刃が煌めく
「甘いわァッ!!」
弾き飛ばされた三人は、体勢を整え切れずに床に叩き付けられる。 既に身体は満身創痍と評しても違わない程に傷付いており、乱れた髪や、切れた服、その下から滴れる血に、意識が霞む。
戦っていると分かるのだ。これまで倒して来た【リスクX】は運良く、幸運が積み重なって討伐出来たようなものであり、それは自分の力だけで勝てたのでは決してないのだと。
「っ、二人共、跳べ〜っ!!」
ディーの焦った声に、弾かれるように顔を上げた知影と風音はその場を飛び退く。すると、魔法陣の輝きの後に床に黒い沼が現れる。
「あ、これ前フィーナが使った…」
それは知影にとっても覚えのある魔法だった。広がっていく闇の範囲より外れた三人の視界の中で、まるで水面のように生じた闇は地獄の門だ。
「“ダークハザード”…飲み込まれたら即死とかそんなタイプの魔法だよね…危ないなぁ」
「詳しいね。その通り、こ〜れは闇属性中級魔法“ダークハザード”…並〜みの魔術師だったら猶予があるけど、【リスクX】の魔力だったら、足を取られた瞬間、死神様が眼の前で鎌を振りかざしているんだな」
「っ…懐かしゅう御座いますね。 そのようなこともありました…っ」
「フハハハハ! 脆弱なりカス共よッ!! その程度か!? フハハハハ!! 素晴らしい、素晴らしいぞ! これが人を、神をも超越せし悪魔の力ッ!! 万物一切、森羅万象を捻じ曲げ、従える完全なる力よッ!!」
サウザーが両手を広げると、無数の魔法陣が二種類ずつ展開される。絶望の具現だ。
悪魔とは絶望。絶望を司る存在の、一柱。
ーーーとと、面白そうなことをやってるね。
漆黒の翅が天よりハラリと落ちてくる。どこからか、声が聞こえてきたのだ。
「やぁ、ハルス」
【……】
「な…っ」
ディーの顔に現れている焦りが途端に強くなる。
翅が舞い、その存在が降臨する。
「っつつ…まだあの女にやられた傷があるし、全然本調子じゃないけど…良いよ、手を貸してやるよ」
そして三体目の【リスクX】がこの場に現れた。一対の翅を羽ばたかせ、天から降りてきた存在ーーールフェルは面白そうに口角を釣り上げると、手を振り上げた。
四種類に増える魔法陣に一行が戦慄すると、それらは一斉に光を放ち始める。
「丁度、殺りたい奴も居る。リハビリがてら、消えてもらおうか…!」
「ほぅ…面白い」
しかし、その魔法陣は、その全てが一瞬にして破壊される。驚き振り返る一行の視線の先で、言葉を発したアンナは静かに、鞘に戻した剣の柄から手を離して間に入る。
「どうやるのか…私に見せてもらおうじゃないか。もっとも…私より先に、魔法を放てればの話だがな。三下共」
煽るように見下した発言をする彼女に対し、強がりと見たのかルフェルやサウザーは嗤う。
「力の前で気でも狂ったか女。状況をよく見るが良い。どう足掻こうと返すこと叶わぬ盤面だ。その身一つで、何が出来るッ!! むざむざしく散ることかァッ!!」
「…フン。今日の私は頗る機嫌が良くてな…?」
アンナの身体から魔力が迸る。それは気高く、猛々しく周囲を威圧する。
「…フ、そうだ…こうしていれば迷う必要など無かったのだ。いつまで経っても折れた剣で在り続けずとも良かった。もう少し早く気付ければな…かつて貴様に敗北を喫することも無かった…!!」
虚空を見上げて思案する姿勢を取ったルフェルが突然、得意気に指を鳴らす。
「…あぁ思い出した。そんな馬鹿みたいなこともあったねぇ? いや傑作だったよ? あいつ等にやられた傷が残っていたとは言え、一度は僕を退けてくれた元帥の片割れが、あぁもアッサリと搦手に搦められたのだからねぇ? …ク、ククク…貼り付けられたお前の無様な姿、お、思い出しただけで奇妙極まりないね! お前確か、ニンゲン共の間では聖女…あれ、何の聖女だったかあれ…確かあれ…まぁ良いや、忘れた。聖女って呼ばれてたみたいだけれど、それを堕とすって面白いよねぇ? 白を黒に染めるのって大好きなんだよクククッ!」
