逃げろ弓弦! 静けさの後は大嵐!!
ようやく辿り着いた506号室。
自分の部屋だ。そのはずなのに、どうしてこうも扉が開け難いのか。
原因は分かり切っているので、深呼吸と共に中に入ると、女性の姿が眼に入った。
「弓弦!」
扉を開けるやいなや、中に居た知影が飛び付いてきたのだ。
当然だが、旅行に行く直前と比較して変わったところはない。身嗜みにはある程度気を配っているようだし、女性らしい香りといえるのか、仄かにシャンプーの香りが髪から香ってきた。
「…んー」
そんな彼女は頭一つ分高い弓弦を見上げて瞼を閉じた。
早速約束を果たせと、そういうことだ。
「んっ♡ 幸せ♪」
取り敢えず一回したら離れられてしまった。
どうやら一度に纏めてやらせてはくれないようだ。
いつまた要求されるのかは分からないが、約束してしまった以上回数分しなければならないので少々先が思いやられる。
幸せそうに頬を緩ませている知影から眼を離して部屋を見てみると、先に帰っているはずのフィーナの姿が見えない。
部屋に居ないということは、部屋の外に居るのだろう。ベランダに視線を遣ると、少し遠めの所に金髪の女性の姿が確認出来た。
既に入浴でも済ませたのか、着ている衣類が寝間着に変わっている。茶樹の様子を一通り確認してから寝るつもりなのだろう。
「(…あ、そう言えば姉さんにお礼を言っておかないといけないな)」
茶樹の世話をしてくれていたレイアに礼を言うために、踵を返す。
それなりに夜も更けているが、出来るだけ当日に言うべきだろう。寝ているなら寝ているでまた明日にすれば良いだけなのだから。
「知影、少し姉…レイアの所に来るから何かあれば呼びに来てくれ」
「んん…はーい。どれぐらいになったら帰って来る?」
「そうだな…どれぐらい話すにもよるけど、日にちが変わって暫くしても帰って来ないってことはないだろうな」
場合にはよるが、あまり遅くまで起きる予定は無い。
また、知影の様子から一緒に寝たがっていることを察せられない程弓弦は鈍い訳ではないために即答した。
「分かった。けど…その前にやっぱりもう一回したい」
『『『『ーーーッ!?』』』』
「ん…あぁ、良いが」
随分塩らしいというか、らしくない態度だ。
いつもやたらと食い付いていら彼女がこうも大人しいと、嵐の前の静けさに近いのだろうか。どうにも嫌な予感しかしない。
悪魔達もこれには驚きを禁じ得ないようで、動揺する気配が伝わってくる。塩らしい知影は彼等にとっても驚くべきことなのだ。
「…これで良いか?」
柔らかい感覚から口を離す。
蕩けた表情から溢れる熱気のこもった息は色っぽいが、いつもに比べると控えめだ。
「…もう少し、舌を入れてほしかったかな」
「入れてないからな。舌を入れてきたのは知影の方だろう?」
「…もう少し、啄ばんでほしかったな」
「誰が啄むか。普通のキスで良いだろう?」
軽く唇を押し当てるだけのキス。
それ以外のキスを強制されてするのは、流石に気が引けたのだが、当然知影としては足りなかったようだ。
「普通のキスじゃ我慢出来ない。だってそうでしょ? 弓弦が私の身体をそう言う風に変えちゃったんだから」
「どう言う風だっ。変えられた覚えがあるんだったらそれはお前の幻想の中だ」
いつもの遣り取りだ。
弓弦は内心謎の安心感を覚えたのを全力で否定しながら、気を取り直して再び踵を返した。
『いつもの知影にゃ』『キシャシャシャ』『要らぬ懸念だったか』『どうと言うことでもなかったか』
「(…おいおい)」
悪魔にまで気に掛けられるとは。余程あの知影の態度は奇妙だったのだろう。
知影の病みっぷりが悪魔達にどう受け止められていたのか、苦笑しながら彼は隣の部屋の扉を叩いた。
ーーーどうぞー♪
鍵が掛かっていなかったので、扉を開けて入室すると、姉代わりのように接してくれる女性が椅子に腰掛けていた。
「お帰りなさいユ〜君。旅行は楽しかった?」
「あぁ。楽しかったよ姉さん、ただいま。色々得るものもあって、良い旅行だった。知影とか、色々面倒事も頼まれてくれてありがとう」
