金に笑う
その日オルレアは食材の買い出しのために『エージュ街』へと繰り出していた。
この世界に来て暫く経つこの日、狙って彼女が買い出しに出たのには理由がある。 それは、
「わ〜!! これこんなにも安いんすか!?」
そう、今日が彼女が元居た世界でいうところの、“特売日”だったからだ。
普段より、数割増して安い食材の中から品質を吟味している彼女の表情はとても生き生きとしている。
ーーー元帥である彼女の先輩、アンナはその立場故に相当にお金を持っているのだが、あまり買物をしないらしく、そのクセにちょっとした浪費をしてしまうことがある。 そう、ちょっとしただ。
この世界でも例に洩れず通貨単位は「円」なのだが、例えば安い店では百円で購入出来る物を彼女はあろうことか、百一円でも購入してしまうのだ。
たかだか一円程度と思う者も居るであろう。 しかし、長年の主夫生活が彼女にもたらした恩恵は、本職の主婦にも匹敵する猛禽類の如き審美眼を、商人の如き魂を彼女に与えたのだ。
質の良い物を限りなく最安値で仕入れるーーーそれはオルレアでも、『橘 弓弦』でも変わらない絶対不変の心理だ。
だが全ての商店の値段を頭に叩き込んでいない彼女では、『エージュ街』での最安値品を購入することは難しいであろう。
しかし、彼女には協力者が居たのだ。
「流石はジェシカさんっす!! ぁぁぁっ、これも、これも安いっ!!」
そう、先日浴場で自己紹介をしたベテランメイド、ジェシカに貰ったメモを握りながら買物籠に品物を入れていく。
『本当に主婦ですね…』
『凄い…嵐のようだよ…』
さらに驚くべきなのは、これを行っているのは彼女だけではないということだ。
例外無き物事は得てして、先人が居るというもの。
それは、戦争だ。
主婦達の特売日戦争なのだ。
しかし戦争の中心に居るのは、オルレア。
オルレアを中心に、嵐が起こっているーーー!!!!
『まさか…人を捨てて神になろうとしているの…!!』
相変わらずの知影のボケはツッコミ不在により不発である。
ダーンッ!! と両手の籠一杯に品物を詰め込んだオルレアはそのままの勢いで会計を済ませる。
店員が眼を点にしたのは、量を始めとして少女が購入するようなものではないからだ。
当然だ。 オルレアは美少女だ。 それも超が付いてしまう程のだ。 そんな少女に眼の前に立たれるものならドキマギもしてしまっておかしくない。
『あらあら…たくさん買われましたね』
言葉通りたくさん購入された商品が詰め込まれた袋を台に置くと、ドサァ…と重い音がする。
決して無駄遣いではない、勿論全部使い切るつもりであり、彼女の脳裏には何千種類という料理のレパートリーが次々と思い描かれていく。
何がアンナの口に合うのか、どのようなアレンジを加えることが出来るのかーーー想像は尽きない。
自然と笑みの形となる顔を引き締めると、明らかに少女が持つ量ではない重さであろう袋を簡単に持ち上げた。
『重くない?』
『確かに…重くないですか?』
実はちょっと重かったりする。
「流石に少し買い過ぎたっす…」と自分の行動について心の中で自嘲してから、気合を入れて歩き始めた。
本人はまっすぐ歩いているつもりのようだが、その足取りは非常に危なっかしくフラフラしている。
そんな彼女を遠くから眺めている存在が居たーーー否、無意識の内に彼女に視線を遣っていたのが正しいか。
『あらあら…必死に歩かれているオルレア様、可愛いですよ♪ …? 視線を感じますね…オルレア様、見えますか?』
『…あ、敵意とかは感じないけどね』
「よっとと…ん? あ、あの人だ」
彼女の視線の先に居たのは、先日とても美味しそうな香りのする袋を提げていたことによって、彼女の腹の虫を騒がせた男性だ。 困っているのか、並べられた野菜を前にして渋面を作っていた。
