蜜に香る
月が城壁から顔を覗かせ始め、静かに夜の訪れを告げようとしていた時、敷き詰められたタイルに竹刀が立てられる。
「…っ、はぁっ…はぁ…っ!!」
膝を着いているオルレアは息も絶え絶えに、感激の感情を視線に込めながら立ち塞がる黒い影を見つめる。
「フ…どうした? その程度か」
「まだまだっすッ!」
「フ…その意気だ…ッ!」
柄を握る手に力を込めて立ち上がった彼女は、余裕を見えているアンナに切先を向け突撃する。
ーーーそう、二人は稽古をしているのだ。 あの後帰って来たアンナが「やるぞ」と言って、突然竹刀を渡してきたので、オルレアとしては頷かざるを得なかった。
半ば強引ではあったが、ちょっとした先輩との戯れーーーもとい、稽古は彼女としても心躍るものであった。
「「ッ!!」」
さながら真剣のように衝突する二振りの剣越しに、視線が交錯する。
必死な桃色の双眸に鳶色の双眸が微笑まし気に細められると、アンナが一歩押し込んだ。
ーーーそれだけだ。 それだけで、
「甘いッ!」「きゃあっ!?」
オルレアが呼吸を乱したところをアンナに狙い澄まされ、一気に崩されてしまう。
彼女の下着、チョーカーを通してその光景を眺めている知影と風音は訝し気に小さく声を発する。
「これで私の、九勝だ」
弾かれて地面に転がる竹刀を見つめる敗者に、勝者であるアンナは自らの勝利数を強調する。
それは普段ならば信じられないような光景だ。 九回試合って、九回とも下されるーーーそれが二人には驚愕の光景として映った。
しかし、決して弓弦の実力が低下している訳ではない。 まして、身体が女性になったのが理由でも、なかったりする。
「…“やっぱり”先輩は凄いっす」
オルレア本人はそれが分かっていた。 だから、“やっぱり”と言ったのである。
そしてその言葉を聞いた知影は気付いたのだ。
「フ…お前の先輩だからな。 やっぱりではなく当然だ。 …もう一本、やるか?」
「はいっす!」
今のアンナの剣技には、一点の曇りも無いことに。
「呼吸を乱すな。 私達が放つ居合とは刹那に全てを叩き付ける剣術だ。 呼吸の途切れ目が生命の途切れ目だと思うこと…そして逆に、相手の継ぎ目を一刀の下に縫うことがその真理だと思え」
今の彼女の剣は、“教える剣”だ。 その剣に殺気は無く、ただ、オルレアの稽古のためだけに見せているような、そんな優しい剣だ。
風音も勿論気付いていた。 何故なら彼女との手合いがアンナの剣から迷いを消し去ったのだから。
彼女は今、彼女達が出会ってから初めて、最も、元の彼女“らしい”剣術を用いているのだ。
「っ、流石先輩。 美郷姉さんと同じことを言うっすね…!!」
オルレアにとって、真に心躍る手合いとはこのことだった。 彼女は今、先輩であるアンナにかつての師匠を重ねて、剣を合わせているのだ。
「…そうか、剣の師匠は実の姉…フ。 ならば私を姉と思って向かってくるが良い! これで最後だ、全力の一ノ太でな!」
そう言い放つと、アンナは竹刀を静かに構え直した。
「…!!!!」
静かに、しかし、圧倒的な存在感と威圧感を放つその佇まいは、どこかがいつもの彼女とは異なっていた。 何が変わったのか二人には分からなかったが、オルレアの心が大きく跳ねた感覚が、オルレアの五感を通じて傍観者気分で稽古を見ている二人に伝わってくる。
『ねぇあれ…アンナなの? 殆ど別人に見える…』
『…愚考するに、あれが本当のアンナさんですよ。 きっと本来の…』
「一ノ太刀…分かったっす!」
構えを取って静かに瞑目したオルレアは、深く息を吸う。
「刹那に全てを」の言葉通り、次の一撃に全てを込めるーーーこれは試験であり、彼女の中の、彼の中のアンナに対する認識は一段上へと昇華している。
