味に安らぐ
疾い。
見た目は幼いんだけど、僕が今対峙している相手は紛うことなく、部隊の副隊長として在るべき実力を備えている人物だったんだ。
僕の剣じゃ到底届かない位置に居る人だと、実感させられた。
「…これで最後。 …ちゃんとその身で覚える」
見ただけでも分かる業物の刀が擬似的な太陽の光を浴びて鋭く光る。
…これで最後と言うのは、僕が彼女に、とある技を見せてもらったことを理由としている。 まさかこんなことになるとは想像出来なかったけど今日、副隊長に訓練相手をお願いして本当に良かった…最初は心配だったんだけどね? だって、何も通用しなかったのだから。
以前の昇進試験でのハンデのように、副隊長は魔法使用禁止なんだけど、僕なんか相手にならないと証明せんとばかりに全撃刀で防がれてしまった。
…なんか対戦というより、指導されてる気分になるんだよね、終いには。
「悪」
腰を深く落として半身の姿勢を取った副隊長がス…ッと切先を僕に向ける。 僕の視界の中央で右手と重なるよう向けられた刀身は地面と平行していて、その構えは独特のものだ。
「即…!」
剣気…って言うのかな。 それが彼女の身体から切先を中心に練り上げられていっているのが見えるようだ。 そしてそれが頂点に達した瞬間、
「斬ッ!!」
爆発した。
一瞬にして身体を貫く、鋭く、激しい一撃が僕を襲った。
もしこれを、生身で受けたのだとしたら僕の生命なんて何百回も消されていたと思う。 幸いにもここはバーチャルだから、何回も死ぬような思いをするだけで一応五体満足だ。
「…覚えた?」
痛みはハッキリと覚えさせられたけど…どうしてそんな鋭い突きが放てるのかに首を傾げてしまう。
取り敢えず本当に眼に見えないのだけは確かだ。
「…は、はい」
本来は副隊長の構えが正しいものだそうなんだけど、僕は右利きだから鏡写しになるように構えを取る。
「…行きます」
短く深呼吸して一気に距離を詰めると、右手に握った剣の切先を前に突き出す。
風に乗るようにして突き出された剣は、水平に地を駆けて副隊長の胴体へと向かう……
「…踏み込みが足らん」
前に、やっぱり抜き打ちの刃によって止められてしまった。 鞘から少しだけ抜かれた刃の、中心に切先が綺麗に捉えられていたのだから、圧倒的な技量差を感じさせられた。
…こんな簡単に止めるなんて、副隊長カッコ良いな。
「…やり直し」「うわっ!?」
そしていつの間にか、僕の身体に鞘が埋め込められていた。
少しだけ離れた位置に吹き飛ばされる僕。
「…遠慮なんて…要らない。 …全力」
少しだけ怒らせてしまったのか、若干息が荒い副隊長が見つめてくる。 …これでもう何回この言葉を訊かされたのか覚えていないや。
…だけど中々感覚が掴めない。
構えを真似ても、そこに上手く自分の力を込められない。 副隊長は一撃に、全霊を込めているのに、僕はそれが出来ていない。
…僕の剣技の止め手はいつも、突きだった。 なのにこうも未熟なのを思い知らされるなんて…ね。
はぁ…自分の実力の無さが嘆かわしいな。
「痛た…っ!?」
痛…さっきの鞘の一撃、かなり強くお腹に貰っちゃったみたいだ。 …そろそろ時間も経っているし、今頃きっと、オープスト大佐が夕飯の支度をしているんだろうな…良いなぁ、母親みたいな人が居て。
…。 僕にもいつか、弓弦にとってのオープスト大佐みたいな、そんな人が出来る日が来ると良いんだけど…そもそも出会いすら無いからなぁ。
…弓弦は、僕より辛い修行とかしたりしていたのだろうか。 強大な力を持つことって凄いことだけど、制御とか凄く大変だと思うし、以前「苦労したなぁ」って笑ってたんだよね……
僕は、強くなりたい。
どうしてもなのかと訊かれれば、頷くのに迷いが無いくらいに。
弓弦との差を詰めたいんだ。 いつまでも弱いままだと、あの人に怒られてしまうような気がするし、あいつはこうしている間も強くなっているような気がするから。
一応毎日、筋トレも素振りも欠かしていない。
だけど、どうしても強くなりきれないのだから焦せらされてしまう。
「…早く立つ」
抑揚の無い声に促されて立ち上がる。 痛みはあるけど、別に怪我をしている訳じゃないので、身体をブルブルと震わせてみる。
「…貫くつもりで…来る」
…「踏み込みが足りない」と何度も言ってくれた副隊長の言葉通り、貫く覚悟で繰り出さなければまた、同じことの繰り返しになってしまうだけだ。
「…行きます!」
洗練されたものには遠いかもしれないし、未熟過ぎて、相当に不恰好かもしれないけど、もう一度構えを取る。
落とした腰。 膝に力を込めて……踏み込むッ!!
