微睡め弓弦! その時の彼は幼かった!!
男は自分の書斎で転寝をしていた。
何のことはない、春の陽気に当てられついウトウトとしてしまっていたのだ。
ーーーちゃーん!
このところ、昼夜逆転の生活が続き、遅くまで外出していることが増えた男は、普段ならばこの時間良くベッドに寝そべっていた。だが、この日ばかりは珍しく頬杖を付いて寝ている。
だから外から聞こえてきた声に反応し、拳骨製の空中枕から落下した。
ーーーちゃーーんっ!!
「…?」
薄くしか開かない瞼を、一度強く眼を閉じることで大きく開かせた男は視線を窓の外へ。
「に〜いちゃ〜ん!!」
「…何だ、どうした?」
窓を開けて呼び声の主に声を掛ける。
「えへへ〜♪ 恭弥に〜ちゃん!! みてみて〜!!」
声の主は、今年で小学校に入学する弟だった。子ども用のスーツを着ているので間違い無いだろう。
しかし、ターンの仕方にどことなく女っぽさがあるような気がする。
気の所為と思いたいがーーー
「…そうか」
ーーーあぁそうだ、今日か。自分としたことが、大切な弟の入学式の日を忘れていた。
「決まっているじゃないか。カッコ良いぞ」
美男美女の夫婦と噂されていた両親の息子だけあって、顔立ちの整っている弟にスーツは良く似合っていた。
「やった♪ ねぇねぇお母さんっ、兄ちゃんが『カッコ良い』って♪ 僕そんなこと、久し振りに言ってもらった♪ わーい♪」
無邪気だ。はしゃいでいる姿がとても眩しい。
入学式といえば新しい生活の始まりであるし、何より小学校とはいっても、社会の場に出るのだ。弟からしたら、大人に一歩近付けるのだから相当嬉しいだろう。
「そう? ユ〜君はめっっっちゃカッコええよ? ええ男やし可愛いし、ウチの自慢の息子や。いや、流石はウチとあの人のめんこい息子やけ」
相変わらず方言が言語崩壊しているあの母親が、昨日いきなり帰国して来たのも頷ける。
そう言えば父親も帰って来ていた。
家に帰って来ていないあの両親が、揃いも揃って帰宅にしているからには何か理由があるはず。
姿が見受けられないが一体どこに居るのだろうか。
「じゃあ恭弥、ウチは弓弦の入学式に行かなあかんから。あんたは杏里の入学式にでも行って好感度でも稼いどき。ほなな〜」
「兄ちゃん行って来まーす!!」
「あぁ、行ってこい」
そうか、今日は長女杏里の入学式の日でもあったか。
小学校と高校の入学式が同じ日とはとんだ親泣かせだが、偶然の一致である以上、やはり運が悪かったと諦めるしかない。
どうりで両親が帰って来ていた訳だが、一つ疑問がある。
「…静かじゃないか?」
弓弦の入学式。つまり、弓弦の晴れの舞台。その当日にしては、家全体が静かだ。
今年で五歳になる末の妹は現在保育園に居るはず。三女はーーーあぁ、確か新六年生だから入学式の準備に駆り出されているのだろう。最近身体の成長が著しくてーーーそう、「風呂に入れない」とかボヤく時がチラホラとあったような気がする。
後一人ーーー今年で中学二年生になる次女は、今頃どうしているのだろうか。始業式はーーー良く良く覚えていないが、確か弓弦が通う小学校の入学式よりも一日か二日か後であったはずだ。
日々剣の道を精進しているか、テストの前に唸っているか、それか弟を揶揄っているかの姿ばかりだが、最後の部分に関しては、何というか、姉にあるまじき様子とするべきなのだろうか。一種の危ない感情の裏返しによる行動なので、考えるのは裏返しになっている感情の部分。つまり他の姉妹同様弟を溺愛している彼女が、弓弦の晴れ舞台に大人しくしているはずはないのだがーーー?