「一ノ太刀を抜いて、砕く…」
アンナの眉が動く。
「来い! オルレア!!」
裂帛の気合いと共に剣気が衝突する。
魔力だ。 二人の気合いに乗った、魔力が風を巻き起こし、空気を振動させ窓に音を立てさせているのだ。
「ッ!!」
オルレアが斬り抜けた。
すると知影が魔法を発動させたかのように、時が止まったように、オルレア以外の全てが静止する。
「良い一撃だ」
アンナが感嘆の息を吐くと、彼女の鳶色の髪が大きく靡いた。
しかし、オルレアはまったく手応えを感じなかったのか、キョトンとした瞳で振り返る。
『…弓弦のお姉さんとアンナの剣技って一緒なの?』
『クス…おそらく流派を同じくするものなのでしょうね』
「構えろ」
今度はオルレアが構える。 刹那、
「っ!!」
今度はアンナがオルレアを斬り抜けていた。
月が雲に隠れた直後、静寂が訪れる。
何かを受け止めている体勢のオルレアはピクリとも動かず、竹刀を振り抜いた体勢からアンナが動く。
風が吹き、草花がサワサワと表面を撫でられていく。
いつしか何事かと数人のメイド達が集まっており、事の成り行きを見守っている。
まだ静寂は続く。
月は隠れたままで、薄暗闇の下オルレアの下に歩み寄った彼女は、
「まだまだ…」
困ったように彼女の頭をポンと撫でた。
そして嬉しそうに呟いた彼女の表情が、ようやく顔を覗かせた月に照らされると、
「っうわぁぁぁぁぁっ!?!?」
ようやく、オルレアの身体が大きく仰け反ったーーー斬撃が今になって襲ってきたのだ。
アンナはそれを横から抱き寄せると、彼女の手に握られていた竹刀が柄から折れているのを確認して、自分の抜刀術が入ったことを確認する。
生半可な剣技は見せたくなかったのだ。 だから、彼女に見せるため、彼女を魅せるために全力での“一刀抜砕”を放ち、結果、間違い無く最高の一撃を放つことが出来たので満足だった。
「…凄いっす先輩……姉さんみたいだったっす…」
疲れたのか、腕の中で荒い息をしているオルレアの口から出たのは心からの尊敬の言葉だった。
照れ臭かったが、そのまま横抱きで家に運んで行ったアンナはオルレアを椅子に座らせ、自分も正面に座る。
本当に晴れやかな気分だった。 これまで溜まっていた鬱屈とした感情が消え失せる程に。
「…ぁ、冷蔵庫に檸檬の蜂蜜漬け入ってるっす…」
冷蔵庫を開ける。
これまで彼女があまり使ったことがなかった冷蔵庫は今、ピカピカに磨かれており、中には様々な食材と彼女の言う通り檸檬の蜂蜜漬けが入っていた。 アンナが帰ってくる前に大急ぎで用意したもので、中には先日知り合ったベテランメイドから受け取った物もあった。
「…まだそんなに時間経って無いっすから微妙かもしれないけど、美味しいと思うっす…」
「…っ」
少し感動を覚えるアンナである。
『ねぇやっぱり弓弦って、凄い優良物件だと思うの。 風音さんはどう思う?』
『そうですね…流石です、御見事です、素敵で御座います…っ』
『だよね。 私弓弦と一緒になって良かったなって思うんだ』
『あらあら…まだ一緒とは言えませんよ?』
『それはそうだけどさ…こんな男の子普通居る? 二次元じゃあるまいしさ。 今時の少女漫画でも中々見ないよこの何でもござれのチートっぷり。 イケメンでイケボで家事万能で世話好きだなんてさ』
『御家族の教育の賜物でしょうね…きっとオルレア様も余程苦労されているかと思いますよ』
「…ん、悪くない」
取り敢えず冷蔵庫から出して食べてみたアンナだが、酸味と甘みが丁度良い塩梅となっており彼女としても満足のいく味であった。
頷きながら食べ進めるそんな彼女を見て頬を綻ばせたオルレアは、「口を開けろ」と言われたのに従い、突っ伏していた身体を起こして口を開けると、何かが中に入れられた。