「えへへっ♪ 面倒事じゃないよ? 楽しんでやってたし、それにお姉ちゃんだもん、どーんと任せなさい♪」
胸を叩くようにして得意気虹は片眼を閉じてみせた彼女の、何と頼もしいことか。
彼女が居て良かったと思える弓弦である。
「そかそか。なら良かったよ♪」
レイアは立ち上がると、冷蔵庫からお茶を取り出してコップに注いだ。
「プリンあるけど、食べる?」
冷蔵庫の中に見える、プリンの容器。
ーーー中々に大きいが、手作りだろうか。所謂バケツプリンというものだろうか。
折角なので「食べるよ」と答えて椅子に座り腰を落ち着ける。
「シテロちゃん起きてる? 皆で食べた方が美味しいからね」
自分の内側に意識を集中させてみると、悪魔龍の声が聞こえてくる。
『…すぴー…』
寝息のようだ。
仮眠に近い感覚で寝ているのかと思っていたが、どうも深い眠りのようだ。
頭を揺らされただけでどうして熟睡してしまうのだろうか。悪魔の生態は実に謎に包まれている。
「寝ているみたいだ」
「ありゃ…そっか。じゃあ二人で食べちゃおっか」
まだ日が変わるまでには時間がある。堪能することは出来そうだ。
「「いただきます」」
お皿の上にひっくり返したプリンを、スプーンで掬い取って口に運ぶ。
「…ん」
美味しい。
滑らかで、バニラが効いていて、手作り特有の風味が口の中に広がっていく。
「(…だが、何だ? どこか懐かしいような……)」
普通の手作りプリンだ。卵と砂糖とかバニラビーンズとかで作った、良くある形式のプリン。
味が良くあるタイプの手作りプリンだ。だがこの味が、どこか懐かしくて不思議に思えてしまう。
かつての世界を離れ、異世界で暮らしてはいるのだが、かつての世界の食べ物は自分で作って再現も出来るし、どうしてか艦の食堂でも作られている。食べようと思えば食べられる食物を、どうして懐かしくなんて思うのだろうか。
『アークドラグノフ』に来てから、プリンを食べたことがないということではない。暇潰しに作って食べた記憶は当然あるのだ。
「(…まぁ、良いか)」
考えることを止め、舌鼓を打つことに集中する。
「ユ〜君は本当に甘い物が好きだね」
「…そうだな。好きだよ。甘い物でも、苦い物でも。折角作ってもらえた物なら何でも食べているから」
「えへへ、凄いね。お残しなく食べちゃうなんてさ、お姉ちゃん褒めたくなっちゃうよ♪」
残すということはあまりしたくない。満腹になった場合には少し考えてしまうが、可能な限り完食に努めてはいた。
その場合に困ってくるのは、フィーナや知影の作り過ぎなのだが、不思議と完食出来なかった試しはない。
常に別腹とでも、いうのだろうか。幾らでも入っていくのだ。
『私達と君の胃袋は接続することが可能だ。君が食べた物を私達の胃に送ることも私達が食べた物を君の胃に送ることも、出来る。空腹とは中々無縁の生活だな……』
『にゃは、基本的に『支配の王者』が蜜柑食べているからにゃ。良くも飽きずに蜜柑ばか…にゃ? 『支配の』』
ヴェアルに続いて聞こえたクロの声が消える。
どうやら余計な言葉を口走ってしまっただけに、「向こう」で制裁を受けているのだろう。
『キシャキシャンシャシャキシャシャ』
「(あぁ…本当、そうだ)」
頭を撫でられながら恥ずかしい思いに耐える。
「姉さん止めてくれ」
「おろ、嫌?」
嫌ではないのだが、恥ずかしかった。
それを素直に言うのも別に構わないのだが、どうせ「可愛いね」とか言われてしまうので、「プリンが食べれないから」と誤魔化した。
「ありゃ、残念」
頭の位置が安定したので、再度プリンを食べていく。
途端幸せな心地に満たされていく気分だが、それはきっとプリンの所為だけではないだろう。
「そうそう、暫くゆっくりするの?」
「いや…早速明日また外出する予定が入ってる。帰りはいつになるか分からないが…姉さんはどこかに行く予定は無いのか?」
