攻めろ弓弦! 足音立てし追跡者!!
隊長室に入ると、一番最初に眼に付いたのは紙の山だった。
弓弦はやっぱりかと呆れながら、机があるはずの場所に寄った。
「…お、お〜ぉ…お〜…き、キッツいぞ〜……」
紙の下から聞こえるレオンの声。
この書類の山は一体、何日分のものが貯められていたのだろうか。
「…大変そうだな」
一言、取り敢えず言葉を掛けた。
すると、十数枚の紙が床にドサリと落ちる。
一枚一枚が大切な書類ではないとしても、床に落とすのはいかがなものか。いや、良くないに決まっている。
『ーーーヨハン・ピースハート』
個人的に床には落としてほしくない人物からの書類もあったので、弓弦は“サイコキシス”の魔法を発動させた。
「…まったく」
複数の物体を直線的に動かすことが出来る念動属性上級魔法が、床に落ちる寸前の書類を寸前で反重力方向に動かす。そしてそれを手に取って纏めてから、さり気無く眼に付いた書類を一番上に置いて別の机上に置いた。
「大事な書類もあるだろうに、落としてどうするんだ?」
「…うぉっ!? あ、あの人からも来ていたのかっ!?」
「…落として変な汚れでも付いたら、ハンさんはどう思うんだろうな?」
ヨハンとは訳ありなレオンでなくとも、自分よりも上の立場の者からの連絡書類を汚すのは厳禁である。本人に汚す気が一切無くとも、書類を汚していればそれは、本人の責任だ。
「た、助かったぞ〜…! もし落としでもしたら…っ! 生命が幾つあっても足りないからな〜」
レオンとしても、ヨハンの神経を逆撫ですることはしたくない。
もし逆鱗に触れてしまい、ヨハンがこの艦に来るようなことがあればーーー即座に土下座しなくてはならない。
もう想像しただけで生きた心地がしなくなったのか、彼は顔を青褪めさせていた。
「…あ〜、死ぬかと思うな! 業務の溜め込み一つであの人が来るかと思うと!」
「…溜め込みがいけないんだろ? 何だこれは…どうしてここまで溜め込んだ」
実際はそんなことで来る程暇な人物ではない。きっと直接来るよりは、書類か何かで連絡を寄越すだろう。ヨハンとはそんな人物だ。
思い出すと、少しお会いしたいと思ってしまった。
彼はきっと今日も、妻であるジェシカの大量の料理を平らげて、業務に勤しんでいるであろう。
「…あ〜、存在を忘れていたんだ。てっきり終わらせてたとばかり思っていてな〜」
それはさておき、どうしてこんなに溜めていたものを忘れるんだ。
書類の存在を忘れてまで一体何をしていたのだろうか。考えるまでもなく答えは出そうだが、敢えて言及しなかった。
「…それでこの書類…まさか提出を過ぎたりはしていないよな?」
「…何とかギリギリで間に合うようには励んでいるぞ〜」
先程見えた書類は、見間違いでなければ「上記の日付までに〜」と書かれていた。無論、いうまでもなく今日の日付だ。
本当にギリギリの締切と戦っているようで、眼元に隈が見えるレオンは、何かを期待するような視線を弓弦に送った。
『どうするのにゃ?』
断るに決まっている。自業自得そのものであるし、何より優先事項があるのだから。
「ご指名のところ悪いんだが、少し外出するつもりだ。知影達は全員こっちに残っているから、何かあれば助けでも求めてみたらどうだ?」
明らかな落胆の表情である。
手伝える時間があるのならまだしも、女性陣に「もう行く」旨の内容を伝えてしまった以上、さっさと外出して用事を終わらせなくてはならない。
「お前さんの頼み無くして彼女達が手伝ってくれるか〜?」
「厳しいだろうな」と内心即答した。
まず彼女達の階級は少将未満のため、隊長業務を行うことが出来ないのだ。
そんな中手伝えることといえば、精々食事を持って来てもらうことぐらいだろうか。それも彼女達手作りの。
食堂の食事程度ならばリィルが持って来るかもしれないが、ここまで業務を溜め込んでいた事実を知った彼女は激怒しているだろう。なのでレオンは、無飲食での業務という地獄が強いられる事態になることの想像が難くない。
『…彼女達の手製でなくとも良いとは思うが、無粋か』
『にゃはは、美少女達のお手製料理。男にゃら結構喜ぶ人間も多いはずにゃ』
「例えば飯を届けてくれ〜とか。それぐらいなら訊いてくれるとは思うが」
「頼まれてくれる」とは言っていない。しかし流石に料理を持って来てくれない程、冷たい女性陣じゃない。
