多過ぎるギョウム
穏やかな、和やかな食事の時間が二人の間を流れていく。
会話の必要性を感じないのだ。ただただ非常に居心地が良く、家族と食べているような安心感に弓弦は浸っている。
「えへへ…相変わらずユ〜君の卵焼きも美味しいね。お姉ちゃん嬉しいな♪」
それが、食事が始まってから初めての会話だ。
「はは、ありがとう。だがそう言う姉さんの銀ジャケも相変わらず美味しいよ」
「そっか。嬉しい…っ」
笑顔を見せたレイアは丁寧な箸使いで焼魚の骨を取り除いて、食べ進めていく。
「そうそう、旅行はどこに行く予定なの?」
「あぁ、任務戦闘任務と続いていたから、何も考えずにゆっくりとブラブラする予定だよ」
「ありゃ、答えになってない。別に私に対して誤魔化す必要無いと思うけどなー?」
「うぐ…」
「当ててあげようか?」と片眼を瞑ってみせるレイアの提案に頷くと、小さな声で呻いた彼女は続いて、
「多分だけどね。予想が付いているんだ…雪国でしょ?」
見事に旅行先を当ててみせるのだが、コート等の服を見れば簡単に分かるので、大して驚きはしない。
寧ろそれよりも彼が驚かされたのは、今着ている服について、どうして今日着ていく服が分かっていたのかであるからだ。
「えっへへ〜、お姉ちゃんの勘だよ♪ ユ〜君もフ〜ちゃんも、何となくそんな服を着そうだったから用意しただけ」
「お姉ちゃんの勘って…そっちこそ何か色々とその言葉で誤魔化していないか? 俺やフィーに内緒で何かをこっそり覗いてたりしそうだけど」
「あっ、ユ〜君それ酷くないっ!? 幾ら何でもお姉ちゃん、許可無しに覗いたりはしていないよ!!」
「いや…『忘れ物をしていないかどうか確認しないと、向こうで無かった時にユ〜君困っちゃうものね』って要らない気を回してそうな光景が浮かんだんだけど……」
頬を膨らます眼の前の女性なら普通にやりそうなことなので、言ってみたは良いものの、
「えっへへ〜、ご飯食べ終わったら確認して良い? お姉ちゃんの感覚で、無いと困る物だけ確認しちゃうから」
どうやら自ら墓穴を掘ったようであった。
「許可ちょ〜だい? ユ〜君時々変な物忘れしちゃったり…しそうだから」
弓弦の脳裏に思い出される数々の忘れ物。
小学校の時、ずっとランドセルに入れていたはずのリコーダーが何故か入っておらず、家に帰ってから机の上に置かれているのを発見し、首を傾げた記憶。
また中学生の時、これまた鞄に入れていたはずなのだが、水泳の授業前の放課に水着が入っておらず、一番上の姉が学校に届けてくれた記憶。その日については何故か、夜に二番目三番目の姉が揃って友人宅にお泊りに行ったことも記憶にあった。
結局両名は翌日の晩に帰宅したのだが、二人共終始萎縮していたので、夜な夜な夜這いに脅かされていた弓弦は、二日連続で静かな夜を過ごすことが出来たのであった。
ーーー鞄に入れっ放しの品がどうして無くなったのかは未だに謎であるが、学校で忘れ物として、平常点の減点対象になったのだけは間違い無い。
「はは、良いって別にら。二人が起きてから三人で用意するから、わざわざ姉さんの手を煩わせるまでもないよ」
「ありゃ、そ…っか。うん、ユ〜君立派! 凄いっ」
笑顔が一瞬だけ翳ったように思えたが、次の瞬間には元の彼女に戻っていたので弓弦は眼を瞬かせる。
「おろ、どうしたの? あ、お留守番する皆のケアは任せておいて♪ 昨日みたいに、残された女の子達がユ〜君に迫るようなことにはならないようにするから。お姉ちゃんに任せなさいっ♪」
「…ん、任せる。さて…食器洗わないと」
「おろ、良いよ私が全部洗うからユ〜君座ってても。美味しい卵焼きのお礼♪」
「いやそれなら俺も、美味しい朝食のお礼で姉さんを手伝いたいな」
「えへっ、そか。じゃあ手伝ってもらおっと」
エプロンを着用して洗い場に立つ。
「あ、そうだ」
弓弦は洗われた食器をレイアから受け取り、布巾で拭いている。
微かに開かれた窓から風が冷気を運んでくる。
