雨にウタレテ
太陽が迫る。
冷たい笑みを浮かべ手を振り下ろした少女の頬を伝うものが、一滴、また一滴と。
汗か、それともーーー?
「…! これは…!!」
それが何なのかを最初に気づいたのはレティナだった。
空を見上げた彼女の瞳に映ったのは、雫。
青い雫のような、水の魔力だ。
そして、ポツリと、ポツリと雨が降り始めた。
振り始めは穏やかであったが、すぐに雨量は多くなり、いつしか雨の音が空間を支配しようとしていた。
「雨…。火の魔力が強いこの空間で、雨…?」
水の魔力による現象の一つ、雨。
水の魔力が一時的に天候に大きく働き掛けた結果、天より降ってくるものだが、火の魔力が著しく活性化している状況においては、特定の条件下でなければ起こらない現象でもある。
「……っ」
火球が消えた。
いつの間にか空を覆っていた雲は、太陽を包み隠したのだ。
危機は去った。眼先の危機ではあるものの。
水の魔力が活性化しているのなら、空に佇む少女が次に使う魔法も水へと変化する。
レティナが詠唱を待機させ、スペルストーンを握り締める。上級水魔法が発動され次第、詠唱待機中のものと併せた“レジストアクナ”の二連続発動をするために。
雨が一同の服を濡らす。
森の中とはいえ、『妖精の村ブリューテ』は比較的木漏れ日の差し込む場所だ。故に雨もまた木々の間を、葉と葉の間を伝って、村へとやってくる。
多くの隙間を経由しているはずなのにここまで多く、ここまで強い雨が降るのは、それだけ森の外部で降っている雨が相当なのだろう。
「…そう、私の邪魔をするのね!」
フィリアーナは突然そう言い放った。
誰が言った訳でもないのに、誰かに向けて、この上なく楽しそうに舌舐めずりをして。
「「…ゴクリ…っ」」
妖艶だった。
少女にはそぐわない様に、男二人が生唾を飲む。
否。少女と呼ぶには、フィリアーナの身体は艶やかに変貌し過ぎていたため、最早女性とする方が正しい表現かもしれない。
「男二人! 子ども相手に眼覚めないッ!」
「「……っ」」
「守りと、攻撃の手を休めたら殺られるわッ!」
一喝をしたレティナもそれは分かっている。
身体の変貌に取り残された衣服が覆う面積は少なく、まるで娼婦の衣服だ。
女性らしさを象徴するパーツの豊かさは、レティナを上回るだろうか。
同じように女性としての美しさに溢れていた彼女の母親を知る者からすれば、あの親にしてこの娘としても良い程とするべきだが、それにしても成長し過ぎだ。
レティナは彼女の両親と旧知の仲だった。
父親とも、母親とも、友人として多くの思い出を共有してきた。
あまりに多過ぎる思い出には一つ一つに彼女の感情が糸となって絡み合っており、ふと思えば良い思い出なのだが、同時に何とも形容し難い複雑な感情に囚われることもあるのだ。
ーーーそう、あまり凹凸の見受けられなかった少女に、突如として体型で負けてしまった今のように。
「姫様なんて魔法をッ!? 止めて!!」
「邪魔する…いいえ、存在が邪魔なの。そこに在ることは罪よ、消さないといけない汚物なの。誰に何と言われようと、消すべきなの!」
「消すなんて駄目よッ! 誰も望まないわ!!」
「黙ってレティナ! 私だけが望めれば良い話…だから、黙って殺されて…!!」
奪われて負け、女として負けてきた。
悔しかったけど、それもまた良かったと後になって思えた。
レティナは呟く。
「‘こんな形で負けたくなかったなぁ’」
ここに居る全員が死に、フィリアーナだけが一人残り殺戮の雨を降らす。
非道の限りを行うのだろう。精神の崩壊した彼女からは、あらゆる枷と共に心が欠落してしまったから。
心の根底にあったはずの無意識下の願望が何かは不明。確かなのは、失くしてしまった理性が関与することなく殺人衝動と共に顕在化した、肥大した欲望に彼女は従っているだけ。
達成したい思いなのかもしれない。
ただ胸の内に隠していたかったのかもしれない。
