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俺と彼女の異世界冒険記   作者: 仲遥悠
“非日常”という“日常”
13/411

悪魔 後編

 鼻歌交じりに手を動かして。

 綺麗清潔をひたすら目指し、目的は彼のため自分のため。

 没頭していく程に、時の流れは遅くなった。

 時間があるのなら、有効活用しない手はない。有効活用してこそ女道。さぁいざ進め、前へと進め。

 そして時は緩やかに流れていき──


「フィニッシュ!!」


 掃除を初めて一時間が経過した。

 掃除の手を止め、知影は額を拭う仕草をする。

 思ったよりも時間を要してしまっていた。

 弓弦は綺麗を好む男だ。そんな彼の部屋なのだから、部屋自体は元から綺麗ではあった。だというのに、掃除に時間を掛けてしまったのには理由があった。

 ──即ち、とあるアロマの準備だ。

 何のアロマか。そこのところは、察してほしい。ただ彼女は、自らの鼻と直感を頼りに、目的の香りを発するアロマを作り出していた。

 その材料は、一体どこから手に入れたのか。そこは天才少女、知影。彼女は研究室を出る際に、とある物を持ち出していた。

 倫理観? そんなものは知らない。

 彼女にとって、弓弦とは全て(・・)である。故に彼との幸せのためなら、手段は選ばない。

 選ばない手段によって、彼女がアロマで何を試みたのか──それは後程明らかになるとして。その他に彼女が何よりも細心の注意を払ったもの──それは、ベッドである。

 何度も試行錯誤を繰り返した結果、現在シワ一つないベッドが見事完成し、夜の準備はバッチシだった。


「ふふ…フフフフ…」


 恍惚とした笑みを浮かべて一人笑う彼女の姿は、ホラー映像そのもの。

 振り撒くドス黒い──狂気とも取れる彼への愛情が、「それ」を一層悪い方向に引き立たせていた。

 心なしか窓から窺える天候も曇っている。それはまるで、弓弦の行く末を暗示しているように。


「そうだ! 折角だから弓弦君の様子でも見に行こうかな♪」


 準備は万端。上機嫌で彼女は部屋を後にした。

 艦内を跳ねるようにして歩く様子は、その優れた容姿と相まって一枚の名画を思わせる。


「♪♪」


 その見慣れない可憐な少女の姿に見蕩れる者は数多かった。

 医務室への道すがら多くの視線を感じると、自分が今──確かに存在しているということに対しての確信が、彼女をさらに上機嫌にする。

 スキップしそうな勢いで医務室前の通路に差し掛かると、視線の先に白い姿が映る。

 医務室の扉の前で白衣を着た女性が、カードキーを挿入しているところであった。


「ふと思ったんだけど、挿入って何かアレな響きに聞こえるよね」


 その女性を見詰め、何事か呟いている知影。

 端から見た姿は、所謂いわゆる“変な人”だ。


「あ、酷っ」


 さらに独り言を重ねて、誰かと話している様子を演出している。ここまで来ると最早、重症としかいいようがない。

 救いようのない妄想癖を持っているとも換言出来るが、とどのつまり、怪しい人だ。


「言い過ぎだよ!? せめて“妖しい乙女”って言ってよ、ミステリアスになるからさ」


 それが知影だ。彼女は“妖しい乙女”なのではなく、“怪しい人”だ。繰り返そう、“変人”なのだ。全て彼女が──変人だから出来たことなのだ!


「そうそう。そもそもあれって、かなり嘘っぽいよね。帰って即、『勉強がしたい』って言い出す子どもは、大体あんな活動的な声を出さないもん。例えば眼鏡を掛けてたり、もうちょっと内気そうな雰囲気だったり。階段上がりながら教材の名前を、楽しそうに口に出しているって…ねぇ?」


 まだ独り言を続けている彼女のように、勝手に決め付けてはいけない。人には個性というものがあり、実際そういった子どもが存在しないとも限らないからだ。

 つまり彼女の意見を、もし聞いた者が居るのなら、居たとするのなら、彼女の意見に異を唱えるべきだろう。

 そう、『個性』の名をもって。 


「…そっくりそのまま返したいんだけど、その言葉」


 しかしここまで見事に、誰かと会話をしている体を続けているのはある種の才能である。突然の言葉の挟み方といい、次の言葉までの間隔といい…まるで彼女の近くに誰か居るみたいで──