寒さを感じる訳ではないが、涼しいと感じるよりは、どちらかというと冷ための風だ。
「今朝起きた時、口の中に不思議な味が残ってたんだ。二日酔いを覚悟していた割には二日酔いも無かったんだけど…あれもしかして姉さんの仕業か?」
「え…わっ!?」
突然の言葉の内容に驚いたのか、割れずにゴトンと皿が、彼女の手から滑り落ちる。
「…えっと…どうして?」
困惑気味の表情で落とした皿を拾って、再度皿を湯で流していくレイアは、やはり困惑気味の声で弓弦に訊き返す。
「…姉さんが作りそうな味がしたような気がするから…だな。それに、俺が寝ている間にそんなことが出来るのは姉さんだけだ。他の皆は酔い潰れていたし…あぁ、違ったら良いんだ。正直言ってしまえば少し残念ではあるんだけど」
仔細な理由は説明し切れないが、何となく、彼女しか有り得ないと弓弦は思ったのだ。
「…。まぁ良いや。俺は少しレオンと話してくる。旅行に行くこと伝えるついでに、任務について報告しなきゃいけないことがあるから」
「あ、うん、行ってらっしゃーい……はぁ」
弓弦が部屋を出て行くと、出て行く際に彼の身体から溢れた魔力が窓際に集って狼の形を取る。
様々な感情を込めた溜息と共に彼女は、「サービス精神旺盛だね」とその存在の前に立って微笑む。
「頂戴しておいて何ではあったが、十個程彼にも食べてもらった。私では些か食べ切れなくてな」
「驚いちゃったよ。ユ〜君がまさか味を覚えていてくれるなんてさ…変に動揺しちゃった……っ」
昨晩レイアが作った薬味団子。
それは弓弦を二日酔いさせないように彼女が、一つ一つ丁寧に練って作ったものだった。
本人が寝てしまい、その存在すら明かせなかったものだから、直接彼に食べてもらうことは諦め「せめてユ〜君の胃袋の中に入ってくれるのなら」と、半ば自棄でヴェアルにあげたものがまさか、十個も直接弓弦の口に入っていたとは思わず彼女は息を飲む。
胸の中に広がるものがあったのだがしかし、深呼吸と共にそれを押し込める。すると高鳴っていた鼓動が収まっていき、同時に感情も落ち着きを取り戻していった。
「…あの味は君の味であって君の味ではない。が、正しく君自身の味であり、込められたモノは全て、偽りの無い君自身の真実だ。もっとも…それを彼がどう受け取ったのか、それは私にも分からん」
「……」
「だが彼は君の中の君をどこかで認識しながら、それでいて君という個人を、間違うことの無い君として認識している。今回もまたそれに漏れない事象ならば…釣り合っているのはどちらもまやかしの分銅だ。恐ろしいな……」
淡々と自身の言葉を述べていく狼悪魔ヴェアルの言葉は、理解力を求める場面が多い。
彼の言葉の全てを理解するのは、例えセイシュウであっても、知影であっても不可能なことであるだろう。
「…どうしたの? そんなこと私に言っても良いの?」
だが彼女ーーーレイアはその言葉の意味全てを理解していた。
優し気な瞳と声音の裏で光る、何か。それを静かに見詰めてヴェアルは、「彼女が一歩、踏み出せたからな。全員了承の上故に気にしなくても良い」と言葉を残して姿を掻き消した。
その気配が完全に消えてから彼女は瞑目して、何かに意識を集中させる。そしていきなり眼を見開いた時、彼女はまた別の意味で弓弦に驚かされることになった。
暫くその事実と向き合うために自身の身体に眼を落としていた彼女であったが、カーテンとその髪が風に吹き付けられ持ち上がった瞬間、
「……」
外に眼を遣った彼女の表情が、普段とは正反対の色に一瞬変化したのは、誰の眼にも映ることはなかった。
* * *
ノックと共に隊長室に入室した弓弦が見たのは、
「お、お〜お〜…久し振りだな〜……」
書類の山に埋もれるレオンであった。
数にして数百、数千枚といったところであろうか。山のように積み上がった書類はレオンだけでなく彼の机までも押し潰してしまいそうだ。
『溜め過ぎなの……』