「破ァァッ!!」
気合の雄叫びに応えるかのように、踏み込まれた地面が割れる!
引いた切先が空気を斬り裂いていて、音がする。
「ァァァァァァッ!!!!」
間違い無く今日一番の感覚を覚える。
これなら……!!
「…踏み込みが…足らんッ!」
ですよね。
* * *
目指すものの遠さを、改めて思い知らされたような気がした。
今日一番だったはずなんだけど、やっぱり受け流されてそれでおしまい。
「…まだまだ…精進」
「…はい」
「…努力は…大事」
「…はい」と頷く。
努力が大切ってことは多分、僕のこと認めてくれたのかな…なんて、そんな甘い考えは駄目かな。
人に認められるためには、もっと努力しないといけない。 僕なんて、まだまだ魔法も交えた、所謂魔法戦と言うものは初心者も良いところだし、まして、それをやるための片方も出来ていないとね……
「…あ、この匂い」
居住区の付近に差し掛かったところで、鼻腔が美味しそうな香りに襲撃された。 最初は食堂の方かなと思ったんだけど、これは食堂で作っている料理の香りとは違う。 なんて言うのかな…どこか優しい感じの香りだ。
隣を歩いている副隊長に視線を向けると、微かに頰が赤くなっているような気がした。
…あ、分かった。
これはオープスト大佐が料理を作っている香りだ。 いつも向かいの部屋から漂ってくるから凄く分かり易い。
さて、お腹も空いたし、僕も食堂で何か食べよっかな。
「…食べて…く?」
「えっ!?」
それは本当に、不意打ちの言葉だった。 まさか自分が? …って、感じだからさ。
思わず自分に指を向けた僕の疑問に副隊長は頷いた。
「良いんですか?」
オープスト大佐は人間の男性があまり好きじゃないクールな人だ。 凄く綺麗で、気品があって…僕が勝手に思っているだけなんだけど、王族の風格みたいなものを感じるんだよね。 本当に個人的な感覚なんだけど。
「…コク」
そして、505号室ーーー僕の向かいの部屋である506号室の扉の前に立った副隊長が扉を叩く。
…凄く良い香りだから勝手にお腹が鳴らないと良いんだけど。
扉が横にスライドして開くと、そこに女の人が立っていた。 オープスト大佐だ。
「お帰りなさいセティ。 あら…」
副隊長の後ろで苦笑いを浮かべている僕を見て、少し意外そうに眼を見開いた。 …緊張するんですけど。
「珍しいお客様ね…ふふ、いらっしゃい」
向けられ翡翠色の瞳が優し気に細められる。 驚くことに歓迎されたみたいだ。
「…良いの?」
副隊長も驚いたみたいで、小首を傾げた。
「えぇ良いわよ。 あなたがそうしたいと言うのなら断る理由が無いじゃない」
「…ありがとう」
「ふふ、ほらもうご飯出来てるから入って」
「お、お邪魔します…」
もう何か不気味で、恐る恐る入るしかない僕の声は上擦っていた。
久し振りに入る弓弦の部屋は見た目はまぁ、変わるはずもないんだけど…あぁ緊張する。
「今日のご飯は…まさか?」
「そう、そのまさかよ?」
「…やった」
開けられた鍋からさらに香ってくるご飯の香り…これは、ビーフシチュー…かな?