「女を堕とすか。フハハ、嬲るのは興が乗る! ここには四人も居るではないか格好が! 特にその背後で倒れるお前直属の部下は研究材料としても逸材よ! ヌーフィーの下に送れば我が覇道の供物としてこれ以上になく相応しいものになるッ! 女とは言え、人を見る眼は傑物であったなッ!!」
「弓弦を実験動物…? フフフフ…そんなこと私がさせない…今すぐ斬り刻んで殺してやらないと弓弦が…っ!」
「知影さん抑えて下さい。そのようなことはアンナさんが、決してさせないと思いますよ」
向けられる視線からオルレアを庇うように知影が身体を動かし、矢を番えるのを風音が制すると、彼女の足下で展開しようとしていた魔法陣が消滅する。サウザーの立場からすれば、彼女が扱う時属性の魔法も興味深いものではあるのだが、この時は幸いにも、静かに失笑したアンナによって彼の視界に捉えられることはなかった。
「…そうか、そんなに自分が弱いと宣うのならば、そろそろ思い知らせてやる必要がある。特にそこの現在進行形悪魔擬きの翅」
「っ!?」
嘲りの言葉を重ねて打つけるかのようにルフェルを睨んだアンナは、そこで言葉を切ると共にその様子を一変させる。
「様子を見るに、やはりあの時感じた魔力は貴様のものだったか。…覚悟は出来ているな」
殺気だ。触れるもの全てを殺してしまうであろう容赦の無い殺気。
それは殺気でも、これまで彼女が放ってきたものとは全く気色の違ったものだった。
微かに慄きながら呻くルフェルが、虚空に居る誰かに対して愚痴を零す一方、彼女に庇われているオルレアの瞼が微かに動く。
「ク、クククククハハッ! そんな大層なことを言っても、悪魔三体を同時で相手取って無事で…っ」
「…私の大切な後輩に三度も手を出せると、思うな…ッ!!!!」
鬼気迫る気迫にルフェルが障壁を展開する。
それは本来ならば、あらゆる攻撃を弾き飛ばす壁として機能したであろう、その障壁はしかし、
「な…っ!? お前まさか…!!」
「一刀で一つ、二刀で二つ。…その生命、ここまでだ」
次の瞬間紙切れのように斬り裂かれていた。
それは、その守る対象までも。
元居た位置の直線上。上空を浮遊しているアンナの手元で二つの刃が鞘へと納められていく。
「成敗」
空気を割くような鋭い音。
そして、斬撃の軌跡で空間に亀裂が入ったような光景が映る。
音に混じれて聞こえるのは断末魔だろうかーーーが、それすらも聞こえるのかどうかが定かではない。
まるで音が刃と一体化したようなものではあるが、決して不快なものではない。
寧ろ、不思議と心地良くさえある音の中、キンッという、刃が鯉口にはまる音はハッキリと聞こえると、それは一瞬にして静寂を呼び寄せる合図となった。
「……」
サウザーの表情は、まるで石のように固まりかけていた。その視線が捉えるのは隣ーーー数瞬前まで彼の、同族が在った場所だ。
「っ、逃したか。逃げ足の速い…!!」
「……何故だ……」
様々な疑問が彼の中で浮かんでは消えていく。光属性魔法の使い手である彼女が空を飛行していること、彼が人を超越しているにも拘らずその動きを全く捉えならなかったこと、そして彼だけが、ワザと残されたことに。
「…サウザー、貴様を討つのは私でない。あの子だ」
「……」
未だ動揺に身体を拘束されているサウザーを他所に、彼女はオルレアの側に降り立つ。
「ほら起きろ。いつまで寝ているつもりだ?」