「私? お姉ちゃんはまだ少尉さんだから一人じゃ任務に行けないかな。外出したくても出来ないよ。ユ〜君は今度、どこに行くの?」
言われてみれば、レイアはまだ少尉だ。
前回の昇進試験から精神時間では一年が過ぎているので、レオンに頼めば再び試験官の要請をしてくれるだろう。
だが実際にはどれだけの時間が経過しているのだろうか。ロソンから結界魔法を授けられた際に、その時で二百二十歳だと伝えられたが、他の面々を見る限りでは皆が同じように歳を重ねたようには見えない。
後でフィーナに訊いてみた方が良いかもしれない。もし彼女もまた二百二十歳になっていれば、誕生日を忘れていたことに等しく、少々リスキーではあるが。
「俺? 俺はーーー」
行く先を告げるべきだろうか。
目指す場所に居るかもしれない人物にとって、不都合になるのではないだろうか。
いや、何も告げないで外に行くと余計な心配を掛けるかもしれない。
「ーーー異世界に少し、人探しに行くつもりだ」
具体的な場所は言わなかった。
「人探し? そっか。だから一人で行こうなんて素振りを見せてるんだぁ」
「え? み、見せてるか?」
全く覚えがない。
いつもと変わらない振る舞いを、大して意識せずにしているはずだがーーー
『女は聡く、鋭い。君の預かり知らないところで分かる何かも、あると言うことさ……』
そう言うものだろうか。今一つピンとくるものがないが、レイアは「そうだよ?」と頷いているので、彼女に分かるサインでも送っていたようだ。
「じゃあいつもの皆の代わりに悪魔の皆を連れて行くんだ。賑やかになりそう」
「言えてるよ。最近俗っぽくなってきたからなぁ」
『…貴様、誰が世俗に塗れていると云うか』
『…真っ先に反応するとは。その時点で意識をしていることの裏返しだと思うのだがな……』
『シャンシャシャシャシャキシャ、キシャン。…キンシャシャシャーン!』
主に一悪魔から、実に俗っぽい声が聞こえてくる。
早速こうも賑やかになっているのだからレイアの言葉には大いに頷けた。
「まぁ、周りが賑やかなら賑やかにやっていく。これに尽きるさ」
「えへへ…そっか。なら安心だね。皆、ユ〜君をお願いね」
返事は聞こえない。
バアゼルが口を封じたのだろうか。誰かが承知したのか、同意したような雰囲気が伝わってきたような気がした。
「ごちそうさま。美味しかったよ」
そんなところでプリンを食べ終えた。
腹も良い感じに膨れ、朝まで深い眠りに就くことが出来そうだ。
「お粗末様でした。…そろそろ帰っちゃう?」
時計を見る。
針が指し示す刻は、日付が変わる十分程前だった。
「そう…だな。日にちが変わる前に部屋に戻るって知影を待たせているんだ」
「…。そっか。ちょっと時間を無駄にさせちゃったかな? 早く帰ってあげて」
「まさか。無駄になっている訳ないじゃないか。姉さんとの時間だぞ?」
プリンも食べれて、こうして腰を落ち着けて話も出来た。間違いようも無くとても有意義な時間であった。
そんな時間を過ごせたのは、どう考えてもレイアのお蔭で、決して無駄な時間ではなかった。
「……」
「…姉さん?」
俯いて黙ってしまったレイアは、自分を呼ぶ声に顔を上げる。
「ありがと♪ 何でもないから気にしないでね。あ。後、良かったら明日の朝ご飯食べに来てよ」
何か考え事をしていたのだろうか。
それとも何かを堪えていたのか? 顔を上げた際の笑顔からは何も察せられなかった。
「是非と…言いたいけど。明日は皆で食堂に行こうと思ってる。連続で無断外出するのは流石に…な」
いい加減に正座させられそうだ。
特にユリとは『豊穣祭』以来行動を共にしているとはいえない状況だ。今日も彼女に対してしたことといえば、会話もしていなければ、ただ部屋に運んだだけ。『回路』という証拠がある以上、彼女から好意を持たれているのは確かだ。だから知らぬ顔をするというのはいかがなものか。
「…。ありゃ、じゃあお姉ちゃんもそっち行っちゃおうかな」
「ごめん」
「おろ? 謝る必要なんて無いよ。明日のご飯楽しみにしてるね」