「ビーフシチュー♪」
ぴょんぴょんと跳ねて嬉しさを表現しているらしい副隊長によって、予想に正解の確定がされる。
ビクビクしながら副隊長によってご飯が盛られた器をエプロン姿のオープスト大佐に渡すと、少しだけ困ったような溜息と共にシチューが掛けられた。
「別に取って食べたりはしないから安心して良いわよ?」
「いえ…あの…その…」
眼の前に立たれてみると、その美しさに息を飲んでしまうんだから本当に恐ろしい。 こんな綺麗な人が奥様なんだから、弓弦が羨ましかったり……
「「いただきます」」
「い、いたただきます」
そして食事が始まった。
早速一口食べてみたけど…うん、ヤバい。 美味し過ぎて涙が出そう…っ。
「…弓弦のと同じ味がする…♪」
「そう、良かったわ。 あの人のより美味しいかしら?」
「…甲乙付け難い」
「ふふ…嬉しいけどやっぱり、私もあの人の料理が一番よ」
「美味しいよ? お肉柔らかいし…ご飯も進む…大好きな味」
副隊長がお代わりをした。
これ弓弦の料理なんだ…普通にお抱えのシェフも務まりそうなんだけど…スペック高過ぎるよあいつ。
ご飯を包むようにして口の中に広がる深い味わい。 この肉は…ワインで煮込んだのかな。 かなりの上物で煮込まれていたのか、柔らかく、肉らしい噛みごたえがあるのにすぐ溶けていく。 野菜の味もするけど、ちゃんと染み込んでいてこれも柔らかい。
さっきチラリと見たけど、ご飯もそれなりに炊かれているみたいでお代わりも自由っぽいけど…気不味い。
「どんどん食べて良いわよ。 お代わりは沢山あるから」
「は、はい…」
勿論するよ、お代わり。 美味しいんだから仕方が無いね。
「…もしかして美味しくない?」
「いえ凄く、美味しいですっ!!」
「そう? なら良いのだけど…」
…艶のある笑顔に胸が高鳴る。
人妻かぁ…これが、人妻の笑み…破壊力があり得ないんです、はい。
それに……
「…はむっ…ん、あむっ…うん…はぐっ…」
「もぅ、そんなに勢い良く食べていると零すわよ? 嬉しいのだけどね」
揺れる身体の一部…凄く、大きいです。 「出るところは出てて引っ込むところは引っ込んでいるからな〜」と、以前隊長言ってたけど…うん、その通り過ぎて辛い。
…思わず魅入ってしまいそうになるけど、バレたら気恥ずかしいので視線を外す。
「〜〜♪」
「ふふ…可愛いわ♪」
ふぅ…良かった。 見つかったかどうか心配だったけど、どうやら食べている副隊長に夢中なようで良かった。 …微笑ましいけど、この二人の関係って……?
「…どうしたの?」
「え、あ、何でもないです」
四回目のお代わりを盛っている副隊長が僕の視線に気付いたみたいで、訊いてきた。 オープスト大佐の視線も、僕へ。
「…無粋な視線は、すぐに気付くものよ? 女は視線に敏感なんだから」
「す、すみません…」
そ、そんな視線向けたつもりないんだけど…心を読まれた?