他の面々からはその表情が窺えないが、声音はハッキリと分かってしまう程の優しい響きを伴っている声を彼女は発する。
その言葉に弾かれたように反応したのは知影だ。風音は眉を動かしたのみで、それ以外に何のアクションも起こさないが、その表情は、心からの安堵に彩られていた。
「ん、んん…先…輩…?」
「場は整えた。次はお前の番だ。…どうやら、そのための力も受け取っているようだからな」
「…? あっ!!」
よいしょと身体を起こしたオルレアの手には、一振りの日本刀が握られていた。それをしげしげと見つめてからそっと胸に抱き、空を仰ぐ。
「やれるな?」
「やれるっす…っ」
眉を顰めたのには、同化によるバックファイアが彼女を襲ったためだ。
頭が割れ、意識が消え去りかけてしまう程の激痛。しかし、それに耐えられるのは意志の力によるものなのか。
激しい痛みに襲われているはずの彼女は呼吸一つで元の表情へと戻し、静かに地を蹴った。
発動する“ベントゥスアニマ”。相手が悪魔と存在を同じくして在る者である以上、対峙するサウザーはオルレアがハイエルフであることに確信を得ているので、既に魔法の出し惜しみをする必要は無い。
「…さっきはよくも、やってくれたっすね…色んな意味で、本当に効いたっす」
眼の前の美少女が放つ、自らのを遥かに超える莫大な魔力に男は気圧されかける。この魔力、単純な量では元帥を凌ぐものがあったのだ。
本能的な危機の察知に自然と背中を冷やす汗が増え、集中を乱される中相手が見せた動きに彼は、眼を見張ることとなった。
「でもありがとっす。お蔭でボク、大切な人達に会うことが出来たっす」
頭を下げたのだ。他意等無く、ただ感謝の意志だけを込めて。
戦場で対峙している者に対して一礼をするという行為はサウザーとて知っている。その場合は例外無く、正々堂々と勝負する意志と、相手に対する礼儀であるのだが、殺し合いをする相手からただ感謝のために頭を下げられたことなど、一度も無くまた、考えられなかったのだ。
計り知れない何かを眼前の年端もいかない美少女から感じた彼はただ、閉口するしかない。
「…これで良しっと。じゃあ」
「あの刀は…」
腰溜めに構えた彼女が持つ刀に風音の視線が釘付けとなる。
「その生命、遠慮無く貰い受けられるっすね」
「…っ、だが」
露わになっている犬耳が彼女の意志を表すかのようにピンと立つ。
切迫する死の気配にサウザーが腕を振るうと燻るように幻属性の魔力が集まり、幻が実体化する。実体化した幻は様々な魔物の姿を取り、両者の間に犇めく。
「我が生命に届かさせるものか…! 我が覇道はここに尽きず、ここはまだ、道の始まりよ…ッ!!」
一斉に襲い掛かる幻は、獣の形を模す。何十、何百と、無尽蔵に沸き、その全てが美少女の喉元を喰らい、血肉とせんと迫る。
「‘…任せたっす’」
その時、彗星が流れたーーーように見えた。
襲い掛かろうとした幻狼の第一波が僅かにその総身を後退させた次の瞬間、瞑目している彼女の周りにまるで、小さな星屑のような物体が浮遊していた。
「…戦いは数で決まるものではない。まして」
先程のものに対し、あまりにも落ち着きのある明朗な声音が彼女の口から呟かれ、その瞼が徐に開いていく。
「如何に大層な幻であろうと、現実は容易くそれを超えると言うこと。それを教えてやろう」
その瞳は淡い桃色ではなく、淡い水色であった。
物体が意思を持ったかの如く動き始めると、幻が掻き消され始めた。
それぞれが縦横無尽の軌道を描き、突撃していく中それを見た知影が、「見える…!」と訳の分からないことを呟きながら興奮しているのだがツッコミが居ない現状、非常にどうでも良いことだ。
『私の敵を狙い撃て』