「……」


「……あ」


 いや、居た。女性と入れ替わりで出て来たディオである。

 彼女が壮大な独り言をしている──その事実は、彼の表情を見れば明らかだ。

 何か見てはいけないものを見てしまった──そう彼の瞳は語っていた。

 暫し訪れる静寂。

 たっぷり間を置いて、知影は上眼遣いになりながら質問する。


「………聞いてた?」


 ディオは視線を彷徨わせる。

 周囲に助けを求めようとする彼だが、誰も居なかった。

 結局視界に知影を捉えると、頷いた。


「えーと、み、見なかったことにします…あはは」


「あ、うん。そうしてくれると嬉しいかな…あはは」


 奇妙な空気。圧倒的奇妙な空気。


「「あははははははは」」


 何という空笑であろうか。

 笑い声は徐々に小さくなっていき、フェードアウトしていく。


「弓弦君って今…どうしているか分かるかな?」


 弓弦に早く会いたい知影。

 彼女の瞳に、ディオは映っていない。

 いや、実際にはディオの姿を映してはいる。しかし心の中は。


「(弓弦君弓弦君弓弦君…♪)」


 想い人のことで、一杯だ。


「ゆ、弓弦に用があるんだったら…もう少し待たないといけないよ。今、クアシエトール中佐が検査しているから」


「…クアシエトール中佐って、さっき君と入れ替わりで入って行った人のこと?」


 「クアシエトールって言うんだ。ふぅん」と、言わんばかりの知影。


「うん、医療班の主任だから安心して良いよ……」


 言葉の途中で口篭くちごもるディオの様子を見て気付いた彼女が、「呼びやすい呼び方で良いよ」と伝えると、少し照れくさそうに頷いた。

 そんなことを言われると、呼び方に迷ってしまうディオ。

 少しの間悩んで、ようやく言葉を絞り出した。


「じゃあ…神ヶ崎さんって呼んでも…良い…でしょうか」


「うん、良いよ。なら私は君のこと、ディオ君って呼んでも良い?」


 知影の答えは、即答であった。

 その内心は、弓弦に会いたくて堪らなくなっている。


「ははは、はいっ、ぜ、是非!!」


 一方、ディオ。

 緊張している彼は声が裏返り、俯いて顔を真っ赤にする。

 どこか垢抜けていない彼の姿は、初心なもの。

 そんな姿がおかしいのか、笑いが込み上げてきた彼女が吹き出した。


「ふふふっ、ごめんごめん。ディオ君って面白い人だね」


「えっ!? ぼ、僕が面白い…?」


 自分を指で指しながら、おずおずと顔を上げる。

 先程の彼女を行動や、一連の流れを最初から最後まで見ていた者が居るのなら、「おかしいのはお前の思考だ」と万人が万人、口を揃えて言うであろう。

 口を揃えて伝えてあげよう。「おかしいのはお前の思考だ、バーカ」、と。


「…。うん。だって赤くなったり青くなったり、表情がコロコロ変わるから。面白いなぁって」


「そ、そう…かなぁ、あはは」


「ふふふ、ホントだよ? 顔立ちも…整ってるし、モテモテだね?」


 ディオの表情が、赤味を帯びていく。

 言われ慣れてない言葉に動揺が隠し切れず、あたふたとする。


「そ、そんなことないよ! だって僕……け、剣! 剣術の訓練ばかりやってたし…生まれてこの方、モテたことなんて一度もないんだから…」


 等と話すディオだが、顔立ちが良いとは良く言われていた。

 しかし彼の人生に、「彼女」という文字は無い。

 良いな、と思った人物が居ない訳ではなかったのだが、それは過去の話。今ではもう戻れない、「自らが住んでいた世界」での話であった。


「一度も、ね」


 動揺に染まる表情に一瞬だけ、影が差し込む。

 しかし、一度も交際経験が無い男子生徒が浮かべる表情に似ていたためか、知影はそれ以上の意味を見出さなかった。

 それどころか、対応に少し困っているような反応が面白いあまり、弓弦が揶揄からかおうとする気持ちも当然のものだとしか考えていなかった。

 要するに、恋は盲目。弓弦と同じ感想を抱けたことが嬉しくて、それ以上のことが考えられなかったのだ。

 また、良い遊び相手を見付けたということでもあった。


「…。剣術かぁ…弓弦もやってたっけ」


「あぁ…。でも弓弦よりも、神ヶ崎さんの方が隊長と戦えていたよね…?」


 率直な感想であった。

 しかし率直な感想程、無神経な発言となるものもない。


「……!」


 瞬間、周囲の温度が急激に下がり始めたような錯覚を彼は覚えた。

 まるで冷蔵庫の中に放り込まれたような寒気。冷たく、身を凍らせる寒波が吹き付ける。

 思わず身震いしたディオは、突然の事態に思考が追い付かずに瞬きした。


「私なんかより弓弦君の方が数倍、数十倍凄いよ。 おかしいなぁ…ディオ君の眼には私の方が凄く見えちゃったのかぁ…」


 スゥゥッと細められた瞳が鋭利な光を帯びる。

 眼光はまるで、切れ味鋭い刃のよう。

 金縛りに遭ってしまった身体は、見えない鎖で拘束されていた。

 いうことを聞かない。動かない。動けない。