うーん…もしかして僕、隠し事が苦手だったりするのかな? …そんなことないよね。
「もし女性とお付き合いするのなら注意すること。 紳士過ぎるのも奇妙だけれども、無粋過ぎるのも駄目よ」
「…程良い塩梅が…何よりも大事」
「…は、はい…」
…なんか、説教臭くなってきたよ。
「…すみません」
「…謝り過ぎるの…良くない」
「……すみません」
謝り過ぎるなって言われても、謝るしかないんだけど……
…あ、でも、折角のご飯の時間にこんな暗い話題はいけないか。 楽しい話題楽しい話題……
「これ美味しいですね。 どうやって作っているのですか?」
弓弦が作ったビーフシチューを真似て作ったらしいけど…話題としては十分なはず。
…僕は料理出来ないけど、うん。
「秘密よ。 これはあの人の秘伝のレシピで作ったものだから」
秘伝のレシピ…か。
弓弦…本当に料理するのが好きだよね。 わざわざレシピ本なんて用意していたり…は…していそうだ。
育った環境って大事なんだなって、良く感じさせられるよ。
「…弓弦って、どれぐらい料理が上手なんですか?」
「どれくらい…?」
オープスト大佐の瞳が輝いた…ような気がした。
「それはもう、至高の至高…この世の贅を尽くした料理をご馳走と言うのなら、あの人の料理は、思い遣りを尽くした満漢全席と言ったところかしら」
…うん、良く分からないけど、凄いって言うのは分かるような気がする。
「…あの人は料理に、真心を込めるのが得意なのよ」
「真心を?」
オープスト大佐は頷く。
真心…それだったらなんとなくは分かる。
「…あったかいもの…込められている」
「あら…ふふ、そうよ」
…形の無いものだけど、空腹と同じようなものかな。
甘い考えだけど、所謂家庭の味って言うものなんだと思う。 すっかり一家の人と言う感じな親友が、実力とは別の意味合いで遠い人になった気が……
「…まぁ、そんなところよ。 いつか分かる日が来るかもしれないわね…」
「……ルクセント中尉…いつか…春来る」
どうしてそんなに遠い眼をするのですか、お二人共。 僕に春が来る日がそんなに、いつ来るのかすら分からない程に謎なのですか。 どうせ僕なんか。
…。 ティリエ……
「言い過ぎたみたいね。 謝るわ」
「え、え?」
「今、凄く傷付いた顔をしているわよ。 …ほら! 手が止まってるわ」
「…お代わりする」
ペースが落ちたものの、副隊長のお代わりが七杯目に達した。 僕もこれで四杯目だ。 飽きない味が堪らない。 …お酒みたいだね。 あ、一応入ってるか。 どんなお酒が入っているのだろうか。
「あ、これお酒の香りが仄かにするんですけど、どんなお酒を使っているのですか?」
お酒は飲めないんだけど、話の切口としては良いと思う。
「ふふ…秘密よ」
また秘密ですか。
「…弓弦とフィーナの…一番のお気に入りのお酒」
副隊長が教えてくれた。
二人の一番のお気に入りのお酒…そう言うのあるんだ。 仕入れは多分、トウガかな。
「…まぁまぁ強いお酒のはずなのに弓弦…中々酔わない」
「そうなのよね…あの人、間違いが起きるリスクを減らすために自分で調節するんだもの。 …それでも一応、時々酔うことはあるのだけど…滅多に見られないのよね。 一番多いパターンは、遅く帰って来る日かしら」
「…だけど朝帰り…しない。 …ちゃんとそこは…守る」
「ふふ、その後はその後で、晩酌があるんだもの。 ちゃんとそのための時間の配慮はあるわよ。 …待たせる待たせないは別だとしても」
「…待ってるフィーナもフィーナ。 ちゃんとそこは…守っている」
「あら…」
その言葉に眼を瞬かせたオープスト大佐は、「そうね」と短く返すのだけど、若干声が上擦っているように聞こえたのは聞き間違いかな。
「でも別に、守っている訳じゃないわ。 ただ私がそうしたいだけで、深い理由は無いと思うわ。 “そうしたいからそうする”…結局はそんなものなのよ」
「はぁ……」
…今回のご相伴で一つ、確認出来たと言うか、分かったことがあった。