気になった彼女は、そんな男性の下に向かって行く。
「どうしたっすか?」
彼女が寄って来たことに驚いたのか、暫く彼女の顔を見つめてから、「良い品質の物がどれか分からん」と困惑気味に言った。
「どれどれ…あ、あまり良いの無いっすね…」
しかし彼は、来るのが遅過ぎたので並べられている食材はあまり、品質の良い物とはいえないものばかりであった。
オルレアは少し考えてから、男に食材を渡した。
突然の行動に疑問符を浮かべたような表情をした彼に「あげるっす。 きっと美味しいっすよ」とはにかむ彼女に、彼は少し破顔し、一つ提案をした。
そんな彼の姿に周りの人間はギョッと眼を剥いたであろう。
「本当に良いっすか?」
オルレアが持っていた袋を全て、彼は受け取った。 重みを感じはするが、この程度彼にとって造作もない量だからだ。
「構わん」
「優しいっすね。 あ、ボクのお家はお城の中なんすけど、入れる?」
「あぁ」
「城仕えか」と、内心納得する。
手持ち無沙汰に彼の隣を歩く彼女は、幼気と形容が付く程には幼い顔立ちをしているので、そんな少女がここまでの買物をするということだけで大体は限られてくるのだ。
『…この男…むむむ』とオルレアの中では知影が唸っているが、彼女は一瞬、自分に視線が向けられたことにどこか、恥ずかしさを覚えて頬を赤らめた。 乙女である。
ふと、彼女の視線が男性の衣服のポケットで光る隊員証に向けられた。 ポケットから窺えるそれは、金色の七芒星。
『話に訊いた五人の大将の一人で御座いますね。 まさかこのような場所で御会い出来るとは、光栄ですね』
『お偉いさんかぁ。 確かに出来る人って感じはするね。 それより弓弦』
「隊員さんっすか?」
オルレアは隣を歩く男性に興味を持った。 武人気質で且つ、口数が少ない彼の姿が彼女の中で、先輩以外のもう一人の元帥と重なったのだ。
「そうだな。 そう呼ばれている」
それともう一つ、寂しそうな横顔だ。 何か辛い過去があるということはそこから察せられるのだがーーー
「他人行儀な言い方っすね」
「他人事だ。 既にもうな」
「…何かあったんすか?」
城門を潜って袋を受け取ってから、オルレアが声のトーンを少しだけ落とす。
だがそれに言葉が返ってくることはなく、男性はゆっくりと背を向けるだけであった。
「あ、待つっす! せめて名前だけでも訊かせてもらえないっすか!?」
「…ハンだ」
短く自己紹介を終えると、ハンは彼女とは別の方向ーーー上階へと足を向ける。
「ボクはオルレアっす!! 良かったら…その」
階段の上に消えて行く背中に向かってオルレアは大きく息を吸い込んだ。
「前持ってたあの袋の中身食べさせてくださいっ!」
何か繋がりを持ちたくて咄嗟に口を衝いて出た言葉がこれなので、自分で言っておいて彼女は苦笑した。
結局背中が振り返ることはなかったのだが、彼女にのみ声が聞こえるチョーカーと下着な女性達はそんな彼女の言葉に『はぁ…』と感嘆の息を吐いた。
『男でも女でもお構いなしに口説こうとしてるよね弓弦…』
『あの場面で、あの言葉を用いれるとは…これもきっと才能で御座いますね…』
『ホモは真面目にお呼びじゃないんだけどなぁ…弓弦が目覚めたら困るしどうせ弓弦よりイケメンじゃないし…非生産的だしぃ…』
『あら、ただ今のハンさんも中々に顔立ちが整われていらっしゃったように思われますが』
風音の言葉に心の中でオルレアも同意する。 ハンも例に漏れないといったところであろうか。 精悍な顔立ちをしていたのだ。
「今帰ったっす!! …あれ?」
買物を終えて帰宅したオルレアだったが、肝心の家の主は居なかった。
取り敢えず食材を冷蔵庫にしまってから時計を見ると、まだ夕飯の支度には早い時間であったので、干しておいたシーツと布団を取り込んでからはやることがなくなってしまった。