「はむ」
口の中に入れられるアンナのフォークから、刺された檸檬を咥えて暫く咀嚼すると、確かに、甘みと酸味が良いバランスとなっており、それなりには美味しいと思える味であった。
「ん…っと、どうしたっすか急に?」
「美味しいっすけど…」と呑み込み終えてから続けた彼女に、「疲れているのは私より寧ろ、お前の方だからな。 疲れに効くと言うからなこれは」と次々に口に放り込みながらアンナが返す。 気に入ったようだ。
『はぁっ!?』
『あらあら…うふふ♡』
何やら知影と風音が謎の反応を見せるが、鈍いオルレアは首を傾げるだけで、アンナは檸檬に夢中だ。
つまりそんな先輩後輩の行動を気にしているのは、この二人だけということになる。
『…この二人鈍いよね』
『似た者同士なのでしょうね』
『そうじゃなくて…う〜ん、何だろうな? う〜ん…あ、そっか! 主人公タイプなんだよ!』
知影の発言に『主人公?』と、風音が素っ頓狂な声を上げながら首を傾げる。
『そうそう。 こんな状況、覆してやる的な主人公技能だよ。 勇者様勇者様、キャー!』
『は、はぁ…』
『それでやたらと異性にモテるんだよね。 主人公ってだけでモテるんだよ。 ちょっとそれっぽいこと言ったら女の子ホイホイ堕ちるし。 必ず美味しい場面は持っていく。 そしてモテるし、女の子の場合何もしなくてもイケメンに会えて、後は状況に流されていく内に惚れられて、勇気を貰ってやってみた行動では美味しい場面。 それでイケメンに甘い言葉を掛けられて…信じられないよ主人公、ズルイよ主人公! 主人公ってだけで美味しい! ほら見て風音さん』
「ん…これまた作っておいてくれるか?」
「…っ、勿論っす!」
そうこう二人が話している間にアンナは蜂蜜漬けを、平らげてしまった。
それを見ている間に体力が戻ってきたオルレアは、立ち上がると空になった容器を受け取り、洗い始める。 その姿はまるで(?)やっぱり主婦であり、鼻歌を歌いながら腰を小さく振っている姿は、見る者によっては最早誘っているようにしか見えない。
『これ絶対誘ってるよ。 背後から襲ってって、どうぞ突っ込んでって言ってるよ』
つまり反応するのは、彼女の下着である変態だ。 涎を啜ったこの女、手遅れ気味だ。
『…そうですね。 可愛いです』
『さらに言うとね? 一振り毎に私、形を変えられて最高に気持ち良い♡』
『…左様ですか。 それは良う御座いました』
風音はそろそろ投げ遣りになってきており、少しだけつまらなそうに溜息を吐く雰囲気がしたので思わずオルレアもつられてしまう。
「…どうした?」
すると、そんな彼女の溜息を耳聡く聞いたアンナが反応した。
「何でもないっす。 ご飯用意しても良いっすか?」
「いや、今…と言うより、今日はもう用意しなくて良い。 さっきので十分膨れてしまった」
「ふふ、じゃあ蜂蜜漬けだけでも作っておくっす」
そう言って冷蔵庫から取り出した檸檬を切り始めた彼女に、今度はアンナが溜息を吐かされた。
「働き者なのは結構だがな…無理をし過ぎてはいないか?」
「そう見えるっすか?」
「見えなければ言わない。 夕方まで寝ていたかと思ったら食材を集めているわ蜂蜜漬けを作っているわで、終いには私の剣技を受けている。 疲れていないと考えることこそおかしいと思うが?」
「…そうっすね。 だけどこれでもう終わりっすから…‘えーと蜂蜜蜂蜜’」
言葉でこそ納得をしながらも、動くのを止めない彼女に頬杖を突くアンナは渋い顔をする。
その視線の先では瓶の蓋を締めたオルレアが冷蔵庫にそれをしまった。 ーーーチラリと見えた食材の数々はいつの間に集めて来たのだろうか?