「「ごちそうさま」」
「ご、ごちそうさま」
結局炊いたご飯が底を突いて、食事会はお開きとなった。
美女と美少女…そんな二人に送られて部屋を出た僕は、そのまま眼の前の自室に直行しようとして、視線を感じた。
トウガだ。 彼も丁度部屋に戻ろうとしていたようで、カードキーを挿入した体勢で、僕の方を見ていた。
「…ディオルセフお前、何かやってしまったのか?」
「ううん、なんでもないよ」
対して自慢するようなことでもないし、程良い満腹感を覚えながらゆっくりと部屋で過ごしたかったので、適当に誤魔化した。
「心配事があったら言えよ。 相談に乗るぐらいはしてやる」
「あぁうん…ありがとう」
確かにトウガは良く相談に乗ってくれるから、気持ちが沈んだ時はとても頼りになる…だけど、変に勘繰られると…面倒臭い。
そして自室へ。
「…落ち着くね…本当に」
自室の安心感は凄まじいものがあるね。
そんな中、机の上に置いてあるペンダントが視界の中央に入った。
…あの草原に飛ばされた時から一切反応が無い。
あの時、あの草原で僕は……
「……」
あの日見たのは願いと言う名の夢だ。
歩いた光景は希望と言う名の幻だ。
…僕は、何を焦っているんだろう。
ふとした時に襲う、焦燥感が僕の不安を駆り立てる。
握ったペンダントがカタカタと音を立てる。 知らず知らずの内に力を込めてたみたいだ。
「…いけないいけない。 これは団長から預かった大切な預かり物…壊したりでもしたら一大事だからね」
それにこれは…何かのための、切っ掛け…のような気がする。
もし…あの夢が本当ならそれは、
「そう…一大事にならないよう、大事にしとかないと…」
それは…きっと、予感なのだから。
* * *
「ありがとう…フィーナ」
風呂上がりの黒髪をタオルでポンポンと叩きながら、セティは読書中のフィーナに礼を言った。
「改まって言われる程のものでもないのだけど…ふふ」
文章から視線を外したフィーナはセティに微笑み掛ける。
「…フィーナ…寂しい?」
「……どうして?」
「…男の人に優しかった…だから珍しい」
「そんなこと」と小さく噴き出してから、彼女はグラスを傾けた。
中には赤ワインが半分程注がれており、揺れる液面が少しずつ彼女の口に吸い込まれていく。
「言ったでしょ? あなたがそうしたいと言うのなら断る理由が無いって。 それにシチュー作り過ぎちゃったから、来てくれて丁度良かったわよ」
こうなることが大体予想出来ていた彼女。 実はそのためにご飯を多く炊いていたりするのであった。
「明日の朝もこのままシチューだから、明日は明日でたくさん食べても良いのだけど…ご飯どれぐらい食べる?」
「…それなりに食べる」
「そう。 なら四合程で良いかしら…分かったわ」
顎に指を当てて思案した彼女は新しくグラスに注ぐ。 ワインの銘柄は勿論、『エルフの口付け』だ。
「…髪を乾かしたら遅くならない内に寝なさいね。 私はもう少し…本を読んでいるから」
そう言って本に視線を落とした彼女をよそに、セティは脱衣所に移動してドライヤーの電源を入れる。
櫛で梳かしている黒髪がドライヤーの温風にそよがされる。
鏡に映る彼女の髪から覗く、ハイエルフの証である犬耳がピョコピョコと動く。
黒く、艶やかな髪に、翡翠の瞳ーーー映っているそんな自分の姿と彼女は睨めっこしていると、近付け過ぎたドライヤーの温風に「熱い」と言葉が口を衝いて出た。
「…終わった。 …お休み」
「えぇ。 お休みなさい…イヅナ」
「セティ」と言おうとしたフィーナだったが、少し考えてから彼女の本名で名前を言ったフィーナに頷いてから、彼女はベッドで横になった。
「…今日も一日、終わったわね…」
モゾモゾと動いていたが、やがて何も動きを見せなくなったベッドから寝息が聞こえてくるのを確認してから、フィーナは独り言ちる。
「あの子らまさか、男を連れて来た時は驚いらものらけろ…」
が、若干口調が怪しい。