 知影の背中から眼に見えないが、確かに見える黒い何か(・・・・)がディオの本能に語り掛け、萎縮させる。

 脂汗がにじみ、歯がガチガチと鳴る。

 意識が遠退くような気持ち悪い感覚に耐えていると、彼女が突然眼を見開き瞬きする。

 それが合図だったのか、金縛りは徐々に消えていった。


「…あ、ごめんね。私さ、弓弦君のことになると周りがちょっとだけ見えなくなっちゃうから…怖くなかった」


 どこが「ちょっと」なのだろうか? 基準が分からない者はディオだけではあるまい。

 しかし開放感に包まれた身体が羽のように軽くて、ディオは小さく息を吐く。

 跳ねた心臓が、まだ荒ぶっていた。


「…大丈夫、問題無いよ」


 苦悶に耐えながら、辛うじて言葉を返す。

 大丈夫、問題無い。略して大問題なのはお約束。

 知影への恐怖は、こうしてしっかりディオの心に深く刻まれるのだった。











 「そう言えば準備、まだやり残したことがあった…」と、謎の発言を残し、知影は去った。

 心に安寧が訪れる。

 暫く胸を押さえるディオであったが、ようやく冷静な思考が返ってきた。


「(何を準備するんだろう…?)」


 嫌な予感しかしない。

 何をするのか分からないが、何故だか弓弦の身が危険に晒されているような気がしてならない。

 神ヶ崎 知影。彼女は、一体何なのか。

 やはり知る必要があると思ったし、現在把握している情報では足りないと思った。

 彼は任務ミッションに行く前にもう一度、隊長室の扉を叩くことにした。


「お~お~。入って良いぞ~」


 すぐに聞こえる返事。

 レオンは、待ち受けていたとばかりの様子であった。


「はい…失礼します」


 レオンは先程、明らかに様子がおかしかった。

 彼の他に唯一、あの状態の彼女と向き合った隊長なら、もっと詳しい話を訊けるはず。

 だからすぐに話を切り出した。


「……」


 切り出した途端、レオンが固まった。

 彼の顔が、眼に見えて青褪あおざめていく。


「(…あ、そっか)」


 隊長である彼にとってすら、知影の狂気とも取れるあの雰囲気はトラウマものなのだ。当然ディオも、その表情で大体のことは察した。

 何気無くディオが机に視線を向けると、先程まであった山積みの書類が殆ど、片付けられていることに気付いた。

 書類業務に追われることの多いレオン。

 元からディオの再訪を予期していたため、腰を据えて話せるように片付けられる書類は片付けていたのだ。

 そのあたりは隊長らしい行動だ。女性の狂気に当てられ、唇まで青紫色になっていても、隊長なのであった。


「…ま、ま~あの子は兎に角、兎っに角弓弦が大好きなんだ~! アイツのことを悪く言うような奴は、断じて許さないぐらいにな~…はっはっはっは〜っ!?」


 眼が逝っていても、隊長なのである。


「…命が欲しければ、以降は気を付けることだな~」


 彼女への恐怖を知るからこそ、その言葉は大層な重みを伴って伝えられた。


「…はぁ。それにしても彼女は一体、いや本当、何なんですか? どうしてあんなにも、弓弦に固執しているんですか」


「あ~…答えてやりたいところだがすまん、SSS(最重要機密)に該当するそうだ。もし言ったのが見付かったらリィルちゃんに殺される」


「…は、はぁ」


 ここでも登場する、最高レベルの機密。

 分かってはいたが、少なくともディオ(少尉)の階級でそれを訊く権利は無い。

 弓弦と知影。二人に関することは、その殆どが絶対的な機密事項に該当してしまうのだろう。

 だとしても、どうしてそこまで隠す必要があるのか。

 プライベートな隊員の個人情報といっても、高くてA(準重要機密)(そもそも機密には、SSS〜Eまでのレベルがある)だ。

 機密レベルの設定には、様々な規則があるそうだが、ディオもそこまでは知らない。しかしB(要機密)に、女性隊員のスリーサイズが設定されるということぐらいは知っている。


「納得出来そうか~?」


 だが、納得出来ない。

 どうしてそうも隠すのか。大人達の考えが読めない。


「……」


 ディオの沈黙が否定を表していた。

 現状弓弦と、最も付き合いがあるのは自分だとディオは自負している。首を突っ込み過ぎているとは思うが、その当人ですら知らされていない情報が存在しているのかもしれないことが疑問だった。

 それは自分の考え過ぎなのかもしれない。だがそれにしては、何とも形容し難い不安感がある。


「そうだな~、これぐらいは言っても大丈夫か。…あの二人は何か、特別な力を秘めているとセイシュウは考えているそうでな〜」


 レオンは顎に手を当てる。

 正直なところ、どこまで伝えても良いのか分からない部分はある。友人の様子からして、外に漏らしたくない情報であることは明らかなのだから。

 それに話が漏れることで、無駄な期待を当人達にさせる訳にもいかない。そう(・・)ならそう、そうでない(・・・・・)ならそれでも良い。いや、そちらの方が良い(・・)