「う〜ん、本でも買ってこれば良かったっすね」
多動性という訳ではないが、どうも落ち着かない。 何もしないで時間を無駄にするよりかは、家の掃除をやっている方が有意義には出来る。
「と、そうだ」
ある要件を思い出した彼女は戸締りを確認すると、家を後にした。
『どこに行くの?』
『御礼だと思いますよ?』
オルレアが探している人物は、この城に居ることこそ知っているが後はどこち居るか分からない人物だ。 城自体が広いので長期戦を覚悟した彼女であったが、幸いにもバッタリ出くわした。
「あ、ジェシカさん!!」
「? オルレアちゃん…食材はたくさん買えましたか?」
『…やっぱり、どうしてちゃん付けなのか納得いかない。 人妻の分際で弓弦を』
「はい! もう本当に安くって! たくさん買えたっす!!」
興奮気味に話す彼女に対して、ジェシカは口元に手を当てると微笑んだ。
「それは良かった…」
「? 急いでいるっすか?」
少し落ち着かなさ気に視線を彷徨わせるジェシカは頷く。
「えぇ少し…お客様がいらしてますので…」
「そうっすか…じゃあまた」
彼女としては、また少しお話をしたかったのだが忙しいのならば仕方が無い。
そうして別れると、やっぱりやることがなくなってしまい、今度こそ用事は無いので、オルレアは家に戻ることにした。
* * *
執務机に向かいながら、ヨハン・ピースハートは来客の相手をしている。
一応元々来客の予定はあったのだが、向こうが来るのが予定よりも早く待たせてしまったためか、相手ーーージャンヌベルゼ・アンナ・クアシエトールは開口一番に「すまんな」と言った。
「構わん。 要件は」
「…各世界の崩壊率を知りたい。 大元帥亡き後、どれだけの世界が崩壊した…知らないとは言わせんぞ」
大元帥『クロウリー・ハーウェル』の没後。 組織は『保守派』に代わって、『革新派』が台頭することとなっている。
彼女は元帥であり、『保守派』に属しているため、その所為で半ば隔離状態を強いられ情報が入ってくることはなかったので、こうして自ら入手しようと動いている訳だ。
ここ『シリュエージュ城』は『革新派』の息が強い城だ。 ここの世界は常に彼らの庇護下にあるために平和なのだ。 しかし、それ以外の世界はそうもいかない。
『ゼザ・カーペンタール』と『ザングス・ベルナルド』と』『ジェフ・サウザー』に『カザイ・アルスィー』ーーーこの城には『革新派』の主要人物が集結している。
つまりそれは、他の世界が危険に晒されている危険性が高いことを意味していた。 それは『革新派』の方針が、限られた主要世界のみを防衛することであることを理由としている。
「俺個人で確認しているのは四だ」
「四の異世界が崩壊しただと…!?」
いきり立とうとしたアンナだが、深呼吸と共に「思ったより少ないな」と続けた。
「組織を離れた『保守派』の一派が独自に動いてくれているようでな。 先日粛清隊が向かった」
「フン、馬鹿な真似を。 それでその一派はどうした? 粛清とやらはされたのか」
「ベルナルドの弟が向かったが、結果は察しの通りだ」
そこで扉が叩かれたのでヨハンは言葉を切り、「入れ」と入室を促した。
「失礼します」
ワゴンを押して現れたのは真紅の髪のメイドーーージェシカだ。
「元帥、粗茶ですが…いかがでしょうか」
「貰う。 そこ、借りるぞ」
ワゴンから紅茶が入ったティーカップを受け取ると、アンナはソファの前の机に置く。
「構わん」
紅茶はヨハンの前にも置かれ、彼女は一礼をして退室した。
「…元帥、何がためにこの地に滞在する。 身の潔白を証明するのならば急ぎ、去ることを俺は勧める。 …次はこの程度では済まんぞ」