「風音辺りなら、頼めば毎日持って来てくれるんじゃないか?」
後はレイアも引き受けてくれそうだが、敢えて風音の名前を挙げた。
元『鹿風亭』女将の彼女ならば、頼めばしっかりとした料理を作ってくれるだろう。彼女とかならば。
「風音ちゃんのご飯か〜! そいつはアレだな! 楽しみだ〜!」
「あぁ、風音の作る和膳は美味いからな。俺にとっては故郷を思い出すような味だし、やっぱり国一番の旅籠屋切り盛りしていただけあって、作る料理の味も格別だからな」
万人受けする和食を作らせたら女性陣随一に違い無い。
栄養バランスの取れた食材が合わさり、繊細で洗練された料理が奏でる音楽は、空腹に泣く腹の虫を鎮めてくれる。
「…お、お〜……」
以前彼女の和菓子を食べたレオンの腹の虫が、その絶品さを思い出したのか鳴った。
「弓弦〜、外出する前に風音ちゃんに声掛けておいてくれ〜」
「あぁ、分かった」
隊長の許可も下りたので、これで正式に外出することが出来るようになった。
レオンに礼を言ってから弓弦は隊長室を後にする。
『ワザとらしいな、君は』
寄り道せずに向かうのは、艦の艦底部に設置された転送装置だ。歩きながら隊員服の胸ポケットを探り、中の物を取り出す。
「…04771…か」
『界座標』であるらしいこの数字が示す異世界。そこには何が待っているのだろうか。
手掛かりは、銀の銃弾。
察せられる情報は、一つ確かなことはある。しかしそれ以外は何も分からない、想像も付かない。
女性陣を置いて行ったのは、もしもの場合を考慮してだ。行った先で『ベルクノース』の地下で敗走したような魔物と遭遇したら、弓弦は彼女達を守り切れる自信が無かった。もし誰かを死なせてしまったらと考える程臆病になってしまうのは、自分の力を過信していないことの裏返しだった。
『一体何があるのか楽しみなの。冒険なの♪』
冒険というのだろうか。
少し違うような気がしなくもないのだが、聞き流すことに。
『にゃは。女の子はアシュテロ一人だけだから、独り占め出来るのにゃ。良いことじゃにゃいかにゃ?』
言われてみればそうだ。
シテロは今回、紅一点の存在。男だらけの砂漠に潤いをもたらしてくれる存在だ。
『独り占めって言い方、嫌な言い方なの。クロルの性格の悪さが出ているの』
『にゃっ。そんにゃ言い方はにゃいの思うのにゃっ。…アシュテロの方こそ性格が悪いんじゃにゃいのかにゃ?』
シテロの言葉にクロが返し、シテロが返す。
仲が良いようで結構なことだが、これ以上のボリュームアップは止めてほしい弓弦だ。
頭の中で行われる会話。声が響くのは当然弓弦の脳内なので、割と五月蝿く聞こえてしまう。
『む〜、アシュテロじゃないの。シテロなの』
相変わらずシテロは自分の名前に拘っている。
アシュテロとシテロ。「ア」と「ュ」を抜いただけでも名前の印象は変わるものだ。因みに発音のアクセントは、「アシュテロ」は「ロ」にアクセントがあるのに対し、「シテロ」は「シ」だ。どうでも良いことかもしれないが。
『誰が何と言おうと、アシュテロはアシュテロにゃ。だから僕は、僕だけは君のことを、アシュテロって呼んでやるのにゃ。…未来永劫…にゃ』
少し言い方を変えれば主人公らしい台詞になりそうなものだが、見事なまでの嫌味な言い方である。
『ぅぅ…シテロ。アシュテロじゃなくてシテロなのっ』
クロに揶揄いにシテロが頰を膨らませている光景が浮かんだ。
実際に眼にしてはいないが、そんな光景がふと浮かんだのだ。
『ユールっ、私はアシュテロじゃなくてシテロなの。ユール、ユールはどう思う?」
「(…どうと言われてもな)」
突然話を振られたので、気の利いた言葉は思い付かない。
シテロがシテロと言うのなら、彼女はシテロなのだ。それで良いのではないだろうか。
『ユール…! ユールならそう言ってくれるって思ってたの!!』
『…絶対変に考えるのが面倒臭かっただけにゃのにゃ』
話している最中に艦底部にまで移動した。
転送装置の操作をしようとしたところで、弓弦の手が止まった。
「…呼ばないと出て来ないのか?」
彼は振り返らず、自身の背後にそう呼び掛ける。すると艦底区画の床に、それまでずっと忍ばされていた足音が響いた。
「言っておくが、一人だけの特別扱いはしないからな」