 だが、不信感に繋げてしまうのはよろしくない。そう思い、部下の期待に出来るだけ答えることにした。


「その可能性があると言うだけで、確定ではないそうなんだが〜…。ま〜、確定出来るまでは本人達にも話すつもりはないとか言っていたな」


「力…『魔法』ですか?」


「さてな~。あ~いや、誤魔化している訳じゃないぞ~、本当に…さっぱり分からないんだ~。…さっぱり分からんな!!」


 大事なことだから二度言いました的なノリで親指を突き立てるレオン。

 何故こうも胸が張れるのかと呆れの表情で見るディオだが、部下の姿を特に気にした様子もなく、気怠気に欠伸あくびを一つ。


「ま…。緊急事態で俺一人しか転移出来なくて、もしかしたら死を覚悟したにも拘らず、対して敵も居ないし、あっさりと救出出来たのには驚いたがな~…っと、忘れてくれ~」


 気が緩んだことによる何気無い呟きに彼は思わず訊き返していた。

 何故か、それは弓弦達救出時の状況にある。


「【リスクS】とは戦わなかったのですか?」


 『リスク』。それは部隊において敵対生物の危険度を表す言葉である。

 『K』を最弱とし、基本的には危険度に従って、アルファベットが若くなっていくのが特徴だ。

 レオンは『B』までなら一人でも倒せる実力がある。部隊内での階級が示す実力は、この『リスク』というカテゴライズに対応しているのだ。

 即ち、この階級は、ここまでの『危険度(リスク)』なら一人でも危な気無く倒せるということ。階級とは、例外も多く存在しているが、実力を表す指標の一つでもあるのだ。

 レオンは、階級的には少将である。少将という階級は、一般的に『B』までなら何体を同時に相手取っても勝利を収められる強さを表しているのだ。

 では、その上の『A』はどうなのか。隊長であるレオンでも苦戦してしまうかもしれない、ということだ。

 『A』の上を表すリスクの一つに、『S』がある。つまり、「原則的に一人で戦ってはいけない」ということが正しい意味だ。


「一体でも現れれば、部隊総出で討伐に当たる…それが【リスクS】です。そんな存在が、弓弦達の周りを取り囲むようにして存在していたはず…」


 レオンが弓弦達の世界に向かう際、艦橋のモニターでは【リスクS】を示す強大な反応が、数体も表示されていた。

 だからディオを始めとして、レオンの死を覚悟した隊員も居たのである。

 転送装置がある艦底部にモニターは無いため、レオンを送り出すために艦橋を離れてからの経過は知らないが、その間に【リスクS】が消滅したとでもいうのだろうか。

 それはないはず。ディオ達が戦う「敵」は、世界が消滅した後も生存して他の世界に移動する。消滅に巻き込まれるはずはない。

 レオンは、どうやって死地を乗り切ったのか。

 少なくともディオの記憶では、戻って来たレオンが怪我している様子が無かったのが印象に残っていた。


「あ~あ~…」


 これ以上は語れない。

 レオンの言外のメッセージに、ディオは頷く。

 どうやら、これ以上はどう頑張っても訊けそうにない。

 何も知らない最初に比べれば、随分と情報を収集出来た方だ。


「…分かりました。貴重なお話ありがとうございました」


「すまんな~あまり力になれなくて~」


「いえ…失礼しました」


 感謝を込めて頭を下げ、ディオは隊長室を去った。

 その胸中には、何か得体のしれない不安がある。

 まるで嵐の前の静けさ。凪の状態。


「(弓弦…神ヶ崎さん…)」


 二人の存在は、これまでにない「何か」を引き起こす鍵となる。

 それを大人達の様子から感じ取ったディオは、自らの実力を高める意欲を一層強めて任務ミッションへと向かうのだった。


「うっ……」


 向かおうしていたのだ。


「フフ…フフフフフ……」

 医務室の前でドス黒いオーラを放つ知影を見るまでは。


「…ぁ、ぁぁ……」


 恐慌状態に陥った彼は震える身体を引き摺りながら、彼女に背を向けて自室へと戻るのだった。


* * *


 そして、現在に至る。


「あはは…は、は…僕…元気…は、は…」


 その後自室に戻ったディオに、既に思考する力は残されていなかった。余裕が無かったのだ。

 極度の恐慌状態に陥っている彼に、正常な判断力を求めるのは到底不可能。

 彼はもう、自分が何をしようとしているのかさえ分からない程に朦朧としていた。


──めろ、止めるんだ!


 誰かの声が聞こえたような気がするが、彼にその言葉は届いていない。

 彼の脳裏には今、懐かしい人達の顔が次々と流れていた。

 剣術を教えてくれた「あの人」やその伴侶。密かに彼が淡い想いを抱いていた「あの人」──走馬灯のように流れていく顔と、余計に朦朧としてくる意識が、今日の全てが悪い夢だと彼に思い込ませる。