もし仮に我に返った時、彼女はそれを良しとするのか。空虚感に苛まれたりはしないのだろうか。
感じるのは彼女だ。レティナにはどう考えても察することの出来ない予想だ。
だからこそ、といえるのか。
後になって良いと、こんな結末が思えるはずがないーーーそうレティナは強く予感していた。
「ッ!! 駄目です! 魔法も矢も受け付けてくれません! このままですと…!!」
「流石は王家の血だってことか! 嘘だろ…っ?! 森が消し飛ぶぞ!!」
日輪の次は、外なる世界の落し物。
凶兆の証の一つ、地に濡れた星の涙。
地属性封級魔法“オーバーウェルムメティオール”が迫る。
「皆皆皆皆皆ッ、殺してあげるッ!!」
森が悲鳴を上げている。
免れない衝突は、逃れられない死へのゴング。
「皆を殺してあげる。世界を殺してあげる。殺して殺して殺し尽くして…尽くすの。ふふっ、尽くすのはだぁれ? 尽くすのワタシ…。さぁ! 消し飛びなさい!」
衝突したら待つのは木っ端微塵。
及ぶであろう痛みは、想像も付かない。
レジスト系の魔法を使える者はこの場に居ない。
例えデイルもいえども、封級クラスの魔法を防ぐごとは非常に難しい。
現に隕石は、彼が張った多重結界をまるで無い物かのように破壊している。
遂に最後の結界が破壊された。
大質量が、すぐそこに。
「展開せよッ!!」
結界が展開する。
『スペルストーン』を用いての高速詠唱で発動したのは、“耐衝の鉄壁結界”というデイルが使え得る最強の魔法だ。
使用した『スペルストーン』は実に三個に及ぶ。これもまた、封級クラスの魔法のためで、本来の詠唱ならば戦闘が始まった直後に唱えようやく終わるといったところか。
「攻撃じゃッ! 守りはこの老いぼれに任せておけ!」
長くは保たない。
封級の魔法には多くの魔力が必要であり、フィリアーナとの戦闘回数を重ねていたデイルの身には、殆ど魔力が残されていない。そのためこの魔法はこの戦闘で使える最後の魔法だ。
「封級でいくッ!!」
最後の攻撃の機会。
だからこそ、ガノンフ達もまた次の攻撃に全霊の魔力を使うことを決めた。
「いきましょう!」「分かったわ! これも使って!」
封級魔法。
下級、中級、上級そして、封級ーーー人の身には扱うことの難しい魔法であり、人間の中において『失われし魔法』とされている階級の魔法。
もっとも、使えないのは人間ぐらいなもので、魔物にも使える存在は居るとされている。
威力は使用者によって変化してくるが、基本的に上級以下の魔法とは一線を画している分、強力なものばかりだ。
無論それ故、容易に扱えるものでははいが、ハイエルフともなれば一つ二つの封級魔法を扱える者も散見出来るようになる。散見だからこそ、フィリアーナと対峙している四人は、全員が封級魔法を使うことが出来る実力者といえる。
『炎よ、猛る炎よ! ここに集え、集いて化せ! ルニヴオエサ、ケスシミヒナグイハタ、エリョジュヴオエリケクユントボセ、ギエリョウヒスハケガヴロ!!』『風よ、吹き荒ぶ風よ、ここに集え、集いて化せ! クウナハムキセビナクヘンエバテゾヒクチビヒハタ、エチャウヒスハゾキスヌヒレダシキテエバク!!』『水よ、流るる水よ、ここに集え、集いて化せ! シュウキヒセサカリセテヂケリュハウモウソ、トスヌショエザエタメケゲヒンウモウソ、ンスユウヒゼム!!』
高まる魔力、紡がれる言葉。
封級クラスからは魔法の詠唱に『ルーン語』と呼ばれる特別な言葉を用いる。独特な発音を持つ言語なのだが、言葉が持つ音、及び一句一句の言葉の意味が魔法との親和性を強く有している。
本来魔法詠唱には欠かせないものなのだが、どうしても詠唱の語句が長くなってしまうために用い辛い側面があった。
かつてはハイエルフの標準語であったのだが、他の“ヒト”との交流において不向きであるため現在は詠唱でのみ用いられている。
それでもハイエルフにとっての元標準語なので、親が子に、最初に教える言葉は『ルーン語』なのだ。