話を切り替えたヨハンは、紅茶を含みながら一息吐く。 そこには嘲りの響きなどはなく、単なる警告としての意味合いが込められていた。
「有象無象に遅れを取る程、今の私の剣は鈍っていない。 数で押そうと全て、一刀の下に斬り伏せてやろう」
不敵に笑いながら紅茶を飲んだアンナだが、
「…男でも出来たか」
「ぶ…っ!?」
突然のヨハンの言葉にそれを噴き出しかけて大きくむせる。
「ケホッケホッ…な、何を突然馬鹿なことを言い出す…!?」
「ならばその自信はどこからくる。 この城に『保守派』の味方は…そうか、部下か。 確かに直属の部下が戻ったのだったな。 …『剣聖の乙女』の剣が既に捧げられていることを知ると、泣く隊員が現れそうだ」
「…何を勘違いしているのかは知らんが。 あいつは女だ。 お前の思っていることはないぞ、ピースハート」
むせたためか彼女の頬は微かに赤く、何か喉につっかえた感覚を覚えているのか、何度も咳払いをしている。
「‘っ、堅物者はどいつもこいつも洒落にならん冗談を言ってくれる…!!’」
「…いずれにしろ無駄な行動は慎め。 折角戻った大切な部下を失うことがあっては叶わんだろう」
すっかり言われっぱなしのアンナであったが、紅茶を飲み干すと最後の咳払いと共に鼻を鳴らした。
「フン、それで私が『アークドラグノフ』に渡ったのならばどうする? お前の望みは遠退くぞ?」
その言葉に若干眉を顰めたヨハンだったが、数秒の間を置いて「ここを暫く出る」と彼女に告げた。
それを訊いて最初に浮かんだ疑問は、「何を突然」だ。
大将の立場に居る以上ヨハンも相当の実力を持っている。 彼が城を離れるということをわざわざ自分に伝えることの意味が分からなかった。 無論最初だけですぐに思い至ったのだが。
「……」
ヨハンが視線を向けたのは、扉だ。
「…もし私が今日ここを訪ねなかったら、ピースハート、お前はどうするつもりだったんだ」
「出ることには変わりない。 けじめ故にな」
「…『アークドラグノフ』に攻め入るつもりなら全力で阻止させてもらうが?」
「安心しろ。 悪魔討伐だ」
「…そうか。 ならば私が口出しする必要性は無いな」
立ち上がったアンナが扉に手を掛けると、扉の外から足音が離れていった。
それが十分聞こえなくなったことを確認してから彼女は扉を開けた。
一人になったヨハンは空になったティーカップの中央を見ながら、深く息を吐く。
そう、先程アンナに言った通り彼は明日から、『ディー・リーシュワ』と共に悪魔討伐のためにここを離れる。 きっとこの後部屋に戻ってくる女性を置いて。
彼は自分の立場が、非常に危ういバランスの上に成り立っていることを自覚している。 少しでも風が吹いたのなら、その均衡はいとも容易く崩れてしまうであろう、そんな。
彼自身は生恥を晒している身。 今さらどんな恥辱に塗れようと構わないが、彼が命を賭してでも守りたいものは、ある。
控えめなノック。
彼が返事をすると扉が開いて、ジェシカが入って来た。
「仕事は終わったか?」
「はい、片方は終わりました」
「そうか」
その言葉に短く返すと、ヨハンの雰囲気と表情が弛緩する。
「腹が減った。 用意してくれ」
「はい…!」
ジェシカ。
彼女のフルネームは、『ジェシカ・ピースハート』
ヨハンと同じピースハート姓ーーーつまり、ヨハンの妻ということになる。
オルレアに下の名前まで言わなかったのは、別に正体を隠したかったとか、そういった悪意によるものではなく、ただ親しみ易いように、名前を伝えただけなのだ。
「…はぐっ」
程無くして運ばれてきた料理にヨハンは噛り付いた。
この部屋が執務室ということは、彼も大将として日々様々なデスクワークに追われているということだ。