「悪い夢なら…はは、寝れば元通り…元通り…元通り…」


 彼は机を支えにして、よろめきながら立ち上がる。

 光の無い瞳が映すのはベッドではなく──窓を。

 そのままフラフラと動き出した彼の肩を、誰かが掴んだ。


「少尉、少尉! 何をやっているんだ!」


 掴んだのは、血相を変えたセイシュウであった。

 いつの間にか部屋の中に入って来ていた彼は、ディオを乱暴に揺さ振った。


「僕…寝るだけですよ…なんで邪魔をするのですか博士…?」


 虚ろな瞳は、セイシュウを映しているようで──映してはいない。

 まさかここまでとは。女の狂気に舌を巻く。


「君がやろうとしていることは、睡眠じゃなくて永眠だ! 死にたいのか少尉!」


「これは…悪い夢なんです…はははっ、夢なら覚まさなきゃ…は、は…」


 駄目だこれは。

 声が届かないのならば、実力行使。

 セイシュウの瞳が怪しく光った。


「なら僕が覚ましてあげようか…ッ!!」


 懐から注射器を取り出すと、それをディオの首筋に当てて中身を注入する。


「が、がががが!?」


 すると、突然の激しい痺れが彼を襲い、衝撃で瞳に光が戻った。

 気付け薬──の一種である。


「…あれ、夢じゃなかったんだ…でもどうして博士が…」


「決まっているじゃないか」


 伊達眼鏡をクイッと押し上げると何かのお菓子を取り出して口に入れる。


「人に死なれたら、後処理で至福の時間(おやつタイム)が減ってしまうからだよ」


 大真面目な顔で、とんでもないことを言い出す。

 途端にディオは、冷水を被せられた気分になった。


「…今が現実だということをハッキリと確認出来ましたよ…」


 人の命より、自らの菓子への欲求を満たすことが目的の彼らしい言葉は、薬よりもディオに現実を認識させた。

 後でリィルに言い付けよう。内心で考えているディオに、「少し休んだほうが良いよ。ベッドでね」と言い残す。

 そのままセイシュウは、髪をグシャグシャと掻きながら部屋を後にした。


「…はぁ、糖分が欲しい」


 女の狂気は恐ろしいもの。繊細なディオは、その衝撃のあまりに正気を失ってしまったのだろう。

 まさかと予想していたことが現実になったのだと理解させられたセイシュウは嘆息する。

 恐らく、直接精神に狂気を叩き付けられた某隊長は、これ以上の衝撃を受けているはず。彼はそこまで繊細ではないのは幸いだが、大方気絶ぐらいはしているのだろう。


──は、はははははっ!?


 向かいの部屋から聞こえる謎の笑い声。

 こちらはこちらで虚ろな笑い声だが、多分大丈夫だろう。

 何が起こっているのかは気になったが、別段緊急性が高い訳ではない。セイシュウは華麗に無視し、絶賛気絶中であろう親友の下へと歩いて行った。

「ルクセント少尉は結局この日、任務(ミッション)には行けませんでした。…そんな結末も程々に、本日の説明にいってみましょう!」


「…む。今回は私が呼ばれたか」


「まぁユリ、今回のパートナーはあなたでしたの。それは嬉しいですわ」