「終わりっす♪ ふぅ…っと」
椅子に腰を下ろす彼女だが、若干フラついたのをアンナが見逃すはずもなく、彼女の瞳が鋭く、誤魔化そうとする後輩を見据えた。
「疲れてるじゃないか。 もう今日は寝ると良い」
「それは嫌っす!」とオルレア。
「汚いじゃないっすか! 汚い身体で先輩の横で寝るだなんてとんでもないっす!!」
「待て待て待て! どうして私の隣で寝ること前提となっている。 別の布団で寝るに決まっているだろう」
「え…?」
本気で分からない様子のその表情に、突っ伏する先輩。
「え? じゃないっ!! 何を言い出すんだまったく…早く寝ろ!」
因みにオルレア、本気でアンナの隣で眠るつもりであった。 新しく布団を出すのも明日干す手間が増えてしまうし、幸いにもアンナのベッドはセミダブルなので、二人で寝る分には問題無いと考えていたのだ。
『駄目だよそれは!!』
『あらあら…積極的でいらっしゃいますね』
それに反応したのは当然、下着とチョーカーな彼女達。
昨日は流されて有耶無耶になってしまっていたが、特に知影はオルレアとアンナが一緒に寝ることに反対だったのだ。 風音も心なしか異常な程に声音が冷ややかだ。
『弓弦! 今日と言う今日は駄目だよ! 絶対! 今日からはもう、布団の中で一人遊びしてもらうんだからね! そして布団と私をグショグショに…ふぇへへ♡』
「絶対にやらないっすよ…っ!」と心の中で反論したオルレアはふと、どうして一緒に寝ようと思ったのか、自分のことなのに疑問を覚えたーーーといっても、なんとなくそうしたいからとしか思えないのだが。
『ね、我慢しようよ! ね、ね!? ねぇ、わざわざ一緒のベッドで寝る必要なんて無いよ! 無必要ッ!! 無価値ィッ!! 無駄無駄無駄ァッ!!』
『知影さんはこう仰ってますよ? クスクス…』
確かにオルレアがアンナと床を共にする必要は無い。 しかし彼女としては、“風呂に入らずして寝る”という行為だけは許せなかった。
昔からそうなのだ。 兎に角一日一回は、運動した後は風呂に入って身体を洗わなければ彼女は布団の中に入りたくないのだ。
「寝ないっす。 浴場行ってくるっす」
『え? 欲情するって?』
つまり寝る前のお風呂は、彼にとって、絶対にしなくてはならない行為なのである。
「朝入れば良いだろう…ほら、フラついてるじゃないか。 大人しく寝ておけ」
外に向かおうとするオルレアを背後から羽交い締めにして、アンナが諭す。 すると抵抗を始めた。
「嫌っす! お風呂入るっすぅっ!!」
「駄目だもう、寝ろ」
「嫌っすぅぅぅっ!!」
『可愛い…♡ 良いよ弓弦、世界一可愛いよぉ…っ♡』
ジタバタジタバタと子どものように拒否の意を示しながら、声を上げるオルレアの姿に萌える知影が一名。 相手が『橘 弓弦』という存在ならば、彼女は男でも女でも、人間じゃなくても構わないようだ。
「…っ、好きにしろ!」
痺れを切らしたのか、拘束を解いたアンナは肩を怒らせて二階へ上がってしまったので、悪いとは思いつつもオルレアは浴場へ向かった。
『シリュエージュ城』の浴場は二種類ある。
城に勤める一般人が利用する一般浴場。 中将以上の隊員が利用出来る上浴場ーーーそれぞれ男湯女湯に分かれての系四つだ。
利用者に気を遣わせないように分けられている二種類の浴場だが、別に中将以上の隊員でも一般浴場を利用することが出来るし、こちらを主に利用する隊員も居る。
そんな中オルレアは一般浴場を利用している。
「極楽極楽っす〜♪」
元帥直属の部下である彼女も、一応上浴場を利用することは可能なのだが、面倒という理由で利用していない。
「あら…珍しいですね」
オルレアはここに来てからいつもこの時間より遅く入浴しているので、早めに入浴した今日は珍しく、一般浴場に見知った顔が現れた。