また彼はこの『シリュエージュ城』を預かる隊員であるので、『エージュ街』に住まう人々からこの城の城主として認識されている。 あの時ギョッとされたのはそのためだ。
また、ヨハンはその本来の二つ名の他に、別の二つ名を持っているーーーいや、そもそも二つ名と呼べるものなのかどうかは謎ではあるが、彼は通称『超弩級の愛妻家』としても知られているのだ。
このことについて、必要以上に語るのは止めた方が良いのだが、それでも敢えて語るというのなら、これだ。
ーーー彼は、妻を泣かせる存在を決して許さない。
自らを鍛えることに明け暮れ過ぎてしまったあまり、買物すらまともに出来ない武人な彼だが、それを支えてくれるジェシカのことを愛して止まないのだ。
暑苦しい男であろう。 普段冷静な分、ジェシカがそこに絡むというだけで反動なのか、熱くなってしまう、ある種主人公的な心情を持つ男だ。 当然、それは『橘 弓弦』の心情にも通じるものがあり、風音の発言は裏でこのことも指していたりした。
しかし弁えている分大人であろうか。 ヨハンも、ジェシカも、仕事中は公私を分ける人物だ。 互いにベタ惚れ状態ではあるが、弁えているだけで違うものなのである。
だから仕事終わりの際には、美味しそうに妻の手料理にがっつく夫等、プライベートな二人の姿を拝むことが出来る。 そこには大将の威厳や下の者を纏めるベテランメイドの姿はなく、ただ一組の夫婦の姿があるのだ。
「…話は聞いていたな?」
「…はい」
「…ディーと共にあの子の仇を取る。 ターゲットは悪魔だ」
しかし彼らは“一組の夫婦”であって、“一組の家族”ではない。
ーーー居てほしかった大切な者が、欠けているのだ。
「…ジェシカ。 勝手な俺をどうか、許してほしい」
俯いた彼女の肩を、ヨハンはそっと抱き寄せる。
瞑目し、背中をトントンと叩きながら抱き合うこと数分。 離れたジェシカは空になった食器を洗うために退室したので彼は、壁に掛けられた明日から命を預けることになる自らの得物に視線を遣る。
ーーー次の朝陽が昇る時、ディーが彼の下を訪ねた時が出立の時だ。
目標の位置は判明している。
今は『狭間の空間』に居るようだが、彼は確実に仕留めるつもりだ。
それが愛した娘の願いだと信じて。
「止めましょうよ、もう」
部屋に戻ったジェシカは、扉を閉めながら悲し気に眼を伏せる。
「…死んだ者は戻って来ません。 あなたまで死に急ぐ必要は無いではありませんか…」
「死にはしない。 俺は必ず生きて、君の下に戻ってみせる」
「その後は、どうするつもりなのですか。 その言葉に嘘偽りが無いことは信じています。 ですが、その後は…? 生恥と称せば全て汚れが落ちるとお思いですか? …逃げないでください。 どのような建前があったとしても、やってはいけないことがあります。 今が、そうです」
強い口調で彼に告げるジェシカは、やり切れないとばかりに服の裾を強く握る。
「あなたの言う悪魔の中には、あの子の死に大きく関わった人達が入っています。 悪魔…確か『フェゴル』でしたね。 私が止めてもあなたは行ってしまうのでしょう? だったら私は、悪魔討伐には反対しません。 ですが…ですが、人殺しだけは止めてください。 レオン君は何も悪くありません。 もしそれを考えているのなら、彼のことを入れているのなら……っ!!」
「君を殺せと?」
俯いた彼女の沈黙が、彼女の肯定の意思を示していた。
ヨハンはそんな彼女に対してどうしようも出来ず、ただ押し黙るだけだった。
降りる沈黙。
「…そう言えば」
その空気を打ち破ったのは、ジェシカの話題転換だった。
「折角のお休み中ごめんなさい。 まさか買い忘れていたとは…」
それは今日彼を買物に行かせてしまったことに対する謝罪であった。
食堂用の食材が今日になって、突然足りなくなってしまい急遽、何故か? 大将のはずなのに、彼が『エージュ街』に赴くことになってしまったのだ。