「そのようだ。しかし私は、特に話せるような話題を持ち合わせていないのだが…」


「問題ありませんわ。メインパーソナリティはわたくしでお送りしていますので」


「メイン…パーソナリティ? それは何だ? 主人格…と訳すのか?」


「今回は何について説明ましょうか…。そうですわ、今回は危険度(リスク)について説明しましょう!」


「…違うみたいだな。確かに私とリィルは、一時の橘殿達と違って、人格を共有していないし…」


「まず危険度(リスク)とは読んで字の如し、敵対時の危険度合いを表しています。Kを最下層として、Hを除くJ〜Aと、若くなるに従い危険度が増します。その上はS、SS、SSS、さらにその上がH、その上にXとありましてよ。Hが二番目に強いこと…。ここが初心者が間違いがちな落とし穴ですわ」


「メインと言うからには、やはり主と言うことだろう。…パーソナリティは良く分からんが…ふぅむ」


「Hは『Hyper』の頭文字ですわ。Xは…終わりを示す『XYZ』の頭文字でもあり…未知数を表す文字でもあります。その脅威は底が知れず、伝承の存在である『神』に等しい実力を備えているとも言われています。公式での討伐記録も殆どありませんわ。…あの〜ユリ?」


「む?」


「メインパーソナリティについては、そんなに深く考えなくてもよろしいですわよ」


「む、そうなのか」


「えぇ」


「ふむ。そうなのか…」


「…ユリ? そう残念そうな顔をしないでくださいまし。…では、そんなユリに質問です。あなたは、幾つまでのリスクでしたら一人で討伐出来ますか?」


「私が一人で倒せるのは【リスクI】までだ。【リスクG】以上は応援を呼ばなければいかん」


「正解ですわ。ユリの階級である中佐には、【リスクI】以下の単独討伐権限が認められています。階級についてはいずれ説明とするとして、大尉以降は階級が上がるに連れて、何と最大【リスクD】までは単独討伐が出来ましてよ」


「【リスクD】…。この辺りまでいくと、翼竜種が混じり始めるな。その牙で鋼鉄を切り裂き、竜鱗は鋼のように堅く武器を弾き返す。強敵だな。出現頻度はそう高くないのだが…」


「大勢で出現した際は、死人は免れない程の脅威ですわね。小国程度ならば、運が悪いと滅亡してしまうでしょう」


「うむ、故に出現時は可能な限り芽を摘んでおかなければならない」


「と、まぁ。【リスクD】の時点でも相当な脅威なのです。これを上回るとなると、その危険度は推して知るべし…ですわ」


「うむ。願わくば、現れないでほしいのだがな…」


「えぇ。では予告でしてよ! 『変わった日常の中での始まりは、いつものような始まりで。隣を見れば、いつもと違う光景がそこに。穏やかな始まりを告げる時計の音に次いで、響くは──次回、襲来、防衛』…一体、何が起こったのでしょうか…」


「…ふむ、嫌な予感がするな」

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