「全然違って良かっらわ…もぅ、変に心配事増やさないでよ馬鹿ぁ…っく」
兎に角飲みたい気分になって、飲んでいて良い具合に酩酊してしまったのだが、セティの前で直接こんなみっともない姿を晒す訳にもいかず、ずっと普段らしく振舞っていたのだ。 だから彼女が寝てから、それが表出し始めた。
本を置いた彼女の頬は、アルコールによるものか赤く上気していた。
「もぅ…っ、あの人まら帰っれ来ないし…あの日からお出掛けもれきない…っく。 掃除するにも何するももう…時間あり過ぎるのよ…ぉっ! 毎日毎日本れ時間を潰す毎日、この本らってもう何周しらか分からないわよっ! もうっ、馬鹿! 馬鹿馬鹿馬鹿っ! ユ〜ん``んっ、あならの馬鹿っ!!」
一人、愚痴モードに入った彼女の背後の窓で、徐に月が沈もうと動いていく。
勢いが乗ってしまったフィーナはその後もワインをグラスに、注いでは飲み注いでは飲みを繰り返しては、管を巻いて夜を過ごす。
その殆どが「馬鹿」を始めとした夫への罵詈雑言であったのだが、その度に最後は、
「れもそんなあなららから大好きなのぉ…っ! そんな人らから愛しいの…っ♡」
と、何とも桃色な言葉で締め括るので、もしその場に誰かが居たのなら、盛大に苦笑させられる羽目になったであろう。 もっともそのような、あまりにも情けない姿は一人にしか見せないのだが。
また彼女がここまで乱れている理由は、別にディオの来訪とは関係無い。 ただ、そう、たまたま酒に呑まれてしまっただけなのだ。
そして結局、二本目のワインを空けると同時に潰れた彼女は朝、イヅナによってベッドに運ばれその後、夕方まで眼を覚まさないのであった。 そして眼を覚ました彼女が、時間を無駄に潰せたことの満足感と、時間を無駄に潰してしまったことの後悔の念に少しだけ、苛まれたりするのはもう、予想が容易過ぎていうまでもないことだった。
「キシャック! …ャック…」
「おろ? どうしてアデスがここに…それも、酔ってる? えっと…大丈夫?」
「シャシャシャシャシャ~っ!!」
「ありゃ…全然大丈夫じゃなさそう。 ちょっとこっち来て」
「シャヤシャシャヤシャ」
「‘…確かユ~君が飲み過ぎて来た時のためにここにしまったんだよね…と’あったあった。 はいこれ」
「キシャ…?」
「眠気覚ましならぬ酔い覚ましだよ。 悪魔にも効果があるかは分からないけど、何もしないよりはマシでしょ? そんなのでユ~君の身体に戻っちゃったら、影響が出ないとも限らないし。 遠慮せずにグィッと飲んじゃって」
「キシャキシャキシャ!! キシ、キシシシキシャキシャ!!」
「そう言うことを言っている人は大抵酔ってるの。 文句言わずに飲んじゃって。 あの子のためだから」
「キシャキシャシャキキシャキシャック!! キシャ「アデス?」シャッ!?!? …キシャア……」
「うん、ちゃんと飲んだね。 偉い偉い。 じゃあ、最後にこれ、お願い。 通訳は私がしちゃうから」
「キシャ。 『爆炎、轟火、大爆発ゥッ!! ジェシカの手を引くオルレアが辿り着いた先では既に、あの男が戦っていたァッ!! ご存知老舗旅館の腹黒大和撫子と同じ属性系統の魔法を操る男の振るう轟槍は、何をッ、穿ち焦がすのかァッ!?!? 愛する者のために戦う男の強き意志が敵を薙ぎ払うーーー次回ィッ、愛に奮うッ!!!!』…愛する者は、そこに居るか?」
「…ふぅ、やっぱりテンション高いよねアデス。 そう言うところ、良いなって思うよ」
「キシャ、キシャキシャキシャ」
「おろ? 良い演技だったって? えへへ…ありがと。 ボイトレは欠かしてないからね、喉の調子は風邪引いてなければいつでもバッチリだよ♪」
「キシャ」
「酔いも結構冷めたみたい。 ユ~君の所にお帰りと言いたいけど、まだ探検するんでしょ?」
「キシャ!!」
「あまり遅くならないようにね。 魔力の消耗は激しいものがあるから…お願い」
「キシャシャ!!」
「えへへ…偉い偉い♪」
「キ、キシャァ…」