今日の彼にギョッとした人間の数は、本当に数知れずといったところなのだが、一番最初にギョッとさせられたのは間違い無く彼女だ。
さらに特売日で市場が大荒れの模様を見せている今日、一番安く、高品質のものを入手するとは思わなかったので、食材を手渡された時彼女は思わず、二度見をしてしまった。
「構わん。 良い気分転換になった」
「それと…もう一つ」
先程の悲し気な表情から一転、笑顔を見せた彼女の姿に疑問を覚えつつも、「なんだ?」とヨハンは返した。
「可愛い女の子と一緒に買出しに行っていたと今日報告がありました」
「っ!?!?」
別に後ろめたいことなど何も無いのだが、息を詰まらせてしまうだけの迫力が今の彼女にはあった。
「年頃の可愛い女の子だと聞きました。 困っていたところに声を掛けて助けてもらっていた…とか」
そう、後ろめたいことなど何も無いはずなのに彼は背中に冷えるものを感じた。
「袋を持って道中を共にしたと聞きました。 食材もその子に分けてもらいましたよね?」
先程の空気はどこへやら。
ヨハンは別の意味でジェシカに謝罪しなければならない状況に追い込まれていた。
「お城の女の子だそうですね。 どの子ですか?」
これまで数々の死線を潜り抜けてきたヨハンであったが、かつてこれ程の恐怖を覚えたことがあったであろうか。
有無を言わせぬ迫力すら放つジェシカに押し黙らされる彼に、威厳など無い。
「…オルレアと言う少女だ。 安心し「まぁ!」…?」
驚いたかのように、突然両手を合わせた彼女の様子に彼が眉を顰めると、ジェシカはクスクスと笑い始めた。
「薄々そんな気はしていました…ですが大当たりですね。 そうですか、確かに彼女でしたら十分可能性のある話です…」
本格的に訳が分からなくなりはじめた様子のヨハンに、彼女は「それで」と続けた。
「あなたの眼に、彼女はどう映りましたか?」
「不思議な子だ」と彼は即答した。
「見た目こそ少女のそれだが、立ち居振る舞いはまるで熟練の者だ。 …かと思うと、やはり少女だった」
「確かにそれは不思議な子ですね。 私の眼にもそう映りました。 …彼女は非常に優秀なメイドになれますよ」
「? 俺の眼では、非常に優秀な武人にも育つように見えたがな。 …そうか、メイドとしても優秀に育つか」
そう言った彼の表情は、妙に穏やかであり、それは妻であるジェシカですら暫く見なかった顔であった。
「‘どうやら成功ですね…’」
「? 何か言ったか」
「いいえ何も。 さぁ、今日はもう明日に備えてください。 あなたが身体を休めてくれないと私も休めれません」
俯いた彼女の小さな笑みはヨハンからは見えなかったが、彼は彼で、自分をリラックスさせてくれたのだと丁度良い勘違いをしたので、そのまま身体を休めるのだった。
翌日から、ディーと共に城を去った彼が帰還したのは三日後であった。
彼女が二人を迎えた時彼らは、形容し難い表情を浮かべていたそうだ。
「何か妙に不思議な感じにお話終わったけど…どうしたのかな「キシャ」っと蟷螂…? 凄い艦内を自由に歩いているけど色々良いのかなぁ。 途中で駆除とかされないと良いんだけど…って要らない心配? まぁ弓弦の中に住んでいる悪魔だもんね…でもなら、なおさらなんでここに居るんだろうか。 置いて行かれたとか? …何か弓弦だったらツッコミを入れてくれそうな気がするけど僕には無理だね。 さぁ、予告っと。 『アンナの家の扉を叩く、彼女が想像も出来ない存在。 その者は、やっぱりと言うか当然と言うか、オルレアを連れて行くために現れたそうだ。 複雑に揺れる元帥の心情が描写される前半は、彼女の一人称! これからも彼女は語ってくれますーーー次回、草で覗く』…一人称、昔は僕もあったなぁ」