ーーーそう。周囲の人間が知り合いの子どもに最初に教える言葉もまた、『ルーン語』
「っ」
「姫…様…!!」
詠唱は完成した。
発動待機状態へと移行した魔法を構えようとした男二人が躊躇う。
この一撃が、いずれかの絶望へと向かわねばならないのか決めるのだ。
嫌だ、殺したくない。でも殺されたくない。
しかしフィリアーナを魔物に変えさせてしまうのは、避けたい。そのためにはーーー
「…いくわよ…ッ!!」
「…っ、あぁ…ッ!!」
「やりましょうッ!!」
迷ってはいられなかった。
「ぐぉ…っ!!」
デイルの足が地に沈み始める。
結界が今、軋みを上げて崩れようとしていた。
三人はそのまま魔法の矛先を、少女へ向ける。
「「「はぁぁぁぁぁぁぁぁッ!!!!」」」
赤、緑、青。それぞれの巨大な魔法陣から溢れ出す膨大なエネルギーが少女にへと向かった。
「燃やしてくれッ! 姫様の邪なる源をッ!!!!」
赤は龍。
紅蓮の翼を抱きし灼熱がフィリアーナの身を喰らわんと迫る。
「吹き飛ばしてください! 姫様の身を焦がす絶望をッ!!」
緑は鳥。
天高く飛翔した美しい巨鳥が起こす希望の風は、鋭い風切り音を西より立てた。
「逝かせてあげて! 姫様が、姫様がまだ姫様である前にッ!!」
青に形は無い。
不定形の水が少女の身体を包み込む。
「ッ!? こ、これ…っ!?」
例えフィリアーナが多くの魔法属性に覚醒し、無数の防御魔法を用いることが出来たとしても、実力者のハイエルフ三人分の封級魔法を無効化することは不可能。
「…っ、やってくれるじゃない…っ!!」
捉えた。
回避され、防御されることを防いだ。
ならば次は、魔法をどういった形態で放てば止めと出来るのか。
三人が選んだ答えは、魔法の合成。
誰が先にではなく、誰もが先にフィリアーナへの止めを願った。
封級の合体魔法ーーー未だ行ったことのない試みだが、討つという形で少女を送り出すのはこれが最上の方法だった。
口々に名を叫ばれた少女は、秀麗な顔を憎悪に歪め自身が発動させた封級魔法による崩壊を目指す。
「ぐぅ…やりますな…ぁッ!!」
結界が砕かれた。
デイルが膝を付き、その意識が失われる。
「「「はぁぁぁぁぁぁぁぁッ!!!!」」」
少女の身が炎龍に喰われると、急速に熱された水魔力が反応し大爆発を起こした。
更に水魔力の爆発の中を鋭い風が切り裂いていく。
轟音と、爆風と、少女の悲鳴。
それは徐々に天へと昇っていく。
そしてーーー何も聞こえなくなった。
「……」
終わった。
「……」
輝きを失いただの石になった『スペルストーン』が地面に転がる。
魔法の効果も失われたのだ。
「…二人共…ごめんね…私姫様を…あなた達の娘をこの手で……っ」
清々しさはどこにもなかった。
寧ろやってはいけないことをやってしまったような、そんな罪悪感だけがそこにあった。
姫が死に、王家の血が途絶えた。
ハイエルフという種族の行末が決まった瞬間だった。
「…なぁ。これからどうする?」
村を綺麗にして、死体があれば埋葬して、森の中を見回ってーーーやることはあるにはある。が、どれをやるべきなのかガノンフには決められなかった。
俯いたままレティナは肩を震わせている。
スートルファは気絶したデイルの具合を診ている。
「(…気が気ではない…か)」
悩むよりも行動をするしかない。しかし彼は彼で気が気でないのか考えが上手く纏まらない。
どうしようもなくて空を見上げると、温かな光が見えた。
衝撃に雨雲が掻き消されたのか、木漏れ日が差し込んでいた。
「…?」
木漏れ日だけだろうか。
もっとそれ以外の何かが長老の樹の梢を照らしているような気がした。
「お、おい…」
あれは、何だ。
光球に包まれた、あれは。
「す、スートルファっ、レティナっ!! あれを見ろ!! 見てくれっ!!」
見間違いか、いや見紛うはずがない。
あの落ちてくる光球は、その中に居る者は。
「…ぁっ」
「嘘…えでも、えっ」
金糸のような髪に、透き通る美しい白い肌。