動き回る物体が個々別々に魔法陣を展開する。
動きに翻弄される幻狼の群れは一体、また一体と放たれる“サイコブラスト”の光に呑み込まれていき、その姿を消滅させていく。
それはまるで、一見彗星、流星群のようであり、真下から見上げる一行の視界に夜空の模様を映し出す。
それは美しく、幻が存在を呑み込まれているのと同じように、彼らの注意意識も幻想に呑み込んだ。
幻想プラネタリウムという名のステージの観客達を盛り上げんと、最後に物体は横一列に並び、一斉射を放つと存在を消滅させた。
「…。さぁ、覚悟を決めるっすよ」
二人のみになった空中で再度瞑目してから眼を見開いたオルレアの瞳は淡い桃色に戻っていた。
人懐こい光を宿している光の奥には、明らかな殺意が煌めている。
「…大切な人達を傷付けたこと、許しておく程ボクは、お人好しじゃないっす…ッ!!」
殺意が表出した。
凛と形容するに相応しい冷然とした瞳は、師匠である女性のものを彷彿させる。
触れればそれだけで、総身が分解される感覚を与え、脆弱な意志を平伏させてしまいそうだ。
この彼女の豹変振りにはサウザーだけでなく、ディーでさえも驚悸を禁じ得ない。特にディーは口を微かに開いたまま、間抜けな表情を見せている。
美しく、健気で、他者を慈しむ彼女の一面しかまだ知ることの出来なかった彼にとって、今柄に手を添えた美少女の姿がどうしても、彼の知る彼女の像とは違い過ぎたためだ。
しかし彼は、どこかで納得する心情を抱いていた。彼女の冷たい怒りは正に、他者を慈しむが故のものだからだ。
彼の隣で、ようやく整えた呼吸をしつつ惚けたように彼女を見つめる二人の女性は確かに、彼女の言う通り傷を負っている。
悪魔や魔物の中で最凶脅威とされる【リスクX】相手に善戦したと評する他あるまいとしても、身体の至る箇所に傷を負い、浅い傷、中には深い傷も見受けられる。致命傷が一切無いだけでも、十分ではある、しかし、それが彼女は許せないようだ。
「…弓弦…怒ってる?」
「クス…そのようで御座いますね」
「…私達が傷付けられたから…だよね? それであんなに…」
「それだけ…大切に思われているので御座いますよ。私も、知影さんも」
「そうだよね…ふふふ」
「家族認定されていますからね。もっとも…詳しい事は何一つとして仰っていませんが、あの御方の深いところにはきっと、私達が居ますよ」
「うん…弓弦…私の弓弦…私だけの弓弦…大好き…っ!」
「あらあら…うふふ」
だがここでディーはふと、思考の海より浮上してきた違和感という名の、掴み所のない泡に触れた。
二人の女性の瞳の奥に映っている頭上の人物の姿が彼が、認識しているものとどうしてか一致しないよう不可思議な感覚に包まれたのだ。
そのまま視線を背後で腕を組み、どこか誇らし気にしているアンナの鳶色の瞳へと移すと、それは強まる。
彼女の瞳には、確かに彼が認識しているものと一致している存在が映っているように見える。しかし同時に、まだ何かがあるように思えてならないのだ。
そうやって彼が一人、到底場に似つかわしくない思考を巡らせている間に上では、全てが決しようとししていた。
「かはっ…こ、これ程までの使い手がよもや、保守派に残っていようとはな…」
横一文字に鋭い斬撃痕。
喀血をしながらサウザーは素直に賞賛の言葉を彼女に伝えた。
しかしオルレアは表情を曇らせながら、静かに刃に付着した血液を魔法で弾き飛ばした。
「使い手…より、この刀のお陰っすよ。…痛みを感じないように斬ったつもりっすけど、甘かったっすね。やっぱり先輩や姉さんのようにはいかないっすね……だけど、次は、確実に取るっす」
「っ、だがッ! 敗けぬ…我は、屈服せぬゥゥゥッ!!」