『にゃはは。大方最近まで書類郵送をストップされていたからにゃ。…少しだけ手伝うのも悪くにゃいかもにゃ』
『…確かに悪くないかもしれないの。ユール、どうするの?』
クロとシテロ、脳内に響く二悪魔の声。
弓弦は少しだけ思案してから「二人共手伝うか?」と訊くと、肯定の返事が返ってきた。
「何の書類をやっているんだ? 俺が手伝えるやつなら、外行く前に時間潰しがてら手伝いたいんだが」
「お、良いのか!?」
レオンがガタッと席を立つと、パラパラパラと紙の束が衝撃で、床に落ちようと宙を舞う。
「あぁ、これから面倒掛けるかもしれないからな」
「お〜! そうかそうか! すまんな〜」
それを念動魔法“サイコキシス”で全て停止させてから、腰の高さまで動かしてそれを纏めてレオンに手渡す。
「謝罪文は全て俺が書かないといけないからな〜、お前さんは承認印の押印書類だけを頼むぞ〜」
「了解だ。じゃあ適当に持って行かせてもらうからな」
積み上がった書類の山の一角を取って、それをソファの前の机に置くとレオンから承認印を受け取った。
「後二つ頼む」
「後二つ〜? んじゃ持ってけ〜」
追加で二つ受け取ると、彼の身体から二色の魔力が溢れる。
「きゃっほー♪」
悪魔龍と悪魔猫が顕現した。
子龍から姿を、美しい女性の姿へと変えたシテローーー正確にはその一部を見て感嘆の息を吐くレオンだが、頭を振って煩悩の退散に努める。
「やり方は分かるな? 眼を通して問題無いと判断すれば、右下に押印を頼むぞ」
「にゃはは。姿を借りるけど良いかにゃ?」
「あぁ、構わないぞ」
「にゃはは」と笑ったクロの姿が変化して、銀髪琥珀眼の弓弦の色違いの姿になる。
「じゃあ始めるか」
「なの」「にゃ」
そして隊長業務補佐が始まった。
「また一段と魔法の扱いが上手くなったようだな〜」
スラスラと万年筆を動かしながらレオンが口を開く。
「そうか? 剣の腕前は上達したと思うが……」
「おっ、ならこれ終わったら俺と手合わせしないか〜? かなりの量があるがお前さんが居れば、夕方には終わりそうだからな〜」
「はは、嬉しい申し出ではあるがまた今度にしてくれないか? さっき言っただろう? この後用事があるんだ」
「え…おい、まさかお前さん今日一日中ですら…もう予定が詰まっているのか〜?」
焦りに冷汗を滲ませているレオンの顔を見詰めて「そのまさか
だよ」と弓弦は首を振る。
「休息を兼ねて暫く旅行に出るつもりだ。今は二人の準備待ちだから、ここに来たのはそれまでの間せめて手伝いをと思ってだ。一日はどう考えても無理があるな」
「…忙しいな〜。今日一日ぐらいはゆっくりしても良いと思うしどうせなら〜、これ、夜に行きたかったんだがな〜……」
「あ〜」と言葉に窮した弓弦としても、レオンやセイシュウ等と酒盛りをしたい気持ちはあるのだ。
彼も男だ。美女達と酒を飲むことは好きだ。好きではあるのだが、気の置けない男同士で酌み交わすことも気楽で好きなのだ。
故に昨晩共に飲めなかった分、今晩共に酒屋に赴くことも彼としては吝かではないのだが、先約がある以上首を縦に振ることは出来なかった。
「まぁ、今手伝っている分で大目に見てくれ「終わったの」なら、新しい書類を持って来て、続けてくれ。…多分このペースだと、三分の一程度は終わらせることが出来るはずだからな」
「…いつまでだ〜?」
「さて…いつ帰るのかまでは分からないな。まぁ何かあったらすぐに戻れるようにはしておく。…それにこれは本来お前の仕事だろう? レオン、隊長? それに自分が任された仕事が出来ないようじゃ、人として残念になってしまうと思うぞ?」
「ぐはぁっ!?」と懇願の姿勢を一蹴されたレオンが机に突っ伏する。
「とまぁ冗談はさておきだ。そこにあるのハンさんからの書類だろ? そう言うの手伝う訳にはいかないからな」
「それはそうだがな〜…って〜、お前さんこれ…良く分かるな〜?」
「まぁ…あの人の文字は見慣れてはいたからな…ほら、その部分とか」