母親の胎内で眠る赤子のように蹲っているその人物の名はーーー
「「「姫様ぁっ!!」」」
フィリアーナ・エル・オープスト。
天に送られたばかりのはずだった、ハイエルフの姫。
疑問は置いておく。それよりも、今眼の前にある現実を歓迎しなければならないのだから。
「……?」
薄く開かれた瞼から覗いた翡翠色の双眼が、三人を順に映していく。
「…疲れてるみたいね。皆、加耗症かもしれないわよ?」
元のフィリアーナだった。
親しい者に見せる穏やかな笑みは、間違い無く普段の彼女のものだ。
お前の所為だよと冗談交じりに言ってやりたいが、それは自重した。
「うーん…と。…おかしいわね。私居眠りした記憶はないはずだけど…頭がボーっとしてる気がする。…そうだ。訊いてレティナ。ケルヴィンったら相変わらず最低なのよ」
「…そ、そうなの…。今度は何をされたの?」
「人のことを考えず自分のことばかり考えたような言葉を言って、馬鹿だと思わない? 変に気を使う暇を設けるんだったら、もう少し言う前に準備してほしいわよ」
会話の最中レティナが鋭くアイコンタクトを送る。
どうやらフィリアーナにはケルヴィンと会ってからの記憶が無いようだった。
これは、どうしたものか。
変に話を『闇堕ち』について持っていくことは出来ない。
それどころか、村に起こったであろう惨劇を見させる訳にはいかない。
アイコンタクトを受け取ったガノンフとスートルファは、すぐに行動に移った。
「‘村長、すまんっ’」
まずはご老体を近くの茂みに隠す。
こんな所で昼寝をしているという説明では無理があり、かつ傷だらけなのだから追及を免れることが出来ないだろう。
無理を承知で言うのならば、転んで気絶した。だろうか。どうにも無理しか無いであろうが。
「‘村の様子を見に行きましょうっ’」
次は村の様子だ。
戦闘によってうやむやになりかけたが、まだ彼等は村の様子を確認していない。
どのような光景が広がっているのかと緊張を覚えつつも二人は村へと向かう。
「……」
「(…丸見え)」
そしてフィリアーナに後ろ姿をバッチリと見られるのであった。
「……うーん」
「む? どうしたのだ知影殿」
「フィーナが使った魔法なんだけど…何となく覚えがあるような気がする」
「うむ? …確かに言われてみれば受けた覚えがあるような、ないような……」
「おーおー、これはアレだな。思い出すために昔の話でも見てみれば良いんじゃないのか~?」
「あ、隊長さん」「隊長殿」
「覚えがある時は昔の話を見る。それに限るな~! 以前俺達三人がオープストちゃんと戦った時の物語、あったかどうか、それで分かるはずだ~」
「…露骨だな、うむ」
「…まぁ、ねぇ?」
「お~し、予告だ~! 『この老いぼれの身体をどうしてくれたのだ。…と、問い詰めたいが、二人の判断は間違ってはいないはず…じゃ。…しかし姫様や。どうしてそうも瞳に怒りを湛えているのかのうーーー次回、心のカギ』…はたして、本当にそうなのかのう?」
「…この三人での予告、随分と久し振りだね」
「うむ。中々人が多いからな。この場所は競争率が高いのだろう」
「どうせ気分と言うか、その時その時で適当に決めているんだろうけどね~」
「…うむ」
「はっはっは! 出れるだけ儲け物だ~!」
「…弓弦と会いたかった」
「…何話会っていないのだろうな」
「まぁその内会えるだろ~」
「弓弦~、弓弦~」
「…うむ、アンナ殿も怒り心頭と言った様子だったな」
「お~? そうだな。出番が無いと怒りたくなるものだしな~」
「…どうしよう。話が無駄に延びてるよ」
「終わらせるぞ」
「終わらせよう」
「出番終わるが良いのか~?」
「書くのも疲れるんだよ。夜だし」
「夜中だな」
「肌の大敵夜更かし厳禁。じゃあ寝よう。寝たらきっと寝ただけ弓弦に会える日が近付くから……」
「そうだな。隊長殿、私も帰るぞ……」
「お~。…知影ちゃん、珍しく落ち着いてたな~」