「…二ノ太刀…ッ!!」
滑空攻撃を仕掛けるサウザーを迎え討たんと、彼女は『唐橘』を上段に振り上げる。
「我が覇道はここで、潰えはせぬぅぅぅぅぅッ!!!!」
「二つの斬撃ッ!!」
長年使ってきたかのように手に馴染む刃が鞘走る。
「そうッ! 潰えはせぬのだぁぁぁぁッ!!!!」「烈いてッ! 断つッ!!」
二方向の強撃が衝突したにも拘らず、そこには一切の音が無かった。
地面に着地したサウザーと、空中で横一文字に刀を薙いだオルレア。
固唾を飲んで見守っていた一行の誰が声を上げたのだろうか。それとも、衝撃によって微かに揺れた空間の軋みだろうか。
「ぐ…っ!?」
静寂は突如として終わりを迎えることとなった。
「…地に…堕ちる…か……」
空間内に響く崩れ落ちる音。
仰向けに倒れたのは、悪魔の力を得た老齢の大将だ。
十字の斬撃痕によって深々と抉られた肉体は煙を上げてかつて在った空を仰ぐ。その瞳は焦点を結ばず、やがて光を失った。
「二斬烈断…成敗っす」
先輩、姉譲りの決め言葉を言いながら血を払った白刃を納め、勝利の静音を鳴らしたのは若き犬耳美少女剣士だ。
確かな手応えがあったのを確認するや否や、忘れていたかの如く意識しないでいた頭痛が纏まって彼女を襲い、その身体もまた、地に落ちていく。
投げ出された彼女の体躯を受け止めようと女性陣三人が落下地点に向かうが、その中で一早くその位置に駆け寄り、辿り着き彼女の身体を受け止めたのはやはり、
「…馬鹿者め」
アンナであった。彼女は小さな、本当に、隣で聞き取れるかどうかでさえ定かではない程に微かな呟きをすると、顔を顰めたまま夢現の境に旅立った後輩の額に自らの額を合わせ、“ディバインヒール”を発動させた。
光が微かに溢れる。
「これで良し。…やはり幻だったか…いや、既で逃がされたか」
知影が鬼の形相で彼女を睨み、風音が頰に手を当てて小首を傾げる先で光は収まり、そこには穏やかな寝顔のオルレアがアンナの腕に抱かれてすやすやと寝息を立てていた。
「フ、間抜けな顔……」
「クス…左様で御座いますね。余程安心なさっているのでしょうか」
そんな美少女の表情を風音も覗き込む。
「…オルレアはずっと、私と共に過ごしていたからな。当然だ」
「どの口が…っ」
「リーシュワ、行けるか」
「あ〜いよ。行〜けるって」
そしてそのまま一行が奥に進むと、足下で魔法陣が展開され元の場所へと誘われる。
「…頼めるか」
「畏まりました」
端末操作に当たってアンナはオルレアを風音に預け、キーボードに指を踊らせる。やがて彼女に促されディーもそれに加わると、知影が眠れる美少女の身体を蹂躙しようと手を怪しく動かし始めた。
「あらあら…知影さん止めた方が宜しいかと…」
「ふぇへへ…良いではないか良いではないか…♡ 弓弦の〜お胸を〜さわさわっと〜♪」
そして侵入。 「もう誰か、この変態をどうにかしてくれ」と、弓弦ならば呆れ果てるであろう行為を嬉々として行う知影に、風音は傍観を決め込むことにした。
スクロールしていく画面の中に表示される莫大な文字列と映像の数々。時間が限られている中、たった一つの証拠を見つけるためにはあまりに多過ぎるデータを見落としないように、念密に調べていくディーとアンナの、微かに荒い息が冷えた空間の一部分を刹那に白く染める。
風音も流れる文字列を見遣りながら、それらしいものを探そうとするのだが、所々彼女にとって、意味不明な記述があるものだから、頭の混乱を覚え、そんな自身の至らなさを恥じつつもそっと、視線を外した。
それは悪くいえば逃避、体良くいえば適材適所の顕著化であった。
眠りながら時折呻くオルレアの身体は今、そっと床に横たえ、その頭を風音は自らの膝に持っていく。