オルレアとして行動していた際、ヨハンの仕事を手伝っていたりもした弓弦は言葉通り、ヨハンの文字を見慣れている。
特段ヨハンの字は癖字ではないので、レオンは内容を確認しないと他の自筆書類と見分けが付かないので、遠眼に一瞥しただけで差出人を当てられる弓弦の言うことが今一つ分からなかった。
「…う〜ん、さっぱり分からんな!!」
そしてこの決まり文句を言うレオン。
「…お前さんはあの人と、どれぐらい一緒に居たんだ〜? あのオルレアと言う嬢ちゃんは大分親し気であるように見えたんだが〜……」
「あ〜…オルレアな。あぁ。結構頻繁に会っていたみたいだけど俺は良く知らないな。彼女とは別行動が多かったし」
明らかに眼が泳いでいる弓弦の姿に、額に手を当てる二悪魔であったがレオンの視界には映らなかったようだ。
「そうなのか〜。んでお前さんはどうだ〜?」
「俺は城で擦れ違ったら会釈する程度だ。せ…っ、アンナに、接触は極力避けるように言い付けられていたからな」
「ん〜? ならどうしてあの人の文字を見慣れているとか、『ハンさん』だなんて呼ぶんだ〜?」
「? いや俺はちゃんと、ヨハンさんって呼んだつもりだが? 多分ョハンさんって言ってしまったから、声が小さくて聞こえなかったんだろうな」
明らかに見苦しい言い訳ではあったが、レオンは取り敢えず納得したようであった。
「手合わせとかはしたのか〜?」
「…いや、俺はしていないな」
本来ならば肯定すべきであるのだが、戦ったのは『オルレア』であって弓弦ではないので間違ってはいないので否定する。
「そうか〜。あの人はおっかないぞ〜? 全力を出したらとんでも無い芸当が出来るからな〜……」
「無詠唱魔法か」と、内心弓弦は粒やいた。そして青褪めたレオンの表情から、彼とヨハンは一度手合わせをしたことがあるのだと仮定した。
自分の手元にある最後の書類の押印が終わる。それをレオンの机に置くと、扉が叩かれた。
「入るよレオン」と扉を開けてセイシュウが入って来た。
「やぁレオン。弓弦君も…今日はまた、早いね。朝から隊長業務補佐かい?」
「あぁ、これからまた暫くここを離れるからな。迷惑を掛けるお詫びみたいなものだ」
「忙しいね」と、セイシュウ。
「昨晩は部屋の外にまで、楽しそうな声が聞こえるぐらいのパーティーをしていたみたいだけど、明け方も凄かっ…ん? レオン、何が凄かったんだっけ?」
「いや、突然俺に聞かれても意味が分からんぞ〜。さっぱり分か「あれっ!?」…お〜お〜、挟まないでくれよ〜」
明け方といえばもう、例のアレ以外に思い浮かばず、本気で分からない様子のセイシュウを見て一人、安堵する弓弦。思い出したのか彼の顔が、赤くなっていく。
「おかしい…隊員居住区画で何かがあったような気はするんだけど、思い出せない……」
「珍しいな〜、お前さんがど忘れするなんて」
「…何かレオンに伝えたいことがあったはずなんだけど……」
「性急なことじゃなければ別に、良いんじゃないか? セイシュウならその内思い出すだろ」
「弓弦君に関係があること…のようだった気がするんだけど……」と首を傾げるセイシュウには悪いと思いつつも、本気で思い出してほしくない彼は話を流そうと、彼が手に持つ書類について訊いた。
「この書類かい? 業務の追加分だよ」「‘朝、何かあったの? さっきまで寝ていたから知らないの…’」
「はは、かなりの量だな」「‘にゃはは。朝弓弦が寝惚けて、盛大に転けたのにゃ。凄い音だったにゃあ……’」
こちらはこちらで、知られてほしくない存在にも知られていない様子なので、その様子に胸を撫で下ろす弓弦だ。
「お〜い…勘弁してくれ〜ぇ。やっとこさ終わりそうだったんだぞ〜?」「‘納得なの。ユール今日ちょっと、フラフラしているからどうしてか謎だったんだけど、解決したの’」
「終わると思うのかい? 一ヶ月分っていったら相当なものなんだから」「‘にゃははは。まぁ、息抜きの旅行に行く以上、暫くはそんにゃ日が続くと思うのにゃ。…温かい眼で見守ると良いにゃ’」