「あ…どうもっす」
湯船に浸かっていた彼女に声を掛けたのは、洗濯物の時に世話になったベテランメイドだ。
「隣に座っても宜しいですか?」
「どうぞどうぞっす」
断る理由が無いので笑顔で隣に座るよう勧めると、彼女の隣に腰を下ろした。
「自己紹介、まだでしたね」
口元に手を当てて穏やかに笑いながら、ベテランメイドは「ジェシカです」と頭を軽く下げながら自己紹介をした。
オルレアもしようとしたのだが、「有名人ですし、存じておりますので」と、やんわりと断られてしまった。
折角なので、話を変えてみることにーーー
「勤めて長いっすか?」
オルレアが当たり前のように、女性の浴場に入っていること等に関してツッコミを入れてはいけない。 要は、オルレア・ダルクは、乙女なのだ。 彼女は『橘 弓弦』ではない別の存在。 つまり、ツッコミ役が不在なのだから細かいことは気にしてはいけないのだ。
「そうですね…かれこれもう、三十七年になるのでしょうか」
「さ、三十七…えっと…」
「もうお婆ちゃんですよ。 私も」
そう言いながら笑うジェシカは言う程老いているようには見えなく、オルレアは首を傾げた。
確かに知影や風音が持っているような所謂若々しさに溢れる雰囲気を彼女は眼の前の女性からは感じ難かった。 感じるのはどちらかというと、フィーナが持っているようなーーーと思えた。
「少なくとも母を経験している」とは彼女の心の内である。
「そんな! 全然若く見えるっすよ?」
「ほら、こんな場所に皺。 もう昔の張りはなくなっていますよ?」
指したのは眉間の辺り。
「オルレアちゃん…とお呼びしても?」
「はい、構わないっす。 ボクも…ジェシカさんで良いっすか?」
「えぇ、宜しければジェシカと呼び捨てでも良いですよ」
「そ、それは失礼っす! …さん付けで」
チラチラとあらぬ方向へ視線を移す彼女に眼を瞬かせながらも、ジェシカは頷いた。
「オルレアちゃんの…趣味は、何かありますか?」
「先輩のお世話っす」とオルレア。
「もっと突き詰めて言えば…大切な人のお世話っすね」
「オルレアちゃんは良い奥様になりそうですね」
「なれないっすよ」
男だからではなく、いや、本人自分が男だとの自覚が皆無に等しいので、自身が無いことと、謙遜からだ。
「…でしたら、得意料理。 何がありますか?」
「そうっすね…一番得意なのは味噌汁っす」
誰かが新しく浴場に入って来る音がした。
「味噌汁…家庭的で良いですね。 そうですか…女性として、修めるべきものを全て習得されているのですね…」
小さくなっていく呟きに彼女に視線を戻したオルレアは、
「…ジェシカさん…?」
「いえ…また今度、お話ししましょうか。 オルレアちゃんのこと…もう少し知りたいです」
「え、あ…」
早足でその場を去って行ったジェシカの眦に光るものを、湯煙に混じる景色の中で見たような気がした。
「…ジェシカ…か」
「ふぇっ!?」
その姿を見送っていると、ジェシカが浸かっていた方とは反対側に、新たな人物の姿があった。
『さっき入って来たの』
現在は入浴中。
つまり衣服は何も身につけていないので、オルレアは悪魔達と会話出来るようになっていた。 恐らく今回限りのような気はしたが。
これは、シテロの声だ。 そして、隣から聞こえた声の主はーーー
「先輩…」
やっぱり、アンナであった。
「フン…お前は変な天運を持ち合わせているな」
面白そうな面持ちで湯船に身体を沈めた彼女の先輩は、発言の意味が分からずに頭に疑問符を浮かべる後輩に対して、「こっちの話だ」と苦笑する。
「心配して来てくれたんすか?」
「勘違いするな。 私が入ろうと思った時間にお前が居た…それだけだ」