普段ならば知影が殺気立った視線を向けてくるものだが、その本人は今、眠れる美少女の身体に夢中になっている。当然、膝枕をしている彼女からしたら邪魔者以外の何者でもないのだが、変に相手をするまでもないと考えたためだ。
それ故、心は水面の如く穏やかであり、寝顔を見つめる面持ちには、誰の眼にもそれと分かる慈愛の色が現れていた。
しかし、それは確かに、誰の眼にもそれと分かってしまうのだが、それが一体、どういった部類の慈愛なのかは誰が分かろうか。
恐らくそれは、彼女自身確かでないのだ。ただ視線を落とすと視界に入り、彼女の膝に重みと温もりの恩恵をもたらしている存在は彼女にとって、慈愛を持って対する人物であるのは相違無い。しかしそれでなお、感情の内訳を明確化しないのは彼女が、左手の薬指にはめた指輪そこに、ある程度の掣肘を感じたためであるのかもしれない。
今の彼女にとってその少女は、どうしようもなく壁によって隔てられた存在に思えてしまうのだ。それは遠慮と、取れようか。
隔てる壁とは正に、彼女が心に抱える形の無い闇が形作ったものであるためだ。それは、負い目と表した方が良いであろうが、他者がそれを窺うこと、否、彼女はそれを決して他者に窺わせようとしまいと、その名の壁として形成させてしまったものである。
ーーーこの取り留めの無い彼女の無意識の答えの切っ掛けを知っているのは、彼女自身ではなく、寝息を立てている人物と、何かを見つけたらしく、データが読み込まれている画面を凝視するその、先輩だ。
「…風音さん?」
眼を瞬かせた風音は、声の主である知影に、視線を向けずに「何でしょう?」と訊く。
それは悟られてしまうのを恐れての行動だった。いや、一瞬浮かんでしまった考えを見逃さず、悟ろうとしての行動であったのかもしれなかった。
「暇ですわ……」
「…えぇ、暇しているようね。言わなくても顔で分かるわよ、リィル」
「…最近博士があまり糖分を食べないのですわ……」
「あら、それは良いことではないの? 過剰摂取よりは良いはずよ? …それとも、構える切掛けが無くて困っているの?」
「……」
「そう。そうね…丁度良い機会じゃない? もう少し踏み出してみるのはどうかしら」
「それが出来たら苦労しないのですわ」
「そうね…随分と足踏みをしているみたいだし、出来てればとうの昔にゴールしてるわね」
「ぐ…ひ、酷い言い方ですわ……」
「あら、本当のことじゃない。でもそうね…踏み出せないそれも、あなたらしさよ。それに…ね」
「それに…何ですの?」
「何でもないわ。少し雰囲気が出るかと思って言ってみただけ」
「…。私は一体、どうすれば良いのでして?」
「そうね…私から言えることはまず、話す機会を探してみなさい。一つ一つ、あの男のしていることに興味を持って、探してみるの。それぐらいかしらね……」
「…わ、分かりましたわ! やってみるのですわ!」
「ふふ、その意気よ」
「ありがとうございますわ。早速行ってみましてよ」
「えぇ、あなたらしさを忘れないようにね」
「分かりましたわ!」
「…。中々惚れた腫れたはまどろっこしいわね。もっと快刀乱麻。バッサリとしてくれれば楽ではあるのだけどそれはそれで面白くない…か。…面白くないと言うのは言い方として悪いものがあるわね。…この本みたいに歴とした主従関係があったり、互いの気持ちが分かるなんてのも難しいものね。さて、予告といこうかしら…『明かされる真相の一端。それは一人の男の、過去への慟哭が切掛けとなったのかもしれない起こった事。男が内に秘めたものが爆発するーーー次回、仇に牙剥く』…あなたと歩む、冒険の旅。…この章も長いわね、もぅ」