男はそこで口を閉ざし、家の探索を始めた。
「美郷、居るか」
扉をノックしてから次女の名前を呼ぶ。
返事は無い。いつもなら「うるっさい!」とか、「扉叩かないでっていつも言ってるでしょこの馬鹿者恭弥!!」とか、辛辣な言葉が返ってくるはずなのだが。居ないということなのだろうか。
「…居ないのか」
当然ながら扉には鍵がかかっているので、一階に下りることに。
「水でも飲むか」
机の上には書き置きも、何も無い。
朝食は二階に上がる前に食べてあるので、やはり机の上には何も無い。だが水道の蛇口を見ると、不思議と喉が渇いてきたので、自分専用のコップを手に水を注いでいく。
あぁ、美味い。渇いた喉には冷たい水が二番だ。
ウォーターブレイクも済ませたところで、家の庭を見てみる。
庭の中央には木刀が突き刺さっている。いつも次女が、「稽古」と称して弟に振るっている愛の剣だ。
ーーー庭の中心に刺さっている光景に不吉な予感を感じたので、庭端の倉庫の隣に立て掛けておいた。
「居ないか」
一応隅々まで見て回ったが、庭には誰も居ない。
あの次女め、どこに行ったのだろうか。
「ここにも居ないか」
脱衣所にも人の気配は無いようだ。当然入浴している気配も、しない。
自室も庭もリビングにも浴室にも居なければ、後はどこに居るのかと考えてみたところで。
「…!」
大きな見逃しに気が付いた。
自室に居なければまず、そちらを疑わなければならなかったのに何をやっていたのだろうか。
その問いによる答えは水を飲んでいた、が正しいがそれに突っ込みを入れるのは弟の役目だ。
再び二階に戻り、目的の扉へと向かう。そして遠慮無く扉を開く。
「…ぐぅ」
居た。少々だらしない姿で爆睡中のようだ。
枕の半分から覗いている顔は幸せそうに弛緩しているが、本来の枕の主は既に外出済み。大方残り香でも嗅ぎながら良い夢を見ているーーーと、いったところだろうか。
「…ん…?」
突然瞼が上がった。その視線は居たはずの人物を探し、続いて男へ。
「ーーーッ!? 恭弥っ! え、ちょっ!?」
ガバッと勢い良く起きた次女の姿は、消える。
「あぁぁんたって馬鹿はぁっ!!」
次に現れた時、男は壁に叩き付けられていた。
「妹の! 寝てるところを! 覗いてぇ! 襲おうとするなんてぇぇぇぇっ!!」
言葉が切れる端々で男の後頭部が壁に叩き付けられる。
ゴッゴッゴッと鈍い音が続くが、男は特に言葉を返さない。
「このっ! このっ! 人でなしっ! 死ねこの馬鹿者恭弥っ!!」
ゴッゴッゴッゴッ。
「死ねっ! 一回死んで! 出な…あれ、ユ〜君は? と言うか今何時!? 答えなさい恭弥っ! あんた知ってるんでしょっ!?!?」
「時計を見ろ」と言いたい。だが顔全体を鷲掴みにされている男に、喋る余裕など無い。
一家の長男である男が、家におけるカーストの最下位にいることも頷けるだろう。理不尽な暴力に晒される様は一言、惨い。
『み〜ね〜ちゃん♪ いまね〜、くじだよ♡ くじくじ♡』
ここでアラームだ。音の発信源は弟のベッドから。
次女め、無邪気な弟の声を眼覚まし代わりに使っているとは。兄として悲しいばかりだ。が、その次女は赤くしていた顔を青褪めさせると大急ぎで部屋を出て行く。
「ちょっと恭弥! どうして起こしてくれなかったのよ!! ユ〜君の入学式始まる時間じゃないっ!!」
大急ぎで支度をしているのか足音が五月蝿い。
下に行ったと思ったら上に上がって来て、「急げ急げ、私っ」と駆け抜けて行く。
まったく騒がしいこと極まりない。用意ぐらい落ち着いて出来ないものか。
「私の木刀どこにあるか知ってる!?」
セーラー服に着替えた次女が珍しく、非暴力的な言葉を掛けてくる。しかし何故に木刀。
「無くても良いだろう。小学校に殴り込みに行くのか」
「あれが無いと落ち着かないのよ!! あぁもう!! どこよ私の木刀!!」
男は答えなかった。