その表情に取り繕った様子はない。
言葉の通り気にしていないように笑うレイアに見送られ、弓弦は彼女の部屋を後にして自室に戻る。
「ただいま」
小さな灯りしか点いていないということは、フィーナは先に寝たのだろう。微かに寝息が聞こえてきた。
扉のすぐ近くに控えていた知影は、薄暗闇なので良く見えないのだが、何故か謎のターンをしてから話し掛けてきた。
「あっ、お帰り弓弦♪ ご飯にする? お風呂にする? そう「お風呂」…えぇ」
考えるに、彼女は自分が求めている答え以外に聞く耳を持たない気だろうが、そこは無理にでも押し通る。
「‘動きは風の如く、加速するっ’」
残念そうに肩を落とした姿勢から掛けられた足払いを避け、“クイック”による倍速状態のまま風呂場に駆け込む。
「急げっ!!」
タイムアタックをする気分で、急いで身体を洗っていく。
シャワー浴それは、仁義無き戦いだ。急いでシャワーを浴びなければ、知影の風呂場襲来を許すことになる。
風呂場に侵入を許してしまったその時はーーー貞操の危機を意味していたからだ。
『…相変わらず凄いのにゃ。そんにゃに知影に食べられたくにゃいのかにゃ?』
「平然と咥えようとするからなっ! …よし!」
素早くタオルで髪を、身体を拭いてから寝間着に着替えて脱衣所を出る。
「……ぅぅ、そんなに全力で逃げる? 酷いなぁ弓弦」
知影は凹んでいた。
まぁいつものことなので変に気にするだけ無駄なのだが、彼女が眼を閉じサインを送ってきたので仕方無く。
『…莫迦莫迦しい。見るに堪えんな』
『…人のエゴは深いと言うことさ。それが、情念に基づくものならば尚のことな……』
『やる弓弦も弓弦にゃ。甘過ぎるのにゃ』
『キシャシャ』
やりたくてやってる訳じゃない。
しかし、別にやりたくないといえば、嘘になる。
例えば溝に飛び込むことに比べれば、遥かにマシだ。
「…んっ」「っ!?」
最後のキスで後頭部に回された手で顔を固定される。
「しまった」と思った時にはもう、遅い。
「んっ、んんっ!? んーっ!?」
蹂躙される口内。
息継ぎの時間すら与えられない弓弦の身体からは、徐々に力が抜けていった。
最中に浮かんだ言葉がある。
「上手くなっている」ーーー知影の舌使いは、いつの間にか一段と上達していた。
「っ…は…ぁ…っ」
頭がボーッとする。
瞼が重くてーーー眠たい。
「…どう? 蕩けちゃったかなー?」
意識を朦朧とさせてしまった弓弦を強く抱きしめながら、知影は彼の耳に囁き掛ける。
攻められると弱い、自分の大切な人。普段は素直じゃない分、蕩けさせたら素直になってくれる、そんな人。
「…すぅ」
彼の返事は、寝息だった。
「好き…大好き…♡ ふふふ…♪」
壊してしまいたいぐらいに愛している。
心から、骨、血の一滴に至るまで愛する人物の身体を愛撫するように、優しく撫でながら彼女は、心から幸せそうな笑みを浮かべるのだった。
「……? …風音…もう夜なのに何してるの…?」
「…クス。秘密で御座います」
「…見たい」
「企業秘密と言うものですので、残念ながら御断りします」
「…あっ、弓弦」
「あらあら、そのような嘘に騙される私ではありませんよ?」
「……」
「クス…残念でしたね」
「…騙されてあげるのが義理…人情」
「浪花節は嗜んでいませんから、理解出来ません♪」
「…つまらない大人」
「……」
「…見せて」
「ぁぁ…悲しいです。イヅナが悪い子になってしまいました…よよよ…ぉっ」
「……」
「私は…私はっ…イヅナにとってどうでも良い人間なのですねぇぇ……っ!!」
「…あ、逃げた」
「…予告。『これは…夢……か。夢だとしても、懐かしいものは懐かしく映るものだよなぁ。…そっか、あの時俺は…こうあの人に見られたんだな…。何か…恥ずかしいなーーー次回、微睡め弓弦! その時の彼は幼かった!!』…久し振りに言ってもらった♪ わーい♪ …お楽しみに」
「弓弦様…一体、次回の話で何が語られるので御座いましょう……?」
「…風音、いつ戻って来た…の?」