぞ」
「…ん〜。ま、無理なら仕方無いよ。あ〜あ、弓弦早く見付からないかな〜。弓弦〜」
「待て待て待て、言うだけ言って行かないでくれ! 予告をだな…っ!」
「えー、ユリちゃん言えば良いじゃん」
「な…いやだが、そう丸投げされてはな…私としても困るものがな」
「はい、ではユリちゃんで予告、どぞ!」
「……」
「よーこーく、よーこーく」
「わーかった、分かったから…。『出会いが突然ならば、別れの訪れもまた突然。現れた扉を生み出した世界は、男に決断を迫った。決断した男は歩みを進める。その行き先は過去か、未来か──次回、異郷の空』…これで良いか? 知影殿…ってもう居ないぞ」
「…橘殿…早く出て来てくれ……」