木刀を持って小学校に向かうことが子ども達を刺激する光景に、しか繋がらないと確信しているからーーーというよりは、単に木刀を持ってほしくないのだ。
「恭弥あんた、隠してるんじゃないわよね!? っもう間に合わなくなっちゃうじゃない! 私が帰って来るまでに絶対見付けといてよ!!」
「分かった」
そしてどうにか次女の木刀持参を阻止することが出来た。
文字通りに家を飛び出して行った彼女は、持ち前の運動神経の良さを発揮して自転車以上の速度で走って行った。
早い早い。もう姿が見えなくなった妹の姿を弟の部屋で確認してから、男は庭に出て木刀を持ち主の部屋の前に、砂を綺麗に拭き取ってから置くのだった。
自室に入り、時計を見る。
長女の入学式にはーーー間に合わないか。確か、保育士の大学だったと記憶しているが、入学式で友人作れただろうか。いや、あの長女なんだ。きっと友人の一人や二人既に見付けていそうだ。
問題は弟だ。初めて通う、小学校という学舎の空間。友達百人とまでは要求しないが、せめて数人でも生涯の友人候補を見付けてくれれば良いのだがーーーそれは今ここで兄が心配するようなことではないだろう。色眼鏡抜きで顔立ちも人柄も良い弟だ。きっと、楽しくやっていけると男は信じていた。
「…寝るか」
意識が霞む。次女の暴力は、想像以上に男の体力を奪っていたようだ。
今夜はちょっとしたご馳走が出るだろう。当然家は騒がしくなる。
だったら今の内に仮眠を少しでも撮っていなければ、明日の外出に支障が出る。
男は疲れを覚えた身体を、今度はベッドの上に横たえるのであった。
* * *
今朝はそんな夢を見た気がする。
どうしてか兄さん視点の夢だった。珍しく、姉さん達の夢ではなくて兄さんの。
母さんも出て来た。異世界に来てからの夢で母さんを見たのは、今回が初めてだ。
母さん…あぁ、確かあんな人だった。俳優業をやっている所為か方言が言語崩壊していて、綺麗な人だった。
基本的に家に居ないのは、忙しいスケジュールの中、海の向こうと日本を往復していたから。…まったく、誰にも普通の家庭なんて言えなかったよな、家は。
「…弓弦? 惚けちゃってどうしたの?」
心配そうな知影に声を掛けられ、惚けていたことに気付く。
そうだ、皆で朝食を食べていたんだったな。一人惚けていれば心配されて当然か。
「少し考え事をしていたんだ。気にしないでくれ」
「…弓弦…眠たい?」
「眠たくもないな」
食事中に眠くなることは…なくはないが。今は眠たくないな。
イヅ…と、セティの方が寝惚けている感じがする。寝癖が直せていないみたいだし、ピョンと髪が一本跳ねてるし。…可愛いな。
「無粋を承知で訊くが、弓弦は何を考えていたのだ? 随分と惚けていたが……」
「家族のことを考えていた」…と言えば、少し空気が重くなってしまう気がする。
『…いや、逆にきゃあきゃあと反応するんじゃにゃいかにゃ?』
主に知影が…な。あぁそうだな。クロの言う通りだ。
…ま、尚更本当のことを言う気は無くなる。それなりに静かで豊かな食事を楽しみたいから、隣から襲われるのは勘弁願いたい。
だったら、別のことを言うまでだ。
「少し野暮用で今日から外出する予定があ「行く」…一人で行こうと考えていたんだ。「やだ、なら二人だけで行こ」…おいっ」
知影、人の話を訊いてくれ…。
「異世界に一人で行くのは危ないよ。弓弦ならどんな敵にも負けないと思うけど…心配だし。…ねぇ、駄目?」
珍しく知影がヒロインみたいなことを言ってくる。
この上眼遣いでそう言われると多少は罪悪感を覚えるんだが……
『…完璧な繕いでも確かな真実一つあるだけで、こうも判り易いか』
そう、眼が人を襲う眼になっているからな。外出した先で、即食べられてしまいそうだ。その場合、魔物よりも知影に注意を向けないといけなくなるかもしれないな。
「駄目だ。そんなに長く出るつもりはないからな。一人で十分だ」
「御一人でのミッシェルで御座いますか?」