「いやだがな〜! 最初あれだけあったんだぞ〜? あれで全部だと思うのは当たり前じゃないか〜!」「‘なの。温かい眼で見守るの’」
「机に乗せられ切れなかったんだから仕方無いよ。人様からの書類を床に置く訳にはいかないよ。そこの机の上にもギリギリまで乗せてたんだから」「‘にゃは。じゃあ早速してみるのにゃ’」
同時に二箇所で繰り広げられる、全く方向性の異なる会話を犬耳が拾う。ようやく片方の会話が終わりそうなので、一つの会話に集中したいと思いたいのだが、
「「‘温かい眼……’」」
「……っ」
温かい視線と生温かい視線が背後から向けられるものだから、集中なんて出来るはずもない。
上手い具合に誤魔化してくれたクロには感謝の気持ちがあるのだが、彼の発言の一部は弓弦に、薄ら寒い何かしらの感覚を知覚させた。
「まぁつべこべ言わずに、手を動かさないと終わらないよ…っと、誰か来たみたいだね」
再び叩かれるドア。
「入るわよ」
その声は、隊長業務補佐終了の証だ。
「手伝いはこれで終わりだな。取り敢えず…っ! これだけは終わっているから後は自分でな」
承認し終えた書類を全てをレオンの机に置くと、入って来た人物を迎えた。
扉が開かれる共に二悪魔の姿が消えたので、レオンとセイシュウは誰も居なくなった空間を見詰め眼を瞬かせる。
「準備出来てるか? フィー…セティも」
隊長室に入って来たフィーナの背後から、ひょこりとセティが出て来て頷く。
「えぇ、勿論です♪ さぁ、他の皆が起きる前に早く行きましょう、あなた。荷物は持って来ていますよ」
「あぁそうだな。じゃあ隊長業務、頑張れよ、隊長」
「お、おい…これだけの量を見てそれを言うのか〜?」
「はっはっはっ…頑張れよ、隊長」
バッサリとレオンの言葉を切り捨てるかの如く、弓弦は柔らかい微笑を浮かべた!
「そこを何とか! 頼むっ!!」
レオン必死の懇願!
「駄目ね、任された仕事すら出来ないなんて、人…いいえ、知的生物としてどうかと思うわ」
「ぐはぁっ!?」
撃沈、圧倒的撃沈である。
「フィー、流石にそれは言い過ぎだ」
レオンは似たような言葉を数分前に弓弦から聞いているので、ジト眼を彼に向ける。レオンとしては可能ならば引き留めたい気持ちもあったのだが、
「…旅行…早く行きたい」
純真無垢な瞳を上眼遣いにして、弓弦とフィーナにおねだりをしているセティの意思を無碍にすることは出来なかった。
「まぁ、当然だよね。あそこで行かせなかったら僕は君を殴り飛ばしていたよ」
彼が項垂れながらも、「楽しんでこいよ〜」と三人を送り出せたのは彼女のおねだりに依るものが大きい。
そうして三人が隊長室を去ってから、レオンの苦行が始まった。
一応セイシュウが手伝うことになったが、書類の数が数なので徹夜覚悟のレオン。当然眼は死んでいる。
「…これは無いだろセイシュウ…やっとこさ終わると思っていたものが終わらないって、地獄だぞ〜?」
「まぁまぁ、代わりに僕が夜まで付き合うから良いじゃないか。一人よりはマシだろ?」
「一人よりは、だからな〜? 三人掛かりで手伝ってくれた弓弦達の作業量には及ばないだろ〜……」
「…。そう言えばさ、さっきのオープスト大佐…いつもと変わってなかったかい?」
愚痴モードのレオンの言葉を無視してのセイシュウの言葉であったが、「言われてみれば〜……」とレオンは訝し気な表情を見せる。
旅行に行くのだから上機嫌であるのは当たり前だといえるであろう。しかし、彼女を見たセイシュウは何故か、引っ掛かりを覚えたのだ。
さらに、それが今朝の記憶が無いことに関連しているような気がする彼は今日、フィーナを見てからずっと一人考えていたのだ。
「何か無いかい? 今日の彼女を見て思ったこと…何でも良いんだ。凄く大切なことであるのだけは間違い無いって確信しているのだから」
どうしてもレオンに伝えたかったことが、この隊長室に入る前まであったのは間違い無い。それはセイシュウの中で確定している事実なのだ。