「…ふふ」
そういうことにしようと思う先輩愛に溢れる後輩である。
「笑うな馬鹿者。 まったくこれだから…」
「何をブツブツ言ってるんすか? あ、まさかお腹空いたっすか?」
「ば、馬鹿者! お前は人を何だと思っているんだ。 こう見えても私は小食な方でな。 燃費も良いのだからそんなことある訳ないだろう。 …それより、痛む箇所は無いか?」
言いながらチラリと隣のオルレアに視線を向けると、ほんのりと赤味を帯びた傷一つ無い珠のように美しい肌色が彼女の視線を迎えた。
結ばれた亜麻色の髪はタオルの中に包まれ、湯船にタオルを浸けるのが禁止なため、透き通った湯面からさ控えめな彼女のスタイルが窺える。
ーーー風音風に繰り返そう。 オルレア・ダルクは女だ、少女だ、美少女だ。 しなやかな曲線美は正しく女性であり、その中でも、伸びる四肢や顔立ちからは華開く前の蕾ーーー成長前のあどけなさが窺える。
大きな桃色の瞳は桜の如しであり、その弾力のある唇も同じく、桜の如しだ。
風呂は素晴らしい。
覗くうなじは確かな色気を放ち、そこに張り付く髪からは柔らかな香りが立っている。
それは彼女の美しさだ。
熱が込められた吐息と上る湯煙に混じり一時的に華開いた、彼女の美しさなのだ。
それは、感性を持つ者ならば誰しもが「飾りたい」と思える一輪の花の如き麗しさだ。
アンナは鼻を鳴らすと、風呂という花瓶の中に挿れられた芸術品から視線を外した。
「…後少ししたら逆上せない内に出させるからな」
「は〜い♡」
聞くだけで耳を蕩けさせてしまいそうな、元気な同意の声にアンナは、無意識の内に視線ごと動いていた顔を、彼女から背けながらもう一度鼻を鳴らした。
「キシャ。 キシャ、キシャ、キシャシャ、キシャシャシャシャ」
「ん…へ~…蟷螂か。 まさか研究室無いに迷い込んでくるとは驚いたな。 …魔法生物の一種ではあるけど、これは…データだと、弓弦君の魔力かな。 君も大変だね、主人の留守を任されているのかい?」
「シャ? キシキキ、シキシシキシキシャキシャキシャキシシ」
「…何言ってるのか。 レオンじゃないけどさっぱり分からないね。 ハイエルフである弓弦君とかは分かるんだろうけどさっぱりだよ僕には…っと、そう言えば確か…あ、ちょっと待っててね」
「キシャ」
「…確かこの辺りのガラクタに混じってあったはずなんだけどなぁ。 …お、見つけた。 ちょっとゴメンよ」
「…?」
「よし、良好良好。 何か話してみてよ」
「……何って、何を話せば言いのか…急に振られると困る」
「お! 言語が理解出来るね! そうだな…じゃあ予告、やってみてよ…って分かるかな?」
「承知した」
「へ~予告の意味分かるんだ。 中々知能が高いことが窺える…まぁでも魔法生物だからこんなものかな」
「『空間の絶ち手』をこんなもの呼ばわりか。 素晴らしいツッコミ所だ「は?」『嵐、嵐、嵐ィッ!! 』」
「おわ…テンション高いね」
『美少女オルレアが向かうは戦場が一つ、安売りセールッ! 駐屯する飢えた主婦達の魔手から至高の安売品を掴み取れば、お会計レジの音響くゥッ!! 表示された数字羅列は敗者の顔に影を落とすゥゥッ!ーーー次回ィッ! 金に笑う!!』…しょぉぉぉぉぉりを掴めぇぇぇぃぃぃッッッ!! オルレアァァッッ!!」
「……」
「…ここはツッコミを入れる場所だ「な、何でやね」遅ぉぉぉぉぉぉいッッッ!!」
「主人の手解きかな…ツッコミて、手厳しいね…」
「…キシャ?」
「…これは封印しよう。 うん、それが良い」
「…キシャキシャキシシ」
「……取り敢えずオープスト大佐を呼んでこようかな…うん、それが良い。 …何を言われるやら怖いけど…リィル君の扱きよりはマシなはず…!」