任務の間違いだな。普通に言えている時もあるのに…風音の奴、また逆戻りしているような気がする。…と言うか、ミッシェルって何だ? 世界遺産か…って、風音が知るはずないよなぁ。
兎も角、助け舟だ。これに乗らない理由は無い。
「あぁ、風音の言う通りだ。一人限定だからな」
「えぇ…そんなぁ」
「諦めなさい知影。…ユヅルに迷惑掛けるのはどうかと思うわ」
知影の正面に座るフィーが箸を置いた。
お留守番組と俺の会話にあまり口を挟まないよう配慮していたのか、セティと話しながら食べ進めていたが、訊くに耐えかねたみたいだ。
…しかし「ユヅル」…か。人前で「ご主人様」と呼ぶ訳にはいかないことへの今更の気遣いだが…違和感を覚えた。…「ご主人様」と言うより…「あなた」呼びに呼ばれ慣れてしまったんだろうな…はぁ。
「フィーナは弓弦とセティと旅行行ったばかりだもんね。ズルいよ」
「それを言うのならあなたも、潜入の時この人と一緒に行ったばかりじゃない?」
「あらあら…でしたら私も何も申せない立場になってしまいますね」
…な、何だ? 周りの空気が冷えてきたような気がする。
言い争いになったりは…しないよな。うん、きっと。
「む…私なら言えるな!」
…おいユリ、そこでそれを言うか。
「となると…そっか、『豊穣祭』以来になるから、私も言える立場だね♪」
姉さんまで…っ。
『ユール…私…またお留守番? またお留守番…寂しいの』
シテロの不安そうな声が聞こえた。
そうか、シテロも立ち位置的には知影や風音と一緒になるのか。旅行前までは行動を共にしていたからな。
『…キシャンキシャキッシャ。キシャキシャシャキンキシャシャキシャキシャキシャキシャシャキシャッシャキシャキシャシャ』
『…初耳なの。でも…嬉しいの…♪』
嬉しそうな声だ。
鈴を転がしたような声が頭の中に響く一方。
「…皆そんなに弓弦と一緒に居たいんだ…。私から…弓弦を奪おうと…ふふふ……」
知影の震えた声は、まるで地獄からの呼び声のようだ。
「あっ♡ 弓弦の愛のハリセン♪」
はぁ…呆れる程の平常運転。昨日の塩らしさはどこへやら…だな。
それは置いといて。もう皆、食べ終わったみたいだからそろそろ行くとするか。
「…よし、じゃあレオンに会ってから任務に向かう。終わり次第に帰って来る予定だから留守番よろしくな?」
そう言って、全員分の食費を払ってから食堂を出る。
後半の言葉は主に知影とに向けたものだ。…向こう着いてからは連絡が取れなくなるかもしれない以上、先に帰艦する目安の時間を言っておかないといけなかったからだ。
『…それで終わり次第と。目安として用いるのには宜しくないと思うのだがな』
…名残惜しそうな、寂しそうな視線を感じたが…我慢しないとな。構ったら俺も寂しくなってしまうような気がする。
『ユールは寂しがり屋さんなの〜♪』
…。さぁ、急いで隊長室に向かうか。
レオンの奴…業務に潰されてなければ良いんだがな……
「弓弦のお兄さん…か。あの弓弦の兄ってことは、きっと凄い人なんだろうね」
「兄にして弟ありとか言う奴か~。確かに有り得そうな話だな~」
「…隊長、サボっていて良いんですか?」
「次回予告ぐらい息抜きしても良いだろ~?」
「じゃあ予告しましょう」
「…お前さんが何を言いたいのかさっぱり分からんな!」
「僕の所為にされるのが嫌なんですよ。…リィルさんとか怖いですから、今回クラスに限っては特に」
「…そこを頼む! どうにかして時間を稼いでもらえないか~?」
「『隊長室に向かわないとな。レオンの奴はどうしているんだろうか。…業務に潰されてなければ良いんだがな…? 気配がするな。…誰か後を付けて来ているようだーーー次回、攻めろ弓弦! 足音立てし追跡者!!』…覚えとけよ? さぁ早く隊長室に戻ってください。弓弦が来ちゃいますよ」
「なっ、ディオお前…覚えとけよ~!?」
「…隊長まさか、弓弦に業務任せようとしているんじゃないよね。…流石にそれは無いと…思いたいけど」