スッスッと、布が擦れる音が聞こえた。
隊長室に入る少し前から感じていた微かな気配の主は、食堂で別れたはずの女性だった。
「存じております。御見送りさせて頂こうと思いまして」
別に見送りのためなら、どうして気配をある程度殺してまで付いて来ていたのか。
「そうか。なら皆で来れば良かったじゃないか」
細やかな期待があったとでもいうのだろうか。
彼女の心中は読めないが、一人だけで来たことには何かしらの理由があってもおかしくはない。いや、深く求めなくとも理由の存在は察せられるのだがーーー
『例えば弓弦が雰囲気が出るからと振り返らにゃいみたいににゃ…にゃ?』
氷の悪魔なのに水を差したクロの声が聞こえなくなる。無論、弓弦は自身の内部で起こっているであろう説教劇に知らぬ存ぜぬを貫くことに。
「一人で来てはならない理由があると仰るのですか?」
「いや、そうは言ってない。どうせなら皆で来た方が盛り上がるんじゃないかと思ってな。俺が『見送ってくれ』って自分から言うのもアレなんだから」
わざわざこんな、抜け駆け染みたことをする必要があったのかという話だ。
このことを知れば、知影辺りも「見送る」と付いて来ただろう。彼女だったら、この場に来ないはずがないのだ。
「私一人に見送られるのでは…盛り上がらないと。…弓弦様は酷い御方です、いけずな方です、意地悪で御座います」
「そう取られると困るな。風音がこうして見送りに来てくれたことは嬉しいんだが」
「でしたら最初から素直に、『嬉しい』と仰れば良いのではないですか?」
素直じゃなかったのが悪いのか。
声真似をされて苦笑を浮かべた彼は、そこでようやく背後を見た。
「おわっ」
眼の前に飛び込む風音の頭。
少し離れていた所に感じていた気配はどうやらフェイクで、本人は気配を絶ってすぐ側に居たのだ。
『些か思考に意識を費やし過ぎたな。集中力を欠いた思い込み程、恐ろしいものはない』
ヴェアルの咎める声が聞こえ、頰が引きつる。
すると、それを見た風音の眼が一瞬細められた。
「…ようやく振り向いて下さいました」
不承不承振り返ったのだと判断したのか。少し不満そうで、寂しそうな声だった。
「私の顔を見ることすら御嫌でしたか? 何故に振り返って下さらなかったのです」
「いやっ、顔を見ることが嫌って言う訳じゃない」
「ならどうして……」
背中越しの見送りにはある種の雰囲気があるから。とは口が裂けても言えない。
「クスッ♪ 成程そうで御座いましたか」
どうやら心を覗かれたようだ。それとも態度から察せられたのかもしれないが、口元を覆った風音は嬉しそうだ。
「弓弦様、可愛いですよ♪」
「何故可愛いになる」
「可愛いと思ったからです」と言われ、肩を落とす。どうして可愛いに繋がるのかが、謎過ぎた。
「可愛いと言われても、俺はそこまで嬉しくないんだが……」
「申していて私が嬉しいんですよ」
清々しいまでの自己満足である。
男に可愛いと言うのは少し、感性的におかしなものだとは思わないのだろうか。
「弓弦様は可愛いんです、反応が可愛いと思えるのです、可愛過ぎます」
「ぅ…ぐぅ」
恥ずかしくなってきたので頰に熱を覚えた。
何故自分が赤面しなくてはならないのか、意味が謎である。
『…赤くなっているユール見てるとポカポカするの。…でも、何か変な感じもするの』
脳内からの追い打ち。
「ささ、弓弦様。そろそろ目的地に向かわれては如何でしょうか」
合わせている訳でもないはずなのに、言葉による攻勢は見事なまでの連携だった。
揶揄うことに満足したのか、止めとばかりの言葉を言った風音は、楽しそうな笑みを浮かべていた。
「…覚えとけよ」
言葉で勝てそうな気がしない。何かを言ったとしても、二言三言
止めの一言となって返ってきそうだったので、捨台詞を言う羽目に。
「あらあら、何を覚えておかなくてはならないのでしょうか?」
随分と生意気なものである。
カチンときた弓弦の脳内に響く、悪魔猫の笑い声。
『キシャキシャ。キーシャーキシャシャ』
更に追い打ち、アデウスからだ。
「〜〜ッッ!!!!」
ブチッと弓弦の中で、何かが切れる。
あぁそうだ。抽象的ではないか。だったら、丁度頭に浮かんでいることをして具体的にしてしまえば良い。
「ッ!!」
眼の前の女性を驚かせるであろう具体的なこと。
「ゆ、弓弦様!?」