早朝、隊員居住区では何かがあったはずであり、彼はそれを目撃ーーーあるいは、聞いていた。故に、何らかの要素によってその事実を知らないことにされた。そのような気がしてならなかったのだ。
解き明かす糸口は先程までこの場所に居たフィーナにある。弓弦とフィーナに関係することであるとセイシュウは睨んでいた。
「…そうだな〜…いつもよりも眩しく見えたような気がするな〜」
「眩しい…ね…ん?」
「眩しい…眩…しい……?」と繰り返した彼の頭に閃いたものがあった。
「そうだ! 肌の艶が良かったんだよいつにも増してっ! …だけど化粧をしている感じじゃなかったんだよ。彼女が化粧をしている姿見たことないからね…リィル君と違って……」
「ま〜素材が良いからな〜。化粧なんてしたら逆にその良さを台無しにしかねんぞ〜。…ま〜、リィルちゃんはリィルちゃんで別嬪さんだから良いじゃないか〜」
フィーナという女性の美しさを染み染みと実感し、溜息を吐く二人。
「…でもあの肌の艶は、絶対何かあったね。確信したよ」
「確信と言ってもな〜。一日で化粧以外であそこまで肌の艶を良くするものってあるのか〜?」
「あるんだよ…あるんだよっ!!」
自信満々にレオンに迫ったセイシュウは、面白そうな笑みを浮かべて一人納得している。彼の脳内では、既に一つの謎が綺麗に解けていたのだ。
「間違い無くあの二た」
突然言葉に詰まった親友の様子にレオンは手を止める。何となく次に彼が発するであろう言葉に察しが付いていたからだ。
「…何だっけ」
「お、おいっ!? お前さんとうとう呆けてきたんじゃないのかっ!?」
真面目な顔で考え込む彼の姿に焦るレオン。
学生時代より天才の名前を欲しいが儘にしていた彼が、一日に何度もど忘れをしてしまうなんて、もう呆け始めたとしか思えなかったためだ。
しかしその後結局セイシュウが思い出すことはなく、妙に悶々とした心地のままレオンは執務机に向かい合うのだった。
「…信じられませんわ。私の居ない所で私を蔑むなんて……これは、許せませんわね…!」
「あらあら…左様で御座いますか。隊長様と八嵩様の御二方にはこの後に制裁が待っていると」
「そうでしてよ。言っても分からないような方は殴って教えてあげなければなりませんわ。鞭で縛り上げるのも良くってよ」
「一種のコミュニケーションと言うもので御座いますね。暴力を振るうことがアフローチに繋がるとは考え難いのですが、世には様々なパリパリローションのアフローチがあると、そう言うことですね」
「…アフローチ? パリパリローション? …アプローチとバリエーションの間違いではなくて? アフロと聞きますとどうしてか、静かに威圧されているような感覚がしますし、パリパリローションは既にローションでないと思いますわ」
「クス…失礼致しました。横文字は難しゅう御座いますね…私は現状自分が使える魔法の名前で精一杯ですので、御自由に用いられる方々が羨ましいです」
「言語は育ちの環境に左右されますものね。心配ありませんわ、まだまだ天部中佐は…お若いですのできっといつか自由に使えるようになりますわ」
「うふふ、ありがとう御座います♪ ではセティも居ませんし…単語帳と向かい合うことに致します。それでは……」
「えぇ。日々の勉学は大変身になりますわよ。頑張ってくださいまし」
「はい。失礼致します……さて。予告で御座いますね…『…旅行…三人だけで旅行…凄く楽しみ。…三人だけでの外出はあまりないから……凄く楽しみ。…雪、綺麗だと良いな。…楽しい旅行になると良いな。…思い出…沢山作りたいーーー次回、解放感と響くコダマ』…嫌じゃないから。…寧ろ…嬉しいから。…そうなのですよね…私は今回、仲間外れで御座います。当然出番も減りますので…寂しゅう御座いますね。…ですが、今回はフィーナ様に譲らないと不公平になってしまいますので平穏な日々を満喫すると致しましょうか。…暫くは…一日を通して一人の日々が続きそうですね……」