勘が良い風音は咄嗟に背中を向けるが、それはそれで好都合なことだった。
「…何を覚えておかなくてはならないのかって? あぁ良いさ、教えてやる」
背中から抱きしめられた風音の耳元へと顔を寄せる。
抵抗されたのなら離そうと思っていたのだが、抱き寄せた瞬間に彼女は何も喋らず、無抵抗になっていた。
彼女の背後を取れたこのチャンスを無駄にすることは出来ない。
弓弦が狙いを定めたのは、背後からでないと狙い難い部分。
「…!!」
頸に触れさせ、彼女の耳に届くか届かないかの音と共に、離す。
一瞬だけ微かに彼女の身体が強張ったような気がしたが、風音に限ってそんな受身の態度を取るようなことはしないだろう。
「‘…覚えとけよ?’」
捨台詞と同じ言葉。
だがその意味は、全くといって良い程に別のモノへと変わっていた。
「(…行くか)」
弓弦は清々しい気分に後押しされるようにして、転送装置に行先を入力する。
入力した界座標は、勿論【04771】だ。入力し終えると、装置が無事に起動した。
『あんにゃことして。後でどうにゃっても知らにゃいのにゃ』
風音は固まっている。
彼女がああも棒立ち状態になるのは珍しいのではないだろうか。
「(少女漫画様々。…割とな、後悔してないんだよ)」
してやったりといった感じだろうか。実に気分爽快だ。
『…モヤモヤするの』
そのまま弓弦は、光の中へと身体を預けて姿を消した。
「…っ」
一人になった風音は、背後から弓弦の気配が消えると同時に床に蹲る。
あんなことをするとは思わなかった。油断の代償は、取り返しが付かない程に、高い。
不思議な感覚、謎の高揚感。
身体の内側から到来する熱い何かが、彼に触れられた場所へと集まっていく。
熱い。火照るように熱を持った身体を静めようと、手を頸に持っていく。
「……っ」
走った、電流のような何かに身体が強張る。
声を上げそうになってしまうが、どうにか抑え込むことが出来た。
しかし火照りは止まらない。静めようと触れさせたはずの手は、既に彼女の意思を離れてしまったかのように、頸から離れなかった。
「…忘れられるはず…ないじゃありませんか……」
喉の渇きは覚えなかった。どちらかというと、この上なく満たされているような心地良さが彼女の心にある。
彼女がそのことに気付いたのは、自室に帰ってからであった。
「…頸にキスって良いよね」
「…む、うむ…?」
「ユリちゃん、羨ましいと思わない? 頸にキス」
「…何分経験が無いからな。私は分からないぞ」
「んんん…じゃあ、フィーナは?」
「…そう…ね。何とも言えないわ」
「…。レイアは?」
「おろ、うーん…そだね。ゾクってきちゃうかも」
「だよね! きちゃうよねゾクって! ビクってしちゃうよね!」
「ビク…ううん…くるかなぁ?」
「ぁぁぁぁぁっ、されたいよぉぉぉぉぉっ!! 弓弦からキスぅぅぅぅぅっ!!」
「…うむっ、されたい…な。されたいぞ! 弓弦からのキス」
「私は…言うまでもないわね。ふふ、されたいわよ」
「されないくらないならされたいけど。私はそんなに…えへへ」
「…されたい……?」
「…セティは少し犯罪臭がするからやめた方が……」
「…首筋ゾワゾワ…面白そう…!」
「…せ、セティ殿っ、は確かにまだ幼い。…もう少し大きくなってからだと思うぞ、うむ」
「…教育上よろしくないかな。…セティちゃんは十二歳だもんね。…もうちょっと大人になってからね」
「…残念」
「でもその代わり、予告は読めるのです」
「…予告」
「そう、予告♪ ユ~君が今どんなことをしていのか教えてくれるお話だよ♪」
「…コク」
「じゃあ、次の話の予告をお姉さんと一緒に読んじゃおっか」
「コク」
「はい、どうぞ♪」
「…『開かれてしまった。時間が動くと事態も動く。事態も動く事象が作用する。事象の及ぼすところにはモノがあり、モノあるところに、定めがある。…闇はいつか、必ずどこかで産声を上げているーーー次回、行け弓弦! そして異世界へ!』…次回はちょっぴし覚悟してほしいな」
「…レイア殿は凄いな」
「…慣れたものね。相変わらず」
「そうでもないよ。さぁ、帰ろう」
「…おー」
「…ところで、予告の人って誰? 新しい女?」
「謎だな。おそらく以前の話にも出ていたよな気がするが、一体誰なのか」
「ううん